表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪魔の御子  作者: 奏響
第3話 永遠に咲くサクラ
37/71

忘らるる(下)

 勢いよく開け放たれた扉の向こうで、滝川龍二は苛立った様子で部屋の中をうろついていた。

「・・・どちらにいらっしゃったのですか? 出国準備は全て終わりましたよ」

 ずれた眼鏡を人差し指で直し、少し乱れた茶色の髪を片手で梳く。その動作が今の滝川には癇に障る。

「桜が殺された」

「ほう・・・」

 フィロスは特別関心をもった様子もなく、テーブルの上のグラスにブランデーを注ぎ一口飲んだ。

「殺ったのはカインだ。・・・あんな男と龍也は・・・」

「その表現は感心しませんね」

 苛立ち紛れに爪を噛んでいた滝川がじろりとフィロスを睨む。冗談ですよ、と軽くフィロスは笑って見せた。

「ケイイチ=カミヤ・・・とかいう内調の人間ですか? 示唆したのは?」

「・・・譲だ」

 桜を殺しても内調が得することは何もない。譲は異常なまでに桜を嫌悪していた。彼ならば・・・殺りかねない。

 しかし、滝川にとって桜の死はどうでもいいことだった。今は早急に日本を発つことを考えなければならない。あの悪魔は確実に自分を殺しに来る。あの時、始末できたはずなのにしなかった。それは、後でも暗殺できることを確信しているからだ。

 それ以上に、桜の遺体が警察に発見されればいずれ自分に繋がる。

 今まで見せたことのない滝川の焦った表情にフィロスは薄く笑った。

 彼は懐から一枚の封筒を取り出しテーブルの上に置いた。

「・・・?」

「香港行きです。明日一番のチケットを手配しました。これで先に飛んでください」

 滝川は封を開け、中身を確かめた。

「・・・確かに。俺だけ先に行けばいいのか?」

「えぇ。貴方はビジネスクラスでごゆっくり寛ぎながら空の旅を楽しんでください。私の部下を数名同行させます。着いたら空港でMr.姫という男が待っています。彼の傍で待機していてください。私も・・・すぐにそちらへ向かいます」

「わかった」

 滝川はジャケットの懐に封筒を収めた。

「空港傍のホテルを予約してあります。すぐにそちらへ移って下さい。このホテルでのんびりしていたら『悪魔』に乗り込まれかねないですからね」

 そうだな、と滝川は安堵の笑みを浮かべる。

「何から何まで世話になるな」

「構いませんよ。貴方の絵は私も、マスターも大好きでしたのでね」

 たいした荷物はないので滝川龍二はすぐにフィロスの部下とともに部屋を出て行った。

 散らかりっぱなしの部屋にたった一人残ったフィロスはグラスの中のブランデーを飲み干すとテレビのリモコンに手を伸ばした。

 ビデオ映像がブラウン管に映し出される。

 先日のパーティーの映像。少し警戒している様子だが、一瞬微笑むその表情にフィロスは満たされる己の心を感じていた。

 決して向けられることのない優しげな微笑。だが、どんな冷笑も向けられるものは全て、フィロスにとって至福以外の何物でもない。

 ソファーの脇に置かれていた電話に手を伸ばした。

 数度のコール音の後に目的の人物は自ら電話をとった。

「夜分に申し訳ない。・・・えぇ、そうです。彼は今し方ホテルを出ましたよ。残念ですよ、とても素晴らしい人だったのに。だが、彼は使い物にならなくなってしまった。・・・壊れたおもちゃは捨ててしまえば良い。香港の準備は? ・・・さすがです、マスターもお喜びになりますよ。・・・えぇ、そうです。ですから香港へは私ひとりで窺いますよ。100万ドルの夜景が臨める部屋をお願いします。そこでゆっくりと寛ぎたいんですよ、Mr.姫。愛しい者を眺めながら・・・ね」

 フィロスはそっと指を伸ばした。

「・・・待っていますよ、カイン」

 届くはずのない、映像の中のカインのピアスにそっと触れるように。


 目覚し時計の針は6時を少し過ぎていた。旅館では従業員が既に働いている時間だ。

 Zは身体を起こした。

 結局眠ることは出来なかった。

 昨夜、目の前で死んだ桜の亡骸を抱き締めることは叶わなかった。身体がそれを拒否したのだ。

 ただ呆然と見ているしか出来なかった。

 何処から現れたのか、神谷の部下らしき人間たちが桜の遺体をブルーシートで包み、運んでいったところまでは覚えている。作業が終わり、神谷に声を掛けられてZは初めてカインと譲が既に消えていることに気付いた。そのまま旅館までは神谷の車で送ってもらい部屋に戻った。

 部屋から出て、忙しそうに人が動く厨房を通り過ぎ、裏庭からZは離れに向かった。

「あら? おはよう」

「・・・セシル?」

 庭の縁側でセシルが本を片手に座っている。

「いつ起きたんだ?」

「さっき」

 ニッコリ微笑んでセシルは再び本に視線を落とした。

 他の人間が起きてくる気配はない。

 Zはセシルに断ってから横に腰を落とした。

「・・・寝てないみたいね」

「わかる?」

「肌ボロボロ」

 視線は文章を追ったままセシルは答えた。

 Zは肩を竦めながら、落ちつきなく他の部屋を窺った。

「カインならいないわよ」

 すぐに察したのかセシルはZの聞きたいであろう質問に答える。

「昨日の夜から出かけたまま帰ってきていないわ。リザには電話してきてたけど」

 昼までには戻るから心配しないでくれ、という電話だった。

「カインを恨む?」

「・・・わからない」

 Zは煙草を1本咥えライターで火を点けた。

「でもきっと憎めない。俺は・・・カインが好きなんだ」

 Zはセシルに向かって微笑んだ。京都に着てから今までで一番穏やかな笑みだった。


 人が行き交う空港ロビーは混雑をしていた。

 搭乗開始2時間前。ターゲットはVIPルームよりも雑踏の中を選んでいた。個室ではかえって命が危ないと思っているのだろうか。周囲を警戒している様子が見て取れた。

(逃がしはしない)

 左腕にかけたジャケットを直し、ゆっくり歩を進める。

 人ごみの中とはいえ、あの男の身長はゆうに180cmを越す。周囲から頭ひとつ分高ければ見逃すことはない。いや、悪魔の眼から逃れる術などないのだ。

 そっと右手でジャケットの懐に手を入れ携帯電話を取り出す。幾つか操作をしてから再び携帯電話を戻した。

 ふと、Zの顔が脳裏を過ぎる。

 引き金を引いた瞬間、自分から彼のあの笑顔は永遠に失われるかもしれない。

 それもいい、と思った。

 本当なら関わらせるべきではなかったのかもしれない、Zを。自らの業に彼を巻き込んだのは事実だ。これを機に彼が自分から離れていったとしても後悔はない。

 サングラス越しにターゲットを見る。

 壁に背を向け、しきりに腕時計を見ている。こちらにはまったく気付いていない様子だ。

(・・・動いた)

 何かを見つけたのかターゲットは視線を逸らし手を挙げた。

 恐らく、それは瞬き程度の時間だった。

 ざわめきの中では微かな鈍い音など消されてしまったことだろう。

 カインの口許に成功を確信した笑みが浮かぶ。

 ターゲット・滝川龍二は呻き声ひとつ洩らすことなく、壁に寄りかかった。ゆっくり右手で胸に触れる。真紅の液体にでも手を浸したように、何かで手が汚れた。だが、それが何か理解するまで随分長い時間がかかったように感じた。

(あぁ、血か・・・)

 急に眼が霞んだ。霧の中にでも放り込まれたような感覚。薄れてゆく意識の中で、何故か苦痛はなかった。

 撃たれているにもかかわらず。それもかなりの出血だろう。

 視界の片隅に何かが動いた。

 ひらひら何かが舞い落ちる。

「・・・桜・・・花・・ビラ・・・?」

 あの桜の花が何故か滝川龍二の眼には映っていた。

 桜に・・・殺されるのか?

 それも一興。

 やはり、自分はここで殺されるのか。

 滝川は口許に笑みさえ見せた。

 一生に後悔はない。例え多くのものを犠牲にしてきたとしても。

 彼はゆっくり瞼を閉じながら、静かに崩れる。

 まるで絵画のように色鮮やかに壁を朱色で染め、果てた。

 ほんの、瞬きのような短い時間の出来事。

「キャーっ!!」

 傍を通りかかった女性の絹を裂くような悲鳴が響いた。周囲の全て音が一瞬静寂に支配される。

 誰かが「救急車を!!」と叫ぶ声が時間を動かす。

「何かあったのですか??」

 カインが乗り込んだタクシーの運転手が流暢な英語で話し掛けてきた。顔を見ると案外若い。日本でタクシー運転手に英語が通じるのは珍しいほうだろう。

「さぁ? 俺も今出て来たばかりだから」

 何事もなかったように、彼は行き先を指示しタクシーを走らせた。


「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」

 煙草の煙を吐きながら、Zが口ずさんだ。なに? とセシルが聞き返す。

「百人一首の中の一首だよ。永遠の愛を神に誓った筈なのに、相手が自分を裏切ってしまった。自分が忘れられることは構わない。だが、そのために相手が神の天罰を受けることがたまらなく口惜しい・・・という歌だ」

 Zはどこか遠くを見ているようだった。

 全てがようやく過去になった。13年、苦しみ続けた。縛られ、囚われ、忘れることも出来なかった過去。他人から見れば、それは決着とはいえないかもしれない。けれどもZにとって、彼らの死が全ての終わりに他ならない。

 カインに礼を言うつもりはない。彼の『仕事』を理解しているがどこかで憎んだ自分もいる。

「・・・やっと本当に人を愛せるよ」

 Zはセシルに向かって微笑んだ。

「おはようございます。・・・カインはまだ帰ってないの?」

 身支度をきちんと整えて現れたリザはZに訊ねた。

「昼頃には帰ってくるわよ。それより、今日は新京極へ行ってお土産見にいかない?」

「新京極?」

「あら? じゃあもう帰るのね?」

 ひょっこり顔を出したアイラがつまらなさそうに言う。豊かな金髪を相変わらず無造作にひとつで縛っているが、珍しくきちんと化粧をしている。

「そろそろ帰らないとバートに怒られそうだし。でもまだヴァカンスは残ってるから何処か遊びに行きたいけどねぇ」

 セシルは肩を竦めた。財団総帥の彼女にとって長期休暇などなかなか取れない。あっちこっち飛び回っているが全て『仕事』絡みだ。アイラも御同様だった。夏の長期休暇など本来医師の彼女には無縁のものだ。帰ったら当分休暇はないだろう。だからこそ、もう少し遊んでいたい。

「バートって誰?」

「セシルの敏腕秘書君。若いのに凄腕で、大学院で経営学を学びながらセシルの『公私』のスケジュールを捌いている強者だよ」

 最後に現れたライがリザにそっと教える。

 ライは煙草を咥え、縁側に座るZのライターに手を伸ばそうとした。それをZがとり、火を点けてやる。

「謝謝・・・っ!!」

 煙草から口を離した途端Zががばっとライに抱きついた。

「んなっ・・・何しやがる!!」

 嫌がってライは抗うがどういうわけかしっかり抱き締められて身動きが取れない。助けろといわんばかりにライはセシルたちを見たが、呆気にとられているリザは別として、セシルとアイラはニヤニヤ笑っている。

「はーなーせー!!」

「・・・やっぱり俺はおまえを一番愛してるぜ!」

「な・・・なんだとぉっ!!」

 全身に鳥肌が立つとはこのことかもしれない。

 ライはZの言葉に失神しそうになった。

「嬉しいよ、ライ。俺はやっぱりおまえが一番なんだ。愛してるぜー!!」

「んな、気色悪い言葉絶叫すんなー!!」

 昨日までの落ち込みようは何処へやら、ZはいつものZに戻っていた。さっきまであれほど遠い眼をしていたのに。

 セシルはアイラに目配せをする。アイラも頷く。

 2人は優しくライに抱きついたままのZを見た。

 いつものZの明るさがどれほど自分たちに光を与えているか彼自身は気付きもしないだろう。Zの存在は暗い水面に投げかけられた小さな光の石。傷を舐め合うことでしか生きられなかった4人に与えられた光。

「落ち込むあいつなんて・・・あいつらしくないわよ」

「そうね」

 カインもきっと同じ想いだろう。Zとの付き合いが長い分、彼はきっと苦しんだに違いない。だからこそ、自らの手でZの過去を断ち切った。

「そう言えばケイイチ=カミヤとクメを見ないわね」

 アイラが思い出したようにもう一つの離れを見ようと背伸びをする。

「先生やったらもう発たはりましたよ?」

「痛っ!!」

 何フザけてんのよ、とZの脛に蹴りを入れながら弥生が答えた。彼女の後ろからカインが姿を現す。

「・・・おかえりなさい」

 リザの表情が安堵の笑みに変わる。それに気付いたカインはそっと微笑む。

「ただいま」

 一言だけ答えると、カインは崩れるように膝を折った。

「カ・・・ノエル!」

 リザが慌ててカインを支えた。

「リザ・・・」

「何?」

 リザの肩に腕を回し、彼女の耳元にそっと唇を寄せる。

「・・・・・・眠い」

「・・・え?」

 その瞬間カインの意識は途切れた。

「・・・ノエル?」

「ただの睡眠不足のようね」

 アイラが冷静に診断を下す。腕を組みどうやら呆れているようだ。

「俺が寝室に連れて行くよ。リザじゃそいつ重過ぎるだろう?」

 ようやくZから逃れたライは嬉々としてカインを担いだ。

「こいつ寝かせておくからさ、俺たちは出かけようぜ」

「大丈夫かな?」

「気にせんと出かけてきたらええやん」

 弥生がリザの肩を叩いた。

「ノエルはんのことはうちが見とくさかい心配せんでええよ? それより・・・」

 弥生はZを振り返った。不思議そうに俺? とZは自分で自分を指差す。

「お兄ちゃんに電話。フランスからよ」


 リザたちが離れで遅い朝食を食べている間、Zは自室に戻り、自分宛にかかってきた電話をとった。

「アロー?」

『・・・遅い。いつまで待たせるつもりだい?』

「・・・ユーシス?」

 Zは電話の主に驚いた。思わず時計を見る。今、パリは夜中の3時だ。

『驚くことないだろう? これくらいの時間まで店で飲むくせに』

 飲めないZにユーシスが『飲んでいる』という言葉を投げかけるのは決まって彼が落ち込んでいるときだった。

「・・・誰かから・・・何か・・・聞いたのか?」

『何の話だい? それより皆は元気? さっき出たのが噂の妹君だろう? 綺麗なフランス語だったよ』

「・・・あいつに聞かせなきゃな。あいつ、俺の影響でガキの頃からフランス語の勉強して・・・」

『・・・話せよ』

 少し震える声にユーシスが気付かぬはずはない。彼もまた、Zとは長い付き合いなのだ。

『いくらでも付き合ってやるよ』

 その言葉にZは思わず口を手で塞ぐ。こみ上げる嗚咽を洩らすまいと必死に。

『我慢するなよ』

 ユーシスの諭すような落ち着いた声、言葉。今、何よりもZが必要としているもの。ユーシスは何もかも見通しているかのようだった。

「・・・長い話になる」

『構わないよ』

 電話の向こうでユーシスが微笑むのをZは感じた。

「・・・メルシィ」

 Zの双眸から大粒の涙が溢れた。

 ずっと泣きたかった。でも、泣けなかった。誰かにすがって泣くなんて、Zのプライドが許さなかった。

『泣けよ、思いっきり』

 ユーシスはずっと語りかけた。顔は見えなくてもZにはユーシスの温かさが伝わる。

 まるで背中合わせに話すように、Zはゆっくり話し始めた。15年前のことから、今日のことまで。

繋がれた鎖をひとつひとつ外すように・・・。


 その日の昼、各局のテレビ番組は放送内容を変更し、国際線ロビーで暗殺された滝川龍二の事件をこぞって放送し、世間に様々な憶測を呼び起こした。勿論かつての妻だった『藤枝』女将の睦月の許にも取材が訪れたがそれはすぐに収まった。恐らく内閣調査室から圧力がかかったのだろうとZは踏んでいた。

 その騒ぎの裏で同じ日に殺害された桜の存在は黙殺された。彼女の遺体は知人という男が引き取っていったという。

 それが譲であることは明白だったが、Zは神谷に何も訊ねなかった。

 この事件もきっとすぐに忘れ去られてゆく。何人の人間が死のうと、どれほどの有名人が死のうといつか人は忘れてゆく。

 だが、Zは決して忘れない。

 あの瞬間、父も恋人も愛した時があったことは確かだったのだから・・・。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ