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悪魔の御子  作者: 奏響
第1話 赤と銀の輪舞曲
5/71

パリにて(下)

 ライがZにキスされ、怒りで頭がおかしくなりかけていた頃、カインはすでにタクシーの中にいた。Zがもたらした『依頼人』の居場所に向かっている最中だった。

「正装だね、ムシュウ。デートかい?」

 少々訛りが気になるフランス語で運転手が話しかけてきた。

「いや、友人の誕生日パーティーだ」

 嘘ではない。ただちょっと寄り道するだけだ。

 カインはその後はどんなに運転手が話しかけても返事ひとつせず、ただ黙ってサングラス越しの窓の外を眺めるだけだった。

 運転手のほうも会話を諦めラジオのスイッチを入れた。ラジオの向こうから、アナウンサーの流暢なフランス語が流れてきた。どうやら報道番組らしい。内容は今朝の新聞にも載っていたあの『事件』の続報だ。

 カインは目を閉じ、アナウンサーの声を聞く。いや、正確には聞き流しているに過ぎなかったが。

 闇の中、恐怖に顔を引き攣らせた男の姿が脳裏に甦る。その男の前にサングラスをかけた銀髪の男が銃口を向けて立っていた。蒼白になった男がなにやら喚いた。銀髪の男はサングラスを外した。ちょうど月光が窓から差し込み彼を照らす。真紅の瞳が男を見下していた。そして、銃口が火を噴いた。

 タクシーが目的地に到着した。少し多めに料金を運転手に渡し、カインは車から降りた。

 目の前の小路に足を踏み入れる。

 そこは賑やかな繁華街とは違い、生活感の滲み出た裏通りに通じていた。

 薄汚いアパートが並んでいる陰気な世界だ。夕方に近いとはいえ、路上には酔っ払いが転がり、スリ家業に勤しむ子供たちが表通りを行く身なりのいい連中を狙っている。

 勿論表通りから行くこともできたが、この裏通りを抜けるのが一番の近道だった。

 タキシードの上に薄手の上着を羽織ったカインは足早に歩を進める。

 誰もがその場違いな男を見た。

 彼の後ろをスリの子供が数人距離をあけてつけてきていた。カインは足を止め、鬱陶しげにサングラスを外した。

 鋭利なナイフのように細められた眼は、子供のみならずその周囲にいた大人たちまでも震え上がらせた。

 紅の瞳は夕陽を浴びていっそう獣のそれに酷似していた。

 彼らの反応を見て、カインは再び歩き出した。

 安堵したのか、人々はぼそぼそと話し始めた。それがカインに聞こえないはずはなかった。

「見たか、あの目…」

「バケモンの目だぁ、ありゃあ・・・」

「…悪魔だ」

 すでに耳慣れたはずの言葉。今更傷つくわけではない。この髪、眼、容姿の全て。悪魔である自分の全て・・・。『俺は悪魔じゃない』と否定しながら、にも関わらず『仕事』の度に利用してきた。

 赤い血の瞳。人を死へ誘う魔性の眼。

「今更どうだというのだ。俺は・・・」

 『悪魔の御子』。地上に現れた悪魔の化身。

 この力を欲する輩は多かった。

「自由とは長い鎖で繋がれていることだった。だが、終わらせてみせる。・・・必ず」

 カインは建物に阻まれた空を見上げた。

 そこは高みへの唯一の脱出口のようだった。


 「ようこそ、ムシュウ・コリューシュン。主は書斎におりますのでご案内いたします。どうぞ」

 まだ若い長身の青年が玄関でカインを迎えた。容姿端麗・才色兼備とはこのような男のことをいうのだろう。

 青年の口許が微笑みを浮かべる。

 その表情にカインは見覚えがあるような気がした。

「あんたは・・・?」

「当家執事のフィロス=ルーベルスと申します。以後、お見知り置きを」

 青年は深々と頭を下げた。

 線が細く、知的な印象を与える仕種でフレームのない眼鏡を直す。その動き一つでさえ優雅だった。

 執事はカインを3階にある書斎へと通した。

 軽く扉を2回ノックする。

「失礼いたします、旦那様。ムシュウ・コリューシュンをお連れいたしました。」

 彼は扉をゆっくり開けると、カインに中へ入るよう勧めた。

 カインは無言のまま足を踏み入れた。と、同時に背後で扉が閉まった。

 そこに執事の姿はなかった。

「躾の行き届いた男だろう? 若いが今や私の右腕だ。」

 自慢気に笑う男の声に、カインは顔を顰めた。

「今ごろティー・タイムか?」

 男は口元を緩め、ティー・カップを戻した。かなりの年代もので、相当値の張る代物だろう。

「相変わらずいい骨董趣味だな」

「私のコレクションの中でも一級品に入る。君もどうかね」

「遠慮しておく。用件を聞こう」

「そう慌てることもなかろう」

「慌てているんだ。あんたより先に先約があってね」

「そうか・・・今日は『彼女』の誕生日か。それでは仕方があるまい」

 そのとき、男は初めてカインの方に顔を向けた。年老いているとはいえ、その端整な顔立ちには衰えが感じられなかった。だが、この老年の男の瞳には、闇に生きる者独特の光が翳ることなく宿っていた。

「サングラスを外したまえ。久しぶりに君の顔が・・・眼が見たい。」

 男は口端を吊り上げた。

 カインは無言でサングラスを取り外した。

「私も何回か・・・『北の悪魔』に会ったことがある。そっくりだな、その瞳」

「その名を口にするな。さっさと用件を話してもらおうか、レイモンド会長。いや、『麻薬王』と呼んだ方がいいか?」

「君のおかげだ。これでブラジル・ルートは確保できたのだからな」

「あんたほど人使いの荒い依頼人はいない。で、今度は何処の誰だ」

 レイモンドと呼ばれた男は1枚の写真をカインに向かって投げた。それを、表情を変えることなくカインは受け取った。

「・・・あんたの部下か」

「『元』部下だ。知ってるだろう」

「アンドレア『元』社長」

「その通りだ。今では独立し自己で事業を行っている」

「事業・・・ね。で? 罪名は?」

 レイモンドが再び笑みを浮かべた。冷たい、残酷な笑みを。

「反逆罪」

「ふん、なるほどな。『元』飼い犬に手を噛まれた挙句庭まで荒らされた、か」

 カインは写真を握り潰した。

 庭とはレイモンドの麻薬ルートのことだ。アンドレアはおそらく彼のルートに手を出したのだろう。馬鹿な男だ。

「いいだろう。だが、これで最後だ」

「何?」

 カインの突然の言葉にレイモンドは初めて顔を曇らせた。

「最後だ。俺があんたの前に姿を現すのもな」

「・・・手を切る・・・と?」

「あぁ。俺はもうあの頃の俺じゃない。あんたの思い通りにはもうならない」

「二度と陽の光を浴びることができなくなるぞ?」

「・・・やってみるがいい。最後の依頼は遂行してやる。話は・・・いや、話す必要はもうないな」

「よかろう。しかし、残念だ。この10年で君とは良き友人同士に慣れたと思っていたのだがな」

 その言葉をカインは鼻で笑った。

「何だね?」

「いや、友人とはな。あんたの口からそんな言葉を聞くとは思わなかった」

「・・・意外かね」

「まぁな。10年の間俺を鎖に繋いでおきながら言える台詞とは思えないね。・・・Au revoir,ムシュウ」

 カインはそう言い捨てると、足早に部屋を出て行った。

 レイモンドはカインの出て行った扉を無言で見つめたまま、ぱんっ、とひとつ手を叩いた。

「お呼びでございましょうか」

 隣室の扉を開き、そこに姿を現したのは執事のルーベルスだった。

 レイモンドは執事に眼をやらず、今度は窓の外に視線を移した。

「あの男・・・予想通りに言って来おった。この私から逃げられるとでも思っているのか? 愚かな男だ・・・。所詮闇の中にしか生きられぬくせに・・・」

 執事に向かって言っているのか定かではない。だが、男の表情にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいる。

「それで、集まったのか?」

「はい」

「通せ」

 執事は頷くと、隣室から3人の男を連れてきた。

「貴方たちへの依頼は先ほどお話したとおり、彼 ― ハロルディア=カイン=アルフォード=コリュ―シュンの暗殺です。ご存知の通り彼は殺し屋として超A級の腕の持ち主です。始末が終わったらそれ相応の報酬をお支払いしますよ。個人なり、協力なりお好きな方法でどうぞ。・・・これでよろしいですか、旦那様」

 レイモンドは執事の言葉に満足気に頷いた。

「協力なんて冗談じゃねぇ! 俺は1人でやつをぶっ殺すぜ」

 3人のうちの1人 ― つい昨日まで刑務所にでも入っていたような面構えの男が叫んだ。大男に同意するように、真ん中に立っていた長髪の男が頷いた。暗がりで顔はよく見えない。

「私も同感ですね、ムシュウ。彼を殺したとあれば名も上がりますし。・・・それ以上に興味もありますけれどね」

「いいでしょう。貴方もよろしいですか?」

 執事は最後に残った左端の男に声をかけた。30半ばであろう男が無言で首を縦に振った。

「良かろう。健闘を祈るよ、勇敢なる諸君」

 すでに冷え切った紅茶を新しく入れ直したものに代えさせ、レイモンドは口をつけた。ジャスミンの香りが程よく嗅覚と味覚を刺激する。

 彼の人生に、思い通りにならぬものはなかった。それが、たとえ暗殺者であったとしても。

 満足気に、レイモンドは微笑んだ。

 壁際に置かれたアンティークの大時計が6時を知らせた。


 同じ頃、とある高級レストランの一室で、時間丁度にロウソクが灯された。

「ハッピー・バースディ、セシル」

「おめでとう、セシル」

 ライとアイラの二人が祝いの言葉を述べた。ちなみに彼らの会話は常に英語で進められる。

「Thank you. こんな豪華に祝ってもらえるなんて嬉しいわ」

 セシルは心底嬉しそうであった。

「でも、お店のほうでも盛大にパーティーをしてもらったんでしょ?」

 アイラがくすっと笑う。セシルは1つウインクをした。

「まぁね、でも違うわよ全然。そういえばカインはどうしたの? 遅刻魔は相変わらずなわけ?」

 セシルの瞳には眼前の空席が映し出されていた。それは、まるでこれから来る人間を心待ちにしているようにも見える。

「急に依頼が入ったんだ」

「依頼って・・・、Zはどうしたのよ。あれの仕事でしょう?」

 ライの言葉をセシルが聞き返した。

「それが今日に限って自分から出向いちまったんだよな、これが。ま、詳しい話はまた本人からでも聞いてくれ。それより・・・」

 これ、といってライは一つの包装された長方形の箱を差し出した。アイラが「開けてみて」と言う。

 セシルは箱を受け取り、包装紙を剥がした。

「ワァオ! 素敵!! ありがとう、こんなの欲しかったんだー」

 ライは箱の中身を取り出し、彼女の左手首につけてやった。プラチナで作られたブレスレットタイプの時計で、シンプルな作りの中に贅が尽くされている品だ。

「なかなかイイ時計だろう? 一目惚れしちゃってさ、俺」

「店の中で店員をナンパしながらずーと見つめていたのよ、この子。でも似合っているわ、セシル」

「実はさー、何くれるのか結構ハラハラしちゃったのよね。アイラのことだから、薬物入りのワインとか、毒素を吐く花束とかー・・・」

「・・・そっちが良かったわけ?」

 頬杖をつき、アイラはわざと冷ややかな目で ― 笑ってはいるが ―セシルを見た。彼女は笑って首を横に振った。

「私は遠慮するわよ。次回のカインにでもあげて頂戴」

 哀れなことに、矛先はいまだ到着していないカインに向けられてしまったのであった。今頃くしゃみでもしてるだろう、とライが笑った。

 そうこうしているうちにワインが運ばれてきた。これでもライとセシルはなかなかうるさい口だ。オーナーが気を使ったのだろう、頼む前から一級品を持って現れたのだ。

「本日はおめでとうございます。こちらは当店からマドモアゼルへのプレゼントでございます。どうぞお召し上がりください」

「メルシー」

 セシルはにっこり、彼女独特の笑みを見せた。

 オーナーとソムリエが部屋から出て行ったのを見計らって、3人はグラスを手にとった。カインが来るまでの手持ち無沙汰を解消するには十分だろう。

「そう言えば、財団のほうはどうなの?」

 アイラは一口飲んでからグラスをテーブルに戻した。彼女はあまりいける口ではない。普段飲むことは滅多になく、パーティーのときに軽いカクテルで済ますことが殆どだ。

 アイラの問いに、セシルは口元を緩めた。

「おかげさまで順調に収益は伸びているわ。うちの財団は傾く暇すらないわね。アイラはどうなの? 渡り鳥医者はいい加減卒業したら?」

「いいじゃない、別に。何処かに居着いたりしたら『本業』が疎かになってよ。今はパリ市内の病院に勤務してるの。人手不足だからって呼ばれたのよ」

 2人は顔を見合わせてくすっと笑った。

 セシルはアイルランド系アメリカ人。米国内では知らぬものはいない『シンディア財団』の現総帥、キャロライン=エリザベス=シンディアという表の姿を持っている。

 特に彼女が力を入れているのが一流ホテルの経営で、西はL.A.から東はN.Y.まで、海外にも店舗を持つほどの大規模で経営していた。彼女自身はあちらこちらを飛び回っているため、大切なとき以外にクラブや会社に顔を出すことは極稀になっていたのだ。

 彼女の顧客にはそれこそ政界の大物や映画界の巨匠、人気俳優、企業の大資本家、実業家などありとあらゆる方面の著名人たちが集い、パーティーを開く会場としても有名だった。

 アイラはロシア人の血をひく母を持ったイングランド人である。彼女は現在イギリス・西ヨーロッパを中心に、医師として各地を渡り歩いていた。専門は外科。

 先ほど本人が言ったように今は市内の病院勤務で忙しい日々を送っている。ちなみに彼女は周囲から“エレーナ=ローレンサー”の名で親しまれていた。

 セシルは受け取ったばかりの腕時計を見た。針は6時半を示している。

「・・・遅いわね、アイツ」

「今頃渋滞に巻き込まれているんじゃないか? この時間パリの道路は駐車場に変わるからな」

 ライはその美貌に似つかわしい笑顔で、紅玉色のワインを味わうようにグラスを傾けた。


 「はーっくしょんっ!! ・・・あいつら、勝手なこと言ってやがるな」

 カインは恨めしげにクラクションの鳴り響く道路を睨んだ。風邪でもないのにくしゃみをするのは大抵悪い噂をしている奴がいるのだ。

 パリの繁華街に面した道路はライの言葉通りになっていた。テール・ランプが延々と続く道路脇の歩道をカインは足早に歩いていた。時計はすでに6時30分を過ぎてしまっている。

「・・・タクシーに乗ったままでなくて正解だったな」

 うんざりするような車の列を見てカインは呟いた。

 途中まではタクシーに乗っていたが、増える一方の車を見て降りてしまったのである。今頃あのタクシーも巻き込まれていることだろう。

 カインはふと周囲を見渡した。

 愛を語り合い、抱き合う恋人。

 レストランのテーブルを囲み、幸せそうに食事をする家族。

 リボンを掛けた愛らしい包装紙の大きな包みを抱え家路を急ぐ父親の姿。

 路上で手製のアクセサリーを売る若者。

 残り少ない新聞を持って走る少年。

 真暗な横道で酒をあおる浮浪者・・・。

 様々な夜を過ごす人々でパリの街は溢れていた。どれも真実の自分とは縁のない姿だった。なのに、自分は正装で内輪のパーティーに向かっている。ついさっきまで、殺しの依頼を受けていたとは思えない姿だ。

「ふっ・・・、滑稽だな、俺も」

 その時カインは、はっ、と振り返った。そして周囲を見渡す。行き交う人々の隙間を縫うようにして。

 気配・・・。しかも、殺気。

 しばらくしてカインは再び歩き始めた。すると、気配はすっとカインをつけ始める。

 自然笑みがこぼれた。

 大した・・・自信過剰な奴。

 気配はずっとカインをつけて来ていた。

「そろそろ・・・か」

 カインはさっと角を曲がった。気配の主を殺るために。

 しかし曲がった瞬間、カインは1人の少女にぶつかってしまった。少女はその衝撃に弾き返され、持っていた花を道端にばら撒いてしまった。

 カインは慌てて彼女を抱き起こした。

「すまない、大丈夫か?」

「は、はい・・・。お花・・・」

「花・・? あぁ、台無しにしてしまったな、すまない」

「いいんです、売れ残ってしまってどうしようか迷っていたんです。」

 10歳ぐらいだろう少女は手押し車に乗せられた花を淋しそうに見やった。

 カインは膝を折り少女の目線に顔をもってきた。もちろんサングラスは外して。少女は少し驚いて頬を赤らめた。

「実はこれから友人の誕生日パーティーに行くんだけど、30分以上遅れてしまったんだ。手ぶらでは行きにくくてね、できればあの花で大きな・・・、そう特大の花束を作ってくれないかな? プチ・マドモアゼル?」

 カインの言葉は少女の笑顔を取り戻すのに十分だった。

 せっせと花束を作る少女の後ろ姿を見て、カインは心が平穏を取り戻してゆくことに気づいた。つい今し方まで、『始末』をしようとしていた冷徹な心が・・・。

 人を・・・殺す・・・?

 カインは我に返った。

 そうだ。命を、無謀にもこの命を狙っていた輩がいたはずだ。

 俺は、そいつを・・・。

 背後から足音が近づいてきた。

 クラクションでかき消され、普通なら聞こえないはずの音。

 カインはホルスターの中の銃に手を伸ばした。

 足音が最も近づいた瞬間、

 ・・・来た。

「パパ」

 花売りの少女が突然声をあげた。カインが銃を抜きかけ、振り返ったのと同時だった。

「マリエール」

 現れた男は駆け寄る少女を力強く抱き上げ、その愛らしい頬にキスをした。

 カインは呆気にとられた。

 足音の主はこの少女の父親のものだったのか?

 自分の勘が外れるわけはない。だが・・・。

『人を見かけで判断するな。痛い目に遭いたければ別だがな』

 冷静・冷徹・冷酷であれ。それが暗殺者の掟。

 あの男の口癖だった言葉。

 思い出した途端に、カインは嫌悪感を覚えた。

「パパ見て、お花全部売れたのよ。残ったお花、全部ムシュウが買ってくれたの」

 よほど嬉しかったのだろう。少女は堰を切ったように喋り始めた。

「そうか、良かったな。マリエール。・・・ありがとうございます、ムシュウ。」

「いや・・・」

 カインは再び掛けたサングラス越しに男の様子を伺った。

 身長はカインより少し低め、中肉中背の典型的な40前の体型。人の良さそうな顔。娘を見る目は父親そのものだ。

 本当にこの男なのか?

 カインは自分の感覚に絶対の自信を持っていた。自分の、この命を狙った殺気はこの男のもののはずなのだ。なのに、なのに・・・。

 真横のショーウィンドーの中にある置時計が時を知らせた。

 カインはとっさに腕時計に目をやった。針はちょうど7時を指している。

「時間がない・・・! これは花の代金だ。釣はいらない」

 カインは少女の小さな両手に余るほどの金を渡し、荷台に置かれた花束を引っ掴んで駆け足でその場から遠ざかった。

 彼の心に疑念を残したまま。

 遠くで「メルシー」と叫ぶ少女の声が耳に届いた。

 カインは振り返り、左手に握っている花束に視線を移した。少し口元を緩め、頭を振り、彼は再び駆け出した。

「お連れ様がお見えになられました」

 ワインを片手に談笑中だった3人の元にオーナーが再び現れたのは7時を10分ほど過ぎた頃だった。

 どうぞ、と言って彼が通したのは、タキシードを着崩し、片手に花束を抱えた男だった。

「遅くなってすまない」

 カインは自分の席につかずセシルの傍へ行き、花束を渡しその頬にキスをした。

「ま、良いのよ。仕事だったんでしょ? この花束で許してあげる」

 セシルは悪戯っぽく笑った。そして、そのまま花束に顔を埋める。

「んー、いい香り。ありがとう」

 カインは嬉しそうに微笑み、自分の席についた。

 そこへすかさずソムリエがグラスにワインを注ぐ。

「では、改めて」

 一つ咳払いをして、ライがグラスを掲げた。

「誕生日おめでとう」

「永遠の幸福と」

 アイラがニッコリと微笑み、

「永遠の愛が貴方を抱いてくれますように」

 カインが優しく囁くように後を受けた。

 グラスが心地良い音をたてた。甘口の、爽やかでフルーティーな味わいだ。

「前菜でございます」

 若いギャルソンが説明をしながら料理を運んできた。最高級の素材を使用した品々が次々に振舞われた。

 4人にとっては、本当に久しぶりの賑やかな夜だった。


  翌朝ライは自室で眼を覚ました。身体を起こし、とりあえず昨夜のことを思い出そうと右手を額に当てる。

 夕食後、9時に彼らは馴染みの店で飲み、12時半頃タクシーでセシルとアイラを部屋まで送り、2人揃って帰宅した時はもう1時をまわっていた。

 ライはベッド脇に置かれた目覚し時計を手に取った。針は7時をすでに過ぎている。窓の外からは小鳥の囀りが聞こえてくる。低血圧のライには起床することのない時間だったが、再び寝付けるほど図太い神経の持ち主ない。

 彼は服とスラックスに手を伸ばした。

 先日クリーニングから戻ってきたばかりの真っ白なシャツと黒のスラックスだ。それらを身に着け、ライは隣室の扉をノックした。

 応答無し。

「下か・・・」

 そう呟いて部屋を出、階下へと続く階段を下りた。一段降りるたびにライの乱れた黒髪が揺れる。

 1階の店の扉を開けると、カウンターに座っていた2人の男が振り返った。

「おはよう、ライ」

「珍しいな、お前がこの時間に起きてくるなんて」

 カインの隣に腰を下ろしたライに2人は口々に言葉を紡いだ。

 ライは鬱陶しそうに、というより、寝起きのままのキツイ顔でじろっと睨んだ。

 眼が怖い。

「悪かったな。それよりなんでこんな朝早くにいるんだよ、Z」

 マダムに出されたコーヒーをブラックのまま受け取り、ライはZの方に顔を向けた。

「お仕事に決まってるでしょ」

 Zは流暢なフランス語で言葉を返した。

「俺が呼んだ。情報屋にちょっと調べて貰いたいことがあったからな」

 カインが2人の会話に割って入り、ライに1枚の写真を見せた。

「こいつは・・・」

 ライはしげしげと写真に見入った。暫くしてから、「・・・あぁ、フランク=アンドレアか」と呟いた。

 カインは黙って頷いた。

「可哀相にねぇ。よりにもよってお前に消されるとは。依頼人は何か? 麻薬王だったりして」

「・・・ビンゴ」

 カインは口の端を吊り上げた。ライも合わせるかのように笑う。

 その笑みの冷たさに、Zは背筋を凍らせた。2人の目には普段とはまったく別の、異質な光が宿っていた。

 暗殺者の瞳。

 この2人は殺し屋なのだとZは改めて確信した。彼らとこんな形で関わっていなければ、逆に消されていたかもしれない。情報屋とは強力な後ろ盾があってこそ成立する商売だ。

 Zは一口コーヒーを飲み深呼吸をした。仕事モードに戻るためだ。

「狙い目は明後日の夜6時。奴が友人のパーティーに出かけるため唯一その日だけ、オフィス兼自宅のビルからボディ・ガード付きで出てくる」

 そこまで言うとZはカインに右手を出した。カインはズボンのポケットから折り畳まれた数枚の紙幣をその手に乗せた。

「それともうひとつ。おまえの言っていた花売りの娘だが特に出てくるものはなかったぞ」

 Zはカインに顔をさらに近づけた。

「近所の人間の話だと、母親は娘が5,6歳の頃に死亡していて、工場勤めの父親と2人暮しだ。暮らし振りは楽とは言えんらしい。もう少し調べればまた新しいこともわかると思うが、まぁ娘を学校にも行かせず働かせているぐらいだからな。その父親ってのもロクなもんじゃないさ」

 カインはZの話を黙って聞きながら煙草に火をつけた。タール1mgの非常に軽いモノだ。愛煙家に(特にライやZには)「こんなもの煙草ではない」と言われそうだが、カインには十分だった。

 彼は煙草をふかしながら、昨夜のことを思い出した。

 花売りの娘とその父親。

 マリエール、と呼ばれた亜麻色の髪の娘はいじらしいほど父親を慕い、父親は娘に有り余るほどの愛情を注いでいた。

 生活は苦しいのだろうが、それでも幸福に満ちた顔だった。

「父親・・・か・・・」

 くわえ煙草のままぼんやりと呟く。

 父親とはどういった人種なのか。無条件に子供を愛する、それが父親というものなのだろうか。

 だとすれば、カインには父と呼べる相手を思い出すことができなかった。ただ、覚えていないだけなのか、無意識に父と思うことをやめてしまったのか、いずれにせよあれほど父親を愛する事が自分に出来ただろうか。

「どうした?」

「・・・なんでもない。ご苦労だったな」

 怪訝そうに様子を伺うZに、カインは紙幣を追加した。

「ま、いいか。どーも」

 Zはニッコリと笑い、コーヒーを飲み干すと席を立った。

「もう帰るのか?」

 ライは引き留めるようにZに声を掛けた。時計の針はまだ8時を指したところだった。

 Zは振り返って笑いながら答えた。

「あぁ、今から学校さ。曲がりなりにも教師だからね。授業に遅刻するわけにもいかんのよ。誘ってくれるなら今度の週末に2人っきり、てのが良いなぁ」

 ははは、と勝ち誇った高笑いだけを残してZは店を出て行った。

 深い溜息を漏らして、ライはカインに眼をやった。だが、カインは今の2人のやり取りをまったく聞いていなかったようで、煙草をふかしたまま思索に耽っていた。眼もどこを見ているのかまったくわからない。

 何か言いかけてライは口を噤んだ。

 カインはまるで周囲に注意がいっていなかった。それほど考え事に集中してしまっているのだ。

(邪魔しちゃ悪いな)

 ライは肩を竦め、焼きたてのパンを運んできたマダム・ノーラを捕まえ、世間話に花を咲かせることにした。

 やはり、その話し声ですらもカインの耳には入らなかった。


 2日後、アイラとセシルが連れ立って2人のアパルトマンを訪れたのは昼過ぎだった。

「暇潰しなら他行きゃいいだろうが。」

「いいじゃないの。私たちも忙しい中『わざわざ』来てあげたのよ」

「はいはい」

 ライはアイラにいい加減な返事をして、セシルが淹れた紅茶に口をつけた。

 セシルは彼らの部屋を訪れる際に必ずと言って良いほど紅茶セットを持ってくる。今日も例の如く― 今回はアールグレイだが ―持参してきた。紅茶愛好家としてもセシルはちょっとした有名人で、自宅には様々な種類の紅茶コレクションが並んでいるという。食器にもそのこだわりが見られるのである。今日一緒に持ってきたカップは最近手に入れたものだとか。

「いつも悪いねぇ。ポットまで持って来させて」

 紅茶好きのライはなんだかんだいっても、こうしてわざわざ淹れに来てくれることに感謝していた。

「あら、構わないわよ。私も好きでやってることだし」

 セシルはにっこりと微笑んだ。そうすると彼女は年齢よりもずっと若く、幼く見える。

「でもポットぐらい置いたらどうなの? あんたたち」

 自分で焼いたのか、貰い物なのかわからないが、いずれにせよ見るからに手作りといえるクッキーを並べながらアイラが口を挟んだ。もう一枚の皿には一口サイズのチョコレートが並んでいる。

「ん~、あったことはあったんだけどね」

 そう、あったのだ。でも今はない。

「どうせ買う気がないだけなんでしょ」

 さすがセシル。鋭いところを突く。

「別に使わないから、とか言ってね」

 ライは溜息をついた。

「・・・あぁ、『彼女』が好きだったんだっけ?」

 セシルの表情が少し翳る。

 かつて、そう何度も会った訳ではなかったが『彼女』のことはセシルも覚えていた。紅茶好き同士、話も良く合った。茶葉はアッサム、ミルク入りでないと飲めない、と言って敬遠していたカインのために『彼女』はこの部屋にポットを置き、ティー・カップを揃え、彼のために毎日美味しい紅茶を淹れていた。

 カインはその頃から少しずつ紅茶の味を覚え始めた。

 その『彼女』はもういない。

 ライがこのアパルトマンに転がり込んで来たときには、まだ『彼女』の想い出は残っていた。けれども、ふとした拍子にカインが割ってしまってから、この部屋にポットが置かれることはなかった。

「そういえばその割った本人は何処へ行ったの?」

 話題をそらすようにアイラが会話に割って入った。何気なく、チョコレートを口に放り込みながら。

「打ち合わせがどうとか言ってた。その後に『お仕事』」

 優雅な仕種でライはカップを手にとった。彼の言葉に秘められた意味が何であるかさえ感じさせない、そんな雰囲気だった。


 時間を少し戻すことにしよう。

 ライが執筆中だった新作小説にエンド・マークを打ち、ベッドに潜り込んだのは朝7時を過ぎだった。相変わらず締切ギリギリだなぁと自分で呆れながら欠伸をしてベッドに入ったときだった。

 カインの気配がした。扉が開き、バスルームに入ったかと思うと数分して出て来た。バスローブ姿のまま、彼はライの部屋をノックした。そういえば今日カインが行く予定の雑誌社から、たった今書き終わった新作が発行されるのでついでに持っていってくれと昨夜頼んだのを思い出した。

「今終わったところか?」

「ん~、そ~」

 ライは面倒臭いのか死ぬほど眠いのか、たいした返事もせずにそのまま寝息をたて始めた。

 カインはそっと中に入り、デスクの上においてある茶封筒を手にとり中身を確かめた。

「これで良いんだな」

「・・・・・・」

「・・・わかった。」

 もはや会話にすらならない会話を打ち切り、カインは1人で朝食を済ませ、着替えて部屋を出て行った。

 ライの夜行性は今に始まったことじゃないが、「ドラキュラ伯爵だな」と考えてカインは一人で噴き出したりしていた。

「・・・て、こんなこと考えている俺も結構余裕」

 くくくッ、と声を殺して笑う自分を、心の何処かで見つめるもう一人の自分が存在することをカインは知っていた。

 ・・・お前は否定しながらも、『北の悪魔』そのものだ。お前は血に飢えた殺人鬼だ。誰かの血にまみれたくて、快楽という名の殺人に溺れたくて、人を殺すことを糧としている生来の『人殺し』だ。

 誰かが・・・自分が哀しみに満ちた瞳でそう呟いた。

 それをもうひとりの自分が嘲笑うかのように悪意に満ちた声で叫ぶ。

 ・・・貴様のような臆病者に罵られる覚えはない。自分から立ち向かうこともせず、受け入れることもせず、しまいには逃げることも抵抗することもやめてしまった脆弱な『子羊』に何ができる。結局は俺が今の俺になったんだ。貴様はただ黙って泣いていただけだろう。だから俺が救ってやった。誰でもない。俺が『俺』を助けた。あの『地獄』からな!!

 見下し蔑むような眼で声高に笑う『自分』の姿にカインはっと我に返った。

 いつの間にか眠ってしまったらしい。カインは周囲を見回した。

 今日は珍しくカインはバスに乗った。最初はがらがらだった車内も通勤・通学の人間でいっぱいになっていた。

 カインは右手で自分の頭を抱えた。

 夢の中のふたりの自分。

 自分自身を否定しながらも、ただその揺るぎない強さに身を委ねた自分。

 時として人を殺す快楽に酔いしれたことは少なくない。

『獣を撃つ狙撃の快楽は暗殺の快楽と同じ。そして殺人を犯すことへの快楽と同じだ。人はそれを知りその快楽に身を委ねたとき、人はもうヒトではなくなる。それはただの獣に過ぎない』

 暗殺の手解きをした男は、珍しく感慨に耽りながらそうカインに漏らした。

 当時10歳にもならない子供にはわからなくて無理ないが、今のカインならばはっきりと理解できた。それがどういう意味だったのか。何故そのような事を言ったのか。

「でも、もう遅いんだよ。あの時、あんたを殺さなければ俺たちは・・・・・・」

 俯いたままカインは口を閉ざした。

 もう、後戻りはできない。選んでしまった運命を今更悔いてみても始まらない。

 『殺し屋』として生きていくと決めたのだ。あの18歳の冬に。『地獄』から『悪魔(ルシファー)』と呼ばれる存在となってこの世界に舞い戻ってきたあの日に。

 バスが停車し、カインは他の乗客に混じって降りた。

 ざわめきの中で彼は空を見上げ目を細める。

 皆が皆、俺が『悪魔』であれと望む。ならばその期待に応えてやるのも悪くない。降りかかる火の粉など恐れはしない。関わる全てを、見ているがいい、俺が、この俺が、地獄の業火で焼き尽くしてやるだけだ。

 カインの目が鋭く光る。

 いつから見ていたのか、二つの視線が別々の方角から注がれていることに気がついた。カインは足を止めずやや早めに歩いた。

 ひとつは明らかに殺意。もうひとつは冷淡なベールに包まれた、秘められた殺意。

 この前感じたものとはまったく異質なものだ。

「ちっ、監視のつもりか? レイモンドのやつ」

 カインはとりあえずこの視線の主たちを無視することにした。仕掛けてくる様子も今はない。

「すまないな。おまえにはいつもいつも苦労ばかり掛けて・・・」

「大丈夫! それよりお仕事がんばって。遅れちゃうよ!!」

 聞き覚えのある声にカインは足を止め、身体を建物の陰に潜ませた。

 あの花売りの少女が仕事に行く父親を見送るところだった。そういえば、あの少女に会ったのも確かこの辺りだったか。

「本当にすまんな、マリエール」

 父親は娘を抱きしめながら、自分の不甲斐なさを嘆いているようにも見えた。

 何度も「すまんな」と口にしながら、娘に見送られて彼は仕事に向かっていった。その背はあまりにも小さく、やはりあんな殺意を抱くことができるような男には思えなかった。

 カインは無言のまま少女に声を掛けることもせず、裏道を抜け足早にその場から去った。


 夕方5時45分。

 とあるビルの屋上にアタッシュ・ケース片手にカインが立っていた。殺意はもう感じられなかったが、代わりに別の監視役が何処かからか見ているようだ。

 カインの紅の瞳には向かいのビルの入り口が映っている。

 アタッシュ・ケースを開け、カインは無言で組立式の狙撃銃を手に取った。

 初めてこれを見たのは、もうかれこれ20年も昔だったか。

 子供心に憧れ、触れてみたいと願いながら叱られることを恐れて黙って眺めていた。

 男は目の前で大切そうに手入れをしながら笑って言った。

『こいつはいずれお前のものになる。世界で2つとない銃だ。今のうちに良く見て扱い方を覚えろ』

 その言葉に少年は黙って頷いていた。

 2人のやり取りを微笑みながら温かく見守っていた女性。

 心と身体を責め苛まれ、傷だらけになっていた幼年時代から救ってくれたひと。その女性が愛してやまなかったただひとりの男。

 結局錯覚でしかなかった。

 幸福を、絵に描いたような愛情溢れた家族の生活だと、少なくともカインは信じていた。

 だが,初めから期待は裏切られていた。

 幼い子供たちは男の手によって殺人鬼へと変貌したのだから。

「あの頃は素直に喜んだ。あんたに誉められたい一心で、教えられたことを必死になって覚えた。・・・何をしているのかも知らずに」

 銃を見つめ,カインは冷たい氷のような声を発した。

 男は消え,銃と残酷な運命だけが残された。

 その運命にこれからも流されるのか,抗うのか,それはカインにもわからなかった。

 ただ,『今』という時間を生き抜くしか方法はない。

 ・・・『時』が来た。

 カインは銃を構えスコープを覗く。

 時間ちょうどに標的は現れた。

 その瞬間獲物の右目が撃ち抜かれた。

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