誰が為に(上)
姫聖蘭に惹かれた理由は、きっと同じ『匂い』を感じたからだ。
常に女性に対しては紳士で、優しい男を演じてきた。その仮面の下の冷酷な素顔を押し隠して。
多くの女性と関係した。けれども、どれも長くは続かなかった。
気紛れで、恋多き男。プレイ・ボーイ。抱かれてみたいけれど、恋人にはなりたくない。何度もそう言われてきた。
だからだろう。いつからか、全ての女性に対して本気のつもりだった恋が遊びに変わった。
どんな美女でも落とせない女はいなかった。なのに、本気にはなれなかった。
幾度も出逢いと別れを繰り返した。誰も、本当の姿に気づかなかった。
だが、彼女は違った。
姫聖蘭の瞳に映る自分を偽りたくなかった。
きっと、これが恋なのだと思った。
彼女の身体をこの腕に抱き、吐息の全てを喰らうように口唇を重ね、舌を絡ませひとつになった。
知ってほしかった。偽りの無い自分を。
正体を明かしたとき、聖蘭は素直に受け入れてくれた。
戸惑いもなく。
彼女も、同じ『匂い』を感じていたのだろう。
だからこそ、彼女を救いたかった。
『悪魔』の誘惑から。
「目覚めた?」
頭上から聞こえた声に、ライは顔を上げた。
そこには覗き込むようにしているセシルの顔があった。いつの間にかライは眠っていたらしい。
辺りをゆっくり見回す。
そこは居間らしく、火の気の無い暖炉に絨毯、その上にテーブルとソファー。そのうちのひとつに横になってまどろんでいた様だ。
夜が明ける前に、追っ手を一掃した彼らは月香の別宅に辿り着いた。
車の音に気づいて中から現れたのは中国人の老夫婦だった。
夫人はかつての月香の乳母。夫は月香の教育係だった。
その別宅こそが、月香が12歳になるまで母親と暮らした邸だったのだ。
『お茶をどうぞ』
広東語で夫人がライに茶を勧めた。ライは有難く受け取る。
『月香は?』
『坊ちゃま・・・いえ、旦那様は一眠りされた後に本宅へ戻られました。明日にはまたこちらへいらっしゃるそうです』
時計を見ると既に昼を回っていた。
セシルは出された軽食を口にしていた。ライもそれに倣うように粥の茶碗を手に取った。
「アイラとカインは?」
「アイラはセイラを看ているわ」
「・・・カインは?」
「Mr. 李と出掛けた。」
セシルの意外な返答にライは驚いた。
だが、それを言葉にはしなかった。
愚問だ。
「休んだのか? 2人とも」
「私たちよりは寝ていないわね」
手早く食事を胃に収めると、2人は聖蘭の寝室を訪れた。
落ち着いているのか、聖蘭は静かに眠っている。
「容態は?」
穏やかな寝顔に安堵したライだったが、アイラの表情は固かった。
「極めて危険よ。落ち着いているように見えるけどそれは昼間だから。『赤』の性質は夜と共に現れる」
朝から何度目かの脈を取り、アイラは細かく記録した。
「夜はあんたも傍にいて」
アイラはライを見た。
「彼女にとって今夜が山よ。無事に峠を越せなければ・・・死ぬわ」
死刑宣告にも似た言葉だった。
ライは唇を噛んだ。
何があっても彼女を救ってみせる。
眠る聖蘭に、ライはそう誓った。
カインは熱いコーヒーを飲みながらフェリー・ターミナルを眺めていた。
この数日を思い出す。
実に目まぐるしかった。
パリから日本、そして香港。
昔はひとつ処に留まる事は無く、次から次へと仕事を請け負い、世界中を飛び回っていた。だから短期間で場所を変えることは苦にならなかった。だが、いつしか仕事を終えるとひとつの場所へ帰ることを覚えた。
マダム・ノーラの笑顔が脳裏に甦る。
ユーシスのカクテルが飲みたくなる。
ミカエルの笑い声が懐かしい。
「・・・カイン」
ふと、リザの声が聞こえたような気がした。
振り返った先には、リザではなく青年が立っていた。
こんなところに彼女がいるはずも無い。
思わずカインは苦笑した。
もう幾日も会っていない、そんな錯覚を感じていた。
「現れましたか?」
「いや、まだだ」
Tシャツにパーカー、ジーンズにスニーカー。頭にはメジャーリーグ・ヤンキースの野球帽。
ぱっと見て気付く者は誰もいないだろう。
この若い青年が、香港を動かしている李財閥のトップなどと。
月香が注文したオレンジジュースが運ばれてくる。
それをサングラス越しに見ながらカインは苦笑した。
同じ年齢なのに、どこか幼く思えるのは東洋人だからだろうか?
「なにか?」
「・・・なんでもない。だが、このフェリー・ターミナルで大丈夫なんだろうな」
左手のカップをソーサーに戻し、カインは月香を見た。その眼には暗い光が潜んでいる。
月香の口許が微かに緩んだ。
「すぐに調べがつきましたよ。何処かで偽造パスポートを入手したようです。旧九龍街で偽造パスを作っている男を問い詰めたら吐きましたから。確かに姫眞麻の顔に似た男のパスポートを作成した、とね」
偽造パスポートの記載名はデイビッド・ツィイー。英国系の華僑ということになっているらしい。
「1時間後に出るフェリーの予約にこの名前がありました。恐らく軽く変装して現れるでしょう。その方が人目につきにくい」
僕のように、と月香は付け加えた。
「・・・カインさん」
「?」
コーヒーを飲み干したカインに月香は神妙な面持ちを向けた。
「姫眞麻の暗殺に関して、相応の報酬をお支払いします。」
「なに?」
「以前の分も含めて」
月香の言葉にカインは身構えた。
「以前? 何の話だ?」
「姫眞麻は目障りな存在でした。それを偶然とは言え、貴方方が現れ彼らの組織を潰した。姫眞麻をも始末してくれる。李家にとってこれは利益になる。だからそれに見合う報酬を払わせてください。貴方方4人に」
「・・・あんたの気がそれで済むならば断る理由は無い。が、俺が聞きたいのは・・・」
「僕の一番上の兄は」
カインの言葉を遮るように月香は声を荒げた。
「長兄は、屑でした。出来損ないで、権力を振りかざす事しか知らない小者でした。僕が12歳で李家の本宅へ引き取られたのは母が死んだからです。殺したのは・・・兄たちだった」
当時の李大人・・・月香の実父は本妻の子供よりも、幼いけれども賢く優秀だった妾の子・月香を可愛がっていた。
「いつか僕に李家を奪われると考えた兄たちは、父が留守の間を狙って母を暴行し、強盗に見せかけて殺した。そのとき僕は世話係だった乳母夫婦に連れられて遊びに出ていた最中だった。憎みましたよ、兄たちを。だが、どうすることも出来なかった。父も兄たちの所業を知りながら黙認した。母の名誉よりも李家の誇りを守った」
その後、父親が他界し、長兄が実権を握った。
「僕が15歳のときでした。それから3年近くの間、次々と怪異が起きた。次兄が突然倒れて2日後に死亡した。心不全と聞きました。まだ若く、心臓に持病も無かった次兄の死亡理由にしては不自然だった。それに、父も同じ死に方をしていたのです」
さらに、3番目の兄が交通事故で死亡。未明の海岸沿いを走行していて海に突っ込んだのだ。
サーキット・レーサーのライセンスを所持していた兄には有り得ない事故だった。
「全てが不自然だった。けれど、誰も何も言えなかった。首謀者は明白なのに。その兄は、私が18歳になったときに死んだ。李家所有のホテルのスイートで」
全裸で、ベッドに血まみれで倒れていたのを支配人が発見したのだ。
「後頭部を撃ち抜かれ、即死だっただろうと警察に言われました。そのとき、私は沈痛な面持ちの仮面の下で笑っていました。誰だか知らないが、兄を片付けてくれたことに感謝すらしました」
月香はオレンジジュースを飲み干した。
からん、と氷がグラスの中で音を立てる。
「・・・貴方ですね」
「・・・・・・」
カインは答えなかった。
答えるはずがない。彼は、プロだから。
月香は小さく首を横に振った。
「すみません、僕の独り言です。でも、僕はそう信じているんです」
「是」とも「否」とも答えなかった。
ゆっくりカインは腰を上げ、椅子の脇に置かれていた旅行鞄を持ち上げた。
「カインさん」
背を向けて去ろうとするカインの背中に月香は声をかけた。
振り返ったカインは二つ折りにされた1枚のメモ用紙を月香に手渡した。
「?」
「仕事の依頼はそのアドレスに。『俺たち』のエージェントが連絡をよこす」
「・・・謝謝」
月香は礼を述べ、去っていくカインを見送った。
その背中がライの背に重なる。
もう2度と、学生時代には戻れないふたりの関係を見るように。
前方で疲れ切った表情を見せている男がいた。
確かに、姫眞麻だった。
マカオ行きのフェリーの入国審査は到着時に行われる。よって入国カードに必要事項を記入するだけになっていた。
姫眞麻は周囲をきょろきょろ窺いながら乗り場へ歩いていく。
出入国カードも事前に準備されていたのだろう。
慣れた手つきで出入国カードを記入したカインは着かず離れず姫眞麻を尾行する。
恐らく見られていることを無意識に感じているのだろう。
汗を拭う姫眞麻の横顔は緊張感に張りつめていた。
それで良い。
長袖のジャケットを着ていたがカインは汗ひとつかいていなかった。
乗船時間を告げるアナウンスが響く。
観光客に混じって姫眞麻は急ぐ素振りも見せなかった。内心この1時間が早く過ぎてくれることを祈るばかりだろう。
乗客全員を収容し、約1時間の船旅は始まった。
姫眞麻の後方の席に座ったカインは彼の挙動に注意を払った。
その視線をやはり感じているのだろう。だが、何処の誰からの視線なのか分からず恐怖を感じている表情だ。
(何故、奴はフェリーなんて用意してきたんだ?)
姫眞麻は心の中でフィロスに毒づいていた。
マカオに渡る方法ならばヘリコプターもある。約20分でマカオまでひとっ飛びだ。『本拠地』へ迎えられる将来の大幹部に向かって随分不遜な態度ではないか。このことは是非『マスター』に申し上げなければ。
姫眞麻はフィロスが失脚する姿を思い、薄笑いを浮かべた。
そうでもしなければこの緊張感に押し潰されそうだったからだ。
乗船してからそろそろ60分になろうとしていた。
マカオが見え、乗客がにわかに騒ぎ始めた。
トイレに行こうと腰を上げていた姫眞麻は慌てて窓へ駆け寄った。
その横顔に安堵の笑みが浮かぶ。
(いつまでその表情が続くかな?)
フェリー・ターミナルに船が横付けされると我先に乗客が下り始めた。姫眞麻は慌てず列に並びゆっくり下りていく。
その姿を見失わないように眼で追いながらカインも船を下りた。
ターミナルの建物の中に入ると入国審査を待つ人々でごった返していた。姫眞麻はその列を横目に通路脇のトイレに入っていった。
案内板は他の物陰に隠れていて分かりづらい。多分姫眞麻はマカオによく来ているのだろう。
カインは素知らぬ顔でそのトイレに近づいた。扉の表には片付け忘れられた立て看板が放置されている。
すばやくその看板を通路に向けて立てておき、カインはトイレの中へ身を滑り込ませた。
扉が閉まった直後、トイレに気づき入ろうとした若い男性が足を止めた。
『どうした?』
『掃除中だってさ。ゲートの外にもあるからそっち行こうぜ』
立て看板を指差し、彼らはその場から去っていった。
その後、何人か気づいて入ろうとしたが、誰も扉を開けることはなかった。
姫眞麻はちょうど洗面所を使用していた。派手に音をたてながら顔を洗っている。
かなり汗をかいているのだろう。背中もびっしょりと濡れている。
カインはわざと足音を立てた。
それでも、姫眞麻は顔を洗うことに必死になっている様子だった。
水を止め、脇に置いたタオルを掴み乱暴に顔を拭っている。
カインは姫眞麻の真後ろに立った。
右手を少し斜めに、けれど真っ直ぐに突き出す。
ふと、気配に気づいて姫眞麻は手を止めた。
ゆっくりと顔を上げる。
鈍い音が鼓膜を突き刺すように響いた。
目の前が真っ赤になる。
姫眞麻の身体はゆっくり崩れ落ちた。
恐らく、何が起きたのか理解できないまま事切れたのだろう。
見開いたままの瞳。
顔は血まみれになっており、見ただけでは誰だか判別はつきにくい。
貫通した銃弾がめり込んでひび割れ、血飛沫を浴びて染まった鏡の僅かな隙間に紅の瞳を光らせたカインが映っていた。
黒い革手袋を嵌めた右手には黒く光る銃が握られている。
愛用のコルトパイソンではなく、香港の闇市場で手に入れた安物のトカレフだった。
その銃口を鏡に向けて。
ゆっくりと手を下ろし、消音器を付けたまま屑篭へ放り込んだ。
手早く姫眞麻の旅行カバンを開け、衣類を引きずり出してばら撒き、財布の中の紙幣は全て抜き取った。
「あった」
鞄の底に隠すように入っていた袋を取り出して中身を取り出す。赤い薬包紙と白い薬包紙が数個現れた。
姫眞麻の手元に残った最後のPEO。
それをカインはトイレに流した。
後は、姫眞麻の上着を剥がしパスポートを抜く。あたかも強盗が探し回ったかのように細工する。
造作もないことだった。
かかった時間は約2分。
革手袋をしたままトイレからカインは何食わぬ顔で出てきた。
立て看板を元あった場所にさっと戻し、手袋を脱いで上着の内ポケットに片付けた。
何事もなかったように。
再びサングラスをかけて。
入国審査の列に並び、順番を待ってパスポートを見せる。
係員の女性はパスポートの写真と本人を見比べ、サングラスを外すように言った。
ゆっくりサングラスを外す。
「Mr. 、変わった瞳の色ね」
「眼の病気でね。染色体異常で色素が変化しているらしい」
「そうなの? でも、素敵な色ね」
「Thanks.」
カインは係員女性の眼を見てにっこり微笑んだ。思わず女性が頬を赤らめる。
「フランスの方なのね、フランソワ=ジュペールさん? 滞在日数は?」
「2日」
「短いのね」
「マカオに住む叔父が香港に忘れ物をしてね。郵送じゃ間に合わないというから届けに来たんだ」
「大変ね。じゃ、今夜はマカオ自慢のカジノを楽しむといいわ」
係員女性はなかなかパスポートを返そうとしない。余程カインを気に入ったようだ。
「良いカジノを知っている? なら案内してくれないか?」
「今夜?」
女性は会話を楽しんでいたようだったがちらりと横を見た。上司と思われる男性が2人を見ている。
「残念だわ。今夜は仕事なの。また遊びに来たときには声をかけて」
「なら仕方がない。次の機会を楽しみにしているよ」
「楽しいひと時を、Mr.」
「有難う」
パスポートを受け取り、カインはようやく入国ゲートをくぐった。
ゲート近くでひとりの男とすれ違う。
そのとき、男の足に軽く旅行鞄が当たった。
「あ、失礼。お怪我は?」
「大丈夫ですよ」
男はカインと同じ位の年齢だった。サングラスでお互い素顔を見せていない。
薄いグレーのスーツが良く似合っていた。ポルトガル系だろうか。明らかに中国人ではない。
そのまま、カインはさっさとタクシー乗り場へ歩いていった。
黒い車体のタクシーに乗り込むと運転手が広東語で話しかけてきた。
『どちらまで?』
『ホテル・フォーチュナーまでやってくれ』
『了解』
タクシーの運転手は何も知らないままフェリー・ターミナルから発車した。
まさか、今し方殺人を終えた暗殺者を乗せているとは夢にも思わないだろう。