花の色は(中)
夕暮れを迎え朱色に染まった庭を眺めながら、カインは静かに障子を開けた。
この離れは3部屋あり、表の庭に面した座敷が居間、裏の竹林に面した2部屋が寝室扱いになっていた。
そのうちの片方にカインは足音を立てずに入った。
「もう起きていたのか?」
縁側に置かれた籐椅子に両足を投げ出して身を預けているアイラがファイルから視線を上げた。
「2時間ほど前からかしら? セシルとライは?」
やけに静かよね? とアイラが言うのでカインは口許に苦笑を浮かべる。
「少しややこしい事になった」
「ややこしい?」
カインは布団に横たわってぐっすり眠っているリザの頬を指で触れた。
微かな寝息がカインを安心させる。
「熱もないわよ。少し疲れたみたいね」
「そうだな」
リザの額に接吻をして、カインは立ち上がり縁側と座敷を仕切っている障子を閉めた。
「ややこしいことって?」
向かいの籐椅子に座ったカインにアイラは再びファイルに視線を落としながら訊ねる。
「依頼が増えた」
「は?」
カインの言葉が理解できず、アイラにしては珍しく間の抜けた声が出る。
「どういうこと?」
カインは先程また戻ってきた神谷の話を始めた。
「どうやら“スネーク・ロード”が急に動き出したらしくてな」
「動き出した?」
「あぁ。さっき売人が殺されたと言ってただろう」
「えぇ」
「この数時間の間に警察や神谷たちがマークしていた売人以外の連中が急に薬を捌き始めた。それも大量に京都のいたるところでな」
今まで決まった場所でしか取引していなかった売人たちが姿を消し、別の人間がいたるところで売り始めたらしい。警察がそれを知り現場に急行しても尻尾を捕まえることが出来なかった。挙句その麻薬を大量に購入した男子中学生がつい今し方自宅で死亡していたのが発見された。
滝川龍二ひとりの指揮でそこまで広範囲に、しかも急に麻薬を捌けるはずがない。おそらく彼の配下にいる幹部たちがそれぞれのテリトリーで動き始めたのだろうというのが神谷たち内調の推測だった。
「それだけ大量の“PEO”をいつの間に日本に運んだのかしら?」
「極最近、としかわからないそうだ。今回はその死んだ子供の所持品から“PEO”を回収できたらしいんだが・・・」
それが先日菅野亜美が所持していた“PEO”以上の粗悪品だった。2、3回も使用すれば死んでもおかしくないほど酷いものらしい。しかも安価なため一度にかなりの量を売りつけているらしく、今日中に死人が増えるのは必至だった。
「それで、神谷が仕事を増やしたいと言ってきた」
「どうして・・・?」
「大勢の組織の人間が警察や内調の連中の前に出てきたせいで肝心の滝川龍二の姿を見失ったらしい。京都ホテルを動いた様子はないが今何処にいるのか皆目見当がつかない、とね。だから、目障りな幹部連中を消してくれと言ってきた」
「・・・ちょっと、一体そいつら何人いるのよ」
「せいぜい5、6人と言ったところか? まぁ、側近を含めたら相当な数だな。そいつらを消してほしいそうだ」
「いつ殺るのよ」
「もう始まっている」
リザが眠った後、しばらくして神谷が戻ってきたところにライが起きてきたので急遽ライとセシルが『仕事』に向かった。
「もうそろそろ戻ってくるだろう」
「冗談やめてよ」
アイラが珍しく表情を歪めた。
「私たちは暗殺者よ? 無差別殺人やりに来てんじゃないわよ」
「大して変わらないだろう」
事も無げにカインは言い放った。
「大統領ひとり狙撃しようと、道端のホームレスを正面から刺そうと、俺たちのやってることは変わらない。・・・人殺しには違いない」
カインは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「あんた、まだ引き摺っているの?」
アイラはカインの自嘲の意味を知っていた。そのせいで未だ彼が苦しんでいることも。
「6年も前よ? それにあれはあんたが悪いんじゃないわ」
アイラにカインを慰める気はさらさらなかった。あえて言えばアイラはただ真実をカインに伝えてやっているにすぎない。
「・・・俺のせいだよ。俺と出会わなければ『彼女』が死ぬことはなかった」
「彼女の命数だわ」
「どこかで俺は『彼女』を疎ましく思っていたんだ・・・。愛していたからこそ怖かった。俺を知られることが。俺の血がどれだけ穢れているか知られることが・・・」
ふと、カインが障子に目をやった。何かを探るように。
「・・・・・・なに?」
「・・・・・・いや」
カインは視線を庭に移した。
「そのせいでリザを受け入れられないの?」
アイラの言葉にカインは黙ったままだった。それを彼女は肯定ととる。
「ノルウェーから戻ったとはいえ、あんたたち同じ部屋に住んでいても寝室はバラバラ。ましてやあんたが目を覚ましてから日本に来るまで時間もなかったからそうそう進展しているとも思えない。・・・リザはあんたのことを慕ってるわ」
「わかっている」
カインは短く答えた。
「『彼女』は死んだのよ? 6年も前に。それにリザは『彼女』とは違うわ。最初からあんたを知っている。知っていてあんたのこと・・・」
「不幸にするだけだろう!」
カインは低く唸るようにアイラの言葉を遮った。
「俺といたら不幸になるだけだ。ノルウェーは未だリザにとって危険だ。でなければリースに預けるさ。いずれあいつもわかる。俺がどういう人間か」
「あの娘は受け入れるわ」
まるで未来を予見するかのようにアイラはキッパリと言い切った。
「あの娘はあんなに酷い目にあってさえ明るく生きている。あの娘は強いわ」
「・・・・・・」
「不幸かどうかはあの娘が決める」
「・・・・・・」
「愛しているんでしょう?」
カインは籐椅子に背を預け力なく溜息をついた。
「・・・判らない。判らないんだ」
「?」
カインにとってリザは不思議な存在だった。癒される、というのが一番正しいのかもしれない。闇に生き、明日をも知れぬ身で生き続けることは苦痛だった。死んでしまえればどれほど楽か思ったかしれない。だが、周囲がそうさせてはくれない。
愛だとか、恋だとか、そういうレベルで考えたことはなかった。
ただ一緒にいたい。それだけだった。
だが、それは自分の我儘。リザにはリザの人生がある。それを奪うわけにはいかない。
「それに・・・怖い」
「怖い?」
「そう。俺はいつかリザを傷つけてしまうんじゃないか・・・と。愛したら失うのが怖くなる。失うより知られることが怖くなる。知られて、嫌われるぐらいならいっそ・・・。」
カインは両手に視線を落とした。
あの時の光景が甦る。
『彼女』は最後に何と言った?
「『彼女』を俺は殺した。自分の我儘のために。『彼女』を・・・」
「あれは事故だったじゃない!」
アイラは思わず叫んだ。
あれは不幸な事故だった。『彼女』を巻き込んでしまった不幸な事故。
「でも、俺が、俺の手で『彼女』を殺した。・・・俺には自信がない。守りたいと願うのに、殺してしまいかねない自分を恐れている」
「ふぁわ~」
障子越しに欠伸をする声が聞こえ、カインは慌てて障子を開けた。
リザが眠そうに目を擦っている。
「あれ? いつの間に来たの? カイン」
「・・・さっきだ。起こしたか?」
「ううん、今目が覚めちゃったの」
今の会話は聞かれていなかったらしい。カインは安堵の笑みを浮かべた。
「喉渇いただろう? 茶でも飲もう」
「うん」
リザは嬉しそうにカインの腕にしがみついた。カインの表情は元に・・・いや、それ以上に優しく、楽しそうに笑っている。
「アイラも来いよ」
「すぐに行くわ」
2人が部屋を出て行くのを見送り、アイラは溜息をついた。
カインはきっと判っていない。自分の心に。リザの存在をどれほど受け入れているかを。
愛しさ故の迷い。
アイラから見ればカインは羨ましい限りだった。『彼女』はカインのことを何も知らなかった。知った瞬間彼女の命は散った。だが、リザは違う。最初から彼女は受け入れている。
恋人の顔が脳裏を過ぎった。
長期休暇に出ると言ったとき、少し寂しげに笑いながら「楽しんでこいよ。土産よろしくな」と言ったアンドリュー。
彼はアイラの事を何も知らない。彼女を『エレーナ=ローレンサー』としか知らない。
でも、彼女はアイラ・レーン=ハミルトンとして生きていくことを誓った。あの3人と苛烈な宿命を分け合うのだと。
鈴虫の鳴き声がアイラを我に返らせた。
口許に笑みを浮かべる。
今はまだこのままでいい。変わりたくない。変えたくない。
そう思いながら、アイラは籐椅子から腰を上げた。
カインがリザとともに座敷の襖を開けた途端、玄関の引き戸が激しく音をたてて開いた。
「もう、冗談じゃないわ!!」
「セシル、ライ。戻ったのか?」
「ただいま~」
疲弊しきった表情でセシルの後ろからライが現れた。
「うへぇ、疲れたー」
よろよろと思い足取りで座敷に辿り着くとライは畳の上に突っ伏した。
リザが慌てて弥生の見よう見真似でお茶を淹れる。
「ありがとう、リザ」
セシルはお茶を一口飲んで溜息をついた。やっと人心地ついたのだろう。
「何よ、2人とも。年寄りみたいに」
後から入ってきたアイラが2人の姿を見て呆れたように呟いた。ふと、アイラが玄関を見た。
「あら、いらっしゃい」
「皆さんお揃いですか?」
そこに現れたのは神谷だった。その瞬間セシルが殺しかねない勢いで神谷の胸倉を掴んだ。
「うわっ!!」
「あんたねー!! あんな仕事押し付けておいて良くこのワタシの前に現れたわね!!」
「レ・・・レディ?」
「私たち全員に仕事をさせるならあの程度の報酬じゃやってらんないわ! 倍・・・いえ、4倍の報酬を用意なさい!! でなきゃ次の仕事には移んないわよ!!」
セシルに捲くし立てられて神谷は目を白黒させるだけだった。
アイラは畳の上で突っ伏したままのライに「何があったの?」と訊ねた。
「それがな・・・・・・」
ライは苦笑いをして事の顛末を語り出した。
昼を過ぎて現れた神谷が持ってきた情報を頼りに、彼らは嵐山にある某ホテルへ向かった。
滝川配下の幹部が宿泊しているホテルで西地区を中心に“PEO”を捌いていた。その幹部は政治家であり、今日はホテルで所謂『資金集め』のパーティーを開いていた。
セシルは上手くそのホテルに潜り込み標的と接触。そこまでは良かった。
「その男は大人数のガードをつけていてなかなかひとりにならないんだ。さすがにホールのど真ん中で刺して逃げるわけにもいかないしな」
セシルが上手く誘いかけ、何とか男の宿泊している部屋まで入った。
ライは陰で様子を窺いながら、セシルと合図を送り合い、部屋の周辺を警護していたガードたちを叩き伏せて中の様子を窺った。
「そうしたら、あのバカ。いきなりセシルを押し倒しやがって」
ライはまた怒りがこみあがってきたのか、苦々しげに言い捨てた。
標的は40歳前後の男だった。隙を突かれてさすがのセシルも抵抗する暇もなくベッドに押し込まれた。
下手に抵抗するとセシルの場合反射的に殺しかねないので、彼女は大人しく男にされるがままを『演じて』いた。
行為に及びかけた男をセシルは上手くなだめすかし、シャワーを浴びるように勧めると男は大人しく従った。
程よく身体が濡れた頃を見計らって、セシルはカーテン越しに背後から一突きで男の息の根を止めた。
そこまでは今までの仕事にも良くあることだった。問題はその後だ。
「やつの部下があっちこっちから集まってきてな。まさかあんなにいたとは思わなかったから」
「皆殺しにしてきたの?」
さらりとアイラが酷いことを言ってのけた。
まさか、とセシルが笑う。
「このお兄さんが『幹部以外はなるべく生かしておいて下さい。吐かせなければならないので』と注文つけてくるから大変だったのよ。全員殺したほうがまだ楽ってもんよ」
殺すよりも生かすほうが難しい。しかも致命傷を与えない程度となればよりいっそうだ。
「あのホテルしばらく営業できないかもね」
セシルが肩を竦めた。
おそらくホテルの中のいたるところで阿鼻叫喚図が広がっているのだろう。
「今夜から明日にかけて、他の幹部連中を始末してください。明日の朝には・・・・・・滝川龍二を丸裸にしたいんです」
神谷が緩んだネクタイを締め直した。
「やっぱり10倍はもらおうかしら?」
アイラが溜息とともに言葉を洩らした。
ターゲットは後4人。神谷の情報によれば他の4人はいずれも京都市内に邸を構えており、所謂暗殺にはもってこいの現状だった。
「夜に出るの?」
リザが心配そうにカインの服を引っ張った。カインはそんなリザの不安払拭するかのように笑う。
ちょうどそこに、食事を運んできたZと弥生が現れた。
先程の暗い様子は微塵も感じさせず、Zはライにじゃれかかった。そんなZに「手伝ってよ!」と弥生が叫ぶ。
なんて事のない光景だった。
神谷が口許に笑みを浮かべる。
それをセシルは見逃さなかった。
「なに?」
「・・・いえ、私はこれで失礼します。この資料をお預けしておきます。・・・では」
神谷は茶封筒をセシルに渡すと、Zに声をかけ玄関から出て行った。
賑やかなZたちを余所に、セシルとカインは茶封筒の中身を見た。
幹部と思われる男の写真。邸の周辺地図と屋敷内の見取り図。
「分かれてやる?」
「いや、アイラにはここに残ってもらう。リザや弥生だけ残すのも心配だしな。セシルは今日と同じく、ライと行動してこの2人を頼む」
「いいけど・・・・・・あんたは?」
そこまで聞きかけてセシルは苦笑した。訊くだけ無駄よね、と笑う。
この男にターゲットの人数は関係ない。周辺地図からカインが選んだ標的は狙撃ポイントのある場所に滞在している連中だった。
赤い眼が光る。口許に笑みを浮かべて。
これこそが悪魔の微笑。
堕天使の、微笑だった。