嘆きの歌声(上)
話は数時間前に遡る。
「あっついなー、香港も。日本よりは多少マシかも知れんが・・・」
薄いファイルを団扇代わりにZはシャツの胸元を大きく広げながら扇いだ。
周囲から聞こえてくる広東語は、Zには理解不能だったが雰囲気は好きだった。
下町の雰囲気というものは何処も同じらしい。
両脇に軒を連ねた店が建ち並び、人々でごった返した下町は活気に溢れている。店のおじさん、おばさんが気軽にZに話し掛けてくる。何を言っているかは相変わらずサッパリだったが、時折『食ってみろ』と言わんばかりに食べ物を押し付ける。覚えたての数少ない広東語を駆使しながら、Zは「好好味」と答える。そう言うと大概はにっこり笑って手を振り見送ってくれる。
良い街だ。
『そこの兄さん、冷たいジュースね。美味しいよ』
Zが通り過ぎようとした屋台から顔を出した男が、彼の背中に声をかけた。
Zと年齢はさほど変わらないだろう。
よく冷えた果実のジュースをZに差し出す。
Zが右手で受け取る瞬間、その手にコップと一緒に紙が差し込まれた。
「何か掴めたか?」
「あんたが知りたがってる姫眞麻は香港じゃ有名人だ。養女の稼ぎを元手に羽振りの良い生活を送っている」
男は流暢な英語で話し始めた。
Zは香港ドルの紙幣を差し出された手の平に置く。
コップ一杯の値段にしてはさりげなく多すぎる枚数だ。
「やつはたいした実業家らしいな」
「あぁ。ひどい悪徳商売だけどね。若い頃は当時の李財閥が庇護していたマフィアのチンピラだった。10年ほど前に、手柄をたてたとかで独立して、さまざまな事業に手を出している。だが、その殆どが失敗の連続。さらに李財閥のトップが末っ子の四男に代わってから、マフィア出身の幹部や実業家は排除されちまった」
「今の総帥が?」
Zは昨夜見かけた李月香を思い出した。
優しげな面持ちだったが財閥トップに相応しい鋭い眼をしていた。油断のならない、ダーク・サイドの人間の持ち物だ。
ライと月香のただならぬ雰囲気が気になって何度かテラスの傍で彼らを盗み見していたのだ。残念ながら広東語の会話までは聞けなかったが。
「李月香だろう? 何でまたそんな自分の権力を削ぎ落とすような真似・・・」
「嫌いなんだろう?」
男はあっさりと言い放った。思わずZは口にしたジュースで咳き込む。
「・・・汚いなぁ。あのな、香港じゃ李家のゴシップは子供でも知っている。今の総帥は上の3人の兄貴たちとは母親が違うせいで別々に育てられた。そのお陰で親の七光りで総帥になっていた馬鹿な兄貴とは違い、もっとも聡明で誠実な総帥として財団では尊敬されている。なんでマフィアが嫌いなのかは知らんが、兄貴たちが持っていた麻薬組織を自分で潰し、ルートも他所に売っちまったと聞く」
「成程な。その煽りを食って姫眞麻も李財閥から追い出されたクチか?」
Zは冷たいジュースで喉を潤す。渇ききっていた喉を通り、ジュースは胃の中へ落ち、火照る身体を一気に冷やす。
「その通り。幹部時代に引き取った養女が歌手として一躍有名になってから今じゃ余り表立って仕事はしていない。やっているのは高利貸しと化粧品会社」
「化粧品会社?」
余りに予想外な言葉にZは思わず声を高めた。
「しーっ!」
「悪い。・・・で? 何でまた化粧品会社なんか・・・」
Zはスラックスのポケットからクシャクシャになった紙幣を男の手に握らせた。
男は待っていたかのように左手で一枚の紙を渡す。
「最近流行のダイエット薬やら、美容薬品が当たっているらしい。それも娘のお陰だろうけどね」
ふと、セイラ=ジーナスの美貌を思い出す。
黒絹のような髪に白磁のような滑らかな肌。
彼女のようになれるのならば、大金を惜しまない女性も多かろう。
男のみならず、女でさえも魅了する。セイラの美しさには嫌味がない。
仕方がないことなのかもしれない。
ライは一目見たときからセイラに惹かれている。
Zにははっきりとわかっていた。
その間に、自分が割り込む隙など皆無だということも。
胸が痛い。
「その紙には姫眞麻が経営している化粧品会社の住所が書いてある」
広東語で書かれた住所は解読不可能だが、その下には丁寧に英訳が書かれている。
会社の名前は『珍珠化粧品公司《パールコスメティックスカンパニー》』。
「なんでも真珠の粉から作られているそうだ。化粧品からダイエット食品に至るまで」
「真珠の・・・粉・・・か」
『PEO』も真っ白な粉だった。
「だけどひとつだけ、俺にも調べられなかった」
「香港一の情報屋・少少《シャオシャオ》がか?」
Zはくすりと笑う。
少少はZが持つ情報屋ネットワークの1人だ。香港での情報収集にはいつもこの男を使う。
ここで年がら年中屋台を出している以外、少少の生活についてZは何も知らない。
向こうも知らないのだから、お互い様かもしれないが。
「化粧品会社なら研究所があるはずだ。だが、その住所には事務所があるだけで研究所らしきものは何処にもなかった」
「それは・・・妙だな」
経営会社でオリジナルを販売しているのであれば研究所は存在するはず。隠す必要もない。
「・・・洗ってみるか」
「兄さん、悪いことは言わない」
少少が真面目な顔でZを見上げる。
「この件からは手を引いたほうがいい」
「なんだって?」
少少は他人の仕事に口を出す男ではない。それが、神妙な面持ちでZを見ている。
「どういう意味だ?」
「姫眞麻は危険だ。警察でさえ手が出せない。奴の後ろには強力な組織がついている。李財閥に見捨てられた奴が・・・マフィアだった奴が香港で再起することなんて不可能なはずだ。それをあの姫はやってのけった。皆が言っている。奴の後ろには外国の組織がついていると」
巷での噂。只の噂。だが、火のないところに煙は立たぬ。
「・・・それだけわかれば十分だ」
「これだけ言っても深入りするんだな」
少少の呆れたような、諦めたようなため息が漏れた。
「あぁ」
Zはにかっと笑う。
「奴の背後に何の組織がついているか知らんが、俺の背後には4匹の悪魔とひとりの天使がいるからな」
Zが一度神邸に戻ってきた2時間後、中環のデパート巡りをしていたセシルとアイラは、偶然入ったデパートの一角で賑やかな人だかりに行き当たった。
左右3台ずつ置かれたテレビモニターには同じ映像が延々と流されている。
聞こえてくる広東語から化粧品のCMらしい事がわかる。
周囲にいる香港人の女性に比べたら背の高いアイラは、ひょい、と首を伸ばした。
「あら、セイラだわ」
その映像の主は姫聖蘭ことセイラ=ジーナスだった。
『そこの! そこの外国からのお客さん!! そう、そこの貴女方ね!』
中央で、ワイシャツにネクタイ姿の男がアイラとセシルに手招きをした。人混みの中、目聡く2人を見つけたらしい。アジア人ばかりの集団の中にいては、流石に目立たないほうが不思議ではあったが。
『私たち?』
『そう! 広東語が判る? 嬉しいね。お嬢さん方のような美女でもさらに美しさに磨きをかけることが出来る魔法の化粧品ね』
セシルとアイラは物珍しげに手招きをした男に近づいていった。
販売員の男はそう言って2人の前に次から次へと商品を並べ始めた。
『凄い数ね・・・』
『そうでもないよ?』
アイラの言葉に販売員はにっこり笑った。
『あっちの並んでいる女の子たちは皆この化粧品に夢中。基礎から始めて効果はすぐにわかる。皆が姫聖蘭に憧れているからね。聖蘭が使っていると知ったらすぐに欲しくなる。今日は彼女のようなスタイルになりたい女の子たちが殺到しているんだよ』
販売員の話では、列に並ぶ女の子たちは皆姫聖蘭に憧れ、美人願望の強い持ち主で、初めて姫聖蘭が使用していると話題になり、CMにもなった化粧品は1週間で在庫をカラにしたという。
『今あっちで売っているのは今日新発売のダイエット食品ね。お嬢さん方には不要だろうから、化粧品をオススメするよ』
ノリの軽い販売員である。美容液の効果だとかなんとか広東語でしきりに捲くし立てる。
少々うんざりして聞いたセシルは何気に化粧品のケースを手に取った。
『珍珠化粧品公司・・・?』
珍珠とは真珠のことだ。
『この化粧品は真珠ででも出来ているのかしら?』
セシルにしたら冗談のつもりだった。だが、販売員は急に顔色を変えた。
それを見逃す2人ではない。
『・・・そう。ウチの商品は全て・・・し、真珠の粉からできてるよ。真珠は美容にいいからね』
「それはどうか知らないけど・・・」
アイラがフランス語でぼそりと呟く。その視線の先には我先にダイエット食品を買おうとする女性たちの表情に注がれていた。
一様に彼女たちは焦りと何か底知れぬ恐怖に追われているかのような顔をしている。
「人気商品に群がるにしては異常だわ」
「そうね。それに・・・姫聖蘭が出演している化粧品のCMは珍珠化粧品公司だけよ」
「今聞き出したの?」
「まぁね」
セシルはくすっと微笑んだ。
相手が男の場合、どんな些細な情報でも聞き出し上手なのがセシルだった。彼女の話術と美貌にかかった男は聞かれたことを何故か全て話してしまう。女性の場合はライがお得意とするところだが、一種の飲ませない自白剤のようなものだ、とアイラはいつも思っている。
『・・・それでね、ミスター。私、実はお忍びで化粧品のリサーチに来ているの。彼女は当社のお抱え研究員』
突然、セシルは甘い声で販売員に語りかけた。いつの間にお抱え研究員になったんだか・・・、とアイラは内心溜息をついた。
『あぁ、警戒なさらないで。私は米国で化粧品会社を経営しているの。知らない? シンディア・コスメティック・ガーデン』
略してCCG。実際にシンディア財団が経営するグループ会社のひとつだ。セシルの言ったことは一概にも嘘とは言えない。
『あ・・貴女があの・・・? 有名ブランドの販売を一手に手がけている?』
さすがに驚きを隠せないのだろう。コスメ業界にいてCCGを知らない人間はモグリだ。
しかも、すっかりセシルに誑かされている。
どうやら嵌ってしまったらしい。漆黒の女神の罠に。
『存じていただけているなんて、光栄だわぁ。それでね? 是非こちらの商品を当社で一手に仕入れさせていただきたいの。何せ米国ではまったく知られていないんですもの。真珠の粉の化粧品なんて素敵だわ。イメージガールも去年全米デビューを果たしたばかりのセイラ=ジーナスでしょ? 是非、社長にお取次ぎいただけないかしら?』
セシルがそっと男の手に左手を添えた。
彼女たちはこの瞬間を待っていたのだ。
Zが持ち帰った情報。姫眞麻が経営する珍珠化粧品公司は余りにも怪しすぎた。しかも、彼らは店舗を持たない。契約した化粧品店に商品を置き、新製品が出るときはこうしてデパートに仮店舗を出店し販売するのだ。
『社・・・社長は事務所には普段いないので・・・』
『とりあえず、そちらの商品を全種類いただけないかしら?』
アイラが販売員とセシルの間に割って入った。『よろしいですわよね? 社長?』とわざとらしい台詞付きで。
『えぇ、よろしくってよ。彼女は本当に研究熱心ですの。彼女のお眼鏡にかなった商品は必ずウチの売れ筋商品になりますの』
『それは素晴らしい・・・。是、是非と言いたいのですが・・・今ここにあるのはサンプル品で・・・』
『開封していないでしょ? 構わないわ。ねぇ、社長?』
『即金で払わせていただくわ。おいくら?』
販売員が口にした金額はセシルがざっと計算した額の倍の金額だ。だが、セシルにしてみればそれは安い買い物だった。これからいただく情報料としては。
手渡された小切手に販売員は思わず身震いをしていた。その両手にセシルは追い討ちをかけるように自分の両手で包む。その耳元にルージュの唇を寄せ、吐息をかけるように囁く。
『姫社長は・・・何処?』
手早くサンプル品をダンボールに詰めさせ何処へ運ぶのかデパートの店員に指示していたアイラはセシルのやり取りをちらりと見やった。
陥落したわね。
アイラは口許を吊り上げた。
セシルに落とせない男はいない。
彼女の美貌の微笑みに囚われた男は、皆、彼女にひれ伏し、血の泉に沈む。
(まぁ、唯一セシル『が』落ちたのは彼だけね)
最後の商品、今日新発売のダイエット食品を箱に詰め終えたアイラは2人の会話に耳をそばだてた。
『ねぇ? 何処にいるの? 箱に書かれている事務所かしら? それとも金融会社の方かしら? やっぱり芸能プロダクション事務所?』
『・・・そのどちらにもいない』
『いない?』
『社長は・・・研究所にいます』
『研究所?』
『はい、製品を作っている工場を併設した研究所です。でも、香港島ではありません』
『・・・何処にあるの?』
販売員の男は熱に浮かされたかのように雄弁だった。
男の話す研究所の場所に、セシルは目を丸くした。
彼女はしばらく何かを考えている様子だったが、ふと顔を上げ男の頬にキスをした。
『謝謝』
身を翻したセシルの表情は既にいつもの『セシル』だった。
「何処に研究所があるって?」
アイラの問いにセシルは早口で答えた。
「・・・え?」
思わずアイラは聞き返した。聞こえなかったわけではないが、自分の耳を疑っているのだ。
「今、何処と言ったの?」
「だから・・・九龍半島よ」
セシルは苦々しく吐き捨てた。
「姫眞麻はかつて九龍城を根城にしていたそうよ。今の販売員はそのころまだ10代で、ずっと姫眞麻の傍で働いていたんですって。今は九龍城のあった場所の地下に研究所と工場があるそうよ。でも、あの男は研究所には殆ど入れてもらったことがないんですって」
九龍半島。
かつて、九龍城《カオルンセン》と呼ばれた暗黒街があった。そこは英国・中国・香港政庁の不干渉地帯で無法地帯だった。
しかし数年前に取り壊され、今は高層マンションやビルなどが建ち並びその面影はない。
だが、彼女たちは昔そこで何があったか知らないわけではなかった。
ライにとって、人生を変えてしまうほどの大きな事件。
そのことを知ったのは、ほんの数年前だった。そのとき、セシルとアイラは激昂した。カインは無言だった。
「・・・ライには?」
「黙っていることはきっと無理よ。あの子はもう戻れないわ。セイラ=ジーナスに出逢ってしまった。あのころ九龍城を仕切っていたのがまさか姫眞麻だったなんて知ったら・・・」
セシルとアイラは共にライの顔を思い出した。
あの笑顔を曇らせないために、自分たちは守ってみせる。
ライのために・・・。