悪夢の散弾(中)
キャロル―――キャロライン=エリザベス=シンディアは、今の米国経済界にとって・・・いや、政界や財界にとってさえ注目の的だった。
弱冠22歳でシンディア財閥総帥に就任し、その才能を多方面へ遺憾なく発揮している。
彼女を知る者は、何処のどんな場所であろうとキャロルへの挨拶を欠かさなかった。
大統領夫人主催の慈善パーティーでさえ、出席者たちの視線はキャロルに注がれている。
(また・・・)
バートは心の中で小さくため息を吐いた。
キャロルは美しく、気さくで、話し上手。ファースト・レディもキャロルを片時も放そうとせず、何処の誰と話すのにもキャロルを紹介して回っている。
その相手に極めて若い男が多いのにバートは最初から気づいていた。
米国随一の財団総帥、しかも独身の若い美女。
悪い虫がつく前に、セーフティー・キープ。
彼女の相手に相応しいのは一流の男たち。
男ならば一度は抱く野望。
地位と名声、富と権力、そして美の女神の如き美女。
キャロルはまさにその全てを兼ね備えていた。彼女を得た男はこの世の全てを手に入れたも同然だろう。
だが、とバートは思った。
それは、彼女の『表』の一面でしかない。
女神の如き、穢れなき乙女のような微笑の裏に隠された美貌。
一陣の風が命を奪う瞬きの時間。
セシル・ローズの本当の美しさが輝く瞬間。
決して誰も見ることの叶わない、血の女神の残酷な微笑み。
見たものは、その瞬間生命を喪う。
バートはキャロルを取り囲む一団に冷ややかな視線を送った。
この中の何人が、セシルのあの血の微笑に魂を奪われるのか。
「失礼、Mr. バート=ハービッシュ?」
背後から突然呼ばれ、バートは驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、30歳過ぎの男性だった。
ふと、その顔に見覚えがあった。
だが、何処で会ったのかまでは瞬時に思い出せない。
「そうですが・・・貴方は?」
「これは失礼。エドモンド=パーシーです、よろしく。エドと呼んで」
差し出された右手をバートは軽く握り返した。
「いや、しかしいつ見ても賑やかですね、Ms. シンディアの周りは」
バートには些か嫌味に聞こえた。
何者なんだ? この男は。
訝しがるバートにエドモンドは苦笑した。
「重ね重ね失礼。僕はフリー・ジャーナリストで今日は取材に来たんですよ」
「・・・ファースト・レディのですよね」
バートはにっこり微笑んだ。それだけで相手にはわかったらしい。
「・・・釘を刺されたのかな? 僕は」
「お好きなように想像してください。」
テーブルからミネラルウォーターの瓶を掴み、一口あおった。
飲酒年齢に達していないバートは公の場では水で通している。
エドモンドもそれに倣うかのように同じ種類の瓶を取った。
「それ水ですよ」
一応バートは注意してやるが、エドモンドはにや、と笑った。
「仕事中だからね。それより18歳からずっと秘書をしてるって本当?」
「取材じゃなかったんですか? ここにいる目的は」
「してるさ、君に」
エドモンドはずいっとバートに近づいた。思わずバートは身を引く。
「僕らブン屋仲間の間じゃ・・・ておい、何処へ行くんだ?」
聞いてもろくな事にはならないだろう。
バートは大統領夫人がホールから退出しかけるのを見つけ、すばやくキャロルを追った。
「機会があったらまた会いましょう、Mr. パーシー」
別れの挨拶だけは欠かさず、バートは手を振りその場を去った。
エドモンドはその後姿を黙って目で追っていた。
狙った獲物を逃さないように見張る獣のように。
大統領夫人は既に玄関ホールの階段を下りていた。周囲の人間に様々な指示を出している。
「お帰りですか?」
「えぇ。これから専用機でヨーロッパへ行かれるそうよ」
バートの言葉にセシルは振り返りもせずに答えた。
大統領夫人が振り返ってセシルを手招く。セシルは微笑んだまま彼女の傍へ小走りに近づく。バートもその後を追った。
いっせいに彼女たちに向かってカメラのフラッシュが輝く。
明日の朝刊の社交欄はさぞかし華やかなことだろう。
「ごめんなさいね、キャロル。慌しくてゆっくり話も出来ずに・・・」
「お気になさらないでください、レディ」
セシルは大統領夫人が車に乗り込むまで見送るつもりで共に歩き始めた。
キャロルにとっては大統領夫妻は両親の知人であり大切な顧客でもあった。どんなときも疎かには出来ない。それが、セシルにとってどれほど疎ましく思えるときであっても。
「ねぇ、キャロル。ホワイトハウスで行われる主人の誕生日パーティーには必ずいらしてね。主人も、子供たちも貴女と会えるのをそれは楽しみにしているのよ」
夫人の会話はいつまでたっても尽きない。
バートは側近やSPが苛立ちを隠せずにいるのが良くわかった。
時間を押しているのだろう。
夫人は構わずキャロルに話しかけている。キャロルもわかっているようだが、会話を断ち切る隙を探せずにいるらしい。
バートはふと周囲を見回した。
パーティーの出席者にその側近、運転手、新聞記者、従業員、エトセトラ、エトセトラ。
複数の人間が大勢入り混じり、ホールの賑やかさがそのまま移動してきたようだった。
(レディ、そろそろ・・・)
(わかっているわ、バート)
「レディ、そろそろご出発なされませんとフライトに遅れてしまいますわ」
セシルの言葉を待っていたかのように、大統領夫人の側近たちも口々に「お急ぎください」と夫人を急きたて始めた。
「あら、そうなの? もう・・・」
大統領夫人の顔が側近に向いたとき、セシルはふと、視線を外へ向けた。
ホールの周囲は真昼の如き明るさだが、さらにその周辺を覆う世界は闇だった。
周りにはビルが立ち並んでいるはずだが、それも闇に融け何も見えない。
見回し、再びホールへ視線を移そうとした瞬間。
視界の端に何かを見た。
再び視線を闇の中へ戻す。
きらり、と一瞬何かが光った。
明らかな反射光。
徐々に輪郭を現す影。
「伏せて! レディ!!」
「レディ!!」
セシルは叫びと同時に大統領夫人に覆いかぶさるように地面を蹴って庇った。
バートが思わず叫んだ。
その声に被るように、バーンという一発の銃声と音を立てて花瓶が粉々に砕け散った。
周囲に悲鳴が響き渡り、逃げ惑う人々を警備員が宥めようとするが事態は混乱するばかりだった。
セシルはゆっくり身体を起こし、周囲を見渡した。
すっと目の前に右手が差し出される。
「・・・バート」
「ご無事でしたか?」
「えぇ、なんとかね」
その手を握り、セシルはようやく立ち上がった。
大統領夫人は側近の者たちに既に起こされて周囲を取り囲まれリムジンに詰め込まれた後だった。キャロルを見て少し安堵した表情を見せ、別れの挨拶もないままその場から走り去っていった。
遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。
「行くわよ、バート」
「レディ!?」
言うが早いかセシルは既に会場のビルから飛び出していた。慌ててバートが後を追う。
「待ってください! レディ!!」
セシルはバートの声に振り返らなかった。
聞こえていなかった。
どんどん闇へと駆けて行くセシルの背を見失うまいと、バートは全速力で追いかけた。だが、薄暗さの中で辛うじて見える彼女の背はどんどん遠ざかっていく。
「なんて速さだ・・・」
バートは足の遅い方ではない。むしろ相当の速さで、ハイスクール時代には陸上部から誘いがあったくらいだ。
そのバートが追いつけない。
セシルの走りはもはや走りではなく、翔る、と言った方が適切かもしれない。
とてもハイヒールを履いている足とは思えない。
「ここだわ」
セシルの声が耳に届き、ようやく彼女の姿を確認する。
ビルを仰ぐセシルの眼は、先程まで微笑んでいたキャロルのそれではない。
既に、彼女は悪魔に還っていた。
「踏み込みますか?」
呼吸を整えながらバートはセシルを見る。彼女の横顔は無表情だった。
怒り故の表情、そう言った方が正しい気がした。
「・・・とうの昔に犯人は逃走しているわよ」
セシルの眼がバートに向けられる。
「本当にファースト・レディを狙ったのかしら・・・?」
独り言めいたセシルの呟きがバートの耳に届いた。
どこか、不吉な影を帯びた言葉だった。
あの一夜から、既に2週間が過ぎていた。
セシルの日常は相変わらずだった。
ひとつ変化したことといえば、身寄りのなかった末期癌の友人の容態が急変した。
偶然セシルが部屋を訪れたときだったため最悪の事態は免れたが、昏睡状態に陥った彼女が意識を取り戻したのは既に5日も過ぎた後のことだった。
次に意識を失えば恐らく2度と目覚めることはないだろう。
セシルは主治医から彼女をホスピスへ移すことを勧められた。
だが、セシルはそのことを彼女に告げなかった。
彼女自身、アパートから出ることを嫌がった。彼女自身生まれたこのハーレムで死ぬことを望んでいる。
24歳の若さで、彼女は死を安らかに迎える準備をしていた。
セシルはせめて彼女がささやかでも幸せであったと思えるように出来ることを何でもした。隣室を借りきって医師とナースを常駐させ、つきっきりでの看護体制をとった。セシルが仕事で訪問できないときは代わりにバートが訪れた。
「容態はどうなんですか?」
バートは眠っている彼女の表情を見た。
青白く血の気の失せた顔色に艶は無くまるで老婆のように見えた。
彼は彼女を見るたびに思い出した。
このアパートよりも、もっとみすぼらしいアパートの一室で、医師の治療を受けることが出来ずに、ただ時の流れに身を任せて病に蝕まれ死んでいった母親。
セシルとの出逢いがもっと早ければ、彼女のようにもっと高度な治療を受けさせてやれたのに。
バートは何度と無く後悔していた。母を救えなかったことを。そして、憎んでいた。母親を不幸にした男を。
「ここ3日程眠り続けています。恐らく2度と眼を覚ますことは無いかと・・・」
医師の言葉は遠慮がちだったが、彼女の死が近いことを告げていた。
「しかし、総帥は何故この女性にここまでなさるのでしょうか」
財団が支援している病院のスタッフドクターである彼はセシルのことを総帥と呼ぶ。財団関係者の殆どがそうなのだが、バートは敢えて呼ばなかった。セシル自身が嫌がることを知っていたからだ。
「いくら友人とはいえ・・・」
もっともな言葉だ。
高校時代の友人だとセシルは言っていた。大学卒業と同時に発病し、進行の遅い癌ではあったが、若さ故に転移のスピードは速く、2年目になる今年になってから彼女はベッドから起き上がれなくなった。
最初はバートも何故そこまでセシルが彼女を気遣うのか理解できなかった。一族の人間でさえ、敵に回れば容赦なく切り捨てるセシルらしくなかった。
バートの不信感を悟ったセシルは、ある時その理由を語ってくれた。
「・・・贖罪ですよ」
「・・・は?」
「いえ、なんでもありません」
バートは医師に向かって微笑んだ。
それは、セシルが18歳の頃だった。
祖父・マイケル=シンディアの暗殺未遂事件が起きた。当時米経済界の中心人物だった彼には敵が多かった。その黒幕を突き止めたセシルは逆にその人物を殺害した。
その男が彼女の父親であり唯一の肉親だった。
男の愛人だった母親と死別し、引き取られる話になっていた。
セシルが事実を知ったのは半年後だった。経済的にも困窮していた彼女をセシルは陰ながら支え続けた。
きっとセシルは彼女を助けることで自分自身を支えていたのだとバートは考えた。
米社会有数の財団後継者でありながら、セシルの心は常に孤独だった。
再び、セシルは孤独になる。
セシルの全てを支えることが出来ない自分がバートは悔しかった。
「先生!」
ナースの甲高い声にバートは我に返った。
異常を知らせるアラームが鳴り響く。
バートを押しのけ、医師が心臓マッサージを施す。だが、所詮病院の医療施設ではないのでやれることは高が知れている。
ピ――――ッ・・・・・・
無機質な電子音が途切れることなく鳴った。
医師が腕時計を見、死亡時刻を告げた。
何事も無かったかのような表情でナースが機械の電源を切る。
既に事切れている彼女の死に顔はいっそ穏やかだった。
バートは携帯電話からセシルへコールした。
彼女は財団の会議に出席中だった。
『・・・亡くなったのね』
「遺体は明日、ご家族の眠られる墓地のある教会へ運びます」
『・・・・・・』
「レディ?」
『・・・・・・何?』
「穏やかな顔でした。僕の母のように苦しまずに逝けたのです。ご希望通りに・・・」
『・・・そう・・・なら、良かった』
その後のことを簡単に打ち合わせてバートは電話を切った。
今、この場から飛び出してセシルを抱き締めたかった。
悲しみ故に、きっと気丈に、涙を流すことなく、まるで何事も無かったかのように振舞うに相違ないセシルを。
(・・・・・・なりたい)
(レディの孤独を癒せる存在に・・・なりたい・・・)
バートの右眼から一筋の涙が頬をつたう。
無力な自分を嘆きながら。
会議室を抜け出して、控え室でバートと電話で話していたセシルはその場で座り込んでしまっていた。
悲しみから脱力しているのだと冷静に自身を分析する。
けれども、友人が死んだというのに涙ひとつ流れない。
「情けない・・・」
愛する人の死を、これ程無感動に迎えている。
所詮その他大勢の人と変わらなかったのだ。
病気や事故で亡くなる知り合いは、なにも彼女だけではない。過去にも幾度となくあった。
それ以上にこの手で奪ってきた命は数え切れない。
身も心も『悪魔の御子』になってしまっている。
どれほど抗っても、普通の生活を過ごしても、暗殺者であることを捨て切れなかった。
セシルの脳裏に12年前のあの日の光景が甦る。
吹雪の中、繰り出す短剣で男の脇腹を貫いた感触。
白銀の雪の上に真紅の血花が滴り落ちる。
一発の銃弾が彼の心臓を撃ち抜いた。
あの瞬間、過去を捨て去るべきだった。
でも、結局駄目だった。
自分はセシル・ローズ=ロードウェイ以外の何者でもないのだ。
キャロルさえ、仮初めの姿に過ぎない。
セシルは右手を見た。
この手にナイフを握り、獲物を狩る瞬間。
常に危険と背中合わせ。
だが、何物にも変え難い猛りを身体の内に感じずにはいられなかった。
そう自分たちを育てたのだ。あの男が。
(カイン、ライ、アイラ・・・。貴方たちがいるから私は生きていける・・・)
セシルは立ち上がった。
心の癒しなどいらない。
仲間がいるその事実があればけっして孤独ではない。
そう、自分に言い聞かせて。
セシルとバートのふたりだけで済ませた彼女の葬儀は雨の中静かに終わった。
母親の隣に眠る彼女はやっと苦しみから解放されたのだ。
セシルは一言も発せず、ただ無表情に彼女の墓標を見つめていた。
「レディ、そろそろ・・・」
雨で冷えた身体をバートは心配していた。
いくらコートを着ているとはいえ、暦は既に11月の半ば。雨に濡れれば風邪を引きかねない。
促しても動こうとしないセシルの腕をバートは少々強引に引っ張った。
それでもセシルは顔を墓標に向けたままだ。
「レディ、スケジュールが・・・」
「私は、何をしていたの・・・」
セシルの声は震えていた。およそ似つかわしくない。
それでも彼女の双眸からはひと雫の涙も流れてはいない。
「結局、自己満足で彼女を縛っていただけ。私の行為を、好意と受け取っていたのを良いことに・・・。・・・大した偽善者だわ」
その言葉は明らかに自らを切り裂いていた。
自分で自分を傷つけている。
言葉のナイフで。
吐き棄てる様にセシルは叫んだ。その姿を、バートはただ見つめるしかなかった。
そのふたりを遠巻きに眺める人影が2つ。
乗っている車は最近では珍しくない日本の企業が売り出している日本車。
国産車より丈夫で良く走るので男は気に入っていた。
「2人きりの葬式か。死んだのは近親者ではなさそうだな」
左手に持ったスコープで覗きながら男が口許を緩めた。
最初に眼に入ったのは浅黒い肌に銀髪の青年。次に茶髪の女性に移る。俯き加減の横顔は髪に隠れて見えないが、その美しさだけははっきりとわかる。
男は口笛を吹いた。
「噂に違わず美しき女神だな。女王陛下の忠実な騎士の憂い顔がなんとも、そのケが無くてもそそるねぇ」
「死んだのはキャロル=シンディアの友人だ。身寄りが無く、援助者がキャロル自身だった」
「なるほど、美しくもお優しい。世の男どもが放っておく術は無いな」
運転席の男は煙草に火をつけ、助手席の男からスコープを奪う。
「今は殺すな、との命令だ」
「前もそう言っていたな。だから脅し程度に留めておいたんだがな」
「だからと言って大統領夫人を狙うなど・・・余計な面倒になりかねなかった」
「誰、とは指定されなかったからな」
助手席の男はブランデーの瓶を空け呷る。
運転席の男はその様子に眉をひそめた。
「今度も脅し程度か? いつになったらあの女を殺れる?」
「今彼女を殺せば米社会どころか世界経済も揺るがしかねない。それに、彼女を消しても彼女の後ろには名誉会長・マイケル=シンディアがいる」
「引退した爺さんだろう?」
奪い返したスコープで男は再び2人の様子を覗き見た。先程と同じ姿勢でまったく動いていない。
「その老人が何よりも恐ろしいのさ。だが、今は病床に伏している。そのまま病死してもらうのが一番だ。それまでにキャロル=シンディアを殺せば・・・全て消される」
助手席の男は青褪めた表情で、隣で煙草を吹かす男を見た。
「・・・・・・『北の悪魔』でも飼っているのか? その爺さんは」
「『北の悪魔』?」
運転席の男は灰皿に煙草の灰を落とし、再度深く吸った。
「あぁ。俺たち裏稼業の人間には有名だ。超一流の殺し屋で、ヤツに狙われたら最後、死ぬしかない」
「ほう、そんな大物がね。だが、そんな男がいると聞いていれば貴様なぞ雇わなかった。依頼人も何も言っていなかったが?」
「噂じゃ10年以上も前に死んだらしい」
「なら、意味が無い」
「話は終わってねぇよ」
「?」
「その後、後継者と呼ばれている連中が現れた。そいつらが『悪魔の御子』と言われている」
「・・・ひとりじゃないのか?」
助手席の男の言葉が複数を示していることに男は気づいた。
「噂の域は出ないが・・・人によって話が違う。背の高い東洋人だったり、金髪の美女だったり。大体はっきり見たやつは一人もいない」
「何故?」
「皆殺されているからさ」
助手席のドアを開け、男は雨の中外へ出た。被った帽子のつばから雨の雫が滴り落ちる。
「あくまで噂だ。本当に存在していたら恐怖だ。それより・・・」
男は人差し指を突き出した。
「予定通り仕事はやる。次はあの坊やだ」
「殺すなよ。脅すだけでいい」
「何故だ? 大統領夫人はわかるが、あの坊やは殺しても殺さなくても大して違わないだろう。なんだ? あんな坊やが好みか?」
「・・・脅すだけでいい。俺が殺すなと言っている」
運転席の男が向けてきた双眸に、帽子の男は息を呑んだ。
明らかに殺意だ。眼には怒りが帯びている。
「・・・じょ、冗談だ。じゃあな」
帽子の男は小走りに車から離れていった。
運転席の男は3本目の煙草に火をつけた。
腕は確かだと紹介されてあの男に依頼したが、用さえ済めば始末したほうが良さそうだ。
「『悪魔の御子』か」
本当にそんな暗殺者がいるのならば、あんな小者を使う必要は無かった。
そういえば、ヨーロッパのほうに超A級スナイパーがいると聞いたことがある。
「・・・所詮、噂だ」
後部座席から引っ掴んだ書類袋を無造作に開き、助手席にばら撒いた。
調査書と数枚の写真。
TVでもよく流れる社交場でのキャロルの写真だ。
その隣に控えめに寄り添い、その表情にまだ少年のあどけなさを残した青年。
上からの命令で調べて以来、ターゲットのキャロル=シンディア以上に興味をそそられた存在。
男は口唇に笑みを浮かべた。
「バート=ハービッシュ・・・か」