悪夢の散弾(下)
バート=ハービッシュはため息をついた。
キャロル=シンディアの仕事は財団運営に限ったことではない。彼女は様々な分野で幅広い才能を見せていた。
映画評論もそのひとつだ。
もともと映画制作会社をもっていたシンディア財団はこと芸術方面への出資にはかなりの金額を投資していた。
現・名誉会長マイケル=シンディアがヨーロッパ事業を担っていた頃、ある劇団にかなりの支援をしていたことは有名だった。また、その息子・セオドア=シンディアは芸術家肌で経営には見向きもしなかった。大学も最初は経済を専攻していたが、卒業後仕事の傍ら美大へ入り直し、その後は財団運営と画家の仕事、二足の草鞋を履く生活送っている。その妻パトリシア=シンディアは作家であり、キャロルの姉ブリジット=シンディアは舞台女優になった。
キャロルは母の雑誌対談に同行した折、映画の会話になり、彼女は自身が注目していた映画の話をした。その後、その映画がヒットを飛ばし、キャロルが話題にする映画は尽く当たった。
いつの間にかキャロルは映画評論家としても名を馳せてしまっていた。
試写会があれば常に招待がある。もちろん全てに応じることは無い。スケジュールの都合上限られてくるからだ。それでも、キャロルが現れると知ればマスコミも放置しておかない。
こうしてキャロルの周囲は常に賑やかになる。
出演者や監督・関係者が絶えずキャロルの元を訪れ、挨拶を交わしてゆく。
「まるで『女王陛下の謁見の間』だな」
聞き覚えのある声に壁の花と化していたバートは思わず顔を上げた。
「貴方は・・・」
金髪をかきあげ、男は笑った。
「Mr.パーシー・・・」
「エドで良いよ」
いつかの大統領夫人主催のパーティーを取材に来ていたジャーナリストだった。背が高く、がっしりとした体躯はジャーナリストというよりは軍人のほうが似合いそうな雰囲気だ。
「取材ですか」
「まぁね。でも、Ms.シンディアはインタビューには絶対応じないだろう? ブン屋仲間の間じゃ常識だ。だから君に声をかけた」
「僕が応じるとでも?」
バートは冷ややかに一瞥した。
エドは笑顔のままだ。嫌味がない。
別の出逢い方をしていれば友人になれたかもしれない。
「残念ながら僕もインタビューは苦手です。今日のコメントも広報部を通じて発表されますのでお待ちになればいい」
著名人に囲まれて談笑するセシルの笑みにバートは微笑んだ。
今日を乗り切れば、暫くはキャロルとして社交界に出る必要はない。
余計な危険や危惧は起きないだろう。
「シンディアのコメントに興味はない」
「は?」
意外な言葉にバートはエドの顔を見上げた。
ジャーナリストの台詞ではない。
「バートって、本名は何て言うの?」
「はい?」
突然話が変わった。しかも、バートの本名を尋ねている。
バートは展開の早さについていけなかった。
「バートって愛称だろう? 正式にはロバート? アルバート? バートネット?」
「・・・バーソロミューです。バーソロミュー=エリオット=ハービッシュ」
「へぇ、キリスト教12使徒と同じ名前か」
エドは嬉しそうに笑った。
「12使徒のバルトロマイが由来だろう?」
驚いたのはバートのほうだった。12使徒の1人と同じ名前だなどと殆ど気づかれることはない。むしろ、長すぎる名前が鬱陶しいから愛称を用いているのだ。
今やバートの本名を知っている人間のほうが少ない。
呆然とエドの顔を見上げたままのバートに彼は苦笑した。
「敬虔なクリスチャンなのかい?」
「貴方こそどうなんです。そんな言葉がさらっと出る人はそう多くありませんよ」
「俺は無神論者だ。ジャーナリストに必要なものは現実であって天国じゃない。宗教は俺にとって学問的興味に他ならない」
「なるほど」
バートはエドの言葉に妙に納得した。先日会ったときよりも、その馴れ馴れしい口調は特に気にならなかった。
「僕も神様の存在を信じてなどいません。信じているのは己の運命だけです」
「同感だ」
エドはバートの肩越しに腕を伸ばし、壁に手をついた。
蒼い双眸にバートを映す。
バートはその双眸を無言のまま見つめ返した。
・・・やはり、似ている。
エドモンド=パーシーに初めて声をかけられたとき、何処かで見た顔だと思った。
間近で見るその容貌は似ても似つかないが、その身に、表情に、纏う雰囲気はそのものだった。
母と、母に酷似していた自分を捨てた父。
父に似た兄だけを連れて出て行った男。
決して生涯許すことなど出来ない人間。
生まれて初めて憎しみを覚えた男。
偽りと裏切りでその身を飾った男と同じ。
「バート」
透き通るような女性の声にバートは我に返った。
エドが姿勢を正した。
「お帰りになられますか?」
「えぇ、ご挨拶も済んだし。明日朝一番で会議だったわね」
「そうです」
バートの顔は、もう有能な秘書の表情に戻っている。流石だとエドは思わず感心する。
「お楽しみのところごめんなさいね、えぇっとMr.・・・」
「パーシーです。お目にかかれて光栄です、Ms.シンディア」
パーシーが差し出した右手をセシルはゆっくり握り返した。
「バートにもちゃんとお友達がいたのね、安心したわ」
「友人なんかではありません!」
バートは思わず声高に否定した。
「あら? じゃ、まさかこ・・・」
「だと、良いんですけれどね」
エドが笑顔で答えた。
冗談はやめてください! とバートが2人に叫ぶが聞き入られるはずも無い。
わかっているのだ。セシルはただからかっているだけに過ぎないことを。
「いい加減にしてください! 車を回してきます!」
真っ赤になりながら、バートは駆け足で2人に背を向けた。
「可愛いなぁ」
エドはくすっと笑った。
「貴方、確か記者の方ね」
セシルの声がワントーン下がった。エドは横目でセシルを見る。
「フリーですけどね」
「そう。何処かでお会いしているかしら?」
「・・・せいぜい記者会見場だと思いますが?」
「そうかしら? 何処かで会っていると思うんだけど・・・。気のせいのようね。失礼するわ、Mr.パーシー」
セシルはエドに背を向けたがすぐに振り返った。
「何か?」
「・・・いえ、御機嫌よう」
「お気をつけて」
再び背を向けたセシルをエドは見送った。
口許に笑みを浮かべて。
表に出たセシルは赤絨毯の上で談笑する知人たちと言葉を交わしながら周辺を窺った。
大統領夫人が狙撃された日もこんな夜だった。
あれから目立った動きは無い。
自分の推理が外れた、とまでは思わない。
恐らく相手も機を伺っているだけに過ぎない。
「レディ」
車の準備を終え、バートが手を振りながら戻ってきた。
「バート、寒いんだからコートを着なさいと言っているでしょう?」
白い息を吐きながらセシルはバートを叱った。
「大して寒くはないですよ。レディこそ、風邪をひかないようにしてください」
「はいはい」
バートがクロークから受け取ってきたコートを羽織りながら、視線を周囲にやった。
ざわっと鳥肌が立った。
「・・・何?」
寒さのせいではない。
何かを感じたのだ。以前にも感じたもの。
(殺気・・・)
はっきりと視線を感じる。
「バート!!」
セシルは振り返って叫んだ。
右手を伸ばす。
「え?・・・」
バートが驚いたように小さな声を発した瞬間。
バァァ―――ン!!
一発の銃声が轟いた。
「キャァァー!!」
「バートっ!」
傍にいた若い女優が悲鳴を上げた。
その女優を押し退ける様にエドが飛び出した。
バートの身体は吹き飛ばされたように仰向けに倒れていた。
銃弾が彼の左肩を裂き、鮮血が迸る。
「バート! しっかりしなさい! 誰か! 救急車を!! 早く!!」
バートの傷口をシルクのハンカチで縛り、セシルはドレスが汚れるのも構わず抱きかかえた。
「バート! 眼を開けなさい!!」
「・・・だ、大丈夫・・です。掠った程度・・・」
痛みが酷いのか、時折バートは苦痛に顔を歪める。
「今、救急車を呼びました。すぐに来るはずだ」
「Mr.パーシー」
セシルが顔を上げた先には蒼褪めた表情でバートの様子を伺うエドの姿があった。
その両手が小刻みに震えていることに気づいた。
無理も無い。一般人ならば当たり前の反応だ。
麻痺してしまっているのは自分の神経。
「・・・大丈夫?」
「え?」
セシルの言葉が理解できず、エドは狼狽している。
「貴方よ。酷く顔色が悪いわ。血が苦手?」
「え・・・えぇ、まぁ」
エドは眼を逸らした。
セシルの射抜くような視線を堪えるように口唇を噛み締めている。
「貴方がそんなに心配してくれていることを知ったら、バートはもっと仲良くしてくれるわよ」
「は?」
セシルが口許を緩めた。
適切な応急処置が功を奏し、彼の肩からの出血は先程より、僅かだが収まっているようだった。
これならばもう心配は要らない。
まだ、時折バートは傷口の痛みに小さく喘いだ。
ようやく救急車のサイレンが聞こえて来る。
3人の救命士が救急車から飛び降りてきて、バートと彼を抱えるセシルを取り囲んだ。
「状態は?」
「左肩を銃で撃たれたわ。止血を試みたけど・・・」
「あぁ、これならば大丈夫。応急処置が早かったお陰でもう血が止まりかけている。ストレッチャー!!」
バートの容態を見ていた黒人の壮年の救命士の声に、若い男女の救命士がストレッチャーを運んできた。
手早くバートを乗せ、救急車へ収容する。
バートの意識はほとんど無かった。
「ここから近い病院は・・・」
「ブルーニー総合病院へ搬送して頂戴。」
セシルは救命士に向かって叫んだ。
「シンディアの経営病院よ! 知ってるでしょ!!」
「え、えぇ・・・。しかし・・・」
「彼はシンディア財団の関係者だ。彼女・・・シンディア総帥の指示通りに」
エドが小声で救命士に耳打ちした。
彼は驚いたようにセシルを見た。
一般人には雲の上の人物だ。名前ぐらいは知っていても、顔までは熟知していない。
「で、ではレディ、貴女も・・・」
「私は結構よ。病院へ到着したら誰でもいいわ、状態を私のオフィスへ知らせるよう伝えて」
睨まれたわけではなかった。しかし、救命士は思わず後ずさった。
声にではない。
セシルの双眸は怒りに満ちていた。
およそ、財団令嬢には相応しくない。
その両腕、ドレスをバートの血で染め、その頬も血で汚れている。
けれども、その姿は荘厳でさえあった。
例えようのない美しさ。
だが、その場にいるもの全てが知るはずも無かった。
その美しさこそが、『血の女神』の真の美しさだということに。
「Yes, Lady.」
救命士はただ、"Yes."と答えるしかなかった。
サイレンを再びけたたましく鳴らしながら救急車が会場から去っていった。
我に返ったマスコミがこぞってセシルの周囲に群がる。それを遮るように会場SPが立ち塞がり、記者たちと怒鳴り合う。
これらの騒音がまるで耳に入らないかのように、セシルはただ立ち尽くしていた。
いつの間にか落としていたコートを誰かが羽織らせた。
「Mr.パーシー?」
「貴女は付き添わないのですか」
エドの問いにくすっとセシルが笑った。
思いがけない反応にエドは眼を丸くする。
「私が行ってどうなると? あの子は大人よ。病院は財団が運営しているわ。私が傍にいても邪魔になるだけ。騒ぎが大きくなってあの子が心配するだけよ。それ以上に、私には『仕事』があるわ」
突き放すような冷たい言葉。
セシルはエドを一瞥すると運転手が開いたドアへ身を滑らした。
車はただ静かに去っていった。
入れ違うように警察のパトカーが数台乗り込んでくる。
十数名の警官が出てきて招待客やマスコミを現場から遠ざけようとして混乱を招いた。
その頃にはエドモンド=パーシーも既に姿を消していた。
「被害者は既に病院へ搬送されたそうです」
若い警官が私服刑事に向かって叫んだ。
「被害者は?」
「バート=ハービッシュ、20歳。シンディア財団総帥キャロライン=エリザベス=シンディアの秘書です。搬送先の病院は・・・ブルーニー総合病院」
「ブルーニー・・・シンディア財団の病院か。厄介だな」
刑事の言葉に警官は不思議そうな表情を浮かべた。
「つい先日大統領夫人の暗殺未遂事件があっただろう」
「ありましたね」
警官も新聞で事件のことを知っている程度の知識だがまだ記憶に新しかった。
「そのときに夫人の傍にいて夫人を守ったのがMs.シンディアだ。結局暗殺は失敗だったが何処からも犯行声明は無く、その後似たような事件も無い」
「そうでしたね」
「だから、FBIでは大統領夫人暗殺未遂ではなく、別の目的があって行われたのではないか、と見ていると言う話だ」
「別の目的・・・」
警官は刑事の言葉の意味に思い当たり、思わず彼の顔を見た。
「そうだ。連中の目的は財団総帥・キャロル・・・キャロライン=エリザベス=シンディア。そう考えれば、今回その秘書が撃たれことも合点がいく。まぁ、自分の上司を庇っての結果だろうが」
「財団総帥暗殺未遂事件・・・。2つの事件には関連性がある、ということですね。いや、連続殺人未遂事件と言うべきですね」
「我々の出る幕ではない。ここからはFBIの管轄だ」
刑事は現場を調べる警官たちの群れを見ながら呟いた。
思わず手を擦り合せる。
寒い、夜だった。
セシルは小さく安堵の吐息を漏らした。
「そう、バートは大丈夫ですのね」
『肩を軽く掠った程度でしたので心配は要りません。それに応急処置も適切でした。もう、意識も回復していますし、退院できますよ』
「わかりました、Dr.。でも、バートには決して無理をするなと伝えてください。・・・えぇ、では」
受話器を置き、セシルは深いため息をついた。
既に時間は昼を回っていた。バートが怪我を負ってから半日、彼女は一睡もしていなかった。
朝の会議にも、仕事にも、視察にも全てスケジュール通りにこなした。
周囲がなんと思っていようとも、バートが整えたスケジュールを駄目にしたくは無かった。キャンセルしてしまえばまたバートに余分な仕事をさせてしまう。それだけは避けたかった。
幸い彼は2~3日もすれば退院してくる様子だ。
それまでに全ての仕事を片付ける。そのつもりで彼女は猛烈なスピードで業務をこなしていた。
今も昼食のサンドイッチを口に放り込みながら書類の束に眼を通している。本当は食欲なぞ無かったが、食べずにいればまたバートに叱られる。
いつの間にか、バートが傍にいることが当たり前になっていた。
(秘書というよりも、口うるさい弟といったところね)
ふと、カインたちの顔が脳裏を過ぎった。
もし、彼らだったら・・・私の立場だったらどうするかしら?
それは、恐ろしい想像とも言えた。
ライにしても、アイラにしても、自分以上に自分の周りを攻撃されればすぐさま打って出るだろう。
そして、誰よりも激しく攻撃し返すのがカインだ。
「マスター・・・」
セシルの口から不意に出た言葉。
いつからだろう。カインがあの男に似てきたのは。
姿だけではない。孤独な背中を向けて、銃を握る姿はあの男に重なる。
「そうだわ・・・そうよ。『私』が、このキャロル=シンディア総帥が狙われたのよ。あの男に狙われた獲物たちと同じように」
セシルの口許に笑みが浮かぶ。
「何処の誰だか知らないけど、この『私』を敵に回したことを後悔させてやる。この『セシル・ローズ=ロードウェイ』を・・・」
ゆっくり立ち上がり、セシルは受話器を掴んだ。
コール音が電話の向こうで鳴り響く。
セシルは苛々しながら『Allo』の声を待ったが誰も出ない。
「・・・ちょっと、時差があったにしても今夕方でしょ! 何で出ないのよ!!」
留守番電話にすら替わらない電話を叩き切り、再度別の電話番号をコールする。
ホテルのフロント係にルームナンバーを伝え繋いでもらう。待つこと3分。
『お客様は只今ご不在です』
「そう、Merce.」
一言礼を言って受話器を再び戻した。
言葉とは裏腹に、彼女の表情はかなり険しい。
「何で誰もいないのよー!! カインもライもアイラも何処に行った・・・」
叫びかけてセシルはふっと思い出した。
もし、彼らの不在が『仕事』ならば誰よりも行き先を知っている人間が唯一存在する。
三度セシルは国際電話をかけた。
相手は3コールですぐに出た。
「Z、今すぐ答えなさい!!」
その声には拒否を許さない圧倒的な強さが存在し、Zに有無を言わせなかった。
『藪から棒になんだよ。お前に叱られるようなことをした覚えは無いぞ』
Zのうろたえる様子が目に見えるようだった。
「3人に連絡を取りたいのよ。何処へ行ったか知ってるでしょ」
『3人?』
「アイラとライとカインよ! 他の誰をあんたに訊くって言うの!!」
セシルの剣幕に圧されるように、Zがおずおずと答え始めた。
『・・・誰もパリにはいねぇよ、今』
「仕事?」
『あぁ。アイラは中近東に出掛けてる。ライは北アフリカ。カインはロシア。皆『仕事』で先週からいない。『仕事』の後は何処へ行くかわからないよ。俺もそこまで把握できないし。いつ頃戻るとか、定期連絡が入るだけだ』
「一番早く帰ってくるのは?」
『・・・えぇ、と』
Zが何かを叩く音が聞こえる。恐らく、スケジュールを管理しているパソコンのキーだろう。
『1週間後には戻ってくる予定だな。カインは寄り道せずに戻ってくる方だから。まだ『仕事』を終えたとも、失敗したとも連絡入ってないから予定通りだと思うけど?』
「なら、それより早く戻ってくることも有り得る訳ね」
『まぁ、そうだが。・・・どうかしたのか? 緊急の用事?』
「緊急・・・と言えば緊急ね。カインが帰ったら連絡くれない?」
『ごめん、無理』
Zの即答が返ってきた。
『明後日から学校の出張で俺スイスに出掛けるから。2週間ほど戻らない予定』
「何ですって!?」
『一応、あいつの部屋にメモも残しておくし、戻ったらユーシスの店に必ず行くだろうから、あいつにも言付けとくよ。じゃ、俺今から出掛けるから。アディオス!』
「ちょ、ちょっと! Z!? もうっ!!」
受話器を叩きつけ、セシルは一頻り罵詈雑言を吐いた。しばらくすると興奮も収まり、彼女は冷めた紅茶を一気に流し込んだ。
「1週間か・・・」
セシルは頭の中で着々と構想を練り始めた。
もうひとりの『セシル』と呼ぶに相応しい、悪魔の彼女が。