表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪魔の御子  作者: 奏響
第3話 永遠に咲くサクラ
29/71

めぐりあひて(下)

 華やかなホールの中で久米譲は一段と艶やかな輝きを放っていた。

 大層な肩書きを持っているのだろう人間がこぞって若造(といっても34歳なのだが)に群がる姿は、カインの目にはなんとも滑稽に映った。

 久米譲の挨拶の後、しばらくは彼がホールを回り様々な人間と直に挨拶を交わしていく。

(・・・やつとの接触はまだか?)

 カインはシャンパングラスに口をつけながら3日前を思い出した。

 神谷恵一から、『滝川龍二』が久米譲のパーティーに出席するという情報を聞いた翌日だった。


 京都の夏らしく、その日は朝から快晴だった。

 カインは朝食後リザを連れて清水寺まで行き、二年坂に並ぶ店を冷やかしながら戻ってきた後だった。

「おかえり」

 離れに残っていたのはセシルだけだった。ライとアイラはそれぞれ散歩に出て行ったらしい。

「お客さんよ」

 セシルが縁側に座っていた人間を指差した。その声に反応してか、その人間は振り返った。

「・・・クメ?」

「清水寺はどうでした? よい眺めだったでしょう?」

 人懐っこく笑いながら久米はリザにお茶の袋を手渡した。

「さっき祇園の辻利に行って来たんです。美味しいお茶のお店でしてね。お抹茶のデザートも美味しいんですよ。これ、お土産」

「アリガトゴザイマス」

 リザは嬉しそうに辻利の抹茶カステラが入っているという袋を受け取った。

「今度彼に連れて行ってもらうと良いよ。それと、これを弥生に渡してきてくれる? 今日のお手前に使えるかと思って買ってきたんだ」

「オテマエ・・・?」

「茶道のことだよ。今渡してきてやってくれるか?」

 カインの言葉にリザは素直に頷いた。

 リザが本館に消えたことを確認してから、セシルが口を開いた。

「それで、ノエルに何のようだったのかしら?」

「まるで尋問されてる気分だなぁ」

「尋問に茶菓子は出ないわね」

 そう言いながらセシルは3人分の茶と先程弥生が持ってきてくれた干菓子を縁側に置いた。

「昨日のお詫びをしに来たんですよ。」

「詫び・・・? あれは気にしないでくれと・・・」

 カインの言葉を久米は手を振って遮った。

「それでは僕の気持ちが収まらないんですよ。でも、あまり仰々しいことすると嫌われそうなので。それで・・・実はですね、3日後個展の開催と販売を兼ねてパーティーを開くんです。そのパーティーに貴方をご招待したくて」

「パーティー?」

「えぇ、キャロル。NYでは貴女にご協力いただいたものと同じことをやるんです。そうだ、貴女もご同伴していただけませんか? そのほうがノエルさんも気が楽でしょう?」

 カインの渋るような反応を見たからか、久米は矛先をセシルに向けた。

「そうね・・・」

 セシルはカインの顔を見た。

 カインの眼には彼の心の中が映っていた。

 絶好の機会だ、と。

「パーティーの場所は?」

 カインの言葉を肯定ととったのか、久米の表情は急に明るくなった。

「京都ホテルです。僕の先生が今滞在されていまして今回やっと僕のパーティーに出席してくれるんですよ!」

 カインとセシルの眼に鋭い光が宿った。

 滝川龍二が確実に出席する。

 その会場で暗殺を考えているわけではなかったが、カインには改めてターゲットを確認する必要があった。

 確実に、殺すために。

 カインの口許が僅かに微笑んだ。

 決してリザには見せないだろう笑みを。


 『久米の周りにそれらしき人間はいなかったわ』

 ホールを一回りしてきたセシルががっかりしたような声を出した。他の人間に会話を悟られないよう、彼ら2人だけの会話のときはノルウェー語が使われる。何処の言語でも話せるのだが、やはり慣れ親しんだ言語には話しやすさがあるらしい。

『・・・リザはどうしてるかな』

『今日はライとアイラが、リザとZを連れて嵐山まで行ってくるって言ってたわよ。楽しんでくるわよ』

『そうだな』

 カインは少し寂しげに微笑んだ。

 リザと一緒に日本に来たのにはわけがあった。もし、自分の留守中にリザに何かあったら、と考えたらとても彼女をパリに残してくる気にはなれなかった。

『それと、夕方には戻ってきてと弥生に言われたわ。近くの神社で祭があるから皆で行きましょうって』

『リザが喜ぶな』

 カインはそう言いながらもスーツの上着の内側に手を忍ばせた。セシルもドレスのスリットに指をかけ、忍ばせてあるナイフに触れた。

『彼は現れましたか?』

 フランス語で話し掛けてきた男の姿を見てカインとセシルは手を戻した。

『・・・・そちらは?』

『彼女は俺の友人だ。もうひとりの『悪魔の御子』』

『初めまして。セシル・ローズ=ロードウェイですわ』

 セシルは神谷の顔を見上げてニッコリ微笑んだ。

『貴女が? 初めまして・・・神谷恵一です』

 少し照れながら神谷はセシルの手を握り返した。

『・・・来たみたいよ?』

 神谷の手を握ったまま、セシルが囁いた。

『え・・・』

 神谷の声を遮るかのように歓声がホールに木霊した。

 正面に目をやると、マイクの前に立った久米がある人物を紹介すると言い、拍手でその人物を迎えた。

 拍手の嵐に包まれながら、壮年の男が久米と握手を交わした。

「皆さん、もう既にご存知ですね。僕の恩師であり、著名な画家滝川龍二先生です」

 久米の喜びを滲ませた声はホールに響き渡った。

「あれがZの父親?」

 セシルの呟きにカインは頷いた。

 齢50歳を迎えたとは思えぬほど精悍な男だった。若い頃はさぞや美丈夫だったのだろう。いや、今なおその魅力は健在のようだ。

「Zとよく似てるわね。まぁ、あっちのほうがイイ男でしょうけど・・・」

 途中で言葉を切ったセシルにカインはどうした、と問う。

「彼・・・左眼が」

「あぁ。あれは義眼だそうだ。若い頃左眼を事故で失ったそうだから」

 それはZの口から聞いたことだった。おそらく間違いないだろう。

「・・・私はそろそろ出ます。彼と顔を合わせるとまずいので」

「あら? お知り合いなの?」

 セシルが驚いたように目を丸くした。

 困ったような顔で神谷は笑った。

「高校生の頃、何度か龍也に連れられて。一応極秘任務ですので」

 それでは、と言って神谷はざわめくホールから素早く脱け出していった。

「・・・複雑ね。依頼人がZの旧友で、その標的がZの父親。しかもお互い顔見知りときてる」

「俺たちは仕事をするだけだ」

 カインはもたれかかっていた壁から離れ、きちんと立った。

 2人の許に久米が歩み寄ってくるのが見えたからだ。

「楽しんでいただけていますか?」

「えぇ。素晴らしいパーティーですわね。そうそう、先ほど新作を1枚いただきましたわ。帰国してから飾るのが今から楽しみよ」

「ありがとうございます、キャロル。そうそう、先生をご紹介しようと思っていたのですが・・・」

 久米が視線をセシルから他所へ移した。それを辿った先には滝川龍二が従業員用の扉の前で何か話しているようだった。少し隙間を開けた扉の向こうに誰かいるようだったがカインには確認できない。しばらくすると滝川龍二はさも当然のような顔でその従業員用の扉の向こうへ姿を消した。

「・・・彼は何処へ?」

「人と会う約束があるから・・・と言われて。お忙しいのに僕の顔をたてるために僅かでも時間を割いてくださったのです。・・・弟子としては大切にしてくださるんですよ」

「弟子としては・・・?」

 久米の最後の言葉を反芻してセシルは「そうだったの?」と訊ねた。

「・・・男の僕を愛してもらえるとは思っていません。先生への想いは尊敬です・・・今はね。でも、弟子は僕だけなんですよ。先生の唯一の弟子なんです。例え先生の一番になれなくても弟子としては一番なんです。僕はそれで満足なんですよ」

 久米譲はそう言って穏やかに微笑んだ。   

「先生にとって一番愛しているものは今も昔も龍也だけなんですよ。彼は信じないでしょうけどね」

 カインは滝川龍二の入っていった扉を見つめた。

 これは仕事だ。

 カインは何度も自分に言い聞かせた。

 神谷とカインの会話を偶然聞いてしまったZは、翌日カインにこう告げた。

 気にしないでくれ、と。

『あの男は・・・滝川龍二はもう俺の親父なんかじゃない。俺は13年前からずっとあの男を憎み続けてきた。今更、誰かに殺されてもなんとも思わないさ。殺されても仕方のない男だからな』

 そう言ってZは笑った。いつもと・・・いつもと同じすぎるくらい快活に。

(きっと苦しんでいる・・・)

 カインは拳を強く握り締めた。

(・・・だが、おまえにどう思われても俺は依頼を遂行する。これが俺の選んだ生き方だ・・・!)


 祭の囃子が聞こえてくる神社で、リザは白地に赤い花を散らした浴衣にご機嫌の様子だった。

「うちの浴衣でちょうどええみたい。リザのほうがよう似おうてるわ」

 紺地に朝顔をあしらった浴衣を着た弥生は満足げに微笑んだ。

 カインとセシルが約束通り午後5時頃に旅館に戻ると、リザたちは既に浴衣に着替えていた。リザは弥生のものを、アイラとセシルには母・睦月の若い頃の浴衣が提供されていた。

 だがさすがに金髪に浴衣はかなり目立つらしく擦れ違う人が思わず立ち止まって見とれるほどだった。

「しかし、派手だな・・・」

「あんたに人のことが言えるわけ?」

 セシルに言われてカインは自分の呟きを後悔した。

 最初は女性陣だけと言う話だったのだ。浴衣は。ところが、帰ってみるとライとZまでしっかり浴衣を着込んでいた。なんでも母親が何枚かZの浴衣を作ったらしく、「折角やから袖を通したってくださいよ」と出してくれたらしい。

 抵抗する暇も無くカインはあっという間に浴衣に着替えさせられてしまった。

『ねぇ、カイン。お店がいっぱいよ!!』

 先を行っていたはずのリザがようやく境内に上がってきたカインの許へ駆け寄り袖を引っ張った。

『判った、判った』

 困ったような顔で、でも嬉しそうにカインはリザと一緒に歩き出した。やはり下駄馴れしていないリザは何度か転びそうになったがその都度カインが支えてやる。

『仲良いじゃない? あの2人』

『でもなぁ、あれじゃ兄妹にしか見えないぜ』

『確かに』

 ライとアイラは顔を見合わせて笑った。

 日本に来た目的など、この一夜は忘れてしまおう。それが4人の正直な気持ちだった。急がなくともいずれこの手は再び血で穢れる。

 ならば、せめて今だけでもこの年若い少女たちと楽しもう・・・と。

「・・・あんたって夜店荒らしだったの?」

 Zと弥生の兄妹と共に行動していたセシルはすっかり呆れていた。

「どうした? キャロル」

 遅れてライとアイラがZたちのいる夜店に到着した。

「どうしたもこうしたも・・・」

 セシルは目の前でしゃがんでいるZを指差した。

「お兄ちゃん! その出目!!」

「まかせろ!」

 Zは素早い手つきで水槽の中を逃げ惑っていた黒い出目金魚を掬いとった。

「きゃー! 龍也兄ちゃん腕落ちてへんわ!!」

「何や見たことある顔やと思っとったら『藤枝』の坊やったんかいな。昔から上手いもんなぁ。こっちは商売上がったりやで」

「悪いな、おっちゃん。まぁ、嫌われたくないでこの辺で上がるわ」

「二度と来んといてや」

 夜店の主は苦笑気味に金魚の大量に入ったビニール袋を弥生に渡した。

「おまえ・・・そんな特技があったんだな」

「まぁな。ガキの頃は夏になると友達と夜店回って荒らしたもんさ」

 Zは珍しく照れたようだった。ライに誉められたのが嬉しかったらしい。

「さて、次は射的でも行くか~」

「あぁ、射的・・・てあのおもちゃの銃で撃つやつ?」

 アイラは手で銃を撃つ真似をした。

「あぁ。あれで景品を取るんだ」

「あれならさっきカインが・・・」

 言いかけたアイラの声を遮るように突如歓声が上がった。

「外人さんうっまいなぁ」

「全弾景品落としてるで。あれ最初っから当たらんようにできとるんとちゃうんか? 誰かにそう聞いたで」

「かまへんがな、そんなん。いっそ全部取ったれや! 兄ちゃん!!」

 Zの次の獲物だったはずの射的の店には黒山の人だかりが出来ていた。その群衆を押しのけてZたちは前に出た。彼らが最初に見たものは既に辟易した店主の若い男だった。

「うわっー! これ全部ノエルはんがとったん!?」

「そうなの。すっかり意地になっちゃって・・・」

「意地?」

 ライが不思議そうにリザに訊ねた。リザは苦笑気味に微笑んだ。

 カインとリザが連れ立って夜店を見て回っていたときだった。浴衣姿で金髪・銀髪というのはかなり目立つため、あちこちの店の人間が2人に声をかけたのだ。リザが面白がって店一つ一つを覗くものだからカインも付き合っていたのだが、カインが少し目を離した隙にリザが若い男にしつこく話し掛けられていた。まだ日本語勉強中のリザに早口の京都弁はまるで理解不能なのだが、男のほうは気付かないのかわざとなのかリザを解放しようとしない。その光景に思わず腹が立ったカインが男に文句をつけたのがことの始まりとなり、どうやら喧嘩の決着を射的で決めようということになったらしい。この若い男がその射的屋だったのだ。勝負はより多くの景品を落とした方の勝ち。先攻を取ったカインは今に至るというわけだ。

「大人気ないわ」

 アイラはぼそりと呟いた。

 確かにプロのやることとは思えない。

「おまえ! 俺の出番が回って来ないじゃないか!!」

 アイラのように呆れるよりも、Zはまだ撃ってる最中のカインに食って掛かった。

「うるさい。邪魔だ」

「俺楽しみにしてたんだぞ!!」

「うるさいと言ってるだろう!! しつこいぞ! おまえ!!」

「お兄ちゃん・・・」

 さすがの弥生もこの15歳年の離れた兄が恥ずかしくなってきていた。

 2人の口論は既に子供の喧嘩だ。

 思わず弥生は兄から離れた。その瞬間誰かにぶつかった。

「すんまへ・・・あれ? 管ちゃん」

 謝ろうと振り返った弥生はその相手がクラスメートの友人であることに初めて気付いた。

「管ちゃんも夜店に来てたん?」

 偶然会えた友人に弥生は嬉しそうに言ったが、その『管ちゃん』の様子に異変を感じた。

「・・・今日は塾の日やなかった?」

「・・・塾? そう、そうやね・・・」

「管ちゃん? なんやえろう顔色悪いよ」

 夜とはいえ夜店の明かりで顔色の違いぐらいは判別できた。友人の顔色は悪いどころか既に土気色だ。

「・・・やよちゃん・・・? うち・・・うち・・・」

 徐々に震えだし、崩れかかった友人を弥生は抱き締めた。彼女の息はだんだん荒くなっていく。

「・・・クスリ・・・はよ、クスリ・・・」

「薬? 何言うて・・・」

「はよ・・・クス・・・うぅ・・・ぐっ・・・はっ・・・」

「最後の1個や!!」

 カインがラストの景品を難なく撃ち落とした瞬間だった。

 弥生の絹を裂くような悲鳴が境内中に響き渡った。

「どうした! 弥生!!」

 突然の妹の叫び声に、Zは慌てて弥生に駆け寄った。けれども、弥生は気が動転したまま必死で倒れた友人を揺り起こそうとした。

「管ちゃん!! 管ちゃん!!」

「ダメよ! 動かさないで!!」

 アイラの制止する声も弥生の耳には入らなかった。Zが背後から弥生の腕を掴み無理矢理友人から引き離す。

「管ちゃん!!」

「救急車を! 早く!!」

 アイラが日本語で周囲に向かって叫んだ。射的屋の隣で店を開いていた中年男性が「よっしゃ。わいが呼ぶわ」と、携帯電話をかけ始めた。

 慣れた手つきで少女の脈や呼吸を確かめ、心臓マッサージを施すが、アイラの表情は次第に暗くなるばかりだった。

「・・・ダメだわ」

 アイラが心臓マッサージを止め顔を上げた。もう、何をしても無駄だという結論に達したのだ。

「やよ・・・!?」

 Zは泣きすがる弥生の後ろにいた群集の中のひとりと目が合った。その途端人影は脱兎の如く逃げ出した。

『アレよ!!』

 同じ人影を発見したアイラの一言でカインたちは彼女の言わんとした事を察した。カインとライ、セシルの3人は逃げる人影の後を追いかけた。

「俺も行く!!」

 弥生をリザに任せてZもカインたちに続いた。

「あんたが行ってどうする・・・・・・何これ?」

 既に死亡した少女の傍に落ちていた小さな袋をアイラは摘み上げた。中には少量の白い粉が入っている。

「・・・まさか・・・」

 アイラはその小さな袋を片手の巾着袋に素早く忍ばせた。

『・・・アイラさん、大丈夫?』

 弥生を落ち着かせようと彼女の肩を抱き締めていたリザがふとアイラの様子がおかしいことに気付いた。

 アイラは返事もせずに何か考え込んでいる様子だった。

「管ちゃん・・・なんで・・・?」

 弥生がか細い涙声で何度も同じ言葉を繰り返す。立っているのもやっとの彼女をリザはただ黙って抱き締めるしかなかった。

 大切な人を目の前で喪う悲しみをリザはよく知っている。

 だが、リザには弥生にかけるべき日本の言葉を見出すことは出来なかった。


 「くそっ! 逃げ足の速いやつ!!」

 ライが苛立ちを抑えきれないかのように傍の木の幹を拳で殴った。

「Zと目が合って逃げたってことは確実に悪さしていたわけよね」

 セシルは息ひとつ乱していなかったが、さすがに浴衣は着崩れている。

 境内の奥までその人間を追いかけたのだが、店が並ぶ参道とは違い、社殿の辺りはすっかり闇に融けていた。

「まだ、傍にいるかもしれない。手分けしよう」

 カインの提案で3人は三方に分かれた。

 3人が消えた社殿の正面は再び静けさを取り戻したが、しばらくして2つの影が揺らいだ。

「すんまへん・・・まさか気付かれるとは思わなかったよって・・・」

「・・・まぁ、いいわ。あんたはさっさとここから離れて。あれだけの騒ぎになったんだから警察だって来るわ」

 女はきつい口調で逃げてきた男に向かって言い捨てた。男は平謝りを繰り返しながら暗い林の中をがさがさ音をたてて去っていった。

 女はハンドバッグから携帯電話を取り出した。

「・・・もしもし? 私です。少々まずいことが。・・・えぇ、警察がもう来てると思います。あの男は始末されたほうがよろしいですわ。まったく役に立たない・・・」

 階段を駆け上がってくる音に気付き、女は携帯を切った。何食わぬ顔で社殿に背を向け誰かが上ってくる階段を下りようとした。

 だが、僅かに上がって来た者の方が早く、女はその人間と衝突してしまった。

「あっ・・・」

 弾かれた衝撃で女の身体は宙に浮いた。

 落ちる。

 女は反射的に手を伸ばした。無意識に何かを掴もうとして。

「危ない!!」

 女の伸ばした手を何者かが掴んだ。女に衝突した男だった。

「悪い。怪我はないか?」

「え? ・・・えぇ・・・」

 女は自分を助けた男を見た。

「ありがとう。助かりましたわ」

 女は口許にだけ笑みを浮かべた。慣れた仕種のように。しかし、眼はその男を観察していた。

 かなりの長身、浴衣姿だが捲り上げられた袖から覗く鍛えられた腕。

 日本人ならば整った部類に入るであろう容貌。

「・・・りょう・・・や?」

「え?」

 女の唇から洩れた言葉に男は―――カインたちの後を追ってきたZは―――反応した。

 Zは改めて女を見た。

 緩く波打つ茶色のショート・ヘア、闇を宿した黒瞳と白い肌。

 薄暗かったが、Zの眼には女の姿がはっきり見て取れた。

 懐かしいその容貌。

 忘れもしない。真紅の薔薇のような赤い唇。

「桜」

 その名を聞いた瞬間、女は弾かれたようにZから離れた。

「待て! 桜なのか!?」

 Zが手を伸ばし女の腕を掴もうとしたが、今度は虚しく空を斬った。

「桜!!」

 Zの叫ぶような呼び声に女は振り向くこともなく林の中へ走り去ってしまった。

「桜! 桜!!」

 Zは女の後を追いかけることが何故か出来ず、ただその名を叫んだ。

「Z? どうした?」

 Zの叫び声を聞きとめた3人は逃げた男の捜索をやめ、再び社殿の正面に戻ってきた。

「Z?」

「止せ」

 ライがZの傍へ行こうとするのをカインが制した。

 Zは背後にカインたちがいるのも気付かないのか、ただ呆然と暗い林を見つめていた。

 まるで抜け殻のように、ただそこに突っ立っているだけだった。

「・・・桜、何故・・・?」

 何もかも覆い尽くすような闇の中に消えていった女。

 女は確かに『桜』に反応した。

 Zの脳裏に先日見た夢が浮かんだ。

 闇の中で薄明るく光るように花を咲かせた桜の木。

 その下で誘うように差し出された白い腕。

 愛しい言葉が溢れる赤い唇。

 その唇からかつて歌われた和歌をZは思い出し微かに自分の唇を動かした。

「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」

「・・・百人一首?」

 博識のセシルにはZの呟きが何であるかわかったようだった。

『・・・誰かに会ったんだわ、Z』

『誰か?』

 カインとライはZが見つめ続ける林を見た。

 セシルが歌の意味を2人に説明し始めた。

『紫式部という人の和歌よ。源氏物語を知ってるでしょう? その作者よ』

 懐かしいあの人に偶然巡り逢えたけれど、その人ははっきり確かめる間も無く真夜中の月が雲に隠れてしまうようにその人は慌しく行ってしまった。

 桜かどうか確証を得る前に。

 Zは唇を噛んだ。

 愛情と憎しみと織り交ぜられた複雑な感情に苦しみながら。


 「・・・あぁ、売人はこっちで始末する」

 コードレス・ファン片手に男は部屋の扉を開けた。

「・・・いちいちうるさい女だ」

 切れた電話をテーブルに置き、男は深い溜息をついた。

「溜息をつきすぎると幸せが逃げていくそうですよ?」

 ソファーに陣取っていた男がくすくす笑いながら忠告する。だが、視線はテレビ画面に向けられたままだった。

「逃げるほど残ってないんでね。うちの売人が失敗してくれた」

「・・・何をしたんです?」

「薬が切れるギリギリで買いに来た小娘に売りつけたんだ。そこまではまだいい。あれは水で飲ませる代物だっていうのに、その場で飲ませなかったらしい。おかげで折角買った薬を使えないまま、家までもたずにその娘は祭で賑わう神社のど真ん中で倒れて死んだそうだ。厄介なことをしてくれるよ、まったく」

 男は苦々しそうに言い捨てた。

 さっきまで男は寝室の隣のバス・ルームでシャワーを浴びベッドでまどろんでいたのだ。そこを電話で叩き起こされたのだから少々機嫌が悪い。

「Mr.滝川のせいじゃないですよ。そのバイヤーはこちらで始末しておきます。ご心配なく」

 男はブランデーグラスを滝川に手渡した。

「悪いな。わざわざこんな極東まで来させてネズミの始末までさせてしまうとは」

「遠慮は無用ですよ。私が東アジア・ルートに出向いたのは最近タイ・ルートが摘発されてしまったため。こちらのルートを強化しに来ただけです。東アジア・ルートもMr.滝川のおかげで素晴らしい利益を上げていますからね」

「そう言ってもらえると嬉しいね」

 滝川はちらりとテレビ画面を見た。そこには見覚えのある顔が映っている。

「・・・譲じゃないか。もしかして今日のパーティーのビデオか?」

「えぇ、そうですよ。ちょっと潜入させていただきました」

 男は眼鏡を人差し指で直し、嬉しそうにリモコンを操作した。

 そのビデオは編集が既に施されているのか何度も同じ人物が映し出される。

「ほぉ、見事な銀髪だ。絵になるな」

 滝川は感嘆の声を洩らした。

「ふふ・・・綺麗でしょう」

「あんたの知り合いか?」

 滝川のその言葉に男は微笑んだ。

「えぇ。ついこの前再会しましてね」

 男は画面に映るカインの左耳を指差した。

「赤いピアスが見えるでしょう? 私が贈った物なんです」

 男はうっとりとした眼差しでカインを見つめた。その様子に滝川は苦笑する。

「まるで片恋でもしているような顔だな」

「片恋・・・? えぇ、そうですね。今はまだ、ね」

「彼の名は?」      

 滝川も少し興味をそそられたらしい。もっとも彼は男に性的興味を持つ人間ではないが。

「貴方もダーク・サイドに関わっているなら聞いたことがあるはずですよ? 伝説の暗殺者『北の悪魔』の後継者『悪魔の御子・堕天使カイン』」

 男は口許を緩めた。その名を口にすることさえ愛しい行為であるかのように。

「・・・あの『カイン』? 噂通りの男なんだな」

 滝川は目を丸くした。噂に違わない容姿に驚いたのだ。

「えらいやつに惚れたんだな? フィロス」

 滝川は面白がってクスクス笑った。しかし、フィロスは気分を害した様子もなくブランデー・グラスを傾けた。

「最高の相手ですよ。でも、その『男』の友人を貴方はよくご存知のはずです」

 フィロスの言わんとすることが理解できず、滝川は怪訝そうな顔をした。

「・・・ですよ」

「なに?」

 フィロスの早口の日本語を滝川は聞き漏らした。

「何と言った?」

「ですから、彼・・・カインの友人でもあり、彼のエージェントを務めているのが貴方の可愛い息子藤枝龍也です。今、彼も日本に来ているそうですよ。滝川龍二先生」

 フィロスが口許を吊り上げた。

 滝川の手から滑り落ち絨毯の上に血飛沫のように飛び散ったブランデーを眺めて。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ