第十七談 第二段階終了
四時間目が終わり、僕は昼を一緒に食べようとしつこく誘ってきた彩乃と生田を振り切って中等部二年三組がある廊下を歩いていた。
途中、通り過ぎる中等部の生徒から珍しそうな視線を送られる。
まぁ、中等部校舎に高等部の制服を着た男子が一人で歩いているんだから、不思議に思われても仕方がないか。
間もなくして目的地である中等部二年三組に到着。
中を覗くと、机や椅子は綺麗に並び直されており、一昨日の死神と争った痕跡は欠片もなかった。
僕は教室を出ようとした男子生徒捕まえ、凉莉を呼んでくれないかと頼む。怪訝そうな顔をされたが、素直に注文を受けてくれた。
ほどなくして凉莉が会話をしていたグループから離れてこっちにやってくる。その間、僕の姿が他のクラスメイトの視界にも入るなり、手をバタつかせて顔を横に振っていた。
一応、今のところは精神的にも安定しているようだ。
「珍しいじゃん。にいちゃんが中等部に来るなんて。はっ! まさか中学生からやり直しを通達?」
「その発想はなかった! 僕だってちゃんとテスト勉強くらいしてるっつの!」
とりあえず、凉莉のほっぺたを両手で掴んで左右に引っ張る。
「お前のほうこそパソコンのしすぎで成績落とすんじゃねえぞ! って違う!」
一瞬で凉莉にツッコミを入れる展開へ引き込まれてしまった。体に染みついた習慣は非常に恐ろしいものである。
僕は引っ張っていた凉莉のほっぺたを離す。
ただ少しこの状況では聞きにくい。でも、だからといってこいつに尋ねなければ現状が把握できない。
戸惑いが生まれて出来た間に凉莉は首を傾げる。
「……この間の事件の噂、何か知ってるか?」
意を決して口に出す。
凉莉の体がビクっと震えたが、特に取り乱すようなことはなかった。
だがその代わり、何かのスイッチが入ったかのように黙ってしまう。
返答を待つ間に凉莉の口は何度か僅かに動くものの、声にはならない。
やはり、この件を聞くのは酷……か。
しかし、確認はしなければいけない。
「じゃあ凉莉。『翡翠の死神』が自分の正体が書かれた手帳を探してるって噂、中等部に広まってるか?」
この二択なら言葉で返答しなくてもいい。
意をくみ取ってくれたのか、凉莉はコクンと首を縦に動かした。
次の質問。
これが最後……、というかもしかすると自分的にはこっちが本命だったのかもしれない。
「今日は大丈夫そうか? 無理してないな?」
ちょっと凉莉が驚いたような表情をしたことが、面白可笑しかった。
どうやらこの心配には及ばないようだ。
凉莉ははにかみながら、コクンと大きく頷く。
「よし、用件は済んだ。もう行け愚妹よ」
友達のいる方角を僕が指さすと、凉莉は「ひどっ」と一言発し、手を振って歩いて行った。
これでとりあえずの用件は済んだ。
中等部にも噂が流れていることも、凉莉が無事に学校生活を遅れていることも分かった。
後は――。
「……先、教室に戻るか」
教室前でじっと突っ立っていたら、通り過ぎる中等部の生徒たちに、やはり奇異な視線を送られてしまった。
どれだけ高等部の生徒が中等部にいることが物珍しいのか。
僕は最後に教室内を一瞥し、来た道を戻る。
その途中。中等部の校舎から高等部の校舎へ移る連絡通路のような渡り廊下。
そこで追牧先生と遭遇した。
ちょうどいい。この間のお礼をしておこう。
「先生こんにちは」
「あら、斎賀君珍しい所で会うわね。まさか斎賀君も中学生狙い?」
「……まさか。どっかの誰かじゃあるまいし。妹に会いに行っただけですよ」
ちなみにどっかの誰かとは、当然生田のことである。
追牧先生はごめんなさいと微笑を浮かべた。
「そんなことより、この間はありがとうございました」
「この間? どのこの間かしら?」
「結構いろいろなこの間ですよ。変態な友人のことから可愛くない妹のこととかです」
僕は肩を竦める。
探せばまだお礼をする理由は見つかりそうだったが、最近のものだけを一部抜粋してみた。
「ああ、気にしないで。彩乃のことはともかくだけれど、凉莉ちゃんのことは保健医として当然のことをしたまでよ。そんなお礼を言われるようなことじゃないわ」
威張るわけでもなく、誇らしげにするわけでもなく、ただ当たり前のことをしただけだと、追牧先生は微笑む。
全くもって保健医の鑑であるような発言。
それでは保健医の鑑である先生に、もう一つだけ聞いておこう。
「先生。突然なんですけど、今話題の『翡翠の死神』が自分の正体が書かれた手帳を探してるって噂。カウンセラーの先生からはどういう見解を持ちます? もう、彩乃がうるさくて……」
「あなた、本当に苦労人してるわね……」
「もう慣れっこですけどね。あんまり慣れたくないですけど……。それで、どうです?」
「そうねえ。教師の間でも話し合いがされることもあるけど、唐突に出た噂ってことでどちらかというとあまり真実味を帯びていない、っていうのが私としての見解かしら」
意外や意外。噂は教師側の耳に入っているだろうとは踏んでいたが、話し合いまでされていたというのは驚きだ。
でも、やはり大人には子供から発祥したものは信憑性が薄いのか。なら、これが本当のことかもしれないと思いこませるだけの情報を与えてやるだけだ。
「なるほど。先生もあまり信じていないんですか」
「先生も? その物言いだと斎賀君もあまり信用していないのかしら?」
「そうですね。たった二日そこいらで広まった噂なんて怪し過ぎて信用ならないじゃないですか。信用ならないんですけど……」
ここで少し間を置く。
ためを作ることで相手の興味、注意を引く方法だ。
追牧先生は僕が黙ったことで少し怪訝そうな表情をする。
よし、もう間は十分だろう。
「この噂って一見信憑性は低そうに思えるんですけど、あまりに急激な広がり方をしてるじゃないですか? そこで僕ちょっと調べてみたんですよ。そしたらなんと! 噂が流れる一日前、中等部二年三組の教室がぐっちゃぐちゃになってたらしいじゃないですか」
「そう……ね。あれも旧校舎の魔女の仕業だとか色々言われてたりするし。今日の事件のこともあるし、噂だらけでうんざりするわ」
「その魔女なんですよ。どうやら今日の事件が起こったのは、魔女が『翡翠の死神』の探している手帳を発見したから、それを取りあった結果らしいですよ。二人の消息は不明っぽいですけど。それで、ちょっと小耳に挟んだんですけど……」
僕は右手を口に添えて、追牧先生に顔を近づける。
それに釣られて先生も耳を傾けた。
誰も通っていない渡り廊下で内緒話をするのも変なのだけれど、なんとなく雰囲気でやってみた。
「でも『翡翠の死神』は手帳を旧校舎から発見出来なかったようですね。魔女は手帳を噂にある中等部じゃなくて、今度は高等部に隠したらしいです。それも場所は二年四組のどこか」
二年四組は瀬菜が在籍しているクラスである。
僕は追牧先生から顔を遠ざけ、本人の顔色を窺う。
これで良い反応を示してくれれば教師側にも新たな噂が浸透する。
しかし、現実はそう上手くいかないもので、
「それもまた唐突な情報ねえ。あっちこっちで噂が一人歩きしちゃってるって感じかしら? 斎賀君もあまりのめり込んでちゃ駄目よ。学生の本分は学業なんだから、そっちも怠らないように!」
笑い飛ばされ、逆に注意されてしまった。
まぁ、テストの成績が振るわないのは今に始まったことではないから、もう諦めはついているのだけど。
追牧先生は自分の右手首に付けた時計でさりげなく時間を確認し、「ごめんなさい、ちょっと用があるから」と軽く手を振って中等部校舎へと入っていった。
その姿を確認すると、僕は渡り廊下の柱に体を預け、肺に溜まった空気を一気に吐き出す。
「だはあー! くっそー、緊張したぞコンチキショウ……」
学生相手に噂を流すのは友達経由で勝手に流れて行くので容易いが、教師側に噂を流すのは多少なりともリスクが生じる。
教師側にも生徒経由で自動的に噂は流れて行くのだが、さっきの会話通り大体は軽くあしらわれる。どうせ子供のくだらない戯言だ、と相手にされないパターンが多い。
しかし、今回に関しては本庄真美の事件に連続して、それも関連した事件が起こっている。
いや、起こしている、というのが正しい表現か。
それに乗じてこちらから噂に尾ひれをつけ、より事件の真相が暴かれたかのように見せかける。加えて真実味も与えてやる。
これが作戦の第二段階。
高等部、中等部、教師陣と確認を取ったところではうまい具合に噂は広まっている。なら、もう頃合いだろう。
第三段階開始だ。
さあ、来い『翡翠の死神』。
お前がどんな手を取ろうと、僕たちが……お前を潰す。