雪の降る街で(中)
街は既に闇色に溶け、疎らな街灯だけが小さく周囲を照らしている。
NYの夜更けに外を歩くようなまともな人間はいない。ウロウロしている連中は大抵後ろに手が回る類だった。
今夜は月さえ見えない。
そんな暗闇の中を疾風のように2つの影がビルからビルへ飛び移る。
「寝室に灯りが点いているわね。夜型だったのかしら?」
「関係ないだろう、そんなこと。むしろ都合が良い」
目標の邸の屋上に到着したカインとセシルは通用口に手をかけた。
「・・・鍵はちゃんとかけているのね。無駄だけど」
セシルは細い針金を取り出し鍵穴に差し入れた。かちゃかちゃと小さな音が周囲に響く。
「たいしたセキュリティーだな、この邸は」
カインは嘲笑った。少なくとも大企業グループの経営者のひとりが住む家のセキュリティー・レベルでは無い。
ものの数秒で扉は大人しく開いた。
あまりにも簡単過ぎてセシルも呆れた。
「まぁ、逆に泥棒のプライドが許さないかもね。こんな鍵じゃ」
静かに開いた扉の先は灯りひとつなく暗かった。
「それで? どんな内容だったの? その若い男との会話は」
中に入るわけでもなく、セシルはガムを噛み、カインは煙草に火を点けた。
任務遂行までまだ時間があった。
計画は速やか且つ正確に実行されなければならない。それがセシルの持論だ。だからこそ、彼女は成功してきた。表でも裏でも。
「まぁ、食事中の会話は大して聞こえなかったな。メイドが出たり入ったりする間から洩れ聞こえる程度だ」
イヤホンから聴こえて来るのは雑音ばかりだった。時折、くぐもった声が小さく聞こえる。これが標的の声だった。
機械越しでも分かるその陰鬱な響きに、カインはひとり表情を歪めた。
そろそろ電源を切ろうかとしたそのとき、急にハッキリとした音声が耳に届いた。
『様子はいかがです?』
カインには聞き覚えの無い声だった。時々近くなったり遠くなったりするのは、メイドが行ったり来たりしている傍、隣の部屋ででも話しているのだろう。
(・・・だとすると、使用人が居る場所・・・さっきの運転手か?)
そのとき、カツーン! と金属音が鼓膜に突き刺さるように突然鳴り響いた。
(うわっ! 盗聴器が外れたな)
メイドの服に仕込んだ盗聴器が床に落ちたようだった。そのお蔭で会話がより鮮明に聞こえるようになった。
カインは耳を澄まし会話に集中する。
『随分な怯えようだ。何せ、キャロル=シンディア暗殺未遂の黒幕であり、よりにもよって護衛のFBI捜査官を負傷させてしまったからね。その神経衰弱のたるやある意味見ものだよ。人間はあそこまで恐怖を感じることが出来るんですね』
『恐怖? 殺される恐怖ですか?』
『いや、あの手の人間はね、自分の地位に強く執着している。そこから追い落とされることを何よりも恐れているんですよ。・・・だからこそ、使える』
『しかし、何故あの男を選んだのでしょうか? 米経済界を取り込むつもりならば、あんな小者を使うより総帥本人と取引したほうが早いのでは?』
先程の運転手と思われる男の言葉に、まだ若い、張りのある声で青年は笑った。
『それが出来れば苦労はしないんですよ。ただ、今の総帥を舐めてはいけません。彼女は決して他人を信用しない。どんな交渉・提携も全て対等かそれ以上でなければ行わない。彼女はね、この国の女神なんですよ』
『仰る意味が良く・・・』
『分かりませんか? 美しい華には棘がある。焦って触れれば傷つけられるのはコチラですよ』
『つまり・・・キャロル=シンディアは・・・』
『美貌の薔薇の女神。そんな女に、あの哀れな小男は取って代わろうとした。たかが女と侮って。この世の禁忌に触れたことも知らずに。だからこそ、我々が利用しやすかったのも事実ですがね』
まるで、詩の朗読のような浪々とした響きとは裏腹な言葉。
『まぁ、そろそろ用済みでしょう。私は一度ヨーロッパに戻ります。ここまで事が大きくなってしまったら、これ以上シンディアを狙うのは危険です。一先ず米経済界は後回しにしましょう。私には他にも仕事がありますからね』
青年の声が遠ざかる。扉の開く音が聞こえる。
『後のことは任せましたから』
『何事も無かったように・・・ですね。ヤツには何と?』
『急用が出来たとでも言って下さい。・・・そうそう、伝えてください』
『?』
『貴方の苦悩は今夜が終焉だと』
ツカツカと靴音が近づいてくる。その瞬間何かに包まれたように音が遮られた。
カインは思わず邸を見た。
ちらちらと雪が降り出した中に、いつの間にか人影が立っている。
地下の出入口がゆっくり閉まるのが見えた。
カインとあまり背丈の変わらない青年。右手を軽く上げてカインが隠れている車の方に視線を注いでいる。
身を潜めながら、カインは息を呑んだ。
青年は右手をゆっくり口許へ近づけた。彼の息遣いがカインの耳に囁くように響く。
『盗み聞きは失礼ですよ? 貴方にならご説明差し上げても宜しいのですが・・・今夜はもう時間がありません。』
言葉とは異なる甘い響きに、カインは唇を噛む。
寒気を感じる声だった。
『また、会いましょう・・・De som det elsker.』
直後、盗聴器からは雑音だけが聞こえた。
「壊されたか・・・」
カインは身体を起こし外を窺ったが、既に誰もいなかった。
後姿と僅かに見えた顔、甘い響きと言葉。
最後に言ったあの台詞。
カインの脳裏に古い記憶が甦る。
雪の中、手を握り合って歩いた街。短い時間の中で育んだ想い。
カインの耳元で囁かれた言葉。
(違う! 違う!!)
カインは振り切るように自分に言い聞かせた。
(誰だ! 今のは誰なんだ!)
頭を抱えカインは低く唸った。
全てを忘れるように、唇を強く噛み締めながら。
震える身体を両腕で抱えるようにカインは再び邸を睨んだ。
「俺たちの邪魔をする者は、誰であろうと許さない・・・。誰であろうと・・・」
「恐らく、邸の中にいるのは本人と執事、3人のメイドと・・・」
「例の運転手?」
セシルの言葉にカインは無言で首を縦に振った。
しかし、その様子をセシルは微かに感じる程度だった。
屋上から邸の内部に侵入した2人は囁くように会話を交わす。
寝室と思われる窓からは相変わらず明かりが洩れていた。
念のため、カインが階下を調べる。
使用人は皆既に夢の中の住人だった。
それぞれの部屋の扉を僅かに開き、左手だけを差し入れ、シュッ、と小さなスプレーから気体を噴射させる。
一度噴射させるだけで、3時間は完全に睡眠状態に入ることが出来た。
アイラ・レーン=ハミルトン自慢の催眠剤だ。
下準備を整え、カインは足音を立てないように静かにセシルの傍へ戻った。
「準備はよろしくて?」
カインは無言で懐から銃身を抜き出した。音をたてず、ドアの両側に2人が立つ。
ノブに手をかけたのはカイン。ゆっくり、静かにドアを押し開いた。
さほど広くない部屋には2脚のソファーと小さなテーブル。壁には暖炉と戸棚。寝室へと続く扉は開け放たれている。
スタンドの明かりに照らされて影が揺らいでいる。
(何の影だ?)
先に部屋を覗いたカインはその様子に違和感を感じた。そのまま部屋に身体を滑り込ませ天井に視線を上げる。
「!」
入り口で立ちはだかったままのカインの肩をセシルが2度叩いた。
「・・・ちょっと? 何やってるのよ」
「・・・やられた」
「え?」
小声だが、低く響く言葉にセシルはカインの見つめる先に視線をやった。
みるみるうちにセシルの双眸が丸く見開かれていく。
「・・・どうして・・・?」
振り子のように揺れる影を生み出していたのは、天井の作り付けのシャンデリアから生えたように伸びた紐と、その先に人形のように吊るされた男の身体だった。
もがき苦しんだのだろう。その死に顔には苦悶の後が刻まれている。掻き毟ったような痕も頸に残っていた。
「自殺・・・」
唖然とするセシルの言葉を遮るようにカインが人差し指で死体を示す。
「何?」
「見ろ。自殺なんかじゃない。絞殺されている。」
頸の後ろに残る圧迫痕。人為的に背後からロープで絞められた痕跡。
「誰が・・・?」
「・・・セシル」
カインが戸棚に向かって歩き出した。棚に並ぶ本の隙間にカインが右手を差し入れ、何かを確認すると本を取り出した。セシルからも何があるのかはっきりと分かった。
「隠しカメラ・・・?」
戸棚の下を開くと、モニターがあり、ビデオデッキの電源ランプが点灯している。
「録画された・・・?」
「テープはまだ回っているな。3時間ほど録画されているようだ」
録画を止め、カインは手早くテープを巻き戻す。モニターの電源を入れ、再生ボタンを押した。
ブラウン管に浮かび上がるのは今目の前にあるソファーだ。
ひとりの男が背を向けて座っている。
『私を、見限るというのか!』
この邸の主が悲痛な声で叫ぶ。思わず立ち上がったのか、蒼褪めた顔が明かりの中に浮かぶ。
『キャロル=シンディアの暗殺には失敗。そして、貴方がこれほど価値の無い人物だったとは・・・正直がっかりだった』
煙草の紫煙が立ち昇る。
『我々はこの国の経済界の鍵を握るのはシンディア財団と考えている。本当ならば現総帥・キャロライン=エリザベス=シンディアに近づきたかったのだが・・・彼女には不要に近づくな、とあの方に忠告されたのでね。俺はあえて最も愚鈍な貴方を選び近づいた。己の器を知らず、身に余る成功を夢見る愚かな野心家。取り入るのに苦労がいらない、もっとも傀儡にしやすいタイプ・・・』
大股で部屋の主がカメラに近づいてくる。急に画面が明るくなった。戸棚傍のスタンドを点けたらしい。
『私が・・・キャロルさえいなければ、私が総帥の地位に立てたんだ・・・』
『まだ、わからないようだな』
男がカメラの方へ振り向いた。まだ、顔は影になっていて見えない。
カインとセシルは息を呑んだ。
『貴方が総帥の地位を得ることが出来る確立は0%に等しい』
男がゆっくり立ち上がりその背後に近づいてくる。カメラには全く気づいていない。
『優秀な弟がいると、兄は苦労するな。もっとも、優秀な兄を持つと弟はもっと惨めな思いをする』
その右手からはらりと細い紐が垂れる。部屋の主は気づかない。
瞬く間に、その頸に紐が巻きつく。
『ぐぅっ!! な、何を・・・』
『用無しは始末する。それが我々のやり方だ。足掻いても無駄だ。俺は、この手のエキスパートでね』
ぎりぎりと絞る紐が頸に喰い込む。抗う手が力無く落ちる。口許から垂れる唾液。白目を剥いた顔はカインたちが見慣れたものだった。
『Good night...ジョナサン=グリーン』
息絶えた死体はかなり重いはずだが、男は軽々と片手で持ち上げた。絞殺に使用した紐をシャンデリアから輪にして下ろし、そこに死体の頸をかける。
あっと言う間に首吊り自殺の出来上がり。
『くくくっ・・・。さて・・・迎えに行くか』
男は低い笑い声を残して部屋から出て行った。
カインが停止ボタンを押す。デッキからテープを回収する。
セシルが、再び揺れたままの死体を見た。
「まさか、先を越されるなんて・・・」
「他にもジョナサン=グリーンを消す必要のある人物がいたということか」
「でも、あの男は・・・」
「俺が邸の前で張っていたときに見た男だ」
「?」
セシルの瞳にカインの横顔が映る。
「客を乗せて車を運転していた。そして、その客と密談を交わしていた。」
「・・・それって・・・」
「運転手として潜り込み、ジョナサン=グリーンを操っていたと考えて正解だろう。」
「そして、その客が黒幕・・・」
瞼を閉じ、カインは記憶を手繰る。
耳の奥であの『声』が甦る。
「・・・あの身体つき、絞殺の手際の良さ。あれは、軍人の訓練を受けたな。しかも、特殊部隊仕込だ。・・・何処かで最近見かけた気もするが・・・」
セシルは弾かれたように突然顔を上げた。
「しまった・・・」
唇を震わせセシルの顔色が急に蒼褪める。
「セシル?」
「何故、気づかなかったの・・・? あの男よ・・・あの声よ! 早く、早く戻らなければ・・・」
「セシル!?」
「あぁ、カイン。あの男は『迎えに行く』と言ったでしょう?」
カインは無言で頷いた。確かに、先程男は『迎えに行く』と言っていた。
「アイツが言っているのはあの子よ・・・。やっぱり私は見ていたことがあったのよ」
すっかり動揺しているセシルは慌ててドアから出て行こうとした。
「落ち着け! セシル!! 何を言ってるんだ!?」
「危ない・・・決して、ビルから出ないで・・・」
うわ言のように同じ事を繰り返すセシルは、およそいつもの『セシル』ではなかった。
カインが知るはずは無かった。
セシルの言葉の意味を。