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悪魔の御子  作者: 奏響
第5話 摩天楼に降る雪は
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悪夢の散弾(上)

 星の輝きを散りばめた夜空の中を、ひゅっと風を切るように、セシルはビルの屋上から屋上へ飛び移った。まるでその背に羽根でも生えているかのように彼女は身軽だった。

 目的地のビルの屋上へ飛び移ると、貯水槽の陰に隠しておいた鞄を開け、暗闇の中でその身を包んでいたレザースーツを脱ぐ。殆ど裸同様だが、彼女は慣れた手つきで鞄から服を取り出しすばやく着替えた。革ベルトに装着されていた短剣は鞘ごと二重底になっているケースに仕舞い込まれた。

 最後に香水を一振りし、セシルは何食わぬ顔で鞄を引っつかみアパートの中へと戻った。

 古ぼけたアパートの扉を開き、セシルはベッドに横たわる女性に声をかけた。

「ごめんなさいね、急に電話が入ったものだから」

「携帯電話なんて持っているのね。さすが財団総帥だわ。でも、何処にいても仕事から逃げられないわね」

 女性は小さく咳をしながら体を起こした。

 セシルが慌てて支える。

「高校の同級生だからって、キャロルには本当に甘えてしまったわ。私、申し訳なくって・・・」

「何を言っているの。気にしないでそんなこと」

 セシルは優しく微笑んだ。

 サイドボードに置かれた花瓶の水を替え、新しい花を飾る。

 小さな蕾が開きかけた薄いピンク色のバラだった。香りもきつくないので見舞いのときにセシルはよく持参した。

 テーブルの上に置かれていたグラスと小さなカプセルを取り、彼女に手渡す。

「ありがとう。貴女が持ってきてくれる薬を飲むと落ち着くし、よく眠れるのよ」

 彼女は色の悪い口唇に笑みを浮かべた。

「私がいないときは、キチンと量を確認して飲んでね」

 彼女は口を小さく開け、カプセルを口に含み水をゆっくり飲んだ。その動作だけでもかなり辛そうだった。

 30分もしないうちに薬は効いてくる。

 薬による惑わしでも、死を間近にした女性に苦しみ無く逝ってほしかった。

 末期がんに侵され、身寄りのない友人をセシルは手厚く看護していた。もちろん、何かと忙しい彼女が早々訪れることは出来ない。だからこそ、来たときは女性の望むことをしてあげたい。

「本当に、貴女の好意に甘えっぱなし」

「・・・それ以上に、利用しているのは私の方だわ」

「何か言った?」

 セシルの小さな呟きは彼女の耳には届かなかった。その問いに特に答えもせず、セシルは腰を上げた。

「そろそろ帰るわ。ごめんなさいね、貴女のところへ来ても、いつも電話が入って」

「仕方がないわ。でも、なにも屋上に出て電話しなくてもいいわよ。パソコンまで持ち上がって・・・」

「貴女の睡眠の邪魔はしたくないの。隣近所にも迷惑だしね」

 セシルはウィンクひとつしてアパートの部屋から出て行った。

「遅いから気をつけて」

 女性が少し名残惜しそうにセシルに声をかけ、セシルは片手を上げてその言葉に答えた。

(そんな言葉をかけてもらえるような善人じゃないわ)

 アパートから1ブロックほど離れて、セシルは携帯電話を取り出した。大きくて結構重く使い勝手も悪いが意外と便利な時も多かった。

「・・・えぇ、私よ。完了したわ。・・・そう、もう帰るわ。冷えたシャンパンを用意しておいて」

 セシルの『仕事』は夜に行われることが多い。刀剣類を得意とするセシルは、ライと同様標的に接近しなければならない。そのときによっては直接標的に接触して瞬時に仕留めることもあるが、闇に紛れて家屋へ侵入し気取られること無く始末をつけることも多い。

 頚動脈を一瞬で切り裂く彼女の腕は闇世界に広く浸透していた。血に飢えた存在のように揶揄する者たちもいた。

 いつからか、こんな綽名が広まった。

 インド神話の神のひとり。血を好み、軽やかに踊る女神・カーリー。

 『血の女神』。

 携帯電話を切りセシルは再び歩き出した。だが、ふとした物音に気づき足を止めた。

 ハーレムの中で女性の一人歩きは危険極まりないが、セシルの感じた気配はそういう類のものではない。

(追われている・・・?)

 手負いの獣のような気配だった。瞬く間に気配の主はセシルの前に現れた。

 背の高い白人男性だが、眼は血走り、ところどころに血が付着しているのが見て取れた。

 男のほうもセシルと目が合い驚いているようだった。が、近づいてくる別の足音に振り返り、突然セシルに掴みかかった。

 反射的にセシルはナイフを抜きかけたが途中でその動作を止めてしまった。

 男に恐れをなしたわけではない。

 むしろ、追いついた足音の主たちに見られたく無かったからだ。

 今の彼女は『セシル』ではない。

「無駄な抵抗はやめろ!」

 数人の警官が男に向かって拳銃を構えていた。男はセシルの首に太い腕を回し、オートマチック式の拳銃をセシルに向けた。

「来るんじゃねぇ! それ以上近づいてみろ。この女ぶっ殺すぞ!!」

 強盗殺人でも犯して逃亡途中だったところに出くわしてしまった様だ。

 セシルは表面は怯えたように見せかけながら、どうやって警官を振り切ろうかと頭を悩ませていた。

 オートマチック式拳銃の発射をどうすれば阻止できるか、など切り抜ける知識は豊富だが、それを今ここでやって見せては後々面倒なことになりかねない。

(遅くなったら、あの子に怒られるなぁ)

 逃亡犯などはどうにでも始末できるが、流石に警官はマズイ。かと言ってこのまま人質にされて一緒に逃亡するのは御免だ。

 セシルは小さく息を吐いた。

(私が作る一瞬の隙を逃さずにいてくれるような警官がいるかしら?)

 セシルは集まった警官を見渡した。制服と私服の両方が入り混じり、結構な人数が拳銃を構えている。

 腰が入っている者、引けている者様々だが、ひとつだけ違う動きをする者に気付いた。

 銃を抜いてはいるが、何か探るように様子を窺っている刑事がひとり。

 一瞬セシルと刑事の視線が交錯する。

(あの男ならば・・・)

 セシルはふっと崩れるように力を抜いた。その挙動に男は不意を突かれたのか驚いたまま銃口をセシルから上空へと無意識のうちに動かした。その隙を逃さず、セシルは渾身の肘鉄を男のみぞおちに食らわす。

 その瞬間一発の銃声が轟いた。

 男の右肩を銃弾が貫き、後方へその身体を吹き飛ばしていた。咄嗟にセシルは身を屈め丸くなっていた。

 銃声が合図であったように、複数の警官が銃口を向けたまま男を押さえ込み見事確保した。

(・・・上手くいくもんだわ)

 思い付きの作戦がこうも成功するとは正直セシルも驚きだった。

「怪我はないですか?」

 眼前に差し出された手を見、セシルはゆっくり顔を上げた。

 そこらじゅう警察が用意したライトで明るくなっていたので相手の顔を確かめることは容易だった。

 青年刑事と視線が交錯する。

 黒髪が人工の光を反射して輝き、鳶色の瞳にセシルを映す。

 セシルはその刑事の手をとった。

 視線は釘付けのまま。

 刑事は安堵したように微笑み突然セシルを抱き締めた。

「なっ・・・ちょっと・・・」

「・・・無事でよかった」

「・・・え・・・」

 耳元で囁かれた言葉にセシルは目を丸くした。

 背中に回されている腕が力強くまるで全てのものから守ろうとさえしているようだった。

 セシルはその心地よさに身を委ねた。

 生まれて初めて知る温かさだった。


 「なにが、どうして、こういうことになるんですか!!」

 真夜中という遠慮もあってか小さめの声ではあったがセシルにはそれでも耳に痛いほど大きく聞こえた。

 一応応接室なのだろうが、上等とは言い難いものがあった。

 固い革張りのソファーに身を沈めていたセシルの真正面に仁王立ちをしている青年は現れた途端大きなため息をついた。

 しかし、意志の強そうな青い双眸はしっかりセシルを見据えている。

「だから、説明しているでしょ。帰りがけに強盗殺人犯とばったり出くわしちゃって、人質になったついでに犯人逮捕に貢献したのよ」

 上目遣いに様子を窺うセシルを見下ろし睨んでいたバートは本日何度目かのため息をまたついた。

「貴女に僕がどれだけ心配をしていたかわかりますか? 突然NY市警から電話が入り、貴女が事件に巻き込まれたと聞き、もしや『仕事』で何かあったのではと駆けつけてみれば・・・」

 バートが真夜中のマンハッタンで車を飛ばして駆けつけたというのに、当のセシルは応接室でくつろいでいたのだ。

 警察署長と談笑しながら。

「・・・心配かけて御免ね、バート」

 セシルがちろっと舌を出した。悪気があってのことではない。それは、バートも良くわかっていた。

「・・・本当に無事で何よりでした、Lady」

 バートは疲れきった顔に笑みを浮かべた。

 そのとき、ちょうど応接室の扉が開き、2人の私服刑事と制服の中年警察官が入ってきた。

 制服のほうは先程までセシルと話していた警察署長だった。

 強盗殺人犯を逮捕した警察は、もちろん偶然だが人質になったセシルを事情聴取のため署まで同行願った。

 任意なので断ることも出来たが、時間と場所を考えれば軽々しい行動は控えたほうが得策だった。

 既に顔は知られている。正体がバレるのも時間の問題だった。

 その後、IDカードを提示された警察は身元確認のためバートへ連絡を入れたのである。

「まさか、シンディア財団の総帥が真夜中にハーレムを歩いているとは思わなかったものですから・・・」

 当然の反応だとバートは思った。車での送迎は確かに目立つ。が、もし何かあれば彼女が合衆国でも有数の財団を運営している総帥・キャロル=シンディアであることはすぐに判明する。それほど彼女は有名になっているのだ。本人が望むと望まざるとにかかわらず。

(今後はバイクでも使用してもらおう)

 恐縮している警察署長を気の毒に思いながら、バートは心の中で呟いた。

 先程から署長は禿げ上がった頭を下げしきりに平謝りを続けていた。

 無理も無い。大統領でさえ敬意を払うと言われている財団の、しかも現総帥だ。もし無礼なことでもあれば自分の首が飛ぶぐらいでは済まない。

 セシルは「気にしないでください」と笑った。

「身寄りの無い友人が末期がんを患っていますの。表立ったことは立場上出来ないものですから・・・。私のことは表沙汰にしていただきたくないんですけれども・・・」

 小首を傾げ、愛らしさを演出する。

 言わずとも既にバートが裏から手を回している。だが、念には念を入れておいてもいい。

 これもセシルの処世術だ。

「もちろんでございます。それより、身元保証人の方は・・・」

 警察も立場上、身元引受人無しでは帰せない。だが、それらしき人物が署長の目には映っていないようだ。

「ご挨拶が遅れました。秘書のバート=ハービッシュです」

 署長は目を丸くしてバートを見た。

(仕方が無いわよね)

 無表情に挨拶をするバートの横でセシルは苦笑した。

 本名はバーソロミュー=エリオット=ハービッシュ。浅黒い肌に銀髪、青い瞳。一目で混血とわかる外見に兼ね備えられた美貌。父親は米国人だが、母親は英国人とインド人のハーフだった。弱冠20歳だが、コロンビア大学に通いながらセシルの秘書を務めている。もちろん『表裏』ともに。

 恐縮しまくってすっかり身を縮めてしまった署長は放っておいて、セシルは刑事に向き直った。

「もう、帰ってもよろしいんですの?」

「えぇ、お手を煩わせました」

 紳士的な態度の刑事にセシルは好感を持った。暗殺を生業にしているからといって、全ての刑事が嫌いなわけではない。

 バートから上着を受け取り、出て行こうとしたセシルは再度刑事を見た。

「なにか?」

「・・・地面に丸まっていた私の手を取ってくださった刑事さんはどなたですの?」

 最初何を聞かれたのかわからなかったようだが、次第に思い出したのか「あぁ」と刑事は呟いた。

「署まで付き添っていた者ですね。彼は偶然別件で捜査に来ていたFBIの捜査官です」

「FBI? そうですの。是非お礼を言いたいのですが・・・」

 セシルの言葉に刑事は残念そうに言った。

「申し訳ございません。捜査中の事件に進展があったと言って先程出て行きました」

「そう、ですか・・・」

 俯き加減でそう呟いたセシルの横顔にバートは何故か胸騒ぎを覚えた。

 今までに見せたことのないセシルの表情。

 バートは自分でもわからなかった。わからないからこその不安。

 不安は、急いでここから出たほうがいいとバートに警鐘を鳴らす。 

 それは、どこか焦りにも似た気持ちだった。


 マンハッタンの5番街にそびえ立ち、白く輝くオフィス・ビル。シンディア財団の持ちビルであり、最上階はセシルの自宅兼オフィスのペントハウスだ。

 エレベーターが開けばそこはオフィス。バートのデスクに接客用のソファー&テーブル。奥にはセシルの執務室がある。その反対側にはバートのプライベートルームとキッチン。

 インテリアの趣味も良く、派手さは無いが一目で高級品とわかる品揃えだ。

 エレベーターを出て広い空間の左側に位置するカーブした階段。

 2階がセシルのプライベートルームにあたり、寝室、居間、書斎がある。ゲストルームは上下に2室あるのだから相当の広さだろう。

 未明になってようやくペントハウスに戻ったセシルは、ソファーに寝転び両腕両足を投げ出した。「はしたないですよ」とバートが注意するが聞く耳無しのようだ。

「今日は一日寝て過ごす~」

 子供のような甘えた声でセシルは叫んだ。初めてその声を聞く人ならば驚くような変貌振りだろうが、聞き慣れたバートに効果があるはずも無い。

 彼は湯気のたったカップを運んできて、セシルの前のテーブルに置いた。

 一口飲んでセシルが顔をしかめた。

「・・・甘」

「ココアを飲んで温まったらさっさと寝てください」

 バートは自分のデスクの椅子に座り、ココアを啜りながら、眼鏡をかけて書類の束に眼を通し始めた。

 バートも眠ってはいないはずだが、彼は今から仕事を始めるつもりらしい。

「だーかーらー今日は休むー」

 甘いココアを飲みながら上目遣いでセシルはバートを見る。拗ねた表情も愛らしく見えるが、バートは表情一つ変えない。

「忘れていませんか?」

 彼は手帳を開いた。長い指がしなやかに頁をめくる。

 ドラマの中のワンシーンのよう。

 セシルはバートを見てそう思った。

 秘書にするより、モデルとして売り出せば良かったかしら、とセシルは本気で考えた。

「今日は大統領夫人主催の慈善パーティーですよ」

 セシルは思わずむせた。

「やばっ・・・」

 すっかり忘れていた。確かに今夜はそんな招待を受けていた。

 大統領選よりも前から両親の関係で知り合いだったが、何故かセシルは大統領夫妻に気に入られ、事ある毎にパーティーなどに招かれた。

 今回の慈善パーティーも夫人自らお誘いの連絡を頂戴している。

 極めて偽善的でセシルの好むような内容のパーティーではないが断るわけにはいかなかった。

「こういうとき、キャロルである自分を捨てたくなるわ」

 キャロル=シンディアとセシル・ローズ=ロードウェイの二重生活。被ることのない2つのキャラクターに否が応でも押し潰されそうになる。

 米国へ戻ったときに、暗殺業をすっぱり辞めてしまう事も出来ただろうが、セシルはそれをしなかった。

 離れ離れになった、運命を共にした仲間を捨て去ることが出来なかったのだ。

 いつか再び再会するために。そのためにセシルは『仕事』をした。無論政府でさえ『顧客』だ。

「眠ってください。貴女は疲労からナーバスになっています。午後には美容師とスタイリストを呼びます。睡眠不足は美容の敵ですよ」

「わかったわよ・・・任せるわ。後、バートも行くのよ」

 今度はバートが渋い顔をした。理由はわかっている。いくら有能でも彼は弱冠20歳。政財界の大物ばかりの場では好奇の目と噂の的になり自然と軽んじられる。

 何より、社交場は苦手だった。

「今日のエスコート役ですからね。・・・・・・貴方も休みなさい、バート」

「・・・Yes, Lady.」

 露骨に嫌がる様子を面白がりながら、セシルはカップを持って2階へ上がって行った。

 飲み干したカップを2階の簡易キッチンの流しへ置き、ようやくベッドにもぐりこんだ時は6時前だった。

 眠れそうも無いと思ったが、毛布を被るとその温かさでうとうとしかけた。この分だとゆっくり眠れるだろう。

 瞼を閉じ、深い、眠りの底へ意識が下降していく。その心地よさを感じながら、セシルは夢を見た。

 鳶色の瞳に優しさを湛えた、青年の夢を。


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