花の色は(上)
「弥生ちゃんは落ち着いたみたいですね」
神谷が出された日本茶を一口飲み溜息をついた。ようやく人心地ついた、ということなのだろう。
「おまえのおかげなんだから、礼を言うべきなんだろうな」
Zが釈然としない面持ちで神谷を見た。
彼は肩を竦める。
「気にするなよ。立場を利用しただけさ。でも、すぐに情報が入ってきてよかったよ。でなきゃ今頃まだ警察だからな」
「日本の警察も優秀といわれているが、他所と大して変わらないな」
神谷とZの会話にライが割って入った。あまり眠っていないのだろうか。折角の美貌も疲れた表情のせいで翳って見える。
「よかったのか? 疲れているのに弥生にリザを頼んで」
「かまわねぇよ。あいつも誰かと遊んできたほうが気が紛れるだろうし。かえってリザがいてくれて助かったよ」
カインの遠慮がちな台詞をZは笑い飛ばした。
「ま、Zの妹らしいわよね」
セシルがくすりと笑った。
「でも、結局弥生ちゃんまで巻き込んでしまった。すまない、龍也」
「気にするな。死んだ弥生の友達は可哀相だったが仕方ない」
頭を下げ、詫びる神谷の肩をZは軽く叩いた。
昨夜皆で出かけた神社の祭で、弥生の友人菅野亜美が変死した。しかも弥生の目の前で倒れてそのまま逝ってしまった。15分後に到着した警察は事情聴取をしたいと言って弥生を警察署に同行させた。そのときZも一緒に警察署へ行ったのだが事情聴取とは名ばかりだった。
警察は最近京都市内で中・高生を標的にした麻薬売買を調査中で、検死した菅野亜美の遺体からは薬物反応が出たという。
彼らは最後に接触した弥生を初めから疑ってかかった。弥生も売人を知っているのではないか、と。事情聴取はまるで尋問のようだったが弥生は毅然とした態度を崩さず堂々反論した。
警察に同行して3時間後、弥生はようやく解放された。刑事の話では府警本部長直々に「藤枝弥生を帰らせろ」との連絡が入ったらしい。刑事たちは府警本部長が『藤枝』の常連であったことは知っていたようだが、この本部長に手を回した張本人が神谷恵一だった。
「俺のところに内閣調査室経由で情報が入ってきたときはさすがに焦ったよ。でも本当に、弥生ちゃんには可哀相なことをしてしまった」
「でも、その死んだ弥生の友達からはどんな薬物が出てきたの? コカイン? ヘロイン?」
「・・・そんなよくある麻薬とは違います。我々と警察が追っている組織“スネーク・ロード”が捌いている麻薬はかなり特殊なシロモノで、現物も入手できないから手を焼いているんです」
セシルの問いに対して神谷は溜息混じりに答えた。
他の麻薬・覚醒剤などに比べて価格が安価で、少量を水に混ぜて飲むという簡単な使用方法が子供に受けた。今や中・高生の間では勉強がはかどるとかダイエットに効果がある、という噂が流れ飛ぶように売れているらしい。
Zが傍にいたが、神谷は包み隠さず話した。
カインからZが自分たちのエージェントであること、今回の標的が誰であるかすでに知っていることを聞いたからだ。
彼は上着の傍に置かれていたファイルをセシルに渡した。
「検死の際に体内から検出された薬物の分析結果です」
言われてセシルが右手を差し出し受け取ろうとしたとき、横からそのファイルがすっと奪い取られた。
「アイラ!」
そこに立っていたのはアイラだった。殆ど眠っていないのか表情は余り冴えない。
「サンプルならここにあるわよ」
アイラはビニールの小袋を神谷に放り投げた。
「どうしたんですか!?」
「死んだ娘の遺体の傍に落ちてたからくすねたの」
アイラは何故か機嫌が悪そうだった。座布団の上に腰を落とし、先程のファイルを開いた。しばらくすると、彼女は珍しく何度も舌打ちをした。
「どうした?」
訊ねたカインの顔をアイラはきっと睨んだ。
「・・・やっぱりね。死体から出てきた麻薬はソレよ」
アイラは神谷が摘み上げ小袋を指差した。
「手持ちの簡易キットで分析したから詳細なデータは無理だったけど・・・このファイルと見比べてみなさいよ」
アイラはファイルの分析結果と英文で走り書きされたレポート用紙を並べた。
「成分、配合量、その他もろもろ殆どそれと一致しているのよ。つまり・・・」
「菅野亜美は・・・これを使っていた」
神谷は再び右手に持った袋を見た。
「遺体の所持品からは麻薬などは一切なかったんです」
「じゃ、私が拾ったものだけだったのね、買った分は。・・・でも、まだ封を切っていなかったわ」
「あの時追いかけた男が売人だ」
カインが静かに言い放った。
「弥生の話では本当ならばあの時間彼女は塾に行っている時間だったそうだ。彼女は今まで一度も無断で塾をサボったことはないほど真面目な生徒だったと言っていた。おそらく、あの日あの時間人ごみの中で売人から麻薬を買ったんだろう。だが、使用する前に禁断症状に苦しみ死んだ」
「普通麻薬は禁断症状に陥った後苦しみはするけど直死に至ることはないわ。・・・普通のものならね」
アイラは再び神谷を見た。その翠眸に見つめられて神谷に緊張が走る。
「な、なんですか」
「それの名前ぐらいは知っているはずよね?」
アイラは顎で神谷の手の中の袋を示した。
彼女は『悪魔の御子』の中でも『魔女』の名で恐れられている人物だった。表稼業は『外科医』だが、暗殺者としての彼女は所謂『薬剤師』だ。彼女の膨大な知識の中にいくら配合され、精製されたものとはいえ知らないものはない。
神谷は生唾を飲み込んだ。
「・・・PEO」
「ペオ?」
聞き返したZに神谷は頷いた。
「何の略かまではわかりませんが・・・中・高生の間でそう呼ばれていると聞きました」
「PEO・・・? なにか・・・」
ライが歯痒そうな表情で唸った。
「なにか・・・聞いた事あるような・・・?」
「私もよ。聞き覚えがあるわ。カインは?」
セシルはカインに話を振った。彼も黙って頷く。
「the Prince of the Evil One.」
アイラが憎々しげに呟いた。
「聞き覚えがあるはずよ。この薬は18年前に私が作ったものだもの」
蝉の鳴き声が鳴り響き、片手のソフトクリームが暑さで溶け始めた。
「あ、あかん! たれるぅ!!」
慌てて弥生が自分のソフトクリームを舐めた。リザも真似をする。
「・・・美味しい」
甘さの中に抹茶のほろ苦さが広がる。リザには新鮮な味だった。
今日も気温がかなり上昇しているのか、北欧生まれのリザには少し辛かったがソフトクリームの冷たさがそれすら吹き飛ばしてくれるような気がした。
「ほんま? 喜んでもろぅて嬉しいわぁ」
弥生が本当に嬉しそうに微笑んだ。
「でも買い物なんかに出て身体は大丈夫だったの? 昨日遅かったのでしょう?」
「平気平気」
弥生が警察に行き、帰ってきたのはとっくに日付が変わった後だったことをリザは朝になってカインから聞いた。彼女の友人が死んだことも。午前中から買い物に出たのは神谷恵一が訪ねて来たからだ。
弥生に誘われるままリザは遊びに出たのだった。
「うちが悩んだかて管ちゃんが帰ってくるわけやない。おばさんらには悪いけどうちにはどうしようもない。うちはこれからも生きてかなあかんのやから、前向きにならんとね」
多少の無理をしているのかもしれないが、リザには弥生が羨ましく思えた。
弥生は逞しい。きっと彼女ならこれからどんなことがあっても笑って生きていくに違いない。
リザは抹茶色のソフトクリームをひと舐めする。
「あれ? うちのお客さんやろうか?」
弥生の声にリザは視線を前方に見える『藤枝』の入り口に向けた。
ソフトクリームの残りを口に放り込んで弥生は門の前で佇む女性の背中に声をかけた。
「すんまへん、うちにご予約のお客はんどすか?」
リザも弥生に習って慌ててソフトクリームを片付けた。
振り返った女性は少し驚いたような顔をした。
「あ、うち若女将の弥生どす。どうぞ、お入りください」
「あの・・・」
先立って歩き出した弥生に向かって、女性は戸惑ったように声をかけた。
「こちらに久米譲先生はまだ御逗留でしょうか」
蝉時雨がいやに耳障りだった。
アイラは額から流れた汗をハンカチで拭う。
「18年前に作った・・・?」
神谷の言葉にアイラは頷いた。
「私たちは7歳の頃『北の悪魔』に引き取られたのよ、Mr.。それから3年間は様々な訓練をさせられたわ。時として死にかけるほどね。・・・10歳のとき、卒業試験と称して私たちには様々な課題が与えられた。私の課題のうちのひとつが新しい麻薬の精製だったわ」
3年間、ただ無我夢中で4人は訓練を繰り返すしかなかった。そうしなければ生きていけなかったからだ。
このときアイラに医学知識を教えたのは『北の悪魔』ではなかった。
彼の右腕と呼ばれた男だった。
「そのとき『名前は?』と聞かれてとっさに付けたのがその・・・」
「the Prince of the Evil One. か・・・」
カインが溜息をついた。
意味は『悪魔の御子』。
「その後・・・その後どうしたんですか? 麻薬は!?」
「棄てた」
「は?」
「棄てたわよ!」
怒ったようにアイラは叫んだ。
「そんなもの、手元に置いておくものですか! 今ならともかく、まだ10歳の子供だったのよ。そのとき自分がとんでもないものを作ったのだと後で気付いたわ。だから、作ったサンプルも精製法を書きとめたファイルも全て処分したわ。暖炉に放り込んでね!! 残っているのは・・・」
アイラは自分の頭を人差し指で示した。
「ここだけよ」
アイラの迫力に圧されたのか、神谷が生唾を飲み込んだ。
静寂を破るように、神谷の携帯が鳴り響いた。「すみません」と一言断ってから、彼は携帯電話に出る。
「神谷です。・・・はい。え? 本当ですか? ・・・はい、わかりました。」
極短い会話を終えて、神谷は電源を切った。
「恵一?」
「昨日貴方がたが追いかけたと思われる男が、渡月橋の傍で遺体となって発見されたそうです。男の所持品に“PEO”らしきものはなかったそうです」
「消されたな」
「あぁ」
カインはライの言葉に唇を噛んだ。
調子が狂って仕方がなかった。狂いっぱなしといっても言い。この仕事は標的がはっきりしていて、やりやすいはずなのに、何かが邪魔をしているようでならなかった。何かが複雑に絡み合い、正体を隠しているかのように。
「暗い顔してどうしました?」
重苦しい雰囲気を崩したのはやたら明るく響く久米譲の声だった。
右手には何処からか調達してきた和菓子の箱が提げられている。
「・・・・・・私はこれで・・・」
神谷が久米の視界から自ら消えようとするかのように身体を小さくして玄関にまわり、離れから去ろうとした。去り際、玄関を出た神谷は木戸越しに久米とすれ違う。
「久し振り、恵一君」
「お久し振りです、・・・譲さん」
軽く頭を下げ、神谷は足早に本館へと消えていった。
「彼と知り合い?」
セシルの問いに久米は首を縦に振った。
「僕は龍也が高校生の頃に先生のアトリエに住み込んでいましたから、その頃龍也とよく遊びに来ていたんですよ、彼」
先生、という久米の言葉にZが過敏になっているのが誰の眼にもみてとれた。
「・・・少し寝てくるわ」
アイラが眠そうに欠伸をしながら立ち上がった。ライも立ち上がる。2人とも昨夜は余り寝ていなかったのだろう。
「適当に起こしてくれ」
そう言い残して2人は部屋から出て行った。
「とりあえず座ったら?」
セシルが久米に縁側に座るのを勧めた。彼は嬉しそうに従う。
「いつもいらっしゃる可愛らしいお嬢さんはどちらへ行かれたんですか?」
「弥生と遊びに出かけたよ。しかし、いいのか? このところ毎日出歩いて少しも描いてなさそうじゃないか」
「・・・・・・それが目的じゃないし・・・」
「え?」
久米がぼそりと呟いた言葉をZは聞き逃した。
「いや、あんまりのらないんだよ。こう、インスピレーションに欠けてるって言うか」
「なんだそりゃ」
久米が何事もなかったように冗談を言う。Zはまったく気付いていなかったが、カインとセシルの目は誤魔化せなかった。
一瞬だけ見せた久米の口許に浮かんだ笑み。まるで目の前に誰かいたかのように嘲るような笑みだった。
(・・・気のせい・・・じゃないな)
得体が知れない、というのはカインの久米に対する正直な印象だった。プライドが高そうに見えて意外に腰が低く、物事をはっきり口にする割に時として何か奥歯に挟まった物言いをする。いつも明るく楽しそうに笑うくせに、時々残酷な笑みを見せる。
カインはなるべく久米との距離をおくことにした。その方が何かと都合もいい。
「先生! こっちにいはったんですか?」
息を弾ませ、裏木戸から入ってきたのは私服姿の弥生だった。家にいるときは殆ど仕事をしている最中なので常に和装なのだが、今日は歳相応に見える。彼女の後からリザが庭に入ってきた。少し疲れているのか「ただいま」という言葉にも力がない。
『暑かっただろう? ・・・大丈夫か? 顔色が余り冴えないな』
『本当・・・陽に当たりすぎたのね。涼しいところで横になったほうがいいわ。今眠れるように仕度して上げる』
『・・・大丈夫だよ。ちょっと歩きすぎただけ・・・』
『無理をするな、リザ』
カインに説得され、リザは渋々ながらセシルに連れられて寝室に移った。
「お嬢さんはノルウェー生まれでしたね? じゃあ、京都の暑さは辛いでしょう。今日は水分を摂らせてゆっくり休ませたほうがいいですよ」
「そのようだ。今日は寝かせておくよ」
起きたらこの水饅頭を出してあげてくださいね、と久米はカインに手土産の菓子箱を差し出した。
「で? 何で譲を探していたんだよ」
Zが弥生に問うた。
「そうそう、そんなに急いでどうしたの?」
なんとものんびりな久米の言葉に弥生は大きな溜息を吐いた。
「先生にお客はんですよ。さっき先生の離れに行ったらいてはらへんから、慌ててこっちにお連れしたんよ」
「客?」
そんな予定あったかな? などと相変わらずのんびり茶を啜りながら久米は考えているようだった。久米を無視して、弥生は「どうぞ」と木戸の向こうに声をかける。どうやらその『客』が既にいたらしい。こちらからは木の影になっていて見えないが。
カインの眼に最初に映ったのは木戸にかけられた白い手と腕だった。その動きは艶かしいというのが一番当て嵌まるだろうか。
「・・・なんだ、君か」
久米はその人物を見てがっかりしたように溜息をついた。
「遅れて申し訳ございません、先生。搬出に手間取りまして・・・」
「だから全部彰人に任せればいいと言ったんだ。彼だってやってくれると言ったんだから。京都でのパーティーはとっくに終わったよ。君はすぐに画廊の開店準備に入・・・」
そのときちょうど久米の視界にZの表情が入ったのだろう。気に入らない表情でテキパキその女性に指示を与える久米とは逆に驚きを隠せない様子でただ呆然と女性の顔を見続けるZ。
女性もまたZを遠慮がちに見ていた。
「龍也?」
「お兄ちゃん?」
久米と弥生が交互に彼を呼んだがまったく聞こえていないようだった。
カインはその女性の横顔を見つめる。そして、思い出した。
かつてZが酔いに任せて語った昔話。彼を二重に裏切った2人の人物のうちのひとり。
「・・・・・・桜」
薄く開かれたZの唇から掠れた声が洩れた。
「・・・龍也・・・」
懐かしそうに、桜はZの名を呼んだ。
だが、その表情はどこか後ろめたさを感じさせた。
「何故譲と・・・?」
Zは久米を見た。彼はバツの悪そうな顔で頭を掻いた。
「彼女とはNYで再会してね、それから僕のマネージメントを担当してもらっているんだ。もう、4年になるかな? ちょうどキャロルにスポンサーになってもらった頃だから」
久米は懐かしそうに眼を細めた。
「今僕の本拠地はNYなんだ。僕のパートナーの彰人が米国社の責任者だから。今回画廊も開くでしょ? その関係で向こうから作品を送る手続きを彼女がやっていたんだけどね。折角他にも新作があったのに・・・」
「申し訳ございません」
彼女は再び頭を下げた。
「・・・あぁ、すみません。ちゃんと紹介しませんでしたね」
カインの視線に気付いたのか、久米が苦笑する。
「彼女は真宮桜。僕のマネージャーですが昔は画家志望だったんです」
「先生」
久米の言葉を咎めるように桜は声をかけたが彼は無視した。
「かつては僕の妹弟子だったときもあったんです」
「え・・・?」
カインの反応を面白がるように久米は笑う。しかし、Zと桜は久米とは対照的に苦虫でも噛み潰したような顔をした。
「滝川先生の弟子だったんですよ。その頃は龍也の恋人でよく一緒に先生を訪ねて来ていたんですけどいつの間にか弟子になってて。残念ながら彼女は高校を卒業した後、絵の勉強をやめて北海道の大学に行ってしまったんです。僕と再会したときはちょうど離婚で揉めていた頃じゃなかった?」
意地悪な眼差しで久米は桜を見た。何か反論でもするかと思ったが彼女は顔を背けただけだった。
「その1年後に離婚が成立して正式にマネージメントを管理してもらっているんです」
「・・・先生、わたしはお先にアトリエに戻らせていただきます。画廊の準備もありますので」
「・・・・・・よろしく」
再度頭を下げて桜は足早に庭から出て行った。そのとき彼女は一度もZを見なかった。
久米は満足げに微笑んだ。
「譲! そこまで俺たちに教える必要ないだろう!!」
堪り兼ねてZが譲に食って掛かった。久米は不思議そうにZを見た。
「何故? 龍也だって知りたかっただろう? 『あの後』桜が何処で何をやっていたか」
「譲・・・」
「それとも彼には聞かれたくない話だったかな?」
久米はちらりとカインを見た。カインは「No problem.」と言う。
「随分昔に彼女のことは聞いてるから俺は構わないが・・・・・・」
そこまで言うとカインは弥生を見た。
弥生は呆気にとられているようだった。
「弥生・・・」
「あの人が・・・恵一はんが言うてた桜はん?」
「・・・知ってるのか?」
Zが恐る恐る弥生に尋ねる。それを彼女は首を縦に振って肯定した。
「あの人が、お兄ちゃん裏切ってお兄ちゃんがここにいられへんようにしたん!? お兄ちゃんがフランスへ行ってしもうた原因!?」
「弥生!」
「うち・・・うちあの人嫌いや。なんかすごく厭らしい眼でお兄ちゃんのこと見てた・・・。お兄ちゃんまだあの人のこと好きなん?」
まっすぐ見つめてくる弥生の視線がZには痛かった。
まだ、桜を愛しているのだろうか?
あんなに酷く裏切られたのに?
確かにフランスへ行ったのは逃げることも理由の一つだった。でも、それだけではないことは確かだった。
「・・・もう、終わったんだよ」
俯いたまま、Zは言い放った。それも茶化すように。
「もう昔のことだぜ、弥生。それこそおまえが赤ん坊の頃の話じゃねぇか。んなこといつまでも引き摺ってるほど俺は暇じゃねーの」
「ほんまに?」
「ほんまほんま」
心配そうな弥生にZは笑って答えた。
幾分安心したのか、弥生は仕事に行ってくると言って本館に戻っていった。久米もまた腰を上げ、自分の離れへと戻っていった。
Zは大きな溜息をつき膝を抱えた。
「大丈夫か?」
「・・・あぁ」
ごろん、とZは畳の上にその大きな身体を大の字にして寝っ転がっる。
カインの言葉に曖昧な返事を返しながらZは昔を思い出し、唇を噛んだ。
目の前にかつての光景が甦る。
フローリングの床に敷かれたシーツの上で絡み合う2つの影。
言葉を失い、その光景を呆然と見ているしか出来なかった。
手から滑り落ちたスポーツバッグの落下音がいやに低く響いていた。
両腕で頭を抱えたZの肩が小さく震える。
カインはZの肩に触れようと伸ばしかけた手を止めた。
心地よいとさえ感じていた蝉時雨がいやに耳障りなような気がカインにはしてならなかった。