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悪魔の御子  作者: 奏響
第4話 香港狂詩曲
51/71

誰が為に(下)

 通路脇のトイレにはビニールテープが貼られて立ち入りを禁じられ、2人の警官が立っていた。

 刑事はトイレの床に転がっている遺体を見て思わず顔を背けた。

『こりゃ、酷い』

 訛りのある広東語だった。

『後頭部から一発。即死ですね』

 検死官は表情ひとつ変えずに遺体を調べている。こんな人間にはなりたくないな、と刑事は思った。

 立ち上がり周囲を見る。

 旅行鞄は中身を出されて空っぽのまま床に放置されていた。その周りに無造作に衣類やら下着やらが散乱し、紙幣だけが抜き出された財布が遺体の傍に放り出されていた。カードは無事だった。

『盗まれたものは?』

 サングラスの男が犯行現場に入ってきた。

 薄いグレーのスーツはその場に不似合いなほど男に良く似合っていた。

『財布の中の紙幣とパスポート。他には分からない。身形からしてあまり高価な物を所持していたとは考えにくいな』

 刑事の言葉に男は口許を緩めた。

『何かおかしいか?』

『いや、恐らくその通りだろう。残されたクレジットカードは?』

 男の後ろから制服警官が入ってきた。

『駄目でした。クレジットカードは偽造カードで、名義人のディビッド・ツィイー氏は香港の商社で今現在仕事をしている最中でした。一度盗難にあってパスポートも紛失したことがあったそうです』

『成程、泥棒が泥棒に殺されたか。強盗殺人だな。挙句身元の分かるものは何も無い』

『そうですね』

 刑事の諦めの言葉に男は頷いた。

 事件発生から2時間後、結論は強盗殺人であり、犯人および遺体の身元は不明のまま処理された。

 グレーのスーツの男は現場から背を向けてターミナルから去り、外の公衆電話を掛け始めた。

 何回目かのコール音の後、電話の向こうから話し声が聞こえた。

「姫眞麻の死亡を確認しました。・・・はい、そうです。えぇ、仰るとおり後頭部に一発で。何故分かったのですか? Mr. ルーベルス」

『彼の思考を読んだまでですよ。フェリーがターミナルに着いた頃、君は既にいたんですよね?』

 電話口のフィロスの声はどこか弾んでいた。

「はい。もしかしたら姫眞麻が入国ゲートから現れるかも・・・と思いましたので」

『まぁ、『迎えがいる』と言っておきましたから、それでも怪しまれはしなかったでしょうけれどね』

「恐ろしい男ですね。どんな男だったんでしょうか」

『もしかしたら、君はすれ違っているかもしれませんよ?』

「え?」

 フィロスの言葉に男は一瞬何かを思い出した。だが、それがなんだったかまでは思い出せない。

「ご苦労様でした。君は仕事に戻ってください」

 フィロスは窓の外、眼下に広がる景色に微笑んだ。

『分かりました。Mr. はどうされるのですか?』

 電話の向こうの男の背後で声が聞こえた。彼の同僚の声だろう。

『少し、マカオで遊んでから『マスター』の許へ戻ります。久し振りに『マスター』へ直接ご報告申し上げなくてはならないのでね」

 それだけ言ってフィロスは電話を切った。

 その横顔に笑みが刻まれている。

 だが、それは余りにも残酷で冷酷な笑顔だった。

「お約束どおり、北の悪魔の本拠地へお連れしましたよ、Mr. 姫。・・・そう、悪魔の本拠地『地獄』にね」

 グラスの中のブランデーをゆっくり飲み干し、新たなグラスと自分のグラスに再度ブランデーを注ぐ。

「お疲れ様でした、カイン」

 ひとつだけ輝く赤いピアスが飾られたケースの前にグラスを置き、フィロスは微笑んだ。

 先程とはまったく異なる、優しい微笑だった。


 夕暮れ時から、聖蘭の息遣いが荒くなり始めた。

 時折、両手を振り回し暴れる彼女をライは必死で押さえつけた。

 一歩間違えば彼女自身が怪我をしかねない、そんな状況だった。

 時間が進むにつれて、その症状は酷くなる一方だった。

「暴れないでくれ、聖蘭」

 ライの言葉は全くと言って良いほど聖蘭の耳には届いていなかった。時々彼の腕に噛み付こうとさえする。

「これ以上は危険だわ。ベッドの端にこの紐で彼女の両腕・両足を縛って。後、舌噛まないように猿轡を咬ませて!」

 アイラは手早く聖蘭の自由を奪った。

 その姿をライは直視できなかった。

「んっ! んんっっ!!」

 髪を振り乱し、逃げようとするかのように両腕・両足をバタつかせて暴れる聖蘭はライの知る聖蘭ではなかった。

 さらに、刻々と時間が過ぎてゆく。

 症状にも波があるらしく、1時間ごとに少しだけ大人しくなる時間があった。

「この時間がだんだん長くなれば改善されていく証拠よ」

 アイラの横顔は既にやつれていた。

 眼の下にうっすらと隈が出来ている。

 セシルが交代するといって休むことを勧めたがアイラは首を縦に振らなかった。

「これは私の仕事よ。私にしか出来ないわ。セイラは・・・彼女は言わば『悪魔』の被害者だから」

 その言葉にセシルとライは気づいた。

 アイラがずっと自責の念に駆られていたことに。

 棄てた筈の麻薬。

 こんな形で報いが来ようとは。

 精製したことをこれ程後悔したことはなかったに違いない。

「アイラ、せめて猿轡を外してやってくれ。苦しそうだ」

 ライの言葉にアイラは「えぇ、そうね」と答えた。

 確かに、呼吸しづらそうだった。

 アイラの手が聖蘭の猿轡を外した途端だった。

「痛っ!」

 アイラは痛みに思わず叫んだ。手を噛まれたのだ。

「アイラ!」

「大丈夫。それより・・・」

 アイラは聖蘭を見た。

 聖蘭もアイラを見ている。

「・・・濁った眼だわ」

 蔑むようなアイラの言葉。聖蘭に向けた台詞ではなかった。

「初めまして、貴女が『赤』ね」

 アイラの口許に冷笑が浮かぶ。まるでやっと出会えた仇の存在を喜ぶように。

「サッサトコノ紐ヲ外セ!」

 皺枯れた老婆のような声だった。あの姫聖蘭の美しい声ではない。

 背筋が凍るのをライは感じ思わず身を退く。

 逆にアイラは挑むように、聖蘭の中にいる別の醜悪な存在を睨みつけた。

「駄目よ。貴女は作られた存在。身も心もセイラに返して頂戴。貴女は消えるべきなのよ!」

「フザケルナ!! コノ身体ハ私ノモノダ! アイツナゾニワタサナイ! ワタシガ聖蘭ダ!!」

 『赤』はライを見た。

 その眼にライはゾッとする。

 あの一夜の逢瀬を重ねた聖蘭はいない。そこにいるのは、魔性の女。

 いや、バケモノだ。

「聖蘭ノ記憶ハ全テ覚エテイル。『白』ノ記憶モ。私ダケガ全テノ記憶ヲ覚エテイラレル。貴様ノコトモ覚エテイル」

 ライは恐怖に震える自分に気付く。

 ふたりの貴い逢瀬を、この醜悪な眼に全て見られていたのだ。

 ライと愛し合った肉体の内側から。

 聖蘭の顔には違いない。だが、媚びるような双眸は壮絶な色気を醸し出している。

 今、彼女はそこにいないのに。

 けれど、眼が離せない。

「コノ身体ハ満足シタカ? 私ガ仕込ンダ身体ダ。サゾカシ具合モヨカッタダロウ?」

「止せ!」

 聖蘭をまるで穢すように吐き出される言葉をライは遮った。

 『赤』はさらに暴れながらライを睨み続ける。

「欲シイダロウ? サァ、私ヲ抱ケ。好キニスレバイイ。・・・サ・・・ア・・・ァ・・・グゥ・・・ク・・・ガ・・・」

 聖蘭の苦しみ方が変わったことにアイラは気づいた。

 声も少し変化している。

「グ・・・ク・・・・・・ゥ・・・う・・・あ、た、・・・助け」

「聖蘭!!」

 ライは思わず駆け寄ろうとした。だが、それをセシルが制した。

「何するんだ! セシル!! そこを退いてくれ!!」

 ライの怒声に眉一つ動かさず、セシルは聖蘭を睨んだ。

「男は騙せても、女は騙せないわよ。消えろ! 化け物!!」

「・・・く・・・グ・・・クソォォォ!!」

 『赤』の咆哮が果てしなく続いた。暴れ、叫ぶ聖蘭をセシルとアイラが押さえつけ、聖蘭の自我を呼び起こそうと必死で呼びかけた。

 ライには何も出来なかった。

 ただ、呆然とその光景を見ながら立ち尽くすことしか出来なかった。

 既に日付は変わり、明け方に近づこうとしていた。

 聖蘭を拘束していた紐が千切れた。

「アイラ!」

 セシルが慌てて聖蘭を押さえこもうとしたが、何処にそんな力があったのかセシルは聖蘭の細腕に弾き飛ばされた。

「聖蘭! 暴れるな!! 大丈夫、俺がついている。俺が、俺がずっとお前を守るから!」

 ライは暴れる聖蘭の身体を抱き締めた。

「離れて! ライ!! 危ないわ!」

 アイラがライに向かって叫ぶが彼はそれを無視した。

 噛みつかれ、爪を立てられてもライは離れようとしなかった。

「・・・我愛你・・・我愛你、聖蘭」

「イ・・・イャァァァー!!」


 ゆっくりライは瞼を開いた。

 差し込む朝陽が眩しかった。

 いつの間にか気を失うように眠っていたらしい。今が何時かも分からなかった。

 身体を起こそうとして、初めてライは気づいた。

 その腕に、聖蘭を抱いていたことに。

 あの日のように、静かに寝息を立てながら。

 ライはそっと彼女の頬を撫でた。

「・・・あれ? 起きたの?」

 ベッド脇のソファーに腰掛けたまま眠っていたのか、アイラが眼を覚ました。カウチではまだセシルが眠っている。

 落ちかけている毛布をセシルにかけてやり、アイラは聖蘭の顔を覗き込んだ。

 脈を計り、体温を確かめる。

 心配そうに聖蘭を見るライの肩をアイラは叩いた。

「アイラ・・・?」

「ほら、お姫様が眼を覚ましたわよ」

 アイラの言葉通り、聖蘭がゆっくり瞼を開いた。

 突然目の前に広がった光景に驚いて声を失っているようだ。

「大丈夫か? 聖蘭」

 ライの言葉に聖蘭がゆっくり顔を向ける。確かめるように、両手を伸ばしライの頬に触れた。

「・・・ライ?」

「聖蘭」

「あぁ、長い間悪夢を見ていたようだわ」

 聖蘭はライの首に両手を回した。ライも彼女の身体を引き寄せて抱き締めた。

「・・・上手くいったのね?」

 いつ起きたのかセシルが嬉しそうにアイラに言った。

「もちろん。私を誰だと思っているの?」

 アイラは得意げに頷いた。

 疲れきった表情ではあったが、朝陽を浴びたアイラは誰よりも美しかった。


 本宅から戻った月香は疲れた表情でソファーに座っていたセシルにワインを差し出した。

「彼女はどうなりました?」

「無事よ。強い女性だわ。彼女ならライを任せられる」

 月香とグラスを軽く触れさせた後セシルはワインをゆっくり飲んだ。

「あぁ、美味しい」

「美龍とアイラさんはどうしているんですか?」

 姿が見えない2人を気にしているらしい。セシルはため息をつきながら、夫人が出してくれたチーズを手に取った。

「アイラは寝てる。一昨日から殆ど寝てないからね。ライは眠っているセイラに付き添っているわ」

「・・・そうですか」

 月香はワイングラスを回した。

 血の様に赤く、それでいて芳しい香り。

 古来、多くの人々を魅了し続けた蠱惑の水。

 この香りに誘われ酔うように月香はライに惹かれた。

 彼は今、彼女に惹かれている。

 もっとも自然な愛の形として。

 一口、喉を潤すように飲む。

 この愛が報われることは無い。

 これで良い。

 これからも友人としていられるならばそれ以上の望みはいらない。

 月香のワイングラスを眺めながらセシルは口を開いた。

「カインは貴方と一緒に出たのよね? ・・・何処へ行ったの?」

 当然の質問だった。だが、セシルはその答えを知っていた。知っていて、彼女は尋ねているのだ。

 我ながら意地悪だ、と思う。

「・・・彼には仕事をお願いしました」

「仕事?」

「もとより、僕が依頼しなくてもするつもりだったみたいですけどね」

 力無く月香は笑った。

 もう、外は夜になっていた。満月が邸の窓から顔を見せる。

 ライは小さなため息ついた。

「・・・どうしたの?」

 囁くような声にライは顔を上げた。聖蘭の視線とまともにぶつかる。

「起こしたか?」

「ううん」

 ライはソファーから腰を上げベッドサイドに腰をかけた。そのまま聖蘭に覆い被さる。

「ラ・・・ライ?」

 突然の行動に戸惑いを隠せず焦る聖蘭だったが、ライの表情はいつになく悲壮だった。

 そっとライの頭を両手で抱く。

「・・・昔、俺も麻薬で死にかけた」

「え?」

 ライの突然の告白に聖蘭は困惑した。尚も、ライは続ける。

「神美龍としての・・・あまりに普通すぎる生活と、黄雷火としての血腥い生活とのギャップに疲れて麻薬に手を出した。特に『仕事』をしているときは麻薬に頼った。クスリが無いと生きられなかった。そのうち、一日中使用していないと苦痛と発作で意識を失うほどだった。そんなときに、俺はあの人に出会った」

「あの人?」

 聖蘭は静かにライの話を聴いていた。邪魔するでもなく、遮るでもなく、ただ聴いていた。

「俺を麻薬から解き放ってくれた恩人。生きるということ、死ぬということ、全てを教えてくれた人だった。俺にとっては2人目の師だった・・・」

「だった・・・?」

 その言葉からライの恩人という人物が既にこの世の人間ではないことを聖蘭は悟った。

 そっとライの頭を撫でる。

「・・・なら、私にとって恩人はライだわ」

「・・・え?」

 聖蘭の言葉にライは顔を上げた。聖蘭の微笑が月光の中で輝く。

「思い出せないこともたくさんあるわ。きっと、たくさん穢れてきたわ。でも、受け入れて生きることを教えてくれたのは貴方よ」

 聖蘭はライの胸に顔を埋めた。

「・・・愛してるわ、ライ」

 ライはしっかり聖蘭を抱き締めた。

 接吻を交わし、聖蘭の身体に触れる。

 真実の愛を手にした瞬間だった。

 だが、同時に最大の弱点をも手に入れたのだった。


 月香とともに別宅へカインが戻ったのはさらに翌日だった。

「お疲れ様」

 セシルがソファーに沈んでいたカインに一言そう言った。だが、それ以上は何も訊かなかった。アイラも微笑んでいるだけだった。

 カインも多くは語らなかった。

 そのやり取りを月香はただ不思議に思った。

 それと同時に、彼らには彼らにしかわからない何かがあるのだと知った。

 その中に月香は入れないし、入ろうとも思わなかった。

 彼らの世界と己の世界は相容れないのだ。重なるとき、それは依頼人と暗殺者として、だ。

「ライとセイラは?」

 静かな別宅の中で影も見当たらない2人の行方を訊ねたカインにアイラが返答した。

「出掛けたわよ。デートだって」

 アイラとセシルは顔を見合わせて笑った。

「そうか、成功したんだな」

 カインは静かに微笑んだ。

「そのまま神家に戻るそうよ。私たちもそろそろ戻りましょう」

「そうだな・・・。リザとZも心配しているだろう。リザには悪いことをしたな。すっかりほったらかしにしちまった」

 済まなそうに頭を掻くカインにセシルが紅茶を差し出した。

「美星がちゃんと相手をしてくれていたみたいよ。それに、リザはわかってるわ。ちゃんとね」

「それは・・・そうだが・・・、むしろそれが可哀想で。却ってあいつを振り回してるな。Zにしたって、あいつの予定も考えないで引っ張ってきちまった」

「あら? 本当に気になっているのはリザだけなんじゃない?」

 と言い出したのはアイラ。

「案外Zのほうを気にしてたりして。あの口振りは・・・」

 セシルの冗談だった。

 だが、カインにとっては冗談ではない。

「お、おまえらなぁ!!」

「羨ましいですね、貴方たちが」

 月香は3人を眩しそうに見た。

 今の彼にとって真に友人と呼べる人間は殆どいない。周囲は敵か味方か、ただそれだけだ。

 そのことを察したセシルが月香の肩を叩いた。

「いつでも呼んでくれれば私たちは貴方の許へやってくるわ。それが『悪魔』の訪れか、『友人』の訪れか判断するのは貴方よ」

 軽くウィンクしたセシルに月香は心から感謝した。

 きっといい友人になれる。

 彼らを『悪魔』にするかどうかは自分次第だと気づいたからだ。


 その頃、ライは別宅から借りた車で聖蘭を連れ出していた。明日から彼女は映画の撮影に復帰する。突然の病気に倒れたと美星から製作者たちに説明したが、聖蘭の出演場面はかなり前倒しで撮影していたため問題は無かった。

 明日『九龍寓話』はクランク・アップする。

 そして、明後日にはライたちは香港を離れる。長いヴァカンスの終わりが近づいているのだ。

 両手に花束を抱えたライは聖蘭を伴ってある墓の前まで来た。

「・・・shing・・・シン・ティアンラン? 星天狼?」

「話しただろう? 俺の恩人だ」

 西洋様式の墓の前にライは白い百合の花束を供えた。

 微かな風が穏やかに花を揺らす。

 周囲には誰もいなかった。

 2人だけが静かに佇んでいる。

「1946~1988年没? 10年前に?」

「あぁ。あの頃は九龍街は暗黒街と呼ばれていて、そこに天狼のアジトがあった。天狼は若い頃に上海から香港へ逃げてきたと聞いた。若い連中から人気があって、暗黒街は天狼がいたから均衡が保てた。だが、10年前に抗争が起きてその騒ぎのうちに天狼は殺害された」

 ライは人差し指と親指を立て、人差し指でこめかみを指した。

「俺が辿り着いたときには既に息が無かった。頭を銃で撃たれて即死だった。そのとき、俺は初めて人の死に涙を流した。失うということがどれ程の悲しみか生まれて初めて知った。俺は・・・2度とそんな想いをしたくなかった。例え、他人に同じ想いをさせても」

 ライはそっと聖蘭の手を握り立ち上がった。

「天狼は変わったところがあって予知能力みたいなのがあった。一緒に酒を飲んでいたとき言われたことがあるんだ」

 彼女の腰に手を回し、身体を抱き寄せる。

「天狼、あんたは昔『命懸けで守りたいと思える相手と10年の後に巡り会う』と言ったよな。あんたの言うとおり俺は全てを賭けて守りたい人が出来たよ。・・・彼女だ。見守っててくれ。あんたが示してくれた俺の生き方を、俺がどうやって生きていくかを・・・」

 行こう、とライは聖蘭を促して帰ろうとした。

「ライ」

 聖蘭の声にライは振り返った。

「・・・何?」

「あの・・・」

 言おうとして聖蘭は思わず言葉を飲み込んだ。

 一陣の風が聖蘭の髪をさらう。

「・・・ううん、なんでもないわ」

 首を横に振り、聖蘭はライに駆け寄った。

 そのとき心によぎった彼女の言葉をライは知る由も無かった。


 かた、という物音を聞いて、リザは部屋を飛び出した。

 階段下の玄関に人影が見える。

「李大人の別宅はどうだった?」

「良かったよ。ゆったり出来て。久し振りに懐かしい話も出来たよ」

 神氏とライの話し声だった。

 美星がセシルとアイラに色々話しているのも聞こえる。

 彼らが玄関から居間へ移動した後、玄関ドアが再び開いた。

「お疲れ。どうだった?」

「失敗していたらここには立っていないぜ」

 Zの軽口に冗談で応戦しながら笑うカインの姿があった。

「カイン!!」

 名を呼ばれ、カインは階段を仰いだ。

 舞うようにリザが駆け下りてきた。

 リザは思わずカインに抱きついた。

「お帰りなさい」

 彼女の行動に面食らっていたカインはやっと現状を把握したのか笑顔をリザに見せた。

「ただいま」

 その言葉にリザの両目から突然涙が溢れた。

 思わずカインは焦った。

「リ、リザ・・・?」

「ご、ごめんな・・・さい・・・」

 リザは涙を拭いながらカインの胸に顔を埋めた。

 緊張の糸が切れたのだろう。

 リザの涙は止まらなかった。

「心配かけたんだな・・・すまん」

 思えば、ノルウェーからこっちリザには心配をかけてばかりいた。

 この先、リザと生活をともにすればずっとこんな思いをさせるのだ。

 ・・・馬鹿な。

 カインは自分で自分の言葉を否定した。

 いつか手放さなければならない時が来る。

 だが、そのとき自分は素直にリザを放すことができるだろうか?

 カインは自分で自分の心が分からなかった。

 ひとつ分かっていること。今はリザを片時も離したくないことだけ。

「・・・パリへ帰ろう」

 カインの言葉にリザは眼を丸くした。

「帰って、ゆっくり過ごそう」

 2人きりの時間を。

 その言葉を口には出さなかった。

 カインの穏やかな表情にリザも微笑んだ。

 頷く代わりにリザは再びカインを抱き締めた。

 ただ、強く抱き合った。 

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