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悪魔の御子  作者: 奏響
第4話 香港狂詩曲
49/71

壊れた玩具(下)

 燃えさかる洋館を遠くに見つめ、姫眞麻は悔しさに打ち震えていた。

 地下室の秘密通路から暗い道を全速力で駆け、息も絶え絶えに開いた扉から見た光景が『こんなもの』だとは予想だにしていなかった。

 あの洋館は姫眞麻にとって『再生』の象徴だった。

 李財閥の保護を受けていたマフィアで、チンピラから成り上がりそれなりに知られていた。ありとあらゆる悪行は全てやった。裏社会で知らぬことなど何一つ無かった。

 それが、財閥トップが入れ替わったことで大きな痛手となった。

 マフィアは李財閥の情報で動いた警察によって一掃され、姫眞麻も全てを失った。

 李家の影響のある土地で再起など不可能だ。

 そう言って仲間は皆アメリカやヨーロッパへ流れていった。

 けれど、姫眞麻は諦めなかった。

 香港だからこそ、自分は再起できる。香港を知り抜いているからこそ、李家など怖くは無い。

 様々な事業を始めたのも裏社会での再起を賭けてのことだった。

 聖蘭を孤児院から引き取ったのも、いずれ利用するつもりだったから。

 そんな姫眞麻に接触してきた組織があった。

 10年前に姫眞麻の前に現れたのは10代の子供だ。

 慇懃無礼な態度だったが、有無を言わせぬその眼に姫眞麻は圧倒された。

 残酷なまでに冷たい瞳。

 10年間、肉体は子供から大人へ成長したが、その瞳が変わることは無かった。

 その組織がもたらした話は麻薬の密売だった。上納金は一定金額のみ。足らなければ自らの財産で補填すること。しかし、余剰分は全て自らの懐に入る。

 そのシステムに姫眞麻はすぐに乗った。

 売れば売るほど金になる。

 目の色を変えて、姫眞麻は麻薬を捌いた。

 闇市場に出回っているような阿片や大麻の類ではないことがブランドになった。

 化粧品会社を新設し、聖蘭を利用して大幅に売り上げを伸ばした。が、裏社会に馴染むうちに最も金になる商売を知る。

 それが人身売買だった。

 特に、若い男女は高く売れる。

 組織の枠を超えて、姫眞麻は単独でさらに手を広げ私財を得た。組織への上納金も倍以上にし、より良い計らいを受けられるよう策謀した。

 そうして、ようやく建てたのがあの『洋館』だった。

 地上部分ではレストランやカジノ。地下部分では秘密クラブを展開した。

 姫眞麻は益々財を得た。

 欧米諸国のVIPがこぞって訪問するようになった。知己も多く出来た。

 香港で姫眞麻に逆らうものなどいなくなった。警察でさえも思いのままだ。

 気持ちよかった。

 どん底から這い上がった者にしか味わえない快感だった。

 そして今夜。ついにあの忌々しい李家の若造が秘密クラブに現れた。

 自分を追放した張本人。

 最高権力を持つ男。

 その男を屈服させた。

 素直に嬉しかった。

 挨拶などと殊勝なことをしてやったが、腹の中では嘲笑っていた。

 だが、それが命取りになった。

 あのとき、『欧州からの客』と言われて詳しくは紹介されなかった4人の男女。

 そのうちのひとりに、国外脱出を指摘されたときは流石に焦った。

 最初から今日の夕方には香港を脱出してシンガポールあたりからヨーロッパへ逃亡するつもりだったのだ。

 聖蘭はその前に、オークションにて高額で売り飛ばすつもりだった。

 用無しの壊れた玩具など足手まとい以外の何物でもない。

 ちょうど良い始末の方法だった。

 その大金を手土産に組織の『マスター』へ会いに行く。きっと組織の大幹部に抜擢してもらえる。

 あの冷酷な『マスター』のメッセンジャーなぞ見下してくれる。

『・・・くそ! 『悪魔の神子』めっ!!』

 突然地下室に現れた2人の男を思い出し、姫眞麻は唾を吐き捨てた。

 いくら片割れが髪を黒く染め、色の入った眼鏡をかけていたとは言え気づかなかったのは失敗だった。挙句に神の息子の存在にまで全く気づかなかったのだ。

 あの感情の無い双眸を思い出し、姫眞麻は改めて恐怖を感じた。

 日本ルートを仕切っていた滝川龍二が殺害されたとの報に身震いしたあのときと同じ悪寒だった。

 九龍公園であの銀髪を見つけたとき、確かに寒気を覚えた。

『李家の小僧の仕業か・・・。』

 『悪魔の神子』を呼んだ人間が李月香だと姫眞麻は誤解した。だが、それを訂正する者は誰もいない。

 自分をどん底へ叩き落してくれた李月香のしたたかな顔を思い出す。

 あの男は全ての行く手を阻もうとする。

 姫眞麻の全てを奪い去ろうとする。

 地位も名誉も誇りも、財産も事業も。

 『再生』の象徴だった『洋館』までも奪い去った。

 姫眞麻は洋館に背を向け歩き始めた。

 とにかく、今はあの『男』に接触するしかなかった。

 国外に出ようにも、李家が手を回していれば当然出ることは叶わない。

 木造の小屋に隠しておいた乗用車に乗り込み、姫眞麻は自らハンドルを握った。

 だが、その手はまだ震えていた。

 悔しさのためではない。

 殺される、恐怖のためだった。


 フィロス=ルーベルスはテラスで朝の紅茶に舌鼓を打っていた。

「朝はコーヒーも良いですが、たまには英国伝統のレシピを使用した紅茶も良いですね」

 宿泊していたホテルを引き払い、フィロスは某所の邸で寛いでいた。

 カインの口唇に自分のものを重ねたあの官能的な瞬間の余韻にまだ浸っていた。

 伏し目がちの紅の双眸、長い睫毛にかかる銀色の前髪。薄く曖昧に、まるで誘うように・・・フィロスにはそう見えた・・・開く赤い口唇。

 奪わずにはいられなかった。

 2度目の出逢いから、カインの存在に執着せずにはいられなかった。

 いや、きっと最初の出逢いからだ。

 その理由をフィロスは知っている。

 カインは知らない。気づいていない。

 まだ、気づかなくていい。

 お楽しみは最後まで取っておきたいから。

 フィロスは人差し指で唇をなぞった。

 そして、再びカップにその唇を寄せた。乾ききっていない、少し濡れた前髪がはらりと眼鏡にかかる。

 朝一番にシャワーを浴び、点けたテレビからは某橋上で乗用車が数台絡んでの事故を報道していた。乗員は全員死亡という痛ましい事故の報道ではあったが、フィロスは口許に笑みを浮かべただけですぐに電源を切ってしまった。

「バトラー」

 フィロスの声に、部屋の奥に控えていた初老の人物が傍に近寄ってきた。その手には綺麗に盛られたフルーツ皿が抱えられていた。

「騒がしい、招かれざる客が現れたようですね」

 その言葉だけを聴き、執事はゆっくり頷いた。

 フィロスはちょうど良い大きさにカットされたマンゴーをひとつフォークで刺し口に運んだ。

 執事の背中を見る。

 彼は言葉が話せない。

 生まれつきだった。

 年齢は確かでないが、60歳は近かったように思う。彼はその障害故苦労をした。その彼の能力を見抜いて組織に入れたのは『マスター』本人だった。

 それ故か実に忠実な男だった。『マスター』やフィロスの信頼も厚く組織で重宝されていた。普段は『マスター』の傍で身の回りの世話をしているのだが、香港の邸は行き届かないなどと理由をつけてフィロスが連れてきたのだ。

 姫眞麻に比べればこの男のほうが余程使える。

 執事が扉を開ける前に、派手に扉が開いた。

 その行為にフィロスは眉をひそめる。

 粗野な言動をフィロスは何よりも嫌う。

 同じ幹部でも、フィロスは姫眞麻よりも滝川龍二を重用し信用した。故人は紳士だった。

 けれども、姫眞麻には紳士の欠片も無い。

「・・・甘いですねぇ」

「それは、失敗した俺のことかっ!?」

 フィロスの呟きを聞きつけて姫眞麻は声を荒げた。

「いいえ、貴方のことじゃありませんよ。その優しさがいつか命取りになる。けれど、あの人はきっと捨てられない。そんなあの人だから、私も執着せずにはいられない・・・。・・・戯言です。それより・・・」

 フィロスはソファに腰をかけたまま、顔だけ姫眞麻に向けた。

「酷い姿ですね。もっとも、その姿以上に随分酷い目にお遭いになったようだ」

「遭ったなんてもんじゃない!!」

 腹立ち紛れに姫眞麻は手近にあった花瓶を床に叩きつけた。

 フィロスは「やれやれ。そう安物でもないんですよ、それ」と肩を竦める。

「追っ手を全員消された挙句姫聖蘭を奪われましたか。まぁ、李家が彼らに加担したとなると無敵ですねぇ」

「のんびり言っている場合かっ!? 『悪魔の神子』は俺を殺すつもりだ!! おいっ! 聞いているのか!?」

 姫眞麻を無視してフィロスは紅茶を再び飲み始めた。

「バトラー、電話を」

 花瓶の破片を片付け終えてた執事が再びフィロスの傍に寄った。

「後、私のパソコンをください」

 それだけ言うと、バトラーが持ってきた電話の子機を操作し始めた。

 耳にあてがい、静かに耳を澄ます。

 その間、執事は立ちっぱなしの姫眞麻に椅子を勧め、テラスのフィロスのところへノートパソコンを運んだ。

 出された茶に口をつけ始めた姫眞麻はフィロスが何語か不明な言葉で話し始めたに気づいた。

 アジアの言葉ではない。英語でもない。姫眞麻の知る限りのヨーロッパの言語でもないらしい。

 電話を切るのを見計らって姫眞麻はフィロスに声をかけた。執事が入れた中国茶のおかげで幾分落ち着いた様子だ。

「『マスター』より、貴方への伝言を賜りました」

「本当か!?」

 思わず姫眞麻は立ち上がった。

 『マスター』の名前だけで恐れおののく。

 卑屈だ。

 惨めだ。

 汚い。

 滝川龍二は例え相手が『マスター』だろうと常に対等であろうとしていた。それだけに、姫眞麻の見苦しさには耐え難いものがあった。

「おめでとう、貴方を『北の悪魔』の本拠地へ迎える、とのことです」

 フィロスは口許に笑みを浮かべた。

 伝えられた言葉に歓喜する小男を嘲るように。


 「尖沙咀からカタマランに乗船しマカオまで行って下さい。」

 尖沙咀のホテルに場所を移し、そのラウンジでフィロスは乗船券を姫眞麻に差し出した。

「マカオ・・・?」

 告げられた行き先を姫眞麻は訝しんだ。

 フィロスはゆっくり頷く。

「えぇ、そうです。空港はおそらく李家に抑えられています。軽く変装をして、この偽造パスポートを持っていってください」

 乗船券の上にさらにパスポートを乗せる。

「マカオのフェリー・ポートに組織の人間が迎えに来ています。その者が貴方をポルトガル経由でヨーロッパへ連れて行きます」

「・・・信頼できるのか?」

 姫眞麻は不安げにフィロスを見た。

 その視線が泳いでいる事に気づき思わずフィロスは笑いそうになるのを堪えた。

「『マスター』を信頼できませんか?」

「まさかっ!」

 その言葉は姫眞麻に全てを決心させた。

 乗船券とパスポートの中身を確認する。

 パスポートには、自分に良く似た顔の男が映っている。

 黒い髪の、角張った顔立ち。歳も近そうだ。

「時間までどうしていればいい?」

「お好きなように。・・・あぁ、そういえば貴方が経営していた会社はどうなりました?」

「全部顧問弁護士が処分しているはずだ」

 そいつも本当なら始末したいんだがな。

 そう言って姫眞麻は笑った。

 その弁護士も既に李家に捕まっていることだろう。今更会社なんかどうでも良かった。

 香港に未練は無い。

 『再生』の象徴を失ったとき心を決めた。

「もう、あんたと会うこともなくなるか?」

 姫眞麻はぼそりと呟いた。

 思えばこの10年、フィロス=ルーベルスの影に怯えていたように思う。

 だが、見納めかと思うと少し淋しい気もする。

「そうですね。私は『マスター』の代わりに出向くことが多いものですから。貴方とは・・・最後になるでしょうね」

 僅かの期待も許さない言い草だった。

 そう、この男とは二度と関わらないほうが良い。

 姫眞麻は思った。

 この男と『悪魔の神子』の浅からぬ因縁。

 特に、あの銀髪の悪魔。

「同じ眼だ。」

「はい?」

 姫眞麻がつけた煙草の煙を手で払うフィロスを彼は直視する。

「銀髪の男と同じ眼だ。人間を人間だと思っちゃいない、殺人者の眼だ」

「・・・は、ははは」

 フィロスは堪えきれずに笑い始めた。

「あははは、はは、あはははは・・・」

 フィロスの笑う姿を姫眞麻は始めて目の当たりにした。なのに、背筋が凍る。そんな笑みだった。

「あの人が聞いたら烈火の如く怒りますよ。私は嬉しいですけどね。そうですか・・・似ていますか、私たち?」

 そろそろお暇しましょう。

 そう言ってフィロスはソファーから立ち上がった。おもむろに執事がフィロスの後に続く。

「お達者で、Mr. 姫」

 一言言い残してフィロスはホテルのロビーを後にした。

 外に出て再度振り返る。

 姫眞麻がひとりでコーヒーを啜っている。

 普通を装い、己れが姫眞麻自身であることを周囲から悟られない程度にリラックスして見せて。

「愚か者だと思わないですか」

 フィロスの言葉に執事は無言で頷く。

「始末した幹部の中でもあれほどの小者も逆にいませんでしたね」

 フィロスは執事が開いた後部座席に身を滑り込ませた。運転席に執事が座り静かに発車させる。

 懐から小さな箱を取り出し蓋を開く。

 ひとつだけ残された赤いピアス。

 失った半身を求めるように輝き、まるでそのことをフィロスに訴えているようだった。

「もう少し待っていてください。片割れとすぐに再会させてあげますよ」

 フィロスは過ぎ行く景色を見送りながら小さく囁いた。

「身勝手ですが後のことはお願いしますよ、カイン。・・・また、逢いましょう」

 かりっと小さな音を立ててフィロスは窓ガラスに爪を立てた。

 愛する者の心に証を刻むように。

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