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悪魔の御子  作者: 奏響
第1話 赤と銀の輪舞曲
4/71

パリにて(上)

 パリ市内のシャンゼリゼ大通りを抜け、横道に逸れる。そこから細い道を辿り、再び車の行き交う大通りに出た。空には微かに雲も見えるが、街を行く人々は朝の穏やかな陽射しを全身に浴びていた。

 通勤や通学に急ぐ人々の中、ボストンバックを片手に歩くひとりの男の姿があった。すれ違う異性が思わず振り返る。にわかに騒ぐ女性たちの声が耳に届く。サングラス越しのその素顔はどうしても人目を引いてしまうらしい。本人は隠しているつもりだが。

 彼は空いている片手で少しずれたサングラスを直した。

「・・・街中で目立つとは・・・。誰かさんじゃあるまいし・・・」

 ショーウィンドウに映る自分の姿に向かって、溜息混じりにそう漏らした。

 痩身の体格はさほど目立つわけではない。身長も標準を多少上回る程度だ。

 理由が他にあることは彼にもわかっていた。

「この色が・・・な」

 自分の髪に男は触れた。銀色の前髪が揺れる。

 よくあるプラチナ・ブロンドとは全く違う、本当の銀色。あまり見られない色であるため人ごみにいるとかえって目立つのだ。それに加えて、彼は常にサングラスをしなければならなかった。

「・・・今更悩んでも仕方ない・・・か」

 深い溜息をついて、彼は再び歩き始めた。

 しばらく歩き続け、彼は街角の建物に足を踏み入れた。1階が雑貨屋及びカフェ。2階から上は店主が経営しているアパルトマンになっている。

「マダム。マダム・ノーラ。いるかい?」

 誰もいない店内を見回し、彼は店主である「マダム・ノーラ」を探した。

 マダム・ノーラは陽気で明るい中年女性だった。南フランスの出身らしいが、たった1人でこの店とアパルトマンを経営している。ここの住人は少なかったが、1階の店はいつも人で賑わっていた。皆このマダムを慕っている者たちばかりだ。彼とて例外ではない。

「おや? 久しぶりだねぇ、カイン」

 奥から出てきたマダム・ノーラが大きな身体を揺さぶりながら、満面の笑みを浮かべて現れた。

 彼は苦笑する。

「マダム・・・頼むから大声で『カイン』と呼ぶのはやめてくれ」

「アハハハ・・・。御免よ、つい・・・アンタ、相変わらずサングラスなんかかけているのかい? 今日は気持ちの良い陽射しなのにねぇ」

「・・・無茶を言わないでくれよ」

「そうかい? あたしはアンタのその瞳、好きだけどねぇ。・・・ちょっと外して見せておくれよ。久しぶりなんだから」

 マダム・ノーラがカインのサングラスを指で示した。カインは躊躇いがちにサングラスを外す。

 窓から射し込む朝日がカインの素顔を照らす。

「綺麗な色だねぇ、本当。そのルビーのような瞳・・・」

 ほぅ、とマダム・ノーラが溜息混じりに呟く。

「マダムぐらいだよ、そういうこと言うのは。こんなの滅多にいないのに・・・普通は気味悪がるぜ。知り合いの医者は多分遺伝子上の異常だろうとか言ってるんだが」

「異常ねぇ・・・青やら緑やらいるんだから、赤だってあってもいいと思うけどねぇ。最近じゃ、何だっけ? その・・・カラーコンタクトとかいう便利なものもあるだろう。あれの赤いのをしていた子を見たよ、この前」

「そりゃ、イカれたガキどものすることだろう。・・・マダム、鍵くれないか?」

 カインは右手をマダムに向けて差し出した。マダムは「あぁ、そうだったねぇ」と言いながら奥の部屋にあるキーボックスを持ってきた。蓋を開け、番号順に並べられた鍵のうち、青い石のはめられたキーホルダーがついたものをカインに渡した。

「鍵がひとつないようだったけど?」

 鞄から取り出した茶色い袋をカウンターに置きながらカインは訊ねた。

「見ていたのかい? あら、いつもすまないねぇ。ちょっと待ってておくれ」

 マダムはカインの出した袋を持って再び奥に引っ込んだ。ちょっとして彼女はさっきとは別の袋を持って現れた。焼きたてのパンのようだ。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

「はい、2人前」

「・・・なるほど。そういうことか」

 小さく呟いてカインは袋を受け取った。まだ暖かい。

 カラン・・・ッ、とよく響く鐘の音が耳に届いた。

 店の時計は午前8時を指している。

「マダム、いつものヤツ三人分な」

 作業服に身を包んだ男が三人店内に入り奥のテーブルについた。三人のうちのひとりがカインを見て、おやっという顔をする。

 カインは慌ててサングラスをかけた。そこにマダムが3人分の朝食を持ってやって来る。

「マダム、彼は?」

「あ? あぁ、見たことあるだろう。うちの住人だよ」

「えぇ? そうだったかな?」

「何言ってんだい、まったく。もう耄碌しちまったのかい? まぁ、ちょくちょく留守にしているからねぇ」

 ころころ笑ってみせるマダムに男たちは“何だ?”と顔を見合わせた。

 彼等が住んでいるアパルトマンはこの店の向かい側にあるので、ここの住人の顔は大抵知っているはずだった。だが、『こんな』顔は記憶になかった。

「覚えていないんだろう? 仕方ないねぇ。この子は『フリーライター』とかいうヤツでね、あっちこっち飛び回っているんだよ。ね、『ノエル』」

 カインは苦笑しながら、マダムたちに向き直った。

「ノエル・・・て、クリスマス?」

 男のひとりが不思議そうに呟いた。顔はあからさまに笑っている。

「Oui.ノエル=キャンドルライト。名付け親のセンスが窺い知れるだろう。じゃ、マダム。俺行くから」

 彼はマダムに一声かけてから、店を入ってすぐ右側にあるドアを開け、上のアパルトマンへ続く階段を登っていった。

 後に残った男たちは呆然としたままカインの背中を見送った。

「ノエル=キャンドルライト・・・ねぇ。目立つ男だなぁと思ったが、名前も目立ってるなぁ」

 ひとりの言葉に他の2人も頷いた。

 マダムはひとりおかしそうにくすくすと笑っていた。


 二階に上がったカインはフロアの奥にあるドアの前で足を止めた。

 先程受け取った鍵は懐に片付け、軽く2回ドアを叩く。

 ・・・返事がない。

 今度は少し強めに叩いた。

 再び応答なし。

 次は思いっきり、ドンドンッと叩いた。

「だーっ! うるさいっ! 静かにしろっ!!」

 怒号とともに勢いよくドアが開いた。蹴破りそうな勢いだ。

 開いたドアをあっさりとかわし、カインはすかさず中から出てきた人間の眼前に、マダムからさっき受け取った袋を突きつけた。

「・・・ん? ・・・パン? あれっっ??」

 男は突きつけられた袋を受け取り、目の前にいる人間の顔を見た。

「・・・カイン~」

 驚きと感動のあまり抱きつく・・・わけはなく、呆れた様子で中に招き入れた。

「Good Morning. 黄 雷火(オウ ライカ)君」

「・・・カイン・・・何時だと思っているんだよ」

「朝の8時はとっくの昔に回っているぞ。世間の皆様は仕事を始める時間だ」

「ほぉ~・・・俺の低血圧を知ってて言ってるのか」

 欠伸をしながらボサボサの長い黒髪をかきあげる男を横目に、カインは足を踏み入れた。

 ・・・だが。

「どうした?」

 カインが一歩部屋に入ったまま動かないのを見て、ライは不思議に思って問う。

「・・・女がいるなら俺はマダムのところにいる」

 カインは彼を見上げてそう言った。

 見上げては言い過ぎかもしれない。しかしこの男、カインより7~8cm背が高い。

 ちなみに彼らの日常会話は英語である。

「・・・いねぇよ」

 ライはぶっきらぼうに答えながら、さりげなく窓を開けた。窓からは心地よい風と、街を行き交う人々の雑踏が流れ込んできた。

「じゃあこの匂いは何だ」

 カインは呆れたような声を出した。

「俺が香水嫌いなのは知ってるだろう」

「・・・。30分前に帰ったところだ」

 バツの悪そうな表情で、ライは煙草に火をつけた。

「別に連れ込むな、とは言わん。ただ・・・」

「わかっているって。おまえの鼻は犬以上だもんな」

「ラ~イ~」

 からかって面白がっているライを怒ろうとしたところで、彼はバス・ルームに逃げてしまった。

 ・・・頭の血管切ってまですることでもないか。

 カインは諦めて朝食の支度を始めた。ボストン・バッグを自分の部屋に入れ、上着を脱ぎ、ネクタイを外して楽な格好で台所に立った。

 10分ほどして、浴室からバスローブを着てライが出てきた。

 部屋の中は先程の香水からコーヒーの香りに変わっていた。

「美味そうだな」

 テーブルに用意された朝食を見て、ライは嬉しそうに椅子に座った。

 ボサボサだった髪は洗い乾かされていた。ライは黒絹のような艶やかな髪を器用に一つに束ねてから、淹れたばかりのコーヒーに口をつける。ライはちょっとした異変に気づいて顔を上げた。

「あれ? 豆替えた?」

「あぁ、美味いだろう。ま、俺の腕の良さもあるが」

「まぁ、それは置いといて」

「置くな!」

 間の抜けた漫才をしながら、カインはライの向かいに座った。

「それ土産。マダムのところにも置いてきた」

「『仕事』だったな。そういえば」

「あぁ」

「何処だったっけ?」

「思い出せよ、自分で」

 すました顔でコーヒーを啜るカインを見ながら、ライは手元にあった新聞を開いた。空港で売っていたものをカインが買ってきたやつだ。彼はその中の極めて大きい見出しに見入った。

 しばらくして、顔を上げた。

「・・・ブラジルだっけ?」

「Yes.リオ。美味いコーヒーだろ?」

「上手いよ。確かに」

 そう言ってライはテーブルの隅に新聞を広げた。その中のある記事をライは指した。

 そこには『ブラジルのさる大資本家、殺害される』といった見出しと共に、あることないことがまくしたてられている記事だった。表向きはやり手の資本家として名を馳せ、裏ではマフィアを牛耳る大物だった男が殺害された事件だ。

「『被害者は額を撃ち抜かれ即死。犯人検挙に繋がる証拠となり得るものは皆無』だそうだ。ご苦労さん」

 ライの労いの言葉にカインは何も答えず、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。思案気に両手でカップを覆って。

「カイン?」

 ライは心配そうにカインの顔を覗き込んだ。

「何処で道を間違えたんだろうな」

 ボソッと呟いたカインの言葉に、ライは「えっ!?」と声をあげた。

「あの日・・・俺たちは自由を手にしたはずだった。なのに・・・」

「カイン・・・」

「なのに、だ。結局俺たちは・・・、俺たちはあの男の思い通りの運命を辿っている。逃げたはずの運命に、絡めとられ、翻弄されている・・・」

 悲痛の色を秘めたカインの声に、ライは言葉を失った。

 カインは、いつもこんなことを考えていたのだろうか?

 まだ、割り切ることすら出来ずに悩み続けていたのだろうか?

「カイン、俺たちを奴と・・・、『北の悪魔』と一緒にするな」

「わかっている。・・・わかっているさ。だけど・・・」

「もう戻れないんだよ、カイン。俺たちは選んでしまった。『奴』を殺したあの日から。生きるための手段を、選んでしまった・・・。やめようぜ、こんな話。らしくねぇよ、おまえ」

「・・・すまん」

「謝るなよ。でも、セシルやアイラの前では言うなよ。殺されるぜ」

 ライの冗談にカインは微かな笑みを見せた。

 カインの苦しみは、ライにも痛い程よく理解できた。カインは発作的に思い悩むところがあった。仕事に、負わされた運命に・・・。別に彼が弱いわけではなかった。彼は強かった。逃げたと口では言っているが、ライから見れば彼の姿は『逃げ』ているように見えなかった。真正面からカインは運命を受け止めているのだ。受け止めすぎるが故に、カインは悩んでいる。

 ライは思った。自分には真似できないと。

 彼は自分自身にすでに決着をつけていた。悩み疲れ『逃げ出し』たのは彼がもっと若いときだ。己自身を傷つけ、虚無に身を委ねるしかなかった10代の終わり。その壊れかけの身体を抱き、受け入れることも大切だと諭したのは誰だったか。

 それ以後、ライは全てを受け入れた。受け入れることもひとつの強さだと知ったから。“今”の自分を保つためにもそうするしかなかった。

 それでも現状に満足できているわけではなかった。いつも頭の片隅で、忌まわしい過去がライを蝕み続けている。

 それはカインとて同じなのだ。いや、セシルやアイラさえ、共に同じものを引き摺り続けなければならなかった。

 ひとりじゃない、ただそれだけがライの、そしてカインたちの唯一の拠り所でもあった。

 カインが席を立ち後片付けを始めた。ライはテレビをつけた。彼のお気に入りのアナウンサーが、その美声で今朝のトップニュース ― あの件 ― を読んでいた。しかし、今日ばかりは彼女の声もライの耳を素通りするばかりだ。

 ライはちらっとカインを盗み見た。慣れた手つきで食器を洗っていく彼の姿に、もうひとりの彼を重ねながら。

 自己の仕事に疑問を持ち、やるせなさを露わにするカイン。享受の姿勢を見せかけたかと思えば逃げ腰になる。そうかと思えば、氷のような冷たい笑みで銃口を向ける。

 本当のところ、ライにもカインの真意は測りかねていた。

 ただ、これだけはライにもはっきりとわかっていた。

 暗殺者としてのカインの瞳は、殺人のエキスパート『北の悪魔』そのものだということを。

「何ジロジロ見ているんだ?」

「へ?」

 突如思考を引き戻され、ライは間の抜けた声を発してしまった。いつのまにかカインが自分を覗き込んでいた。

「ぼぅとしてないで早く着替えろよ。買い物に行くぞ。ただでさえ今日は忙しいんだ。昼飯は外だぞ」

「な、何だよ。急に。買い物って?」

 ライは壁の掛け時計に目を向けた。いつの間にか時計の針は10時を目前にしている。

「しばらく自分んちに落ち着くだけだよ。次の予定もたってないから。お前いつから部屋にいるのか知らないが、俺が出てから冷蔵庫の中増えてないぞ? 食料の買い出しに行かなきゃならないし、ついでに原稿も出版社に持っていかなきゃならないし、郵便局も寄らなきゃならない。やること多いんだからな」

「原稿? フリーライターの? 紀行文の?」

「Yes.一応『表』の仕事も上手くいっているからね。けっこう忙しいんだぜ、これでも。やっと取れた休みだからやることやらなきゃ」

「休み・・・ね」

「だから早く着替えろよ。おまえ待っている間にe-メ-ルチェックするから」

 カインは部屋の隅においてあるパソコンの前に座り電源を入れた。最近のカインの趣味はもっぱら『これ』であるらしい。

 まぁそのうち飽きるだろうとライは踏んでいた。意外と飽きっぽい性格なのだ、カインは。

 このパソコンも今ではカインのe-メールと、ライが使用する以外は埃を被るだけだった。日本製の最新タイプだというのに。

 カインは一通り目を通すと慣れた手つきでメールを返した。

 その頃、ライは言われた通りに自室に引っ込んでいた。

 バスローブを無造作に脱ぎ捨てクロゼットを開いた。中には品のいいスーツやら、ブランド物のシャツやらがきちんと整理されて並んでいる。

 彼はしばらく考えてから、その中のひとつを取り出した。

 ライが一番気に入っている、最も彼に似合う服だった。


 それから数時間後。二人はパリの街を歩いていた。

 予定通りにカインはまず雑誌社に寄って完成原稿を編集部に置き、郵便局に局留の郵便物を取りに行きランチを終えた。

 花の都・パリは観光客を含めた人々で賑わっていた。あちらこちらに外国人がいる。しかし、外国人でもアジア系は良く目立つ。

 その中で、さらに目立つ人間がいた。

 フランス人だけでなく外国人も、女ばかりでなく男でさえも惹きつける。

 すれ違う人々は皆振り返り、その姿に魅了された。

 無論それはライだった。一緒に居るカインも目立つので、どうしようもない2人組といえる。

 目立つのは仕方がない。

 2人ともそれだけの容姿をしているのだから。

 まずカイン。

 銀髪に北欧人の顔立ち。身長は平均の少し上をいく程度だが、サングラスではその素顔の全てを覆い隠すのに不十分だった。

 そしてライ。

 黒髪に、黒に近い茶系の瞳。すらっとした長身に、逞しさを備えた身体。そのくせ着痩せするタイプで、すっきりとした身のこなしだった。

 ライの顔は西洋人から見れば東洋人であることはわかるが、中国人かどうかは確信の持てない、人種離れした美しさを併せ持っているのだ。

「なんかやけに視線を感じるなぁ。みんなこっちを見てるぜ」

「誰のせいだか」

「誰?」

「・・・。おまえだ。そんな格好しやがって」

 カインはライの着ている服を指さして言った。

「チャイナのどこが悪いんだよ。人民服よかよっぽどセンスあるぜ。似合うんだからいいだろうが。第一、人のこと言えるのか? おまえは」

 ライの鋭いツッコミにカインは言葉を詰まらせた。

「今日みたいに気持ちの良い陽射しにサングラスなんかすんなよ。うっとうしい。その眼の『色』が嫌ならカラーコンタクトでもすればいいだろうが」

「目が乾くから嫌だ。発売すぐにやって失敗したし。非常時以外はしない」

「面倒だねぇ、おまえも。開き直ればいいのに」

 ライは半ば呆れたように、溜息混じりにそう呟いた。その直後市場の前を通りかかったので、ライは「買い物していこうぜ」といって人ごみの中に入っていった。

 カインは慌ててライの後を追った。

 そこは中華市場だった。

 カインは目立つことをひどく嫌った。『表』の仕事柄そうも言っていられないのだが、それでも極力人目を避けようとする傾向にあった。

 しかしライはその対極に位置していた。全てを受容した彼にとってそんなことは考える価値にすら値しない。

「なぁ、今日は夜も外だから明日は中華にしないか? いい材料が揃ってるよ、ここ」

 嬉しそうに笑うライにカインも微笑み返した。

「いいよ。その代わり作ってくれるんだろうな。中華料理は自信ないぞ、俺」

 一通りの買い物を済ませ、アパルトマンに向かっている途中カインはふと、つい先程のことを思い出した。

 事は郵便局で起こった。

 局留の郵便物がないか窓口で訊いているとき。二十歳前後の女性2人組が彼らの傍に駆け寄ってきた。

「シェン=メイロン先生ですか?」

 カインはひとりの女性の視線がライの手紙の宛名と顔とに交互にいっているのに気づいた。

「Oui. 僕が神美龍ですけど」

 ライは笑顔でそう答えた。すると二人は顔を見合わせて嬉しそうな歓声を上げると、早口のフランス語で「サインを頂けませんか?」とか、「握手してください」とライに頼んでいた。

 神美龍とは、ライのもうひとつの名前である。彼はヨーロッパや故郷の中国 - 香港では結構名の知れた作家で、女性を中心にかなりの支持を受けている。読者にわかっていることは名前と国籍、人種のみで、かなりの美男子らしいという噂だけだった。

 ここで出会った彼女たちもそんな噂を信じていたのだろう。

「すっかり有名人だねぇ、作家先生」

 マダム・ノーラの店の前で立ち止まって、カインは茶化すような言い方をした。若干皮肉っぽい。

「・・・なんだよ、急に。気味わりぃな」

 不審気にライはカインを見た。カインは意味あり気な笑みを浮かべている。

「さっきのを思い出したんだ」

「あ? あぁ、郵便局ね」

 ライは思い当たったのか、ふっと笑った。

「なぁ、カイン。おまえはどう思っているのか知らないが、人間というものはこのコインと同じで必ず表裏一体なんだよ。裏だけでも、まして表だけでも生きてはいけない。陽のあたる道と陰の道。その両方が必要なんだ。まぁ、俺たちは極端だけどな」

 そう言いながらライはコインを指で弾いた。カインはそれを上手く片手でキャッチし、無言で頷く。口元が僅かに緩んだ。

 今更ライに言われるまでもない。だからこそ、カインはフリーライターなんてものを生業としているのだ。

 ただ、どんなに彼自身が陽の光を求めても、必ず他の力が彼を闇に引き摺り戻す。決して他の道を開いてはくれない。自由など、ありはしない。

 求めれば、あるのは『死』だけだった。

 ライはいつのまにか扉を開けて中に入ろうとしていた。カインは慌てて後に続いた。

「そういえば何時に待ち合わせだったっけ?」

 カインはさりげなく話題を切り替えた。

 ライは左手首にはめられた愛用のロレックスに視線をやる。

「4時にアイラと待ち合わせ。今日はセシルの誕生日会だから、プレゼントを買って6時に予約しておいたレストランで食事、てとこかな。」

 ライは今日これからの予定を簡略的に説明した。

 カインは「メルシー」と頷いた。

「おや、帰って来たのかい?」

 扉の脇にある棚を整理していたマダムが笑顔で出迎えてくれた。

 カインはもっていた紙袋から瓶を取り出しマダムに見せる。アパルトマンを出る前に頼まれていたのだ。

「これでよかった?」

「あぁ、これこれ。メルシー、カイン。あ、あとアンタにお客さん」

「客?」

 マダムは瓶を受け取り、見ろとばかりに指で示した。

 その指を追って見ると、そこにはカインたちに背を向けた格好でカウンター席に腰をおろした男の姿があった。

 カインは店内を見回し、他に客がいないのを確認してから、かけっぱなしだったサングラスを外した。

「久しぶり、お2人さん」

 男がゆっくりと振り向いた。

 2人の顔には驚きの表情が浮かんだ。それを楽しむように、男は面白そうに笑っている。

「Z・・・」

「うわぁ、久しぶり。元気だったか?」

「あぁ、おまえたちも相変わらずのようだな。元気そうで何よりだ。俺好みのその顔も、ますます綺麗になっていくな、ライ♪」

「・・・気色悪いこと言うな。俺にそのケはねぇよ。俺は女の子が大好きなの!」

「つれないな~、ライ。俺とおまえの仲なのに」

 Zと呼ばれた男は、まじめなのか何なのかよくわからない口調で心底悲しげな表情をして見せた。

 この瞬間、ライの右手がZの頭をはたいたのは言うまでもない。

「痛って~」

「やかましい!! それよりフランス離れて何処行っていたんだ、おまえ」

「故郷に帰っていたんだよ。里帰り。ちょいと野暮用でね」

「日本か?」

 カインが2人の漫才にようやく口を挟んだ。

 Zは満足そうに頷いて頬杖をついた。

 Z・・・英名ゼニス=ヴォーカル。本名不明。年齢は本人曰く、カインたちよりも3つ上。つまり31歳。肩より数センチ長い黒髪をオール・バックにして束ねた、純粋な日本人だ。

 表向きは留学生。もともとフランスで生まれたらしく、子供の頃日本に戻ったという。

 その後大学から再び渡仏したのだが、学校はとっくに卒業しており、現在は日本人学校で教師をしている。

「学校の先生が何の用だ」

「今日は学校の先生じゃなくて、君たちのエージェント兼情報屋だ」

 カインの言葉に、Zはさっきとはまったく違った、異質の笑みを浮かべた。

 彼はジャケットの内ポケットから、一枚の折り畳まれた紙をカインに差し出した。

「?」

「お前に『仕事』。御指名だ」

 カインは無言で受け取り、中身を確かめた。しばらくしてから彼はその紙をジャケットのポケットにしまいこみ、代わりにジャケットの外ポケットから数枚の紙幣を出しZに渡した。

「ライ、悪いがひとりで行ってくれ。俺はレストランに直行するから。少し遅れるかもしれないけれど必ず行く。2人に謝っておいてくれ」

「お、おい!! おまえが会いに行くのか!?」

 Zが慌てた様子で叫んだ。

「依頼の内容なら俺が受けてくるよ。何もおまえが行く必要はないじゃないか」

「いや、いい。俺が行く。・・・そろそろ、だと思っていたから」

 ただならぬ様子に、Zとライは顔を見合わせた。

 カインは遠い目をして口を閉ざした。

 彼はいつも通りマダムにひと声かけると紙袋をもって2階へ上がっていった。残されたライは袋をカウンターに置き、Zの横に腰をかけた。

「何の話だ」

「何って何?」

 ライの睨みもZは笑顔で受け流した。コーヒーを口に運び「美味いね~」と笑う。

「豆替えたでしょ? マダム」

「ひとの話を聞けぇ!」

「プライベートには口出ししないのがエージェントの鑑でしょ。さぁて・・・」

 Zはコーヒーを飲み干すと席を立った。

「何だよ、もう帰るのか?」

 ライは店内の時計を見た。3時を少し過ぎたところだ。

「あぁ、4時から会議なんだ。アイラとセシルによろしく言っておいてくれ」

 すかさずライの頬にZは軽く唇で触れた。

「なっ!お前!!」

「じゃあな」

 それだけ言ってZはさっさと店を去っていった。後に残ったのは、キスされた頬に手を当てたまま呆然としているライだった。

 少し顔が赤く染まっている。

「あ、あの野郎~」

「相変わらず仲良しさんねぇ、あんたたち」

「え・・・?ええっ!!」

 ほっほっほっと笑いながら食器を片付けるマダムは、ライが止める間もなく奥に引っ込んでしまった。

「Zの野郎~、覚えてろよぉ~」

 またひとつ誤解を作ったような気がしてならないライだった。

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