秘密を飾る者(下)
薄暗い部屋の中、軋むベッドの上で身を起こし、壁際のソファーに投げ出されていたシャツを手探りで取り上げた。
細い女の腕が延びて肩に触れる。
「もう~行くのぉ?」
媚びるように囁く声が甘い吐息とともに闇に広がる。
寝ぼけた様子の表情を向けたまま、女は再び眠りに囚われ落ちていった。
黙ったまま、身支度を整え、木の扉を押し開いた。
地下のため陽の光が差し込んでいるわけではないが、その人口の灯にカインは眼を細めた。
「やっと起きてきたな? 調整は終わってるぞ。カイン」
「眠ってねーよ。アイツが放してくれなかったんだ。良く『仕込』んであるな? ロッド」
カウンターの奥に回って、カインはテーブルの上に揃えられた銃を手に取った。
カインの愛銃・コルトパイソンと狙撃銃。
「だいぶ傷みも出ていたから直しておいた。バランスはどうだ?」
「・・・良さそうだ」
組み立て済みの狙撃銃を担ぎ、カインは構えた。
「数日前までロシアにいたからな。急に気温が変わったせいで調子が悪かったんだ」
「N.Y.も大概寒いぞ」
「非じゃないぜ、ロッド」
銃をバラしてアタッシュ・ケースに片付け、パイソンをホルダーに収めた。
少し前に淹れたコーヒーをロッドが差し出す。
「Thanks.」
少し冷めたコーヒーは飲み易かった。
「さて・・・」
飲み干したコーヒーカップをテーブルに戻し、カインはロッドを見据えた。
「本題に入ろうか?」
その言葉に頷き、ロッドはカウンター奥の小部屋にカインを誘った。
小部屋の灯りは裸電球ひとつだったが、カインの眼には十分だった。
机上には様々な部品が散らばっていたが、その真ん中に解体された物体が無残な姿を晒している。
「・・・当たったか?」
「カインの言うとおり、簡易的なものだったが、良く出来た小型爆弾だった。持って見ただけでよく気づいたと感心するよ」
ロッドはくすりと笑った。
見た目は小さなシガーケースのサイズ。表もよくある煙草の銘柄に偽装されていた。
だが、重さが違った。
「昔良くコノ手のものを作るのが巧かった奴がいてね」
今でこそ爆弾製造は本業にしていないが、1時間もあればこの程度の爆弾を作ることは造作も無い。
アイラならば。
「だが、こいつを作った奴は結構苦労しているな。解体すればすぐに分かる。何かの説明書でも読んで作った素人の作品だ」
「ロッド、あんたが言うのならば間違いないな」
カインは顔を上げてロッドを見た。
この赤毛のアメリカ人は、カインが南北のアメリカ大陸で仕事をする際に依頼する武器職人だった。
銃の製造から調整まで、その腕は超一流。依頼があればどんな爆弾も作ってしまう。
但し、自分の気に入った奴以外には死んでも商売をしないという妙なポリシーの持ち主だ。
「威力はどれぐらいだ?」
カインの質問にロッドは腕を組んだ。
「う~ん、この作りだと範囲は限られるが・・・この部屋を吹っ飛ばすぐらいは簡単に出来る」
「つまり、威しぐらいにはなる訳だ」
「こんな玩具をあんたみたいな人間がどこで拾ったんだ?」
ロッドほどの職人から見れば十分玩具に値する代物なのだろう。最初に見せたときなど鼻で笑っていたぐらいだ。カインのように銃で仕事をする人間が爆弾を仕込むことは殆ど無い。ましてや玩具を。
彼にしてみれば、カインが持ち込んだこと自体が不可思議なのだ。
「とあるビルのロビーで、ちょと気になったものだから擦れ違い様に・・・な」
カインは右手の人差し指を鉤手のようにクイクイッと曲げて見せた。
「スリの腕前も一流ってわけだ」
呆れたようにロッドが笑った。
「じゃ、報酬はいつもの口座に振り込むよう手配しておいたから」
「なんだ、もう帰るのか? メシでも食っていけよ」
「・・・急に用が出来た」
「用?」
ロッドは首を捻った。
カインの荷物は狙撃銃を収めたアタッシュケースしかない。
「あぁ、急遽飛ばなけりゃならん・・・」
「飛ぶって・・・」
ロッドの言葉と同時に扉が開き、2人の視線が飛び込んできた影に注がれる。
「やだぁ、帰っちゃうのぉ? まだダメェ~」
「リリー」
女はカインの首に両腕を絡めキスをしようとした。が、カインはその腕を勢い良く振り払った。
よろめいたリリーの肢体をロッドは慣れた手つきで受け止める。
「たいした玉だ。他の男なら一度寝たら病みつきになっちまうだろうがな。随分丹精してるじゃないか、ロッド」
「俺の妹を娼婦みたいに言うな、カイン」
「事実だろう? ロッド、あんたが毎晩仕込んだ商品には違いない。この店の客の目的はお前半分、女半分・・・だ」
コートを羽織りケースを左手に持ちカインは2人に背を向けた。
「じゃあな」
「またな・・・」
片手を挙げて去っていく男の後姿を見送りながら、ロッドは今日何度目かの溜息をついた。
口の悪いところは相変わらずだが、事実リリーに堕ちなかった男はカインぐらいだ。
「ねぇ、兄さん? 彼は今度いつ来るのぉ?」
甘えた口調で身体を摺り寄せ、腕を首に絡ませ唇を寄せてくる妹の身体を抱き、口を吸った。
「・・・さぁな」
ロッドは気の無い返事をしただけだった。
「・・・と言うわけで、2人の紹介はこの辺りにして、本題に入らせていただきますわ」
会議室の中央に座したセシル、いや、キャロルは正面スクリーンに映し出される様々な統計やグラフと手元の資料に視線を巡らしながら会議を進めていた。
複合企業でもあるシンディア財団の主な業種はホテル・クラブ・レストランを中心とし、ファッションから出版・音楽業界等幅広い。
「・・・レストラン部門については、引き続きスティーブ叔父様とマチルダ叔母様、マーガレット叔母様方バートン家にお任せします。収益も好調。人気も好調。言うことございませんわ。後、先月オープンしたアンナ伯母様とメアリー伯母様プロデュースのブランドですけど?」
キャロルの言葉に併せるように、スクリーンの画面が代わる。
「流石ですわ。メアリー伯母様のファッションセンス、店舗プロデュース、アンナ伯母様の広報宣伝力。この調子でお願いします」
この言葉にずっと年上の親族は力強く頷く。
ふと、キャロルの視線がひとりの男に向けられる。
「如何致しました? ジョナサン伯父様?」
全員の視線がジョナサンに向く。
視線に気づいたジョナサンは落ち着かない様子でおろおろしている。
「いや・・・ちょっと・・・」
キャロルは溜息をついた。
「休憩しましょう。時間も18時半を回っているわ。バート、軽食の準備を」
腰を上げたキャロルは隣室へ引き上げた。
各々リラックスした表情で息をつく。
年若いとはいえ現総帥との会議は緊張の連続なのだろう。
運ばれたコーヒーを口に運び、他愛もないお喋りに笑い合う従姉妹同士。給仕に回るバートをノアとアンも手伝う。
「何をそんなに探しているんです? 兄さん」
「いや・・・確かにここに入れたんだが・・・」
「どうした、ルパート?」
コーヒーを片手に近づいてきたスティーブにルパートは振り返った。
40歳過ぎのスティーブと、35歳前のルパートは従兄弟とは言え実の兄弟のように親しい間柄だった。
「兄さんが・・・」
困った表情を浮かべ、ルパートはジョナサンを見た。
「何を探しているんだ? ジョナサン」
年下の従弟に上から覗き込むように見られたジョナサンは慌てて身を屈めた。
「た・・・煙草を探して・・・」
「何だ。じゃ、これやるよ。俺吸わないから」
懐から出した箱をジョナサンに向かって投げ与えたスティーブは興味を失ったように今度は姉妹に向かって話しかけた。
その後姿を軽く睨んでジョナサンは背を向けた。
「何処へ行くんだ? 兄さん」
「トイレだ! いちいち聞くな!!」
苛立ちを隠そうともせず、ジョナサンは大声で叫んで部屋から出て行った。
「・・・どうしたの? あの子は?」
長姉のメアリーは驚いた表情でルパートに訊ねるが、当のルパートも原因は図りかねていたのだ。
「さぁ。ビルに来たときからあの調子で・・・。まぁ、ジョナサンにとって今日は楽しいはずないですからね」
メアリーの隣でアンナも同感とばかりに首を縦に振った。
そんな親戚の様子をガラス越しに眺めていたセシルに、コーヒーを差し出したバートが耳打ちした。
「・・・なんですって?」
「はい。カインさんから2~3日留守をするから、ビルからは出るな、とのことです」
「勝手に仕事放り出して何処行ったの? アイツ!?」
「訊く間もなく電話を切られたものですから・・・。ただ、電話の向こうから聴こえた音を察するに空港にいらっしゃった様子です」
次にセシルの口から出る言葉を予想してバートは思わず身構えた。
防音性に優れた部屋だから、外に聞こえる心配は無い。
案の定セシルの口が大きく開かれた瞬間、隣室のドアがノックと共に開いた。
「失礼」
現れたのはノアだった。
会議室でアン=ハザウェイとともに給仕役を務めていた彼がサンドウィッチを載せた皿をセシルの前に置いた。
「少し食べたほうがいいでしょう? 昼食もロクに摂らなかったみたいだからね」
一日キャロルと行動を共にしていて気づいていたらしい。
彼女はバートが気づかなければ、太陽が出ている間食事を口にしないことが多い。
黙って立っていれば、若き有能弁護士に見えなくも無いノアだが、笑うと年齢よりぐっと若く見えてしまう。
FBIの仕事をしていて、その童顔が不利になることはないのだろうか?
ノアの、屈託の無い笑みが浮かぶ横顔を見て、バートはふと、そんなことを考えた。
セシルと談話していたノアが急にバートに振り向いた。
思わずバートは「えっ?」と声を上げてしまい、慌てて口を手で押さえた。
「・・・何か?」
軽く咳払いをして、バートは改めてノアに向き直る。
ノアはバートの様子を気にも留めず、ガラス越しの隣室を軽く指差した。
「えーっと・・・ミスター・ジョナサン=グリーン・・・だったかな? 彼の様子が少しおかしいよ」
「?」
「どこか具合でも悪そうだったから」
つまり、体調不良のキャロルの親戚を気遣っているのだ。
なるほど、切れ者のFBI捜査官のようだが、少し言葉が足りないらしい。
ようやく彼の言葉の意味を理解したバートは「様子を見てきます」と言い置いて部屋から出た。
ガラス越しに、ノアと親しげに笑うセシルの姿をバートは肩越しに見つめた。
本当の彼女の姿を知っている自分は、彼女の特別になったつもりでいた。
いや、特別なのかもしれない。だが、意味の違う特別。
カインの言葉を思い出して、バートは頭を振った。
セシルに仕えることこそ、セシルへの恩返し。
スラムの街角で、道端で、死ぬはずだった自分を拾ってくれた女神。
差し出された白い手は汚れることも構わずに、この浅黒い腕をとった。
服が汚れることも構わずに怯えて震える身体を抱き締めた。
彼女のためだったら、この手が穢れることも厭わない。
その決心が、バートを常に支えた。
今、彼女が手に入れようと欲しているものがあるならば、そのための努力を惜しむまい。
そして、彼女に仇名す者を決して野放しになどしない。
「お加減は如何ですか? Mr. グリーン?」
背後から掛けられた声と、鏡越しに眼が合ったバートに驚いて、ジョナサン=グリーンは泡を食ったように目を見開き振り返った。
ジョナサンの口から何かしらの言葉が漏れたが、バートは聞き取ることが出来なかった。
「医師を呼びましょうか?」
「け・・・結構だ。探し物をしていただけだ」
身を屈め、目だけキョロキョロと辺りを窺うようにジョナサンはバートに背を向け戻っていった。
喩えれば、それはまるで鼠のような動きで。
「・・・あんな顔だったかな?」
「・・・どうした? バート」
バートの呟きを聞きつけて、ノアがこっそりと聞き返した。
慌てて「いえ、なんでもないです」と、バートは笑って見せた。そのとき、キャロルの咳払いにバートは我に返った。
笑っている場合ではなかった。
休憩を挟んだ会議の後半は、前半とは比べ物にならないほど空気が張り詰めていた。
淡々と報告書を読み上げるキャロルの声は感情の欠片も無く、ずっと年上であるはずの親族たちは、固い表情で次々と目の前で入れ替わるスライドのデータを見つめている。
中でも、先程から具合の悪そうな様子だったジョナサン=グリーンの顔色は真っ蒼だった。
「以上がこの1ヵ月の間の経営状況ですわね、ジョナサン伯父様?」
「あ、あぁ・・・」
セシルの視線に彼は身を竦める。別に睨まれたわけではない。だが、彼女の双眸は伯父を威圧していた。
「先月お約束いたしましたわね? この1ヵ月で少しでも収益を上げることを。しかし、結果はご覧の通りですわね。全く持って改善されていない。それどころかさらに悪化しているのはどういうことですの?」
矢継ぎ早に出てくるセシルの言葉にジョナサンは口を挟む余地も無かった。
「もうこれ以上放置は許されませんわ。シンディアの名にかけて。」
「キャ、キャロル!」
経営能力の希薄な伯父を遮り、キャロルはバートに向かって「配って」と一言指示した。
他の経営者たちの前に、一冊のレポートが配られる。
内容は、ジョナサン=グリーンが経営者となっている米国西部のホテルリストと、経営建て直しプランである。
「ジョナサン伯父様の名誉は尊重致しますわ。経営者に伯父様の名は残します。ですが、直接の経営はルパート伯父様にお願いします。」
キャロルは一番若い伯父に向かってにっこり微笑んだ。
「東部ホテル部門の経営だけでもお忙しいのに申し訳ございません。でも、伯父様の力をお借りしたいのです」
「私は構わない。むしろ、私の役目だろう。それに、シンディアから優秀なスタッフを派遣して貰えるんだね」
ルパートは力強く頷いた。
会議の行方は最初から決まっていた。キャロルは事前にルパートと協議を行い今後の経営方針を確定していたのだ。
「もちろんです。選りすぐりのエキスパートを遣わします。・・・これで会議は以上です。皆様、お疲れ様でした」
「ま、待ってくれ!」
腰を上げ退出しようとしたセシルに向かってジョナサンは声を荒げた。
「1ヵ月! もう1ヵ月待ってくれ! 必ず、今度こそ必ず・・・」
ルパートやスティーブが「やめないか、ジョナサン」と制止するのを彼は振り解こうともがいた。
「ジョナサン伯父様」
背を向けたままキャロルは呼びかけた。
少し振り向いたその表情に、無関係のルパートとスティーブも息を呑んだ。
「仕事は、遊びではございませんことよ?」
嘲笑を滲ませた口許、氷のような冷たい視線に射抜かれたジョナサンは、ただ、立ち尽くすしかなかった。
ペントハウスに戻ったセシルはソファーに腰を下ろすことも無く、デスクの椅子にかけ、パソコンのキーボードを叩き始めた。
「それでは、我々は一度NY支局へ報告を出してきます。ノアは戻ってきますので」
「ご苦労様でした、アン」
コート姿のアン=ハザウェイをちらっと見てセシルは手を振った。
キッチンにいるバートに一声掛けて、アンは先にビルの外へ出て行ったノアを追った。
エレベーターがきちんと下りていったことを確認してから、バートはセシルのデスクに紅茶を運んだ。
「お疲れ様でした。今日も大変な会議でしたね」
「ま、でも当分は凌げるでしょ」
ストレートのアールグレイを一口のみ、セシルは一息吐いた。
会議の後の紅茶は、セシルにとってのストレス発散法だった。
「あの後、カインから連絡あった?」
「いえ、まだ何も」
「何処行ったのかしら? アイツ。ライじゃないから女のところ、という線はないわね」
いつの間にか推理ゲームになってしまったカインの行方だが、女性関係をいきなり否定されるのは男としてどうなんだろうか。
バートは思わず吹き出しセシルに睨まれた。
「・・・すみません」
軽く謝罪したバートにセシルはフロッピーディスクを差し出した。
「遅くまで悪いけど、至急派遣スタッフの選出をお願い。明後日にはルパート伯父様のオフィスへ向かわせて」
「Yes, Lady」
ディスクを受け取ったバートはエレベーターへ向かった。
人事資料は下層階の別のオフィスに保存されている。既に夜の10時をまわっていたがそんなことはお構いなしだ。
2~3時間は戻ってこないだろう。
セシルは腰を上げ、階段を上がった。
2階のリビング、と言っても特に仕切りも無く、ソファーとテーブル、チェストと飾り棚、観葉植物が置かれた至ってシンプルなスペースだ。
ソファーに座る事も無く、セシルはガラス窓を開く。
勿論、高層ビルの最上階だ。地上では心地良い夜風も、ペントハウスのベランダでは冷たすぎる強風に変わってしまう。
コートを羽織りセシルはベンチに座った。
夜空に星は無く、月だけが輝いていた。
会議の後はいつもこうだ。
必要以上に冷徹に、感情を排除し、突き放す。倍も年上の親族を纏め、財団を運営する方法をセシルは『キャロル』として祖父・マイケル=シンディアから叩き込まれた。
帝王学と殺人術。
特異過ぎる2つの才能。そのために、失ったもの、諦めたものは数知れない。
「・・・やな感じ」
セシルは思わず呟いた。
「何もかも放り出して何処かへ消えてしまいたい」
若さ故に侮られ、その出自により蔑まれ、その地位のために多くの人間の嫉妬と羨望の眼差しに晒され、『シンディア』の血縁者たちから疎まれる。
『キャロル』さえ、いなければ、『シンディア』を手中に収めることが出来るのに。
愚かな野望を抱く、愚かな親戚。
いつからだろう。時々『キャロル』の顔に、『セシル』の感情が顔を出す。
そんな自分が堪らなく嫌になる。
分別をつけられない、未熟な自分を。
「・・・誰か・・・」
助けて。
喉の奥で、その言葉は儚く消える。
声にしてしまうことをセシルは堪えた。無意識に。
脳裏に3人の顔が浮かぶ。
こんなとき、ライは真っ先に駆けつけ、隣に座って静かに肩を抱き寄せてくれるだろう。
アイラは正面に腰を据えて一通り話を聴いた後、『くだらない』と一言でこんな悩みを吹き飛ばしてくれるに違いない。
離れた、そう、窓脇のアーム・チェアに座り、肘をつき格好つけるように足を組んで、ただ黙って話を聴き、何も言わないのがカイン。最後に一言、参考にもならないけれど慰めにはなる言葉をくれる。
さらに小さく、寒さではなく、心の寂しさから身を屈めた。
「風邪をひきますよ」
背後から大振りのマフラーを掛けられ、セシルは小さく振り返った。
支局から戻ってきたノアが微笑みながら立っている。
すぐ背後に。
「ノア」
彼に気づけなかった自分にセシルは驚いた。バートでさえも近づけばすぐに気づくのに。
「こんな寒いところ良く平気ですね」
うわー、やっぱり高いなーココ、とわざわざ背伸びをして周囲を見渡そうとする子供のようなノアにセシルは思わず声を上げて笑った。
セシルの様子にノアは嬉しそうに振り返る。
「やっと笑った」
「え?」
「会議が始まる前からずっと『ココ』に皺が寄っていたよ」
ノアは笑ったまま自分の眉間に人差し指を当てる。
「終わってからもずっとね」
「そう・・・だった?」
思わぬ指摘にセシルは上目遣いでノアを見つめ返した。今まで面と向かってそんなことを言う人物は、『彼ら』以外には初めてだった。
「綺麗な笑顔なんだから勿体無い」
「?」
ノアはセシルの右手を取りベンチから腰を上げさせる。何が起きているのか理解できないままセシルはノアに従う。
「君は笑ったほうが可愛いよ、キャロル」
セシルの右手にノアはそっと唇を寄せる。伏せられた瞼がゆっくり開く。
絡み合う視線に惹かれるようにセシルはノアと唇を重ね合う。
僅かに濡れた唇から洩れる吐息はただ熱く、セシルは互いの体温を重ねるように掻き抱くノアの両腕にその身を委ねる。
セシルの心の何処かで罪悪感に似た何かが小さく芽吹いた。
まるで禁断の果実に触れたイブのように。