プロローグ~罪と罰の街~
地下室を思わせる薄暗い部屋に窓はひとつもなかった。唯一の灯りも机の上の電気スタンドだけだった。
彼女は小さく喘ぎながら必死で水差しから水を注ごうとしていた。だが、震える手は彼女の意思に逆らいまともに注ぐことを拒否している。
やっとの思いで望みの分量を注ぎ終えた水差しには半分も水が残っていなかった。
机の上が水で濡れていることに目もくれず、彼女は小さな赤い包みを開いた。
さらさらと白い粉末を水に混ぜる。
待ち焦がれたように、彼女は水を呷る。
喘ぎは呻き声に変わる。
苦しそうにもがく。
赤いマニキュアの爪が机に傷をつける。
口の端から洩れる唾液。
声は吐息に変わる。
少しずつ、呼吸が整えられていく。
やがて、彼女は何事もなかったように口許を白いハンカチで拭い、手近にあったタオルを掴んだ。
それはまるで夜毎繰り返される儀式にも似ていた。
長い髪を器用に結い上げる。
紅を差した頬は瑞々しく、美しかった。
いつの間に濡れたのか、白いローブが冷たくなっているのに気付く。どうせ、すぐ脱ぐものだから汚れても構わない。
彼女はローブを脱いだ。
透き通るような白い肌。豊かな乳房を露わにし、彼女は鏡を覗く。
右手の人差し指でそっと鏡に触れる。
まるで西洋の彫像のように、そこに映る肉体を自分のものとは思えなかった。
「今存在しているのは『私』よ。『貴女』じゃないわ」
初めて彼女の口許に笑みが浮かぶ。それは酷く冷酷だった。
鏡の中の肉体が笑う。嘲るような笑みをこちらに向ける。
「・・・『私』が作られたものか、『貴女』が作られたものか・・・見せてあげるわ」
扉を叩く音が聞こえた。
笑いかけた彼女は口を閉じた。
「お時間ですよ、お嬢さん」
落ち着いた声に、扉の向こうにいる男がいつもの男でないことに彼女は気付いた。
だが、この声は知っている。
朗々と響く声。その容姿の美しさに似合いだと思っていた。
入ってくる気配はない。
「すぐに行きますわ。今日は生番組でしょう?」
「遅れたら貴女の大切なお友達に叱られますからね」
扉越しに男の苦笑が聞こえる。
『私』の友達じゃないわ。
彼女は鏡を見た。
真紅のドレスを身に纏った姿に彼女は満足した。
「・・・私だわ」
「何か?」
彼女の呟きが男に聞こえたのだろうか? まさかと彼女は首を横に振った。
「お待たせいたしましたわ。お久し振りですわね、Mr. いつこちらにいらっしゃいましたの?」
開いた扉の向こうにいた男を彼女は見上げた。一瞥しただけと言ったほうが適切かもしれない。
「昨日こちらに。・・・安定してきたようですね」
「おかげ様で。でも、安定するまでが辛いわ」
彼女は男に背を向けた。
「でしょうね」
男は肩を竦めた。しょうがない、と言わんばかりに。
「新しいものも持ってきましたよ。今のよりは遥かに使い勝手がよいと思います」
「だといいけど。それより・・・」
彼女は振り返り、男の首に腕を絡めた。
「直接使い方を教えてくださらない? 今夜・・・いかが?」
甘い囁き。並の男ならこれで落ちる。
だが、この男は『並』ではない。
冷笑を浮かべる表情は彼女を蔑んでいるようだった。
「ご遠慮しますよ。贋物には興味ないのでね」
眼鏡の奥の双眸が冷たく光る。
「失礼だこと。『私』が偽者だとでも?」
「傍から見れば貴女は歴とした『本物』でしょう。しかし、私には必要ない」
男はニッコリ微笑んだ。思わず彼女は寒気を感じた。この男のそんな顔、滅多に見ることはない。
「私が必要としているもの・・・それこそが極上の『本物』ですよ」
「見てみたいわ。貴方の『本物』」
諦めたのか興味を失ったのか、彼女は再び男に背を向けて歩き始めた。
「近いうちにお見せできますよ。・・・そう、もうすぐ・・・ね」
男はどこか楽しげだった。
彼女は男を無視した。
廊下の向こうからざわめきが聞こえる。
『私』を待つ者たちの声。
『私』を待つ世界。『私』のための世界。
断じて『貴女』のための世界じゃない・・・・・・!!