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悪魔の御子  作者: 奏響
第6話 亡霊からの招待状
70/71

血族の女(上)

 甘い、花の香りに誘われてアイラはその双眸を開いた。

 香りの元はテーブルの上だった。いつの間にか薔薇の花が生けられている。

「・・・夢?」

 見慣れたベッドの天蓋に、初めてアイラは自分が現実世界に戻ったのだと気付いた。

 パリの部屋とはおよそ比べ物にならないほどの広さを誇るベッド・ルーム。その隣にはこの半分ほどの広さを有したリビング・ルームが続く。

「こんなに広々としていたかしら・・・ここって」

 アイラは先程見ていた夢の中の部屋との、余りにも大きすぎるギャップにしばし呆然とした。

 夢の中の部屋は、かつてアイラが過ごした場所だった。

 幼い頃セシルとともに暮らした部屋。隣室では、カインとライが寝起きしていた。

 一日の終わりを、笑ったり、泣いたりしていたあの頃。

 もし、あの時ノルウェーに来なければ、私は今でもこの城で祖母と暮らしていたのだろうか。

 ふと、そんな疑問がアイラの脳裏をよぎる。

 名門貴族の子女だった祖母。すでに実家は絶え、爵位も返上している。

 祖母の子は母ひとりだった。その母も産んだのは娘が2人。

 なのに、祖母は妹ではなくアイラを半ば引き取る形で育てた。

 今にして思えば、世間の目から遠ざけるように。

 コンコン、と扉をノックする音にアイラは振り返った。ベッドから降り、リビング・ルームを覗く。

「どうぞ」

 まだ寝間着のままだった。さすがに妙齢の娘がこの格好で部屋をウロウロしているのは良いものではない。

「起きた? エレーナ」

 扉を開けて入ってきたのは、金髪の巻き毛をショート・ヘアにした母アナスタシアだ。彼女は昨年逝去したかつての王太子妃をとても敬愛していた。その独特な髪形も有名になった彼女のファッションの真似をしているのだ。

 母親はアイラの姿を見て目を丸くした。

「いやだ・・・まだそんな格好だったの? もう朝食の準備は出来ているわよ」

 カーテンも開けていないの? とアナスタシアはつかつかと部屋に入り、次々にカーテンを引き、窓を開けていく。

「今何時かしら?」

「とっくに8時よ。いつ寝たの?」

「帰ったのが3時位だったかな。4時間弱寝たわね。」

「もう! 明日はマリアの結婚式よ! こんなギリギリまで、しかも深夜まで仕事をしていたらお肌が荒れちゃうじゃない!」

「私が新婦じゃあるまいし」

 アイラはベッド・ルームに続くバス・ルームで母親の小言を聞きながら洗顔を済ませ、鏡に映る自分の顔をよく観察する。

 少し目の下に隈があるが化粧で誤魔化しが効く程度だ。

「介添だって目立つのよ。さぁ、早くこれに着替えて!」

 勝手にアナスタシアがクローゼットから引っ張り出したのは、見覚えのないワンピースだった。

「ママ、何これ・・・」

「貴方が帰ってくる前にお祖母様が色々買い揃えたものよ。もう10月間際だもの。今日はこの濃紺のワンピースにサファイアのネックレスね。後ワンピースと同じ生地で作らせた帽子もあるから、外出時はちゃんと被るのよ」

「・・・あり得ないわ」

 アナスタシアがベッドの上に並べたトータル・コーディネイトは、明らかにアイラの好みではない。

 普段からTシャツにパンツ、ジャケットの軽装を好むアイラには嫌がらせとしか思えない内容だった。

「この城にいる時ぐらいお祖母様の用意したものを身につけなさいな。」

 着替えたらすぐに降りてきてちょうだい、と付け加えてアナスタシアは部屋を後にした。

 アイラは頭を抱えたが着替えるより他になかった。

 恐らくお祖母様がお気に召すような衣装をアイラは持ち合わせていない。

「やっぱり今日の夕方に帰ってこれば良かった・・・」

 寝間着を脱ぎ、髪を解き、巻き毛を手櫛で梳きながら、アイラはため息をついた。


 今年の夏はあまりにも色々なことが起こり過ぎて、自分の誕生日も忘れる始末だった。

 香港からパリに戻ったのは9月早々。セシルはひとり日本経由でN.Y. に戻り、ライはセイラを伴っていた。

 長旅のせいで衰弱していたセイラも1週間経てば体調も落ち着き、毎日リザとフランス語の勉強に勤しんでいると伝え聞いた。

 何もかも、穏やかな生活に戻りつつあった。

 そんな中、アイラはパリの病院で忙しい毎日を送り恒例の誕生日パーティーも断った。折角だから、とカインたちからはアイラが借りているレジデンス・ホテルの一室に花束と誕生日プレゼントが届けられていた。

 アイラがそのプレゼントを開けたのは誕生日から3日後だったが。

 中身はブランド物のハンドバッグ。前からちょっと良いな、と思っていたものだが、多分覚えていたのはライ。以前セシルの誕生日プレゼントの下見をしたときに話したのをアイラは思い出した。

 恋人のアンドリューからは、夜勤の時に背後から抱きつかれキスをされた。

 忙しくてプレゼントまだ買ってないと謝っていた。必ず渡すから・・・と言われすでに2週間以上過ぎている。

「お互いに忙しかったからなぁ」

 カレンダーを見ながら、アイラは呟いた。

 パリの病院での契約を一旦終了させ、アイラは頼まれてロンドンの総合病院で働いている。

「パパの頼みじゃなきゃ来ないのだけど・・・」

 父・ニコライ=ローレンサーは大学の医学博士であり、病院の院長でもあった。彼の勤める病院でたまたま外科医が不足し、次の医師が来るまでの間をフォローしてほしい、との依頼だった。

 父親からの直接の頼みを断れるアイラではない。

 昨日は6時間の手術を終え、患者の容体を観察するため深夜まで病院に詰めていた。

「まだいらっしゃったのですか? Dr.ローレンサー」

 モニターを睨んでいたアイラに声をかけたのは、インターンの外科医だった。彼は今日の手術の助手を務めていた。

「今日はお見事でした。先生のメス捌き・・・鮮やかでした。勉強になります。」

「大した手術じゃないわ。でも、患者の年齢では体力が持つかどうか不安があったけど・・・」

 アイラはカルテに走り書きをする。

「もう、大丈夫みたいね。」

「あと、すみません。この患者ですが・・・」

 インターンの渡したカルテにアイラは目を通す。

「モルヒネをもう少し増やしたほうがよいかと」

「そうね・・・そうしてちょうだい」

 アイラはカルテにサインをしてインターンに返した。

「じゃあ、私は帰るわ」

「今からですか? もう0時になりますよ?」

「明後日は妹の結婚式なのよ。明日は家にいる約束をさせられたから・・・今日中に帰らないと、式の準備が間に合わなくなっちゃうのよ。」

「大変ですね。」

「大変よ、帰るのに車で3時間近くかかるから」

 3時間っ!? と驚くインターンを残してアイラは術後室から出て行った。

 院内は静かだった。すれ違う看護師と軽い挨拶を交わしながら、アイラは病院の外に出た。

「お帰りですか? 先生」

 休憩から戻ってきた男性看護師がアイラに声をかけた。

「えぇ、暫く休みよ。また来週ね。」

 そう。1週間アイラは休暇を取った。勿論、妹の結婚式の準備と後片付けのためだが、それだけではなかった。

(後で、町に行ってこなきゃ・・・)

 朝食を摂るために、アイラは階下へ降りた。ダイニング・ルームの扉を開けると、既に両親がテーブルで食事を始めていた。

「マリアはいないの?」

 アイラは席についてテーブルを見回した。独身最後の朝食だというのに、当の本人の姿がない。

「あの子はとっくに出かけたわよ」

 アナスタシアが肩を竦める。父ニコライは苦笑いだ。

「?」

「マリアの行動は昔から不思議なことだらけだ。多分町にでも行っているのだろう。エステがどう、とかなんとか」

「あんな田舎町で何をするのよ。」

 アイラは笑う訳でもなく、オムレツを口に運んだ。

 ロンドンから3時間もかかる古城から一番近い町は、ここから1時間ほど車で走らなければならない。一応日常品などは購入できるが、トレンド重視の妹が気に入る町ではない。

 古城から一番近い村はすぐ傍にある。が、その村は顔見知りだらけの狭い集落だ。

「私も食事を終えたらちょっと出かけてくるわ」

「まぁ、エレーナまで? 明日の準備は?」

 アナスタシアが口を尖らせて抗議する。まるで若い娘がする様に。

(こんな女性《ひと》だったかしら・・・?)

 ここ最近、アイラはマリアの婚約などで実家に帰る頻度が以前より増していた。

 父親とは特に蟠りもなく、極自然に親子の会話が発生していた。しかし、母親と会話が出来るようになったのはこの半年位だったと思う。

 幼い頃に覚えている母親は、所謂『母親』ではなかった。

 ノルウェーから英国に戻った後も、アイラはロンドンではなくこの古城で過ごし、医科大学入学時に城を出てロンドン市内の学生向けのアパートで独り暮らしをしていた。

 父親は大学でも教えていたからよく校内で会ったものの、母親とは疎遠だった。

 それがどうだ。

 マリアの婚約が決まってから、急に母親的振る舞いを見せるようになった。

 妙にアイラに構うのだ。

 自分の、それまでにアイラにしてきた仕打ちを省み、時間を取り戻すように。

 マリアの巣立ちの寂しさを紛らわせているかのように。

 正直、アイラには鬱陶しかった。

 今更、親など必要ないのに。自分は、6歳の娘ではない。

「出かける前に、お祖母様の容体を診ていくわ」

 ぶつぶつと文句を並べる母親に構わず、アイラは父親に顔を向けた。

 ニコライは首を縦に振る。

「そうして差し上げなさい。食事はもうお済みだ。まだお会いしていないだろう。折角だ、その姿も見せて差し上げなさい」

 アイラは思わず自分の服を見た。

 祖母が購入した濃紺のワンピース。

「アンドリューはいつ到着するのだ? それと、お前のご友人たちは?」

「みんな今日の夕方までには着きます」

「そうか。では、アンドリューや皆さんにも見てもらえるな、その姿を」

 そういう事か、とアイラは得心した。

 珍しい娘の『娘らしい姿』を喜んでいるのは他ならぬ父親なのだ。

 終始笑顔の父にアイラは作り笑いで返す。

(絶対笑うわ・・・アンドリュー以外)

 皆が到着するまでには着替えよう。そう誓うアイラだった。


 祖母の古城は遥か400年を遡る歴史があるらしい。

 らしい、というのは余りにも不確かな歴史しかない、ということでもある。

 家系図を一度はアイラも見たが、どうも後世に『作られた』ような違和感を覚えた。

 先祖が金で城と爵位を没落貴族から買い取ったに違いない。

 それだけ、奇行が多い血族でもあるのだ。

 祖母の祖母は王室に連なる公爵家から嫁したらしい。でもその公爵家も存続していないのだから正確なところはわからない。

 一応爵位は伯爵。祖母の父が生まれ、その後祖母と年の離れた祖母の異母兄が生まれている。

 兄弟は他にいないが、多分認知していない兄弟姉妹は大勢いるだろう、と祖母は笑っていた。

 女にだらしのない父親の血が、確実に兄にも受け継がれていた。

 祖母の兄は、爵位は上位だが没落したスコットランド貴族から妻を娶る予定だったが破談になった。

 彼以上に良い条件の縁談が急遽舞い込み、先方がそっちに飛びついたらしい。相手は北欧貴族で、支度金も兄の3倍だったそうだ。

 横から、祖母と3歳程しか歳の離れていない若い婚約者を浚われた情けない兄だと、その話をするたびに祖母はお腹を抱えて笑っていた。

 結局、当時としては稀にも庶民の娘を娶った。が、所詮はインドで財を成した商売人の娘だった。

 金で貴族社会のコネを買った、と社交界で噂が広まり、妊娠中にも関わらずノイローゼから彼女は自殺した。

 まだ幼かった祖母は義姉との仲が良かったらしく、その時はあまりのショックで寝込んでしまった、と話していた。

 1年と経たず、祖母の兄は結局遠戚の貴族の娘を後妻にしたが子が出来ず、あっちこっちに愛人を囲っては夫婦で諍いの毎日。

 祖母が結婚し、母が生まれた頃には兄夫婦は続けて病死したが子供はいなかった。

 本来ならば爵位は男子が相続するものだが、血縁には相続できる男子がおらず、この場合ならば祖母が相続するはずだった。

 しかし、祖母は爵位を国に返上した。

 貴族なんか嫌いよ、と祖母は語った。

 祖母の子も娘がひとり。しかも、祖母の結婚相手は貴族でもなければ英国人でもなかった。

「お祖母様、入ってもよろしくて?」

 アイラは扉をノックした後、そう声をかけた。

 ゆっくり扉が開かれ、中からはメイド長のマーサが顔を出す。

 マーサは、アイラが生まれる前から勤めている、言わば“乳母《ナニー》”のような存在だ。

「これは、エレーナお嬢様。おはようございます」

「おはよう、マーサ。お祖母様は起きていらっしゃる?」

「ここよ、エレーナ。早くおいで」

 アイラの質問に答えるより早く、祖母の声が響いた。

「ルイーズ様は、今日は体調が良いからと、朝から薔薇の手入れをされてみえます」

 どうぞ、とアイラを招き入れマーサは頭を下げる。

 祖母の部屋の向こうには、所謂イングリッシュ・ガーデンと呼ばれる庭が広がっていた。

 季節としてはもうすぐ終わりだが、ここの庭はまだ薔薇が咲き誇っていた。目覚めたときの香りと同じ匂いが鼻をくすぐる。

「部屋に薔薇をありがとう、お祖母様」

「気に入った? もうすぐしたら季節が終わるけど、秋から冬にかけてまた違う花が咲くわよ」

 振り返った祖母の顔はまるで少女のように、頬を紅く染め、微笑んでいた。

「でも、もう朝晩は冷えるわ。あまりマーサに心配をかけないでちょうだい」

「貴方は心配してくれないの?」

「心配し甲斐がない位、医者の言う事を聞かないじゃないですか」

 庭のテーブルに鞄を置き、アイラは血圧計を出した。

 祖母の金の巻き毛は、母以上にふわふわと綿菓子のようだった。

 否、もう金色ではなく、白い。

 この数カ月で真っ白になったのではないか? と思うほどだ。

「お祖母様」

 アイラの再度の呼びかけに、祖母ルイーズは渋々従った。

 片手には先程切っていた薔薇がある。それをマーサに手渡した。

「マリアの部屋に飾っておいてちょうだい」

「畏まりました」

 マーサが部屋から出て行ったのを確認してから、ルイーズは口を開いた。

「よく似合っているわよ、そのワンピース」

「お祖母様の選んだものですもの。あの人が選ぶものより数段マシです」

「エレーナらしい褒め言葉ね。嬉しいわ。でも、自分の母親を『あの人』なんて言っては駄目よ」

 自分の娘の筈なのに、まるで他人事のようだった。確かにこの人の血を私は引いているのだわ、とアイラは思う。

 この、一歩どころか30m離れて物事を冷静に見ているようなところは血筋なのかもしれない。

 シュコシュコと血圧計のポンプを握りアイラは慎重に診察を始めた。

「・・・脈は異常無し。目も充血無し。喉も大丈夫・・・。血圧が少し高い・・・か。胸はどう? 最近発作は無かったとパパから聞いているけど」

 以前ルイーズは心臓発作で倒れたことがあった。軽い狭心症を患っていると父親からも聞いている。

「ニコライから貰っている薬も忘れずに飲んでいるから大丈夫。無理もしていないし、むしろ動き回るとマーサやアナスタシアが後ろを追いかけてきて鬱陶しいったらありゃしない。仕方がないから庭仕事で我慢しているのよ」

 悪戯っ子のような目で舌を出す祖母はまるで童女のようだった。

 若い頃は社交界の華と謳われる美貌を持ち、ダンスが得意で、夜会ではルイーズ=メアリー=ハミルトンの前にはダンスの相手が列を成すとまで言わしめた。

 美しい貴族の娘には数々の縁談がもたらされたが、ルイーズは断固として首を縦には振らなかった。

 女にだらしないが金にもだらしない兄から、散々見合いを勧められても、片っ端から相手を振りまくったのは当時有名だったそうだ。

「無理は駄目だけど、軽い運動なら良いわよ。お得意のダンスも軽い程度ならね」

「まぁ、つまらない。昔は王族だって私と踊りたがったものよ?」

 肩を竦めて唇を突き出す祖母の顔を見て、アイラは思わず噴き出す。

「大昔の話でしょう? 社交界の花形ならどうして爵位を返して貴族を辞めたの? 嫌い、だけが理由じゃないでしょう?」

 ただの世間話のつもりで水を向けたつもりだった。が、祖母の表情が一変したのをアイラは見逃さなかった。

「お前のお祖父様・・・アレクセイに出逢ったからよ」

 そうだった。

 アイラは祖父母の麗しくそして激しいロマンスを思い出した。

 祖父・アレクセイ=ミハイロフ=ローレンサーは祖母とは年齢が18歳も離れていた。歳の離れた実兄よりもさらに2歳上。

 一介の医師、しかも英国人の養子とは言えロシア人だった祖父と、蝶よ花よと育てられた伯爵令嬢の祖母。

 とある舞踏会で出会った祖父に一目惚れしたのはルイーズだったとか。

 当時の女性ならば“はしたない!”と言われそうな勢いで、アレクセイの所在を調べ、勤務先の病院にラブレターを送り続けたそうだ。

「勿論、兄は反対したわね。もう子供は諦めていたみたいだったから、私が産む子供を養子にするつもりだったのね。『由緒正しい伯爵家に、どこの馬の骨とも知れん男の血を入れる気か!』って。自分は馬の骨以下なのにね。」

 家柄よりも愛を選んだルイーズは伯爵令嬢の地位を捨て、アレクセイと結婚した。2年後にはアナスタシアが誕生したが、その時既に兄夫妻は病没していた。

「他に血縁者はいなかったの?」

 診察器具を片づけたアイラは椅子に座ったまま祖母を見つめた。

 今のルイーズはココにいなかった。

 彼女は、遠い娘時代に想いを馳せているに違いない。

「探せばいたでしょうけど、何故か父の隠し子は誰も名乗らなかった。最も兄が財産を殆ど食い潰していたから目ぼしい資産は既に無かったし、この城は私の生母が所有していたものだったから名義は元々私だったの。」

 結局、継ぐものは爵位と借金だけだった。

 借金は兄の邸と土地を売り払って返済し、爵位は返上した。

 もしかしたら、自分は伯爵令嬢として生きていたのかもしれない。

 アイラは自分で想像しておきながらゾッとした。

 冗談じゃない。これ程似合わないものがあるだろうか。

「お祖父様とのロマンスはまたゆっくり聞くわ。私は町まで出掛けてきます。何か買ってくるものはあります?」

 アイラは席を立ち診察鞄を手に取った。

 ルイーズはにっこり微笑む。

 本当に、70歳を過ぎた老婦人には見えない、若々しい表情だ。

「あのね、ファッジが食べたいわ」

「ファッジ? 言えばシェフが作ってくれるでしょう?」

「シェフのはあんまり甘くないのよ。私は、町の“キンバリー”のチョコレート・ファッジが大好きなの」

「わかったわ。ついでに、お祖母様の大好きなショートブレッドも一緒に買ってきます。・・・ママとパパには内緒でね」

「よくわかってるじゃない」

 いってらっしゃい、と祖母は笑顔でアイラを送り出した。

 居間で寛ぐ両親に挨拶をしてから、彼女は城の自家用車に乗り込んだ。

 祖母がもう少し若い時に乗り回していたアストン・マーチンだ。

 マリアの些か破天荒な性格は恐らく祖母譲りなのだろう。

 アイラはエンジンを掛け、ぐっとアクセルを踏み込んだ。


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