雪の降る街で(下)
デスクのパソコンから視線を時計に移した。
時間は3時をとうに過ぎている。
バートは椅子から腰を上げ、キッチンに向かった。
やかんに水を注ぎ電磁コンロにかける。戸棚から紅茶缶を取り出す。英国ブランドのダージリン。バートの最近のお気に入りだ。慣れた手つきで茶葉をポットに入れる。湯が沸く間にサンドイッチを手早く作った。
セシルが出掛けた間のいつもの夜食。
材料はいつも準備してあるので簡単だった。今日の具材はレタスとチーズとハム。
シュンシュン・・・とやかんが音をたてたのでコンロの電源を落とし、ポットに湯を注いだ。
プープー・・・と電話が鳴り響いた。
バートはやかんを戻し受話器をとる。
「Hello?」
訝しがるように低い声で電話に出る。こんな深夜に電話がかかってくることはそう多くない。
セシルならば、別の電話回線にかけてくる。
『・・・Hey, Mr.Eliot?』
「そうですが・・・どちらさまですか?」
自分に名指しで電話が来ることは稀だ。しかもこんな夜中に。
いよいよ怪しいと思って、バートは警報装置に指をかけた。
『俺だよ・・・忘れたのかい?』
「その声・・・」
電話口で相手が微かに笑ったのが聞こえた。
「エド・・・Mr.パーシー・・・?」
『エドで良い・・・。エドと、呼んでくれ。バート』
何の用? と言おうとしてバートは言葉を呑み込んだ。エドの声はあまりにもか細く、寒さに震えているようだった。バートの中で何故か警戒心が緩んでいく。
(この声のせいだ・・・)
幼い頃、まだ家族が家族と呼べた頃の父親の記憶と重なる。
『会いたい。・・・傍に、来てくれ・・・』
「・・・何処にいるんですか?」
普通ならば、真夜中に何を馬鹿なことを、と冷ややかに突き放しただろう。
だが、バートには出来なかった。思いつきもしなかった。
その言葉に惹かれるように素直に従っている自分を疑いもしなかった。
電話を切った後、バートは紅茶を保温性の水筒に移し変え、サンドイッチを包んでそれらをバスケットに入れた。寒くないようにコートとマフラーを身に付け、帽子を被った。懐には護身用のオートマチック式の拳銃を忍ばせる。
エレベーターに乗り込もうとして、バートは身を翻した。テーブルの上のメモ用紙に走り書きをする。
そして、指定の場所へ走った。
深夜のセントラルパークに来ようとする物好きはそうそういない。治安が良いとは言い難いNYでは尚更だ。
だからこそ、エドモンド=パーシーはバートをそこへ呼び寄せた。
人目を憚るために。
だが、彼が本当に来る保障はどこにもない。
ベンチに深く腰をかけ、エドは空を仰いだ。
先程まで静かに降っていた雪が止んでいた。
恐らく、これが一目惚れというのだろう。恋というのだろう。
標的の傍にいる人間を取り込むのはスパイとして常套手段だった。感情など介入しないただ利用するだけの関係。用が済めば消してしまえばいい。
組織では、そう教わった。自分が組織の中で生き抜くためには、生き残るためには、誰よりも強く、冷酷に、任務を遂行する意志を持たなければならなかった。
幼少の頃、実の両親の手から組織に売り飛ばされた彼は誰かを信じるということが出来なかった。
誰も必要としなかった。
組織の命令だったらどんなこともした。特殊部隊に入隊してそのノウハウを吸収もした。潜入も殺しもなんでもやった。その間に抱いた女の殆どはこの手で始末した。
けれど、『彼』を始末することは出来なかった。
彼女を庇って撃たれた彼を救いたいと思った。
本当ならばあのまま死んで貰ったほうが組織としては効果があったはずなのに。
殺害するよりも傍に置きたかった。自分の物だと、その身体に刻みたかった。
拒まれても平気だ。無理矢理攫ってしまえば良い。
小さな足音がだんだん近づいてくる。
エドは視線を戻した。
公園の外灯の中でプラチナの髪が光る。
走ってきたのだろうか。呼吸を弾ませ肩で息をしながらバートは近づいてきた。両腕でバスケットを抱えている。
「・・・まるでピクニックだな」
「夜食前に呼び出したのは貴方ですよ」
お互いの顔を見合わせて微笑んだ。バートが警戒している様子はない。
「どうぞ」
バートは先程淹れてきた紅茶をエドに手渡す。「お腹空いてませんか?」と手作りらしいサンドイッチの包みをエドに押し付け、自分の分にかぶりつく。その様子があまりにも幼く見えてエドは思わず噴き出した。
「・・・なんですか?」
「いや・・・」
顔は笑ったまま、エドは熱い紅茶に口をつけ、サンドイッチを口に運んだ。
「まさか来てくれるとは思わなかったな」
「あんな死にそうな声で懇願されて無視したら・・・寝覚めが悪いじゃないですか」
バートの拗ねたような口調にエドは笑った。
ひとしきり夜食を済ませた2人は他愛もない話に興じた。
くしゅん、とバートが小さくクシャミをした。
「失礼」
横を向いたバートの背中に温かいものが覆いかぶさった。そっと背後から腕を回される。
「エ、エド・・・!」
「やっと呼んでくれたな」
耳元で囁かれる声にバートの身体は敏感に反応する。
「あ・・・」
くすぐるように触れる吐息。エドは囁いた。
「このまま、ずっと傍にいてほしいんだ。俺と一緒に来てくれ・・・」
「エド・・・?」
切羽埋まったような声にバートは不安を覚えた。
少しずつだがバートを抱く腕の力が強さを増しているような気がした。
「エド・・・放して・・・放してください!」
「俺とお前は同じだ。同じなんだ。スラムで生れ落ちて、どん底まで落ちて、救われて・・・。でも、俺はずっとひとりだった。孤独だった。けど・・・お前と一緒なら・・・」
「放して! エド!!」
精一杯の力でエドの腕を振り解いたバートは全速力で駆け出した。
愛情のある抱擁とは思えなかった。それ以上に感じたもの。
殺意。
「あっ!」
足がもつれバートは芝生の上に転倒した。
気づけば公園の奥に迷い込んでいた。
「僕としたことが・・・」
倒れたままの格好で、バートは唇を噛んだ。
エドの言ったことは当たっていた。
彼との間にあった妙な親近感。
同じような境遇がエドと自分を結び付けていたのだ。知らない内に。だから、彼を拒めなかった。
でも、バートの感情は友情以外の何物でも無い。
しかし、エドのは違う。
背後から再び伸びてきた腕をバートは思わず払ったが、両腕を逆に掴まれ押さえ込まれた。夜露に濡れた芝生がバートの体温を奪う。
エドの右手がバートの頸に触れる。白い息を吐きながら、エドはバートの唇を塞ぐ。
「ふぅぅぅ、んん・・・」
身体を捻って抵抗する度に、頸が少しずつ絞められている気がした。
「俺から逃げるなら追う。追いかけて、捕らえて、奪う・・・」
闇の中で何かが細く光る。
顎の下に当てられ、一気に衣服を裂かれる。バートの震える褐色の胸にエドは確かめるように舌を這わせる。
「や・・・やめ・・・」
凍えるような寒さと、焼けるような熱さの両方を感じながら、バートは必死にエドから逃れようとした。
殺される、それ以上の恐怖がバートを襲う。
(こんなの・・・嫌だ!)
パスッッと空気を切り裂くような音の後、頭上から枝がバサッと落ちてきた。エドが思わず周囲を見回した。
黒い2つの影が闇から近づいてくる。
「バートから離れなさい。エドモンド=パーシー」
怒りの滲んだ声が周囲に響く。エドは身体を起こし、左腕でバートを抱き締め、右手のナイフをバートの喉元にあてる。冷たい感触が伝わり、バートの小さな悲鳴が洩れる。
「良く分かったな、この場所が」
「バートの衣服には必ず発信機が付いているのよ。開発中のGPS機能が付いた・・・そんなこと、どうでも良いわ。早くバートから離れなさい! さもないと今度はまともにアンタの頭ぶち抜くわよ!!」
「およそ、シンディアのご令嬢の言葉とは思えないな」
「今の私は、お嬢様でも総帥でもないわ」
距離があるにも関わらず右手に握られた短剣の尖先がエドに向けられる。
自分が優位な立場のはずなのに、何故かエドは圧倒的な威圧感に冷や汗を流した。
「それ以上近づくと、あんたの大切な秘書の喉を切り裂くことになるぞ」
「出来るものならね」
何気ない一言だが、冷酷な視線。
エドからは街灯を背にした人影の顔は見えない。だが、見なくても分かる。
朗々と響くソプラノ。
何度となく耳にしてきた。
いつか、その喉元を切り裂くために。
エドの左腕に力がこもる。バートは息苦しさに喘いだ。
「エ・・・ド・・・、や、やめ・・・。キャ・・・ロル・・・」
裂かれた衣服の隙間から体温が奪われる。
バートは震えていた。完全には癒えていない肩口の銃創が疼く。
「その男は誰だ」
「その前にあんたよ」
セシルがエドの言葉を遮った。短剣を下ろす事無く徐々に間を詰める。
「この際全部喋ってもらうわ。誰に頼まれたの? この私を暗殺しろ・・・と」
セシルの黄金の瞳がエドを見下す。
「誰が、ジョナサン=グリーンを操ってシンディアに入り込めと言ったの?」
「・・・あんた、本当にキャロライン=エリザベス=シンディアなのか?」
見上げるエドの双眸がセシルに疑いの眼差しをぶつける。
「俺の知っている総帥と、今のあんたは全く異質だ。根拠と言われても困るが、俺の勘がそう教える」
「あんたが私の質問に答えたら教えてあげるわよ」
「・・・賢い人間であることは違いないわけだ」
エドの左手が微かに動いた。ハッとしてバートは胸元を見た。
露わになっていた胸元を隠すようにエドの左手が服を掴んでいた。
思わずバートは彼を見た。
そこに見えたのは、口許を自嘲気味に歪めた男の顔だった。
「たぶんあんたは俺のことをとっくに調べているんだろう? そして気づいた。エドモンド=パーシーという人間が現実に存在していないことに」
「最初は不思議だったのよ。自称ジャーナリストと言っていた貴方を私は見知っていた。ジャーナリストなら知っていて当然とも思ったわ。でも、違った。私は社交界で貴方を見かけたわけじゃない。もっと身近。そう、実家で開いた祖父の誕生日パーティーの会場よ」
ビバリーヒルズの邸宅で開かれるマイケル=シンディアのバースデー・パーティー。各界の著名人や友人を招く盛大なパーティーとは別に、邸宅で開かれる恒例のパーティーは親族のみだった。
勿論姻戚関係にあるグリーン家、バートン家の人間も招待される。
「去年のパーティーだったわ。開始時間ギリギリにジョナサン伯父が車で邸宅に現れたの。そのときにちょうど表に出て迎えたのがこの私。慌てふためいて車から転がるように出て来た伯父が余りに滑稽で笑いを堪えるのがやっとだったのを覚えているわ。伯父が車の中に忘れた荷物をもって運転手が追いかけてきた」
何故一運転手をセシルが覚えていたのか。
一瞬のこととはいえ、セシルにはその光景が奇異だったからだ。
マイケルへのプレゼントを持って走ってきた運転手は金髪碧眼の美丈夫。そして、鍛えられた肉体。
およそ運転手らしからぬ姿。
「その運転手が貴方だった」
くっ、とエドが苦笑する。
「・・・まさかあんたがそんなことまで覚えているとはな」
「職業柄他人の顔を覚えるのは得意なのよ。さて、それで? ジョナサン伯父に私の殺害を頼まれたにしては、伯父の動きは至極不自然よね? 挙句に殺されたなんて」
「自殺、だろう? その前にどうしてあんたがもう知っている? いや、知ってて当然か。このところあんたの周囲をうろついていたあの銀髪の男が噛んでるんだな?」
睨むエドの視線をセシルは軽く受け流す。
「まぁ、良い。いっそ全部教えてやるよ。俺がジョナサン=グリーンに近づいたのはある命令を受けたからだ」
「?」
口を開きかけたセシルに向かって、「まぁ、聞け」とエドが笑う。開き直ったように。
「2年前、俺は米国に入った。狙いはシンディア財団。俺たちの組織が財源確保を目的にシンディアを傀儡にするためだった。下調べはしたが、財団中枢に入り込むのは困難を極めた。そこで俺はシンディアから遠くない場所で機会を窺うことにした」
シンディア財団に絡む職種はその殆どが身元調査されるものばかりだった。偽造データをいくつか持ってはいたもののなるべく危険を冒すリスクは避けたかった彼に舞い込んできたのが、ジョナサン=グリーンの専属運転手の仕事だった。
何故最も安全性を重視すべき運転手を安易に採用していたのかは就職してすぐに理解した。
彼は、所謂『変人』の部類だった。
広所恐怖症に始まり、照明恐怖症、潔癖症、女性嫌い・・・。数を上げればキリが無く、ようは常に個室で身近にするような状態に耐えられる人間がいなかったのだ。
さすがに最初は驚くものの、逆手にとることを彼は思いついた。
ジョナサン=グリーンという人間は、恐ろしいほどのプライドの持ち主で、自分を知らぬ愚か者だった。下手に出て少し自尊心をくすぐれば、すぐにその気になってベラベラ機密事項を漏らす。
そのときに知ったのが、マイケル=シンディアの後継者争いだった。
最も、『争い』と思っていたのはジョナサンひとりで、シンディア家ではキャロルが正式な後継者として容認されていた。
シンディアの血縁者に壮年の男は4人。直系の息子であるセオドアは画家として大成しており既に経営者としては名前を残すのみになっていた。姻戚関係のスティーブ=バートンはバートン家唯一の後継者のため論外。
グリーン家にはジョナサンとルパートの2人がいた。
ジョナサンは自分にこそ総帥の座が回ってくると本気で信じていたのだ。
彼でさえ、ジョナサンの荒唐無稽な想像に大笑いした。だが、ジョナサンの思惑は彼の本来の任務遂行には絶好の隠れ蓑だった。
運転手として近づいてから1年が過ぎ、初めて長続きした使用人にジョナサンも信頼を見せ始めていた。
そこからは早かった。ジョナサンのプライドを少々突いてやるだけで良かった。
「ようは刷り込みだ。自分こそが総帥に相応しい。そして、邪魔者は消せばよい、とね」
彼にとっても、聡明で賢い総帥よりも愚かな飾りの方が御し易いことも事実だった。
こうして2人の利害は一致した。
「2度狙撃未遂に『終わらせた』のはあくまで容疑を外に向けるためだった。だが、俺が雇った殺し屋は結局失敗した。だから、俺がこの手で始末する必要があった。」
砕け散ったガラスの雨の中、キャロルを狙った。だが、銃弾に倒れたのはまたしても別人だった。
「焦ったさ。よりにもよってFBI捜査官を撃っちまった。だが、タイミング良く組織から新たな命令が下った」
キャロル=シンディアから手を引くこと。
「帰還命令だった。だが、利用したモノは痕跡を残さず消せ。それが組織のやり方だった」
彼はジョナサン=グリーンを自殺に見せかけて殺害した。
「何故、俺が殺したとわかった?」
「伯父様が教えてくれたわ」
セシルは微かに口許を緩めた。
「自分の寝室にまでカメラを仕掛ける変人ならでは・・・よね」
エドは肩を落とした。
あの瞬間まで、ジョナサン=グリーンは自分の思い通りにならなかったのだ。
「・・・アイツの言ったとおりになっちまった・・・」
「あいつ・・・?」
「誰のことだ?」
セシルの声に被るように、若い男の声が背後から響いた。いつの間に、と思ったがエドはもう動揺も出来なかった。
「組織からのメッセンジャー。俺たちはアイツをハデスの使者と呼んでいる」
ギリシア神話のゼウス、ポセイドンに続く神々の兄弟であり冥府の王。
「アイツがもたらす命令は絶対だ。叛くことは赦されない。アイツは、俺に言った。シンディアから手を引くこと。ジョナサン=グリーンをキャロル=シンディア暗殺未遂事件の犯人に仕立て上げること・・・。だが、決してジョナサン=グリーンを侮るな、とも言われた。どんな愚かな人間であれ、あのシンディアの人間であることには違いない・・・と。もう良いだろう。これが全てだ」
背後でかちりと無機質な音が聞こえた。
「ハデスの使者、とは何者だ?」
「メッセンジャーである以外に良く知らない。俺は組織に育てられた。親に売られて組織に暗殺要員として育てられ、特殊部隊に入ってそのノウハウも学んだ。組織以外に生きられない。だから!」
「だから・・・バートを道連れにするの?」
怒気を孕んだ言葉にエドは気圧された。
「あんたの身勝手な感傷に付き合わされるのは迷惑よ。自分だけが悲惨な過去を持っているとでも? 親に棄てられたから何? 何処でどう生きようと自分は自分よ。組織とやらに縛られて・・・いえ、自分で縛って正当化しているだけだわ。少なくとも私たちは自分の過去を否定するつもりはないわ。その過去も自分のものだもの。どんな世界に生きていたって私は私よ!!」
いつになく怒りを露わにするセシルに驚いているのは他ならぬバートだった。
いつも穏やかでたおやかで、例え怒りを秘めていても決して表には出さない。
「俺たちも言わば小さな組織の中で育った。暗殺者としてな。冬は雪に閉ざされ、外界との接点も無い。そんな自然の監獄の中で俺たちは生きるしかなかった。どんな教育が施されたか思い返したくも無い。気づいたときにはこうして銃を握り絞めていた。拷問の仕方、され方、耐え方。戦略の立て方から潜入方法。ありとあらゆる事を学んだ」
銃口が自分の頭に触れていることにエドは気づいた。
「・・・そのまま撃てばバートもただでは済まないぞ」
「気にしないで頂戴」
その瞬間、エドは左手に強烈な痛みを感じた。
「ぐぅっ!」
手の甲に細身のナイフが突き刺さっている。抜こうと視線を移した途端、エドの顎にセシルの蹴りが入る。
吹っ飛ぶエドの身体からセシルは剥ぎ取るようにバートの腕を掴み抱きかかえた。
「カインっ!」
セシルはバートの視界を遮るように立った。
「レディっ!」
「バートは見ちゃダメ」
まるで子供を嗜めるような優しい声だった。
「バ、バート・・・」
探すように伸ばされたエドの右手を思いっきりカインは足で踏んづけた。
声にならない叫びを上げるエド。
「冥土の土産に教えてやるよ。俺の名はカイン。ハロルディア=カイン=アルフォード=コリューシュン。組織とやらにいたのなら、聞いたことぐらいあるだろう?」
エドの眼には、闇に輝く銀髪と鮮血の双眸が映る。
いつか、雇った殺し屋が話していた。
そんな姿の悪魔がいると。
「それと、お前の狙った獲物は危険過ぎたな。あれは財団総帥である以上に最も危ない女・・・いや、血の女神と恐れられている極上の女だ」
セシル・ローズ=ロードウェイ。
その姿に魅せられたら最後死ぬしかない。
特殊部隊で耳にした噂だった。
そんな女、いるわけが無い。そう嘲笑ったこともあった。
(実在したのか・・・)
エドは両瞼を閉じた。
再び降り始めた雪の結晶が冷え切った頬を濡らす。
こんな自分に笑いかけた青年の姿を思い浮かべる。
口許が微笑みに緩む。
自分を断罪する銃声を聞きながら。
翌朝、勤勉な執事が決まった時間に邸の主の部屋を訪れたことにより全てが発覚した。
主人であるジョナサン=グリーンの変わり果てた姿は寝室の天井から警察の手で下ろされそのまま解剖に回された。
検死の結果は、頚椎圧迫による窒息死。首吊り自殺と断定された。
シンディア財団の経営者が自宅で変死。これ以上ない程のスキャンダルと思われたが、騒がれたのはほんの1週間程度のことだった。死亡したのがシンディアの血縁者ではあっても、世間で『変人』と通っている男だったこともあり、自殺しても注目を浴びることは無かった。
残された遺書は一般公開されることは無かった。
FBI立ち会いの下確認された遺書には、一連のキャロル=シンディア暗殺未遂事件の黒幕が自分であったこと、3度の失敗から自分の身が危うくなると思い込み、神経衰弱に陥った状態から遺書をしたため、自殺する・・・と書かれていた。
文章は確かにジョナサンの手だった。アリバイに、とでも言って書かせたものだろう。
沈痛な面持ちでセシルは悲劇の総帥を演じ切った。
「たいした役者だよ、おまえは」
空港まで見送りに行ったときに、カインは呆れたように言った。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
ルージュを塗った口許が優しく微笑んだ。眼は相変わらず笑っていないが。
「もうちょっとゆっくりしていけば良いじゃない。NYはこれからがクリスマス・シーズンで街並みももっと綺麗になるのに」
「暫く顔出してないからな。このまま行くわ」
カインの言葉にセシルが眼を丸くした。
その手にある航空券に視線を移す。
「・・・ノルウェー?」
「あぁ」
右手に握られた紙袋を愛おしそうにカインが見つめる。
「そっか・・・なら仕方が無いわね。そのうちこっちに遊びに連れてきなさいよ。パリよりは安全よ」
「総帥のお膝元なら・・・か?」
細い指でサングラスを直す。そろそろ時間だ。
「じゃあな。バートにあんまり心配かけるなよ」
「わかってるわよ。年が明けたらパリに行くわ。みんなによろしく言っておいて」
ひらひら手を振るセシルに背を向けて、カインは思い出したように振り返った。
「セシル」
「・・・何?」
訝しげに口を尖らすセシルにカインは真面目な顔で向き直った。
「・・・ノアのこと、本気なんだな」
何を突然に・・・、と笑い飛ばそうとしたセシルだったが、あまりに真剣な眼差しに圧倒された。
「・・・本気よ」
「分かっているのか?」
「えぇ」
「そうか。なら良い。お前なら、俺にはならない・・・じゃあな」
「カ、カイン!?」
セシルが呼び止めるのも聞かず、カインは雑踏の中に紛れて消えた。
帰り道、バートの運転する車の中でもセシルはカインの言葉の意味を考えていた。
(俺にはならない・・・。)
失われたカインの恋人。
彼女が愛したのはノエルだった。
ノアが、キャロルを見ているように。
空港からの帰り、セシルは病院に寄った。バートは医局に寄ると言ってセシルの傍から離れた。遠慮したのだろう。
病室に入ると、広めの個室のベッドの上で退屈そうにノアがレポートを読んでいた。
「もう起きても平気なの?」
セシルの声に顔を上げたノアは満面の笑みで応える。
「身体が鈍って仕方が無いよ。早くリハビリに入りたいんだけど、先生がまだ許してくれなくって」
「当たり前でしょ! ちょうど良い機会だから、FBIの方からも完治するまで外に出さないでくれって言われてるしね」
「えぇ! そんな~」
がっかり、とばかりに項垂れるノアの頬にセシルは優しくキスをした。
「・・・キャロル?」
「愛してるわ、ノア。例え、離れていても私には貴方だけ。貴方がICPOに行くなら、私はパリにいるわ。いつでも会えるように」
「I Love you, too...Carol」
2人は互いの唇の感触を確かめるように、ゆっくりと触れ合いながら深くキスを交わした。
長い時間をかけて。
ジョナサン=グリーンの変死体が見つかった同日早朝、セントラル・パーク内を走っていた大学生が草陰に倒れていた死体を発見した。
地元警察が調べたところIDも無く、所持品も無いことから強盗事件と断定。遺体は損傷が激しく、特徴といえば20歳~40歳代白人男性である位しか分からなかった。銃で撃たれた後に顔を刃物でメッタ刺しにされるという残虐さから怨恨の筋も疑われた。しかし、結局身元不明のまま処理され事件は終焉した。