第十八談 第三段階「臨戦態勢」
深夜。
誰もいない花月学園高等部校舎の二階に足音が響いた。誰もいない静寂な場所だ。僅かな物音でもはっきりと聞こえてくる。
現れたのは黒い影。
空が曇って月明かりがない今、その黒い影の姿を表現すれば、それが良い得て妙だ。
影は堂々と我が物顔で廊下を歩く。まるで、自分の姿を視認させて逆に相手を恐怖に陥れてやろうとしているかのように。
正体不明の黒い影は歩く。
その足に迷いはなく、行きつく場所は決まっているようだ。恐らく目的地は、自分が探している物があると噂されている二年四組だろう。
空を覆う雲が風に押され、隠されていた月明かりが一筋世界を照らす。
その淡い月明かりに影は照らされる。
『翡翠の死神』。
黒い外套を身体に纏った正体不明の都市伝説。
やはり今日も外套を頭から目深に被っており、顔を窺うことは叶わない。
だが、数日前二人の生徒と争ったときの怪我はないように窺える。ただ、それを悟られないようにしているだけかもしれないが。
数分も経たないうちに死神は歩みを止める。
立ち止った教室の上には、やはり二年四組の表札が掛けられていた。
あの噂が本当ならば、ここに死神の正体が書かれた本庄真美の手帳がある。
「キシシシシシシシシ」
死神は勝ちを確信したように笑う。
一番の障害になるであろう魔女は始末した。魔女にくっついている虫の方は、一人じゃ何も出来ないだろう。ここ数日何やら立ち回っていたようだが、噂がどうとか確認をして回っていただけのよう。
それに、血が飛び散った現場を見ただけで動揺しているくらいだ。あれはこちらの相手にはならない。
そう小さく呟きながら死神は考える。
順調すぎた殺人に障害が入りかけて、また別の意味で少し楽しめた。
ここからはまたこちらの好きなように殺人をさせてもらう。
一人で呟くことが癖なのか、またそう小さく呟く。
死神は外套から白い手を覗かせ、どうやって手に入れたのか、二年四組の鍵を使って扉を解錠する。
ガチャ。
解錠音が鈍く廊下に響く。
これで死神の不安要素は全て取り除かれた。
「これでもう心配はいらない。これでまた次の行動が起こせる」
ぐにゃりと口を半月形に歪ませながら、死神はゆっくりと扉を開け中に入る。
再び月が雲に覆われたのか、教室に月明かりは差し込まず暗闇に覆われていた。ガランとした教室に音は無く、死神の呼吸音だけが聞こえる。
死神は一度教室を見渡すと、一直線に悠木瀬菜の机へ向かい、中身を全て外にぶちまけるように机をひっくり返した。
しかし、死神の頭に疑問符が浮かび上がる。
机の中には何も入っていなかった。教科書や筆箱はおろか、大体の生徒が持ち帰りをしぶるリコーダーすら机には入っていない。
ならば、と教室の後ろ側に設置されているロッカーを同じように漁るが、こちらにも何一つ物は入っていなかった。
既に発見されているという可能性もあるが、もし発見されていれば確実に噂になっている。
死神は舌打ちする。
確かに噂では二年四組に手帳が隠されているとされていたが、悠木瀬菜の机やロッカーに隠されているとは聞いていない。
ということは、この残り合わせて八十近い机とロッカーの中を一つ一つ調べて行くことになる。
死神は自身の正体が載っているかもしれない手帳を諦めることはせず、素早い行動に打って出た。
まず、動きやすく、視界を広める姿を取る。
すなわち、頭まですっぽりと羽織っている外套を脱いだ。
――ガタ
静寂に突如発生した音。
死神はすぐさま音の方向へ振り向く。
そこには――。
「何か探し物でも?」
闇に溶け込むことを目的をしたかのような、黒のパーカーに黒いジーンズ姿の僕こと斎賀遥真が出入り口付近の壁にもたれながら佇む。
少し時間を巻き戻そう。
授業終了後、ホームルームをサボって僕はすぐに自宅へと急行した。
暗闇でも見つかりにくくとにかく動きやすい服装に着替え、前もって瀬菜から念の為と言われて用意されたものを装備する。
それから親に心配されないよう、友達の家でたっぷり勉強して遊んでくると、ありきたりな嘘をついて家を出た。
向かったのは当然花月高等学校。
瀬菜のように学校へ忍び込む手段のない僕は、このままひっそり校内に潜み、息をひそめて夜を待つ。
夜が明けるまでの間、手帳があると噂を流した中等部内を誰の目にも触れぬよう闇に潜んで見回る。大多数に曖昧な情報を流しただけでも、犯人と予想する人物が現れる可能性も捨てきれなかったのだ。
噂を流してから今日までの結果は、肝試し感覚でやってきた中高生数グループのみ。収穫はゼロだった。
これがここ数日僕が寝不足だった理由。
幸い、日中に爆睡する時間があったため、体力の回復に不都合は無かった。まぁ、授業態度の評価はガタ落ちになっただろうけど。
そして今日、賭けに出た。
このままずっと相手が現れるのを待っているのではあまりに時間が掛りすぎる。こっちの限界も訪れるだろうし、僕らが気付かないうちに新たな犯行が起こるかもしれない。
だから、ピンポイントで噂を流した。
犯人だと僕が予想する人物に、もっと具体的な情報を与えてやった。それも、今現在噂されているものとは多少異なるものを。
この撒き餌は効果抜群だった。
僕がいつも通り暗闇に姿を潜め、現れるであろう人物をいつもとは違い高等部二年三組付近で待ち伏せしていると、奴はその姿を見せた。
漆黒の外套を目深に被り、足取りを確かに歩く都市伝説の一つ、『翡翠の死神』。
これで確信した。
僕が解き明かした本庄真美の暗号文通り、犯人はあいつだと。
『翡翠の死神』が鍵を開け、教室に入っていくのを視認すると、僕は装備したものに触れ、直接対決に臨む態勢を整えた。
これが第三段階。
今、死神と対面するまでの僕の行動だ。