エピローグ~tomorrow never knows~
陽の光を障子で遮っているせいか部屋の中は薄暗かった。だが、そこで眠る者にとっては心地よい暗さなのかも知れない。
リザは足音を忍ばせてそっと部屋の中に入った。
寝床の傍に腰を下ろす。
細い指で額にかかる銀の髪に触れる。
「お帰りなさい、カイン」
リザは唇でカインの額に触れる。
「・・・ただいま」
え? と驚いてリザはカインの顔を見た。彼は薄っすら瞼を開き、リザの頭を右手で抱え引き寄せる。
リザは安心しきったようにカインの首に抱きついた。
「ごめんね、おこしちゃった?」
「構わないよ」
「出かける前にカインの顔見たかったから・・・」
「出かける?」
「うん、お土産見に新京極へみんなといってくる。マダムたちのお土産見てくるね」
「そういやミカエルが何か買ってきてくれと懇願していたな」
出発前に会った編集担当者の顔を思い出しカインは笑った。
「一緒に見てこようか?」
「頼む」
カインはリザの頬に接吻をした。
「みんな・・・ということはZも?」
「うん。張り切っていたよ」
「そうか」
カインは少しだけ安堵した。Zのことだけが少し心残りだったからだ。
「ゆっくり眠ってて」
「あぁ」
リザが身体を起こし、手を振って部屋から出て行った。
その後ろ姿がふと、何かと重なる。
―――眠ってて・・・。
金色の長い髪が風になびく後ろ姿を思い出し、カインは急に胸騒ぎを覚えた。
あれは彼女の部屋だったのだろうか?
彼女は俺に背を向けて何処へ行こうとしていた?
俺はその背に向かって何を言った?
(いや・・・そんなことより・・・)
カインは思考を切り替えた。
滝川龍二の暗殺によって仕事は完了した。約束通り報酬が振り込まれたとセシルが確認していた。
仕事が終われば後のことなど『悪魔の御子』には関係ない。
だが、一抹の不安をカインは拭えないでいた。
かつて幼いアイラが生み出した至高の麻薬。
この世には存在するはずのない麻薬。誰が組織まで作って捌いているのか?
アイラは言っていた。精製法のファイルは既に処分済みだと。残っているのは自分の頭の中だけ。
誰が滝川龍二を組織に引き入れた? いや、それ以上に政財界の大物を操るほどの人物が組織にいる。
(一体・・・誰が・・・?)
カインはだんだん薄れていく意識の中で必死に考えようとしたが結局放棄せざるをえなかった。
彼の意識は深い底へと落ちていった。
藤枝の玄関で水撒きをしていた弥生はふと顔を上げた。
今までうるさく鳴いていた蝉の声が急にやんだからだ。まるで世間から空間ごと切り離されたかのような静寂に弥生は寒気を覚えた。
こんなにも暑いのに、どこか寒い。
「変な感じや・・・」
旅館は真夏でも涼しい風が渡る。だが、こんな冷たい気配を感じたことはない。
弥生は頭を振った。いろいろあったから疲れているだけだ、と自分自身を律する。
「・・・お客はんやろか?」
弥生は視界の端に映った人影を認めた。坂をゆっくり上がってくる人影に弥生は見入る。
まるで映画の中から脱け出たような、俳優のような青年だった。
(むっちゃ好みやわ)
弥生は呆然とその姿を眺めた。カインやライのような雰囲気とは違うその容姿は十分美しかった。
残念なことにその顔には眼鏡が掛けられていたが、その端正な容貌は隠し切れていない。
「失礼、旅館の方ですか?」
てっきり英語で話し掛けられるとばかり思っていた弥生は思わず拍子抜けをした。その口から発せられた言葉は日本人よりも綺麗な日本語だった。
「あ・・・はい、若女将の弥生と申します」
「若・・・女将? これは失礼を」
男はくすりと笑った。よく見れば、この暑いのにスーツをしっかり着込み、茶色の髪は丁寧にセットされている。
汗ひとつかいていない、と弥生は思った。
「ひとつお願いしたいのですが・・・」
そう言うと男は上着の懐から一通の封書を差し出した。
「これをこちらに宿泊されている方に渡していただけませんか?」
「ええですけど・・・どなたに?」
弥生は封書を見たが何処にもそれらしい宛名はない。
「銀の髪のミスターに」
「え?」
一陣の風が吹き抜けた。弥生は思わず目を閉じた。次に開いた時には男の姿は何処にもなかった。
「え? え?」
「どうしたんだい? 弥生」
ひとりできょろきょろしている弥生に声をかけたのはカインだった。眩しそうにサングラスをその顔に押し込んで。
「い・・・今、凄く綺麗な男の人が・・・」
「綺麗な男?」
カインは弥生の手に握られている封書に眼をやった。
「銀の髪のミスターに渡してくれって・・・それってノエルはんのことや!!」
弥生は難問のパズルでも解いたような顔で封書をカインに差し出した。
彼は弥生と封書を交互に見ながら受け取り、封を切った。
中には一枚の便箋。開くとそこにはフランス語の走り書きがあった。
「・・・」
「ノエルはん?」
弥生が不思議そうにカインを見上げる。
そこに楽しげに笑い合う一団が近付いてきた。
「そんなとこで何やってんだよ、弥生」
Zが笑いながら手を挙げた。
「お兄ちゃん」
「・・・どうした?」
弥生が指差す方向にはこちらに背を向けたカインが立っている。
「・・・どうしたの?」
リザが心配げにカインに近寄る。カインはようやく視線を便箋から離し、リザに向かってニッコリ微笑んだ。
「ライ、香港にはどれぐらい帰っていない?」
「藪から棒に何を言い出すんだ、おまえは」
いいから、とカインに促されライは頭を捻った。
「3年ほど帰ってないかな?」
「じゃ、すぐに実家に連絡をとってくれ。ホテルでも何処でもいい。部屋を用意してもらってくれ」
「な、何を急に・・・」
カインの突然の言葉に全員が驚く。
「セシル、アイラ、悪いがヴァカンスはまだ終わりじゃない」
「は?」
「Zはすぐに飛行機の手配を。香港行きだ。神谷にでも言えばすぐに取れるだろう」
「お、おい! 理由を説明しろよ!!」
Zは思わず叫んだ。その声にカインがにやりと笑う。だが、眼は笑っていない。むしろそこには怒りが見える。それに気付いてZは口を噤んだ。
現状がまったく理解できていないリザは不思議そうに訊ねた。
「香港・・・て、どういうこと?」
「折角だから足を伸ばそう。香港はライの故郷だ。案内人もいるから心配はない」
「・・・じゃ、俺も行こう。ライのご両親にも挨拶せな」
「するんじゃねぇ!!」
傍目にはまたじゃれ合っているように見える2人を尻目にカインは足早に旅館のほうへ歩き出した。アイラがその後を追う。
「突然どうしたの?」
「・・・組織は香港だ」
「わかり易く言いなさいよ」
アイラに言われ、カインは歩くのを止めた。
「PEOを作り出し、売り捌いている組織は香港にある。滝川龍二を操っていた男もそこにいる」
「誰かわかったの!?」
「・・・あぁ」
カインは苦々しげに言い捨てた。右手には先程の手紙が握りつぶされている。
「その手紙に何か書いてあったの?」
「ヒントさ」
それだけ言うとカインはまた歩き出した。今度はアイラは追いかけてこなかった。
左手で左耳朶に触れる。冷たい無機質な感触が確かにあった。
鏡を見るたびに思い出す。
痛み以上に感じた熱さ。
まるで血を閉じ込めたような真紅の輝き。
香港へ行けばきっとあの男と再会する。
この『誘い』は罠。
けれど、行かないわけには行かない。
預かり知らぬところで何か巨大な力が動いている。シグルド=アムスンもそれを感じ取っているようだった。
握りつぶした手紙を開き、カインはゆっくり読んだ。
― 100万ドルの夜景の中で貴方をお待ちしております。
・・・P.S. 真紅の刻印は貴方の中で輝いていますか? ―