契りきな(下)
いつの間にかリビングは薄暗くなっていた。引かれたレースのカーテンに隠れた景色は夕焼けに染まっている。
桜は自分の肩を抱き少し身震いをした。ソファーにもたれてうたた寝をしていたのだろうか。
体の冷えが自分でもわかった。一糸纏わぬ姿でいたせいだろう。
急に頬が熱くなる。
彼女は自分の置かれている状況をやっと思い出した。
今日は学校にも行かず、桜は一日中滝川龍二の絵のモデルを務めていた。最近は日課になっていたが、今日はいつもと違っていた。
初めて、滝川龍二に己の裸体を晒した。瑞々しい若い四肢を言われるがままに動かしポーズをとる。
10代の少女の羞恥よりも、女としての歓喜と快感が彼女を満たしていた。
モデルとして滝川龍二に描かれること。これだけは決して譲には出来ない。その事実がさらに桜に喜びを与えた。
「先生・・・」
薄く色づいた唇から吐息とともに洩れる。身体の下に敷かれていたシーツをゆっくり掴む。
自分の裸体を異性に見られることは慣れていた。モデルとして、見られているだけだったが、見られていたという興奮が桜を包んでいた。
龍也に抱かれるときよりも、それは激しく桜を襲った。
龍也を愛している。利用することばかり考えていた他の男たちとは違い、龍也を愛していることを自分は認めている。だが、それ以上に・・・。
最初は昔見た滝川龍二の若い頃の写真に龍也が似ていることに気付いたのがきっかけだった。
けれども、本物の滝川に出会った瞬間、桜の中で何かが変わった。
この男が欲しい。
モデルをしていることに満足? いいえ、違う。私が欲しいのは・・・。
「起きたか?」
低く響く声に桜は身を起こした。
薄暗い部屋の中では表情がわからなかったが声だけで誰かはわかる。
「私、いつの間・・・」
突然唇が塞がれ、熱い息とともに舌が侵入する。抗う間も無く、桜はその身体をシーツの上に押さえつけられた。
「せ・・・せん・・・・・・」
「どうした? 欲しかったんだろう?」
耳元にかかる息に桜は洩れそうになった声を堪えた。
「俺が気付かないとでも思ったか? 濡れた眼で、モノ欲しそうに俺を見ていただろう?」
「そ・・・れは・・・」
電気が走る。その度に桜は身を捩じらせた。『こんな』のは初めてだった。龍也にでさえ、感じなかった激しい快楽。
「どうした? どうしてほしい? 言ってみろ」
這わされる舌に堪えきれず桜は滝川の首に両腕を回ししがみついた。
「抱いて・・・先生。激しく・・・愛してるわ・・・先生・・・」
週末の繁華街はまだ明るいのに行きかう人々で混雑していた。
大型書店の紙袋を片手に恵一は信号で一息をついた。山のように買い込んだ参考書はやたら重く、恵一は少しだけ後悔していた。
「やっぱり龍也に付き合わせればよかった・・・」
最近付き合いのやたらよい友人を思い出しながら、恵一は再び歩き出した。
今日も本屋まで一緒だったのだが、彼は父親に用があったのを思い出し先に帰ったのだ。
荷物を恵一に押し付けたままで。
彼の背後から軽快なクラクションが鳴った。振り返った先にはスポーツカーが停まっている。
先日テレビで紹介されていた新車だ。値段はあまりに高額すぎて覚えていない。
「やっぱり恵一君だ」
「譲さん!」
車の脇に立っていた譲は笑顔で片手を振っていた。
「どうしたんですか? その車・・・」
「僕のものなわけないじゃん。彰人のだよ」
譲が指差した方向には電話ボックスが立っていた。中には見覚えのある男がいる。
「昨日の夜から一緒ですか?」
「彼のご両親に紹介されて・・・ね」
「・・・凄い」
恵一の反応を面白がっているのか譲はクスクス笑い出した。
「彼の両親、鹿島グループの会長夫妻なんだけど、とても素敵な人たちだったよ。彰人も、僕をパートナーとして紹介してくれたんだ。皆、僕を受け入れてくれて・・・。会長なんかね、『後継者なんかは長男の子供でも養子にすればいい』なんて言って・・・」
譲は頬を赤らめながら、本当に幸せそうに微笑んだ。
彼にとって、これほど多くの人に『個人』として正当に受け入れられたのは初めてのことだったに違いない。
「ごめん、お待たせ譲。・・・と、君は確か・・・」
「展覧会でお会いしましたね」
「あぁ、滝川先生の息子さんの・・・」
「親友の恵一君だよ。それより電話は終わったの?」
「うん。この時間に社にかけると伝えていたからね」
恵一などお構いなしに、彰人は譲の肩に腕を回し頬に口づける。
いくら薄暗いとはいえ人目を憚って欲しいなぁ、と恵一は思った。それほどに2人の仲は進展しているのだ。
「でも凄い荷物だね、恵一君」
「実は参考書を龍也と買いにいったんですけど、アイツ先に帰ってしまって。で、あいつの分も持って先生の家に行くとこなんです」
「それは重そうだね。良かったら乗っていって・・・と言いたいがツーシーターじゃ無理か」
「気にしないでください。それに、邪魔者にはなりたくないんで」
彰人の申し出を恵一は笑顔で断った。
「だったら荷物だけでも運んであげるよ。どっちみち僕送ってもらうところだったから」
譲は恵一から紙袋を受け取り助手席に放り込んだ。
「じゃ、俺ゆっくり散歩してから行きますよ。龍也に伝えといてください」
「オッケー」
じゃあね、と譲はスポーツカーの中から手を振りながら、軽快に走り去っていった。それを笑顔で見送りながら、恵一は軽くなった両手で伸びをしながらゆっくりと歩き出した。
まさかこの後、あんなことになるとも知らずに。
「・・・あれ? 呼び鈴壊れてら」
何度押しても反応のない呼び鈴に向かって龍也は溜息をついた。そう言えばまだ直していないと、この前譲が言っていたような気がしたが定かではない。まぁ、いいかと思いながら、龍也は取り出した鍵で中に入った。
「ちわー・・・親父? 譲? ・・・いないのか? 桜?」
家の中はいやに薄暗かった。何処にも灯りがついていない。微かに物音がするような気がしたが、龍也は構わず靴を脱いだ。見えないわけではないので明かりはつけていない。
「誰もいないのか?」
今日思い出した用事とは父親に呼ばれていたことだった。どんな用事なのかは聞かされていなかったが、とりあえず帰りに家に寄れと言われていた。
龍也は先程から物音がリビングで聞こえるような気がしていた。気のせいだとは思ったが彼はリビングの扉を見た。傍までゆっくり寄る。
取っ手に手を掛け開けようとした瞬間、龍也は耳を疑った。
僅かに聞こえる音。覚えのある息遣い。甘えるように喘ぐ声。
にわかに震える手から、スポーツバッグが滑り落ちた。
知らないうちに、龍也は一歩、二歩と後退った。
薄暗いが、扉のガラス越しだが、それでもはっきりと龍也の眼には映っていた。
絡み合う2つの影。その形、動きでそれが誰なのか、何をしているのか、龍也にはわかった。
「・・・・・・」
言葉は声にならなかった。呆然と見つめる以外、何も出来なかった。
「・・・龍也・・・」
彼の背後から声を掛けたのは譲だった。
先程車で彰人に送ってもらった譲は片手に恵一から預かった紙袋を提げている。
「中に入らな・・・!?」
振り返った龍也の引き攣った表情、蒼褪めた顔色に譲は言葉を失った。
「・・・そこで・・・・・・何が・・・何をやってるんだよっ!!」
譲は龍也を押しのけてリビングの扉を開けた。
目の前に広がる光景に譲でさえも衝撃を受けないわけにはいかなかった。手から紙袋を落とした事も、散乱した参考書にも気付かないほどに。
乱れたシーツの上に、裸を晒しながらこちらを見る桜の瞳は何か疎ましいものでも見るような眼だった。まるで邪魔者でも見るように龍也を見ている。だが、滝川龍二は涼しい顔で煙草を咥え既に服を着ている。
「・・・せん、せ、い」
「こういうことだ、龍也」
甘えるように呼びかける桜を無視し、口許に笑みさえ浮かべながら滝川龍二は息子にそう言った。そこには何の感情も込められていない。
龍也は弾かれたように突然走り出した。
「龍也!!」
譲は慌てて彼の後を追った。今の彼は何を仕出かすかわからない。
「待って! 龍也!!」
閉まりかけた扉を勢いよく開けた先に驚いた表情で恵一が立っていた。
「け・・・恵一君?」
「どうしたんですか? 譲さんまで血相変えて。さっき龍也もいきなり飛び出してきて・・・」
「恵一君!!」
突然譲は恵一にしがみついた。
「お願い! 龍也を・・・龍也を・・・」
「・・・譲・・・さん?」
「先生と桜が・・・・・・あの女が・・・龍也を、裏切・・・った・・・」
「真宮が・・・?」
今にも崩れそうな譲を立たせ、恵一は龍也の後を追って走りだした。全てを聞いたわけではないが、恵一には2人が何をやっていたのか大体想像できた。
行き先は、きっとあそこに違いない。
恵一は走り続けた。
走って走って、辿り着いた先には満開の桜が散る山奥だった。
恵一の目の前で風に攫われた花弁が舞い踊る。いつか聞いた光景。龍也と桜が初めて愛し合った場所。
「龍也!!」
恵一は肩で息をしながら、龍也の傍に駆け寄る。彼は木の幹を何度殴っていたのだろうか、右手が真っ赤な血で染まっていた。それでもなお、殴ろうと拳を振りかざす龍也の腕を無理矢理捕まえながら必死で恵一は叫んだ。
「止めろ! 龍也!! 止めるんだ!!!」
言葉にならない言葉を叫びながら龍也は泣き崩れた。
彼の心はずたずたに切り裂かれていた。誰に、一体何の権利があるというのだ。彼をここまで傷つける権利が桜に・・・父親にさえあるわけがない。
「龍也、忘れろ! 真宮のことなんか忘れろ! 親父さんのことも何もかも忘れろ!! 俺が・・・俺がおまえを守ってやるから・・・!」
恵一は龍也を抱き締めた。泣き叫ぶ龍也をただ抱き締めた。
満開の桜はその光景を覆い隠すかのように枝を揺らし、花弁を撒き散らす。
全ての過去を覆い隠すかのように。
「・・・・・・あれから俺は、大学受験を放棄し、卒業と同時に渡仏した。1年間向こうで勉強して大学に入り・・・カインたちと出逢った。『あの後』俺が何処で何をしていようがあんたにとやかく言われる筋合いはない」
怒りでもなく、憎しみでもない。Zの眼には虚無しか映っていなかった。
今まで目を背け続けてきた過去。今、正面から全てと向き合ったZは深呼吸をした。
「あの後から俺は桜とは一度足りとも会ってなどいない。・・・会いたくもなかった。あんたと桜が何をしていようと関係ない。」
Zは父親の様子を窺う。
彼の表情はまったく変わっていない。動揺のかけらも見当たらない。
敵わない、と思う。この男には。
自分よりもこの男を選んだ桜の気持ちを考えたくもなかったが、わかるような気はする。
この男は誰よりも人を惹き寄せる。そして、裏切る。
「あんたが今何をやっているのか知ってる。そのせいであんたが殺されようが知ったことじゃない」
「・・・だったら、どうしてここに来たの?」
滝川龍二の言葉ではない。Zは自分の背後を振り返った。
リビングの扉の傍に佇んでいたのは譲だった。
どこか哀しげに微笑んで。
「君に先生を罵る権利があると? 僕はそう思わない。桜の心を繋ぎ留められなかったのは君自身の責任だ。それ以上に、あの女にそんな価値があったかどうか・・・」
「譲・・・」
「君は『あの後』から先生に会おうともしなかった。桜からだけじゃない。僕からも逃げた。現実から目を逸らすことばかり考えていた。だからその後の事を知りもしない。そのときの先生の考え・・・」
「譲」
滝川龍二の静かな声に譲は言葉を続けることを止めた。まるで、知る必要はないと言わんばかりに。
「なんだよ・・・その『後』って」
Zの問いに滝川龍二は無言のまま背を向け出て行こうとした。その態度にZは苛立った。
「まただんまりかよ!! いい加減にしろよっ!!」
何を言われても彼は無言のまま振り返ることもなく出て行った。
残されたZは苛立ち紛れにテーブルを殴りつけた。
「・・・教えてあげようか?」
「え?」
譲がゆっくりと口を開いた。
Zに椅子を勧め、自分はソファーに腰を落とした。
「・・・・・・君が飛び出していった後の話・・・」
譲は力なく笑顔を浮かべた。
恐らくそれは彼にとっても思い出したくない過去に相違ない。それ故にあれほど桜に辛く当たっていたのかも知れなかった。
おぼつかない足取りで、譲はリビングに戻ろうとした。頭の中は真っ白だった。憧れだった滝川龍二、安らぎだった龍也。得る事の叶わない、願ってはならないものを奪っていった桜。
まさか、その滝川龍二が龍也を裏切るなんて・・・。
「アイツはどうした」
その声に譲はゆっくり顔を上げた。まるで何事もなかったかのように笑う滝川に譲は初めて嫌悪する。
「・・・何故、あんなことをしたんです。しかも、わざと龍也を呼び出して見せ付けて・・・」
「譲は俺を信じているか?」
譲の問いの答えにまるでなっていない。
「今は信じようとしても・・・」
「最後まで信じろ」
「・・・え?」
「信じろ」
その言葉の意味を譲が知ったのは1ヵ月後のことだった。
龍也が訪れることはなくなり、一緒に来ていた恵一とも会うことはなくなっていた。最も恵一とは電話でよく話してはいたが。
桜は滝川龍二と寝た日から譲に対して態度が変わった。蔑むような目で譲を見る桜を嫌い、譲は家を空ける日が増えた。
「帰らなくていいのか? 譲」
譲は3日前から彰人のマンションに居続けていた。
「いいんだよ。先生も東京に行ってるから」
滝川龍二のいない家の中で桜と顔を突き合わせるのは苦痛以外の何物でもなかった。桜は桜で自分も一緒に東京に行けるものと思っていたようだが、当てが外れ家に閉じこもっている。
「私は嬉しいけどね」
彰人が譲の唇と自分のものを重ねようとしたとき、けたたましく電話が鳴り響いた。彼は軽く接吻をしてから電話の受話器をとった。
「もしもし・・・あ、はい、いますよ。・・・わかりました、伝えておきます。」
短い会話を終わらせ彰人は譲を振り返った。
「滝川画伯から。面白いものを見せるから帰って来いって」
「僕に?」
残念だな、と笑いながら彰人は譲を抱き締めた。彼の腕の中で譲は滝川が何を考えているのか理解できずに困惑げな表情を浮かべていた。
夕暮れが迫る頃、桜は紙袋を提げ玄関の鍵を探していた。
今朝滝川龍二から帰るという電話を貰い、桜は上機嫌だった。彼女の世界は今滝川龍二中心に回っていた。龍也など思い出す隙もない。
所詮彼は先生に会うための駒だったに過ぎない。
桜は龍也のことをその一言で片付けた。未練などない。むしろ、滝川との情事を見られて良かったとさえ思っている。
「先生は私のものよ。龍也にだって渡すものですか」
彼が息子を溺愛しているのを、桜は最初から気付いていた。
たとえ息子であっても、滝川に愛されている龍也を心の奥では妬んでいた。
醜い嫉妬の炎は、龍也に抱かれる度に激しくなっていた。
でも、滝川が選んだのは、息子ではなくその恋人。
最後に愛されたのは自分。
桜の過剰なまでの自信は彼女自身をつけあがらせた。
自分こそ、魅力と才能に溢れた女なのだと。
鍵を見つけ、ようやく開いた玄関に男物の見覚えのある靴が置かれていた。
「帰っていらっしゃるわ・・・」
喜びの笑みを浮かべていた桜の表情が一瞬にして曇る。
滝川の靴の隣に並べられた女物のハイヒール。
「・・・誰が」
桜は慌ててリビングに駆け込んだ。
「先生!!」
開け放たれた扉の向こうには描きかけのキャンパスが置かれているだけだった。しかもそれは譲の絵だ。
ここにはいない。
だとしたら、彼がいるのは・・・。
桜は2階に駆け上がった。一番奥の寝室。ダブルベッドをおいても余りある広さの部屋。滝川龍二が自分の絵を描くときに使う部屋。桜はまだ一度足りとも入れてもらえていない部屋。
「せんせ・・・」
ノックの後、遠慮する素振りも無く桜はドアを開けた。
寝室のベッドの上にはひとりの人間が座っていた。見覚えがない。
「あら、可愛いお嬢さんだこと。先生こんな趣味があったの?」
大人の女を思わせる妖艶な裸体を惜しげもなく晒している彼女は桜を見て笑った。右手の煙草の灰を灰皿に落とす。
「・・・貴女・・・誰?」
絞るような声に女はまた笑った。
「先生のモデルよ。言っておくけど、別に先生の女じゃないわよ。先生お上手だからあたしも寝るのが好きなだけ」
可笑しそうに笑う女に桜は嫌悪感を覚えた。
「あたしだけじゃないわよ? 先生にはそんな女がたくさんいるのよ。お嬢さんもそのひとりってとこ?」
「私は違うわ!!」
思わず桜は叫んだ。私は違う! 身体だけの女じゃない! と。
「そのとおりだな。桜」
風呂上りなのか濡れた髪をタオルで拭きながら、既に着替えて上がってきた滝川龍二に桜は安堵した。
「先生・・・」
「そう、おまえはこいつらとは違う。・・・それ以下だ」
「なっ!?」
滝川は桜の左手で顎を掴み、右手で首を掴んだ。
「せ・・・せんせ・・・」
2人のやりとりを面白そうに女は眺めている。
「おまえが俺の女? 笑わせるな。誰がこんな小娘、その手の趣味は俺には無い。残念だがその手の相手には昔から不足しなくてな。俺がおまえを愛しているとでも思っていたか? 随分思い上がったもんだな」
「何を・・・言って・・・」
「おまえを見た時から全てわかっていたぞ。おまえが龍也を利用していたことを。俺の息子を侮辱していたことを。・・・まだ気付かないのか?」
「わ・・・たしは・・・せんせ・・・愛・・して・・・・・・」
「バカなお嬢さんね」
女はいつの間にか着替えを終えていた。長い髪を片手で跳ね上げる。
「その先生は誰も愛してなんかいないのよ。・・・いえ、愛しているのはこの世で2人だけ。そうよね? 先生」
行きましょ、と滝川の肩を女が叩くと彼は桜を解放した。恐怖に桜はその場で崩れる。
「・・・失せろ」
一言だけ吐き捨てるように言うと、滝川は向かいの扉を開けた。
「俺を信じて正解だったろう?」
「貴方という人は・・・」
扉の向こうで一部始終を見ていた譲は溜息をついた。そして・・・笑った。
「貴方という人は本当に凄い。信じていましたよ、僕は」
譲の言葉に満足したのか、彼はモデルを連れて家を出て行った。残された桜を譲は見下す。
蔑んだ目で。
「・・・今までの男は身体で繋ぎ留めていた? バカな女。先生にはそんな手通じない。先生がおまえなんかを最初から相手にする訳なかったのに、僕もバカだなぁ」
「・・・私は・・・私たちは・・・愛し合っているわ・・・」
「まだそんな寝言言ってるの?」
譲は口許を吊り上げ桜の顔を覗きこんだ。
桜は怯えたように身を引く。
「先生がこの世で愛しているのは2人だけ。勿論僕や君じゃない。誰だか知っている?」
勝ち誇ったような笑みで譲は問い質した。無論返事など返って来る前に譲は答えを言い放った。
「先生が愛し続けたのは君と君の母親・・・睦月さんだよ」
そんなことも気付かなかったの? と譲は哀しげに笑った。それほどまでに滝川龍二が隠し果せていたのかと思うと余計に哀しくなる。
見返りのない愛を抱き続けた男。
その存在のあまりの哀しさを。
「・・・嘘だ・・・」
譲の言葉を信じられないと言わんばかりの表情でZは狼狽する。
「嘘じゃない」
「・・・だったら・・・だったら何故!?」
父親が自分ばかりでなく母親でさえも愛し続けていたと?
幼い頃の家庭生活は幸福とは到底言いがたかった。日本に帰ってから父親は旅館には帰らず勝手にアトリエを兼ねた自宅を購入してしまった。母親は芸術肌の父親を顧みず旅館業に打ち込んでいた。冷え切った家庭だった。その上祖父母は孫のZにはあまりにも冷たく、Zは居場所を失っていたのだ。離婚が成立してからは父親のところによく遊びに行った。母親の再婚も厭いはしなかったが喜びもしなかった。
「お袋が再婚した時だって知らん顔だった。終いには俺にあんなものまで見せ付けて・・・」
「先生はね、総一郎さんの気持ちを知っていたんだよ」
「え?」
突然譲の口から出た総一郎の名にZはたじろいだ。
「総一郎さんは睦月さんが留学する前から藤枝で働いていただろう? ずっと好きだったんだって。でもそのお嬢さんは留学先から戻ったときには夫と息子を連れて帰ってきた。先生に聞いたんだ。総一郎さんの事をまったく知らなかった先生は自分といるよりも彼といた方が幸せに違いないと思ったって・・・」
酔ったときにふと洩らした滝川龍二の昔話。留学先で孤独を癒してくれた少女とその間に出来た息子。だが、自分の存在が後に彼女を不幸にしたことを知った彼は、自ら嫌われることで彼女と彼女を愛する者を結びつけた。
真実を知っていたから総一郎はZに優しく、滝川を信頼していた。
「君の口から総一郎さんが睦月さんと上手くいっていることを知って心底嬉しかったと言っていたよ。そして、君が幸せになってくれるなら・・・何でもやるってね」
「・・・まさか・・・」
「桜はね、君を見たときに先生に似ていることに気付いたそうだよ。その頃彼女の周りには『都合のいい男』たちが大勢いてね。調べてもらって初めて君が滝川龍二の息子だと知った。そして近付いた。何も知らない振りをして・・・。先生は最初から桜の真意を見抜いていたと言ってたよ。このままだと龍也は桜に潰される、とね」
「・・・・・・」
「だから先生は敢えてあんな手段に出た。君から憎まれる結果になっても、恨まれる結果になっても・・・」
息子と女を別れさせる。それには女をこちらに惹きつければ良い。
滝川龍二の策略は見事に成功した。そして、思ったとおり息子には憎まれた。
「君が先生を憎む気持ちはわかるよ。君は桜も先生も愛していたから。でも、あの女は先生に捨てられた後でさえ、先生を追い続けた。最低の生活を送っていたくせに、今では先生の手足にでもなったかのように・・・」
憎々しげに譲は言い捨てた。
Zは眩暈を覚えた。
この13年間、父親を憎むことで、桜を恨むことでカタをつけてきた。まさかあの父親が、そこまで自分を想っていたなんて夢にも思わなかった。
決して自分の想いを口にするような男ではない。恐らく死んでもそれは変わらないだろう。
なら、今自分にできることは?
法を犯し、犯罪に手を染めた父親とかつての恋人に何ができる?
しかもその父親には死が迫っている。
友人と呼んでいる者の手によって。
「先生はあの桜の木へ向かったよ」
「・・・譲?」
「今夜、先生はあの桜の木の下で、桜と会う」
「何故、今更・・・」
「僕が桜と先生を呼び出した。桜には先生が会いたがっていると、そして先生には・・・」
譲は息をついた。遠い眼をして。
「先生には桜が薬をその木の下に隠しているとね。そこにはもうひとり・・・いるとも知らずに・・・」
「・・・まさか・・・まさか・・・」
Zは直感で理解した。わかっていたはずなのに、いつかそうなるのはわかっていたのに。
「あいつが・・・?」
「そう・・・君の愛すべき暗殺者が待っているんだよ」
部屋の中は既に闇に解けていた。陽はとうに沈んでいる。
Zはリビングから駆け出した。
あの桜の木へと。
その背を見送りながら譲は小さく呟いた。
「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは・・・か。例えどれほど愛を誓った仲であっても永遠などありえないんだよ、龍也。人の心は決して人に知られるものではないからね・・・」