真実を映す鏡(上)
ホテルのロビーにある公衆電話の受話器を掴み、カインは素早くダイヤルを押した。
十数コール鳴らすが、誰かが出る気配は無い。仕方なく一度電話を切り、再度カインは別の電話番号に掛け直した。
ブースの外の音は何も聴こえないが、まだ朝早いせいか人の行き来はさほど多くない。
数コール後、誰かが受話器を取った。誰か、と言っても1人しかいない。何故ならセシルの寝室に繋がる専用回線の電話番号だからだ。
「Hello?」
確かめるようにカインは受話器に向かって話しかけた。寝惚けてでもいるのか返答が無い。
「Hello?」
カインは再度問いかけた。電話の向こうの様子がおかしい。
『Yes...Hello?』
思わずカインは耳を疑った。
返ってきたのは明らかに男の声だった。番号を間違えるはずは無い。
「Who? Who are you?」
だが、聞き覚えのある声だった。カインはさらに問い掛けた。誰だ? お前・・・と。
『...Mr. ? その声はノエル・・・さん? Good morning. 』
「ノア・・・か? シェルダン捜査官、あんたが何故この電話に・・・?」
分かりきった質問だったが敢えて口にしなくては気が済まなかった。だが、電話の向こうのノアはやっぱりまだ寝惚けているのだろう。ろくに返事もせずに、恐らく隣で目を覚ましたであろうセシルに何事か説明している。
暫く待たされて、ようやくセシルの声が受話器から聞こえるようになった。
『De, na det er ett eller annet sted? 』
突然のノルウェー語にカインは思わず面喰った。まさか、セシルからノルウェー語が出てくるとは思わなかったからだ。
「あんた今何処? って・・・ロス」
ぼそっと呟くような小声はしっかりセシルの耳に届いていたらしい。また激しくノルウェー語で捲くし立てられる。
「だから、ちょっとロサンゼルスに野暮用があってな。すぐに戻るから」
『野暮用って何よ?』
「それより、何でお前の寝室の電話にノアが出るんだ?」
質問を質問で返され言葉に詰まったのはセシルのほうだった。しばしの沈黙の合間に、セシルは背後で再び横になっているノアを見た。眼が合うとノアは口許を緩めた。
ご満悦の表情だ。
セシルは再び壁に向き直った。口から出るのは再びノルウェー語だ。
「全部聞くわけ?」
『・・・喰っちまったな?』
「失礼ね。ワタシが喰われたのよ」
突然ノアが身体を起こし、その唇がセシルの首筋を這う。口を噤み、セシルはカインに勘付かれないよう受話器を少し離した。
「・・・ダメよ・・・」
制止の言葉など無意味だった。ノアは益々調子に乗ってセシルを攻める。
「・・・いい? 戻るときは必ず電話を頂戴。De forstatt? Som for dette Deres arbeid! 」
分かった? これはあんたの仕事よ!
最後には吐き捨てるように叫んでセシルは通話ボタンを切り、コードレスフォンをそのまま床の絨毯の上に落とした。
「さっきのは何語?」
皺になったシーツに再び身を沈めた2人は天井を眺めていた。ノアの唐突な質問にセシルは身体を起こしてノアの胸に頬を寄せる。見かけによらず身体はしっかり鍛えられているようだ。伊達にFBI捜査官を務めてはいない。
「ノルウェー語よ。・・・ノエルはノルウェーで育ったから」
「え? 彼はフランス系じゃないの?」
紹介されたときからノアはカインをフランス人だと思い込んでいた。
「確か・・・欧州の血が色々混ざっているのよ。明確なのは母方の祖母がフランス人で、祖父がドイツ人ということだけだわ」
「そうなんだ・・・。あれ? 幼馴染って言わなかった?」
人の話を良く覚えているとセシルは改めて感心してしまう。逆に迂闊な事を口に出来ない。
「そうよ。あと2人と・・・4人でノルウェーで育ったの」
両腕をノアの首に回し、セシルは頬に軽くキスをした。
「そんなことどうでも良いわ。今日はオフだからゆっくり出来るのよ」
「バートは?」
「休みの日は、朝から大学へ行って勉強しているわ。普段は忙しいから」
「なら、2人っきりだね」
「えぇ、2人っきりよ」
悪戯っぽく微笑み合いながら、2人は何度目かのキスを交わした。
電話ボックスから出てきたカインは思わず深い溜息をついた。
よりにもよって、FBI捜査官を落とすとはさすがのカインも予想だにしていなかった。ライとアイラ・・・特にライが聞いたら何と言うだろうか。とりわけセシルのことを気に入っているだけにショックは大きそうだ。
セシルのことだから多分深みに嵌って失敗するようなことは無いだろう。
(俺とは違う・・・)
乗り込んだタクシーの中でカインは少し昔を思い出した。
金の長い髪を風になびかせて歌うように響く言葉のひとつひとつを大切に聴いていた。
『彼女』はNYで生を受けた。両親はNY市警の警察官で12歳までに続けて両親が殉職し、たった1人の肉親だった兄は両親と同じ道を進んだ。
(そうだ・・・FBIだったはずだ)
FBI特別捜査官だった『彼女』の兄と直接の面識は無い。『彼女』は親戚を頼ってフランスに渡ったと話していた。兄の異常なまでの束縛から逃れるために。
(この街に、『彼女』の兄がいるのだろうか・・・?)
カインの視線は窓の外の流れ去る景色を彷徨う。
今更会いたいとは思わない。
『彼女』にも。
永遠に逢えないけれど。
東部と違って明るい青空を見せる西部は温暖だった。
車は高級住宅街のある一角を目指して走っていた。
広大な敷地の中に建つ白亜の邸。門の前でタクシーを降り、カインは警備員に声をかける。事前に連絡をしていたので、警備員はカインを敷地内へ案内してくれる。
奥へ進めば進むほど静かだった。かすかに揺れる木々の音と小鳥の囀りだけが聴こえる。
玄関の前に到着すると、今度は壮年の執事が丁寧な挨拶を述べた後邸の中へカインを招いた。
1階の奥の部屋にカインは通された。
年代物の調度品、飾り棚の中に陳列されたアンティークの食器類。
派手さは無いが、全てが一級品で揃えられた空間だった。
窓は全て開け放たれ、眼前には手入れの行き届いた広々とした庭があった。
白いクロスが掛けられたテーブルには優しい香りの薔薇が飾られ、マイセンのティーセットが並んでいる。
テーブルの脇に座っていた男の手が無造作にティーカップをソーサーに戻した。
食器のぶつかり合う音だけが部屋に響く。
「来たか?」
男は振り返ったようだが、高い背もたれのせいで顔は見えなかった。カインは少し近づく。男もゆっくり椅子を動かした。
「車椅子か、不便だな」
「そうでもない。慣れてしまえば意外に動き回れる」
にやっ、と笑う男の顔には深い皺が刻まれている。
「電話を貰ったときは驚いたが、こちらも呼ぶ手間が省けて助かったよ。カイン」
「意外に元気そうで何よりだな。・・・マイケル=シンディア」
カインの言葉にマイケルは声を出して笑う。
「78歳になったとはいえまだまだ若い者には負けん」
隣の椅子に座るようカインを促し、マイケルは執事に紅茶を交換するよう指示した。
「ブランチはどうだ?」
「紅茶だけで良い」
カインは湯気のたつ紅茶に口をつけた。セシルが良く飲むものに味が似ている。
「良く似た好みだな」
マイケルは2杯目の紅茶を飲み干しカップを戻した。執事が新しい紅茶を注いだのを見計らって下がるように言いつけた。
「それで? 俺に話と言うのは?」
断ってからカインは煙草に火を点ける。
「お前さんが話をするのが先だ、カイン。儂に何を訊きに来た?」
マイケルの眼に鋭い光が一瞬煌く。勘だけは相変わらず良いらしい。ヤなじぃさんだとカインは苦笑した。
「聴かなくても知っているんじゃないのか? あんたのことだ」
「・・・キャロルのことか?」
マイケルは小さく溜息をついた。
「わざわざアレを狙撃するような命知らずがいるとは、な」
「それも『キャロル』を狙っている」
カインの言葉にマイケルの眉が微かに動く。
「米国経済界のみならず、世界経済にも大きく影響を及ぼす財団の総帥を狙撃するのに2度とも未遂で終わっている。殺すよりも味方にしたほうが得な人物だ。と、いうことは・・・」
「純粋に『キャロル』が目障りな人間の仕業だと、お前は言いたいのだな?」
カインは首を縦に振った。
内ポケットからシガー・ケース取り出しマイケルの目の前に置く。
「?」
「火薬と起爆剤は抜いてある。ただのケースだ」
「・・・これが爆弾なのか?」
「極簡単なものだがな。あんたぐらいは吹き飛ばせる威力はある」
カインは口許を緩めた。マイケルの表情は変わらない。
「昨日NYのシンディア・ビルを出る際に、すれ違った男から掏ったものだ」
灰を灰皿に落とし、カインは再び煙草を深く吸った。その間にマイケルはテーブル脇のインターフォンを押し執事を呼んだ。
2分程で執事は1枚の写真を持って現れ、カインに手渡す。
「儂の誕生日パーティーの記念写真だ。親戚一同が集まっている」
言われるがままにカインはじっくり写真を覗き込んだ。随分大勢が写っているので人物ひとりひとりの顔を丹念に確認する。
中央の椅子に深く腰をかけている人物は、言わずもがな目の前にいるマイケルだ。長男夫妻とその娘たちが彼に寄り添うように座している。
「儂には子供がセオドアしかおらん。幼い頃から決して経営者向きの性格ではなかったので実質の後継者を血縁者から選ぶつもりだった。財団会議に必ず参加する親族は儂の2人の姉が嫁いだ先だ」
長姉マリーの嫁したバートン家には甥のスティーブと姪のマチルダ、マーガレットの兄妹。次姉サラの嫁ぎ先グリーン家には甥のジョナサンとルパート、姪のメアリーとアンナ。
「一番明晰であり、セオドアと歳が近いスティーブは最も後継者に相応しく思われたが、如何せんバートン家唯一の男子だ。養子に迎えるわけにいかなかった。グリーン家には2人男子が生まれたが・・・」
ジョナサンはマイケルが納得できる人物にはならなかった。どちらかと言われれば落ち零れの部類であり、何をさせてもイマイチだった。それに引き換え末子のルパートは幼少の頃から優秀さを発揮していた。
「儂は悩んだ。長男がアレではグリーン家でもルパートは必要だったろう。誰を後継者とすれば良いか、悩みながら結局はセオドアを教育していた」
セオドアが大学生になった頃、マイケルはふと、死んだ妹のことを思い出した。遠戚であり、家同士の付き合いも深かった親友のもとに嫁いだ妹。幼い頃から彼を愛し、彼もまたその愛に応え、歳の離れた妹と一緒になってくれた。
だが、彼は軍人だった。独立戦争の頃に遡る名門の家柄で優秀な男だった。
しかし、朝鮮戦争に出征した後消息を絶った。妹は2人の娘を育てながら残された財産で暮らしていたが、病に倒れこの世を去った。
マイケルは2人の姪テレサとパトリシアを引き取りわが子同然に育てていた。
「何の因果か・・・親友と妹のように、セオドアとパトリシアは惹かれ合っておった」
パトリシアは学生でありながら既に小説家として世間に知られる存在となっていた。芸術家同士気もあったのだろう。そんな2人をマイケルは婚約させた。
その頃、姉のテレサはシンディアの家を出て行った。
「セオドアが大学を卒業すると同時に2人を結婚させた。その2年後にブリジットが生まれ、我が家も後継者にやっと恵まれた。女であろうと素質があればそれで良いと思えるようになっていた。儂も歳をとった証拠だ・・・。だが、やはり神は儂に後継者を授けてはくれなかった」
ブリジットが興味を示したものは音楽にダンス、テレビのアニメ。祖父が何か話そうとすると部屋に逃げる始末だった。
「息子とそっくりでな・・・儂は半ば諦めていた。もう、後継者に相応しい者は誰もいない・・・と」
マイケルは遠い眼をした。眼前のカインを見てはいない。
「そんなとき、パトリシアからテレサの行方が分からなくなったと打ち明けられた」
邸を出て行ったテレサは仕事に就き、シンディアの援助も受けずひとりで暮らしていた。
シンディアの情報網でテレサを見つけたとき、彼女は既に死んだ後だった。
「・・・娼婦紛いのことをしていたそうだ。出産後、その赤ん坊をどこぞの孤児院に置き去りにして、な」
妊娠した頃パトリシアはテレサに父親のことを問い詰めたが、分かったことは行きずりの男とひと月程暮らしていたことだけだった。
マイケルはNYのスラム街にある教会の孤児院で3歳になっていた子供を探し出した。
「それが、セシルか・・・?」
カインの問いにマイケルは首を縦に振った。
「使用人があの子を儂の前に連れてきたとき・・・あの子の眼を見たとき儂はすぐに気づいた」
この子供こそ、後継者に相応しい、と。
マイケルはセオドアとパトリシアの養女として少女を引き取り、キャロライン=エリザベスの名を与え、キャロルと呼び片時も自分の傍から離さなかった。
思ったとおり、いや思った以上に、キャロルは賢く優秀な子供だった。マイケルの教えることを次々と吸収し時として家庭教師を唸らせるほどであった。
「よく親族から反対されなかったな」
「あったさ」
マイケルは溜息をついた。
「キャロルの出自を良く思わない連中も多くてな。儂は馬鹿な連中にキャロルが振り回されることだけは我慢ならなかった。それで、キャロルが6歳になったときに奴の申し出を受けた」
「奴・・・?」
カインは眉をひそめた。
「わかっているだろう? お前たちを育てたあの男だ」
財団総帥が暗殺者と知己でもおかしくは無い。
カインの胸にひとつの疑問が湧き上がる。
何故、あの男が同じ歳の子供を集めたのか?
カインが口を開こうとした瞬間、マイケルは再び話し始めた。
「キャロルを隠し、親族の目を欺くには絶好だった。だが、やはりキャロルが戻った後煩い連中はいた。しかし、今度はキャロル自身がその実力で周囲の人間を黙らせ従えてきたのだ。やはり、儂の眼に狂いはなかった」
カインは再び写真に視線を落とした。ひとりの男の顔に眼を留める。
華やかな一団の中でひとり暗い表情の男。覇気が無く、猫背で神経質そうなタイプ。
「儂のキャロルに仇なす者は容赦せん。それが誰であってもな。・・・これがお前さんを呼び出した理由だ。・・・で、儂に聴きたいことは?」
「もう済んだ」
カインは椅子から立ち上がった。
「あんたにだけは了承を貰わなければならなかった。だが、今返答は貰った。・・・構わないな?」
カインの遠回しの言葉をマイケルははっきりと理解し頷いた。
既に冷たくなった紅茶を飲み干しマイケルに背を向けたカインは急に振り返った。
「?」
「ひとつだけ質問をしていいか?」
「何だ? 改まって」
カインは一瞬躊躇したが、意を決して口を開いた。
「アイツは・・・アイツが俺と初めて出逢った時に自己紹介をした。今にしてみれば妙に礼儀正しく。その時名乗ったのが・・・」
「・・・セシル=ローズか?」
マイケルは躊躇うことなくその名を口にした。
「セシルは邸で『キャロライン=エリザベス』・・・『キャロル』と呼ばれていたと後に教えてくれた。それまでは、自ら『セシル=ローズ』と名乗っていた。誰が与えた名前なんだ?」
「・・・・・・」
しばしの沈黙の後マイケルは再び口を開いた。
「『セシル=ローズ』・・・。その名は儂の親友であり、妹婿・・・キャロルの実母テレサの父親の名だ」
その答えに、カインは眼を丸くした。
「テレサがキャロルを産み、孤児院に置き去りにする際、その産着に手紙が挟んであったそうだ」
孤児院の院長が嬰児を発見したのは夏の盛りだった。
薄い布に包まれ大声で泣いていた嬰児を抱き上げた院長は二つ折りにされた手紙に気づいた。
一枚の紙には、ただ一行だけ書かれていた。
Cecille-Rose=Rordway
カインが初めて逢った頃のセシルがその名を覚えているはずはない。
マイケルは彼女が旅立つ時に『キャロル』に言い聞かせたのだ。
お前は、今からセシル・ローズ=ロードウェイとして生きるのだ、と。
あれから20年近くが経った今、彼女は『キャロル』と『セシル』の2つの人生を歩んでいる。
「儂は死ぬまでに一度話してやるつもりだ。キャロルの祖父がどんな男であったか、祖母が何故あれほど強く惹かれたのかを・・・な」
老人の眼が光る。僅かな涙を浮かべて。