血色の瞳(中)
翌日、触れれば手を切ってしまいそうな三日月の輝く夜。
カインとライ、セシルの3人はとある店にいた。
舗道の脇から階段を下りた地下にその店はある。
名は『La Lune Bleu(蒼い月)』
カウンターと3つのテーブルから成るここは、知る人ぞ知る名店でもあった。
「いらっしゃい」
扉を開け、入ってきた3人にカウンターの中の男が声をかける。
その手には清潔なクロスとカクテルグラスが握られていた。
「Bonsoir.マスター」
セシルが微笑んで椅子に腰をかけた。彼女を挟んでカインとライが座る。
「何か悪いことでもした? カイン」
マスターは拭いていたグラスを棚に戻し、そう訊ねた。
びっくりしたようにカインが目を丸くする。
「な、何で?」
「ライとセシルの眼が教えてくれたよ。何かあったから、話をするために『店』に来てくれたんでしょう?」
「じゃあ、外の『fin』の看板は・・・」
ライが扉を指で示した。
まだ営業時間の筈なのに『閉店』の看板が下がっていたのだ。
「そのほうがゆっくりと話ができるだろう?」
マスターはにこっと微笑んだ。
「ふふ・・・なんてね。Zに夕方電話をもらったんだ。だから準備をして待っていたんだよ。」
そう言って彼は3人の前にカクテルグラスを並べる。
シェイカーを振り、ステアをする。一連の動作がまるで魔法のように見る者を魅了する。
それぞれのグラスには色鮮やかな酒が注がれた。
「いつもながら感心するわ。マスター・レオンの腕は」
セシルは嬉しそうにグラスを手にとった。ライも頷く。
「このクラシックも静けさをよりいっそう醸し出してくれるしな。いい趣味してるな、レオン」
クラッシック愛好家の2人にとって、これほど最高の店は他にないだろう。
「お褒めに預かり光栄です。」
彼は素直に喜んだ。
この『La Lune Bleu』はよくあるバーのような客同士やマスターとのおしゃべりを楽しむためのものとはまったく異なっている。ここに通ってくる常連たちは、皆静けさを求めて集まってくるものたちばかりだ。大抵客はひとりでくるか、2人連れかそのどちらかだ。それ以上はただ騒音に等しくなる、というのが彼、マスター・レオンの持論だった。カインたちみたいに顔見知りが集まるときは、今日のように『閉店』にしてくれるか、すぐ隣にある『個室』を使わせてくれる。
「今日のお味はいかがです? セシル」
「・・・いつものとは少し味が違うわね。でも、とてもおいしいわ」
セシルは半分ほど飲み終えたマルガリータを見つめた。
「テキーラとレモンジュースの分量を少し変えてみたんですよ。今日は話がメインですから、少しライトに、ね」
彼の手で作り出される『La Lune Bleu』のカクテルも客を通わせる一因だった。
バーに揃えられた酒はどれもレオン自らが吟味したものばかり。
また、彼は初めての客に対して、その人の顔を見ただけで最も好みの飲み物を出してくれる。常連にも一杯目の注文は聞かずに出す。それがまた美味いのだから言うことがない。
ライにはソルティ・ドッグを、カインにはキルシュ・カシスが出されている。
「よう、もう来てたのか?」
扉のベルを鳴らしながら入ってきたのはZだった。
「悪いな、商売にならなくてよ」
「君と出逢ったときから諦めているさ」
カインの隣に腰をかけたZに、マスター・レオンは空のグラスとソーダ水のビンを置いた。
「ま、長い付き合いだからな。ユーシスとは」
「ユーシス?」
Zの言葉にセシルが不思議そうに呟いた。他の全員が目を丸くする。
「あれ? ・・・知らなかったのか、ユーシスのこと」
カインは意外だとばかりに驚く。
「知らないわよ、私ここに来るようになったのここ2~3年のことだもの。マスターのことって、あんまり話さないじゃない? みんな」
「本名ですよ」
落ち着いた声で彼は答えた。
「ユーシス=レオン・キール。レオンはこの『La Lune Bleu』の前のマスターだった祖父の名前です。祖父からこの店を継いでからは名前も継承しました。ここでは『レオン』は『マスター』の代わりみたいなものです。どうぞこれからはレオン、と呼んでください。」
「出来ればユーシスと呼びたいわ。・・・ダメ?」
頬杖ついて上目遣いでねだるように甘い声を出すセシルに、ユーシスは表情を変えることなく「もちろん」と答えた。
「・・・マス、いえ、ユーシスってフランス人じゃないの?」
「祖父母はもともとイギリス人だったんですが、戦争の関係でフランスに来てからずっとパリに住み続けていたのですよ。ですから父は純粋なイギリス人ですし、母はフランス人です。」
「ふーん、そうなんだ。で? 何でカインとZが『ユーシス』でライが『レオン』なわけ?」
こうなるとセシルはしつこい。真相究明まで彼女は食い下がる気だ。
「あ、俺もこれからは『ユーシス』と呼ぶよ。でも、俺が香港からパリに来たのは5年ほど前だから・・・『La Lune Bleu』に来たのもその頃かな? でも本名を知ったのはだいぶ後だった気がする。」
ライが何気なく天井を見つめた。何かを思い出そうとするライの癖だ。
「俺はZを介して知り会ったから・・・もう、かれこれ10年になるか」
カインはふと、懐かしそうに呟く。
「私とZは大学1年からの知り合いですよ。あの頃から色々と面倒なことを持ち込むヤツでしてね、この男は」
何か嫌なことでも思い出したのか、ユーシスの表情が少し歪む。
「ま、む、昔話はもういいだろう」
「答えになってないわよ、Z」
「今日はそういう話は無しっ! さっさと本題に入ろうぜ」
冷たいソーダ水で喉を潤し、Zはノートパソコンを持参してきた黒いケースから取り出した。カウンターの上に置き、スイッチを入れ、器用にキーを打ち始める。
「コレが頼まれていた情報だ。」
ディスプレイにはふたつの名前が並んでいた。
「カインが殺ったのはこの『ヘルメイ=スカル』。元レスラーだが金欲しさに八百長試合をした上、相手を殺しちまって5年前刑務所に入ってる。どういうわけか最近出所したらしい。で、もうひとりが・・・」
画面が変わりひとりの男の顔写真と経歴が映し出された。
カインが食い入るように見つめる。
「名前は『アンリ=クレイマー』。年齢23歳。出身は・・・スイスになっている。でもアングロ・サクソンっぽいなぁ。表向きは・・・」
Zは再びキーをひとつ打った。
「演劇劇団俳優」
ディスプレイは次のページを映した。そこには事細かに演劇の上演目、劇場が記されていた。中には有名な劇場の名もあれば、世界的にも高い評価を受けた作品もあった。
「知ってるわ、この男」
頬杖をついて、ディスプレイを覗き込んでいたセシルが呟いた。
「一度見たら決して忘れられないわよ、Z。ライ一筋のアンタでもね。本人はそれこそ『魅惑的』で・・・いえ、むしろ『蠱惑的』で『危険』な香りがするような男よ」
言われてカインは写真を見直した。いつのまにかライが背後に回って覗き込んでいる。
パーティーか何かの写真だろうか、アンリ=クレイマーはタキシード姿で顔には笑みが浮かんでいる。確かに俳優だけあって特徴的だ。彼の端整な顔立ちには気品さえ溢れている。黒に近い茶色の豊かな長髪はむしろ女性的な印象を受けた。どれをとっても俳優になるべくしてなった男だと言える。
「何処で会ったんだ?」
「いつだったかしら・・・」
カインの問いにセシルは首を傾げた。
「確か・・・何かのパーティーで2、3回会った気がするわ・・・。そーよ、ライが一緒のときにも会ってるわ」
「えっ?」
「ほら! それこそこの男の所属劇団の脚本家が何かを受賞したときに・・・」
「・・・思い出した!!」
突然ライが叫んだ。その声の大きさに驚いて、ユーシスが思わず拭いていたグラスを落としてしまいそうになったほどだ。
そんなことにはお構いなしにライは何度も頷いた。
「いや、そうだったよ。俺もその劇団の脚本家とは顔見知りだったから呼ばれたんだ。セシルのホテルで催されたんだったよな。確か紹介はされたけど、その後特に会話をしたわけじゃなかったから。ま、男の顔はどんな美形でも覚えない性質なもんで」
アハハ、、と笑うライを尻目にセシルは言葉を続けた。
「この男とは来週会えるわよ、カイン」
「本当か!?」
カインが目を剥いた。セシルは軽く頷く。
「うちが経営しているパリのホテルが創立20周年記念のパーティーをやるの。もともと50年程前に道楽で祖父が始めたのだけれど、今の形にしたのは父だから。そこで馴染みの深い客を呼ぶのよ。両親は他の仕事があって来ないけれど、皆にも招待状を持参してきたのよ。」
セシルはカウンターの下においてあったハンドバッグから、4通の封書を取り出し1枚ずつ手渡した。
「そこで彼に紹介してあげるわ」
「Excusez-moi, セシル」
「え?」
帰り支度を始めたセシルにユーシスが声をかけた。
「申し訳ないのですが・・・」
ユーシスは開封することなくセシルに封書を差し出した。
「人の多いところはあまり得意ではないですし・・・、店を留守にするわけにもいきませんから」
残念そうにユーシスは言った。
「そう・・・、それは残念ね。貴方にはこのお店を常に開けなければならない理由があるのでしょう?」
封書を受け取ったセシルはユーシスに微笑んだ。彼もまた、彼女に微笑み返す。
「・・・すみません」
「謝らないで、気にしなくていいから。その代わり『私』のプライベートなパーティーの時には顔を出してくれるわよね?」
「えぇ、必ず」
ユーシスの言葉に嘘はない。セシルは満足そうに頷くと腰をあげた。
「じゃあ俺も一緒に帰るよ。車だから送るわ」
すでにパソコンを仕舞い終え、Zは準備万端の体勢だった。
「お前も帰るのか?」
ライがつまらなさそうに声を上げた。
「そりゃ、いつまでも『2人っきり』で夜を明かしたいと思うが・・・」
自分に酔いしれているZを尻目にカインは「完全に俺のことを忘れていやがる」とユーシスに耳打ちした。ユーシスはユーシスで呆れたように笑うだけだった。
「明日学校なんだよ、朝早いしさ。残念だけれど次の機会にはゆっくり・・・」
「てめぇ~・・・ッくだらねぇこと言ってないでさっさと帰りやがれ! この大馬鹿野郎ッ!!」
顔を真っ赤にしてライは大声で怒鳴った。
Zは面白そうにけらけら笑った。セシルもくすくす笑う。
「あぁ、そういえば忘れるところだったよ」
Zは不意に真面目な声を発した。顔はまだ笑っているが・・・。
「アンリ=クレイマーの裏の通り名。・・・『傀儡師』って知ってるか?」
「くぐつ・・・し?」
Zの問いをカインは繰り返した。
「昔聞いたことがある。人形遣いのことだろう?」
「そう。そして奴の得物は『糸』」
「人形に糸? マリオネットのことか?」
ライにはあまりピンとこなかった。俳優と人形なんて結びつきようがない。
「でも、カインには何か思い当たる節があるようですよ?」
ユーシスはカインの様子に気づいたらしい。その場にいた全員の視線がカインに集中する。
だが、その視線に構わず、カインは昨日のことを思い出していた。
――目の前で噴きだした血。胴から滑り落ちた首。
――検死したアイラの呟き。
――・・・糸。
間違いない。
カインの目に一瞬だが光が宿った。
冷たい、凍るような光。
その一瞬をZは見逃さなかった。
「Merci,2人とも。何かあったらまた連絡する」
そう言ったカインの表情は、もういつものカインだった。
「あ、あぁ、わかった。」
「じゃあ、次の週末に」
Zとセシルはそう言って店を後にした。
階段を上りきったところでZが深く息をついた。
「どうしたの? 溜息なんかついちゃって」
Zの様子に、セシルは不思議そうな声を出した。
「・・・いや、なんか空気に緊張したっつーか・・・」
「?」
「だからさ、カインのことだよ。日本人の俺には理解しがたい面があるなぁ、なんて・・・」
「日本人じゃなくてもわかんないわよ。他人なんだし」
「そりゃ、そうだが・・・」
Zは先程のカインを思い出していた。
背筋が凍るような、それほど冷たい眼だった。
見慣れたつもりだったが、それほどに恐ろしいと感じてしまう。
「ただ、ひとつ言えることは・・・」
セシルが口を開いた。視線はZではなく、月に向けている。
「貴方が感じているもの、それが私たちが総じて呼ばれる理由・・・『悪魔の御子』と呼ばれる所以よ」
かつて『北の悪魔』と呼ばれる男がいた。
銀色の髪に血のような紅の瞳を持つ男は、全てを超越した暗殺者だった。
その姿を見たものは皆が皆その名を口にした。
畏怖と敬意から、赤と銀を持つその男を『悪魔』と呼んだ。
北欧にその居を構えた『悪魔』は長き時代において、その血を絶やすことなく、暗殺者としての血を絶やすことなく『北の悪魔』として存在し続けた。
しかし、いつしか『北の悪魔』はその姿を消した。そして、しばらくして世界の何処かでそれは同時に現れた。かつての暗殺者と同じ腕を持つ者たち。彼らは5年前ヨーロッパに集った。運命に引き寄せられるままに。
呼び始めた者は今となっては判らない。
彼らを総じて誰かが呼んだ。
『北の悪魔』の全てを受け継ぎし者、汝ら『悪魔の御子』とならん。
「私たちが教え込まれたものは確かに『北の悪魔』の暗殺術。だけどそれが何だというの」
セシルは月を背にZに向き直った。
今の彼女はいつもからは考えられないくらい饒舌だった。軽めのマルガリータに酔ったとは思えない。
いったい何が彼女を・・・?
「私たち4人は兄弟のようにともに育った。理由はどうであれ、同じものを背負って生きているのよ。覚えておいて頂戴。あの子たちに・・・、いいえ、私たちに手を出すことは誰であろうと決して許さない。たとえ、Z、それが貴方であってもよ」
彼女の瞳には有無を言わせない力があった。
カインを狙うのならば私が許さない。どんなことをしてでも『守って』みせる。
おそらくライとアイラも同じであろう。
Zは確信した。
彼らは確かに悪魔なのだと。そしてその身を悪魔に貶めなければならなかった人間であったことも。
エンジン音が静かな夜に鳴り響いた。
「悪魔・・・か」
Zは車のハンドルを握りながら隣のセシルを盗み見た。
目を閉じ、まるで眠っているかのようにも見えた。が、見えているだけだろう。赤信号の交差点で止まり、Zは夜空を見上げた。
月がこちらを見ている。
「今は確かに『悪魔』なんだろうな」
だが、お前たちは知っているのだろうか?
悪魔はかつて天使・・・神の御使いだったことを。
それを思い出しさえすれば、いつでも天は開かれることを。