めぐりあひて(上)
ピピッ、ピピッ、というなんとも無機質な電子音でZは目覚めた。
この3日間、毎朝この音に起こされている。身体を起こし、大欠伸をしながらテーブルの上からリモコンを取り上げ、テレビのスイッチを入れた。だが、Zはテレビに見向きもせず着ていたものを脱ぎ捨て、裸でバスルームに入る。
バスルームにはかろうじてアナウンサーの声が聞こえるだけだった。
少し熱めの湯を浴び、出て来てドア下の隙間に差し込まれていた新聞を手に取る。開いて最初に目に飛び込んできた記事は帰宅ラッシュの高速道路で玉突き事故が起きた、というものだった。
その記事をロクに読みもせず、バスローブ姿のまま再びZはベッドに身を沈めた。
ニュース番組のアナウンサーの日本語がいやに耳につく。
「・・・今頃になってなんであんな夢を・・・」
今日の目覚めは今までで一番最悪だった。
目を閉じたZの脳裏に夢で見た情景が浮かぶ。
闇の中で、朱色に色づいた桜の木が1本。
赤い唇を薄っすら開いた髪の長い制服姿の少女。
ずっと忘れていたもの。忘れようとしたもの。封印してきたもの。
「日本に来てから急に思い出すなんて・・・俺らしくない」
Zは力なく笑った。
今、この時間にZが身を置いているのは日本の東京、新宿にある某ホテルの一室。
窓からは街が一望できる。でも、Zはこの窓から外を見ることをほとんどしなかった。
興味がなかった。無機質なビル群も、人も、街も。
Zにとって、生きていると実感できる場所はパリだった。渡仏して13年。日本に未練など欠片もない。だが、今年になってZは既に何度も日本に帰国している。6月にも実家に帰ったばかりだった。
「・・・そろそろ行かないとな」
Zの実家は東京ではない。だが、パリを出て成田空港に着いた後向かったのはこのホテルだった。そこから3泊4日、Zは動いていない。朝起きて、1階のレストランで朝食をとり、ラウンジでコーヒーを飲み、街をぶらついて夜戻って寝る。この繰り返しだ。
「カイン、どうしてるかなぁ」
溜息交じりにZは呟いた。
ノルウェーからカインがリザを伴って戻ってきてから既に20日が経っていた。
目の前で大切な人間を失ったカインの憔悴ぶりは酷く、アパルトマンに着いた途端彼は気を失うように眠りに落ちた。その晩から高熱も出し、駆けつけたアイラたちが看護しても熱は2週間以上収まらなかった。
カインに付きっきりの3人。傍から離れようとしないリザ。誰もがカインを気遣った。
もちろんZも。
カインとは短い付き合いではない。10年の間彼を見てきた。だが、これほど弱りきったカインを見たのは初めてだった。
なのに、Zはカインの回復を見届けもせずに日本に来た。
カインが目を覚ましてZがいないことを知れば、彼は理由を必ず察するだろう。6月に帰国したときの理由をカインは知っているから。
なのに、Zは東京から動けずにいる。実家に戻ることを本能が拒んでいる。
「・・・メシにしよう」
考えても無駄だ、というところにZは行き着いた。
考えても無駄。
結局は行かなければならないのだから。6月のように。
適当に服を着、鍵を持ってZは部屋を出た。
テレビを点けっぱなしにしたまま。
辛うじて開いた瞼の奥の瞳には窓から差し込んだ陽射しがあまりにも眩しすぎた。カインは思わず左手で目を覆った。
寝室のカーテンが開かれるのは約2週間ぶりだった。その間部屋の主はベッドに横たわったきり、夢と現を行ったり来たりしていたのだ。
「熱は・・・ようやく下がったわね。これで一安心だわ」
カインから渡された体温計を確認したアイラが安堵の溜息をついた。カインが倒れたと聞いてからほぼ毎日、アイラは昼間は病院に、夜は彼のアパルトマンに通っていた。一向に下がる気配のない高熱に危惧したアイラは毎晩カインを看ていたのだ。
「一時はどうなるかと思ったけど、さすがに高熱程度じゃ死ななかったわね」
軽口を叩きながらもセシルは嬉しそうに言った。彼女も仕事の合間に、時間があればカインの様子を見に来ていた。セシルの横で頷くライもまた同様だった。
リザに寝室を明け渡したライは、現在は隣室で寝起きをしている。去年、半年ほど入居していた独身男性の部屋だったが、家具などをそのままにして引っ越したのですぐに住むには何の支障もなかった。リザも一緒に戻ってくると知ったライはマダム・ノーラの了解を得て隣に移ったのだ。
この2週間ほどはカインの部屋の居間のソファーで寝起きをしていたので使っていないに等しかったが。
「・・・カイン」
開け放たれた扉に手をかけ、リザが遠慮がちに声をかけた。
「もう・・・大丈夫?」
心配げな表情を浮かべるリザに向かって、カインは手招きをした。リザはそれに従う。
ベッド脇に腰をかけ、カインの額に手を当てる。
「よかった・・・」
安心したのか、リザはやっと笑顔をカインに見せた。
「なんか食べるものを作ってくるわ」
セシルがライとアイラを促して部屋から出て行った。気を利かせたつもりらしい。
扉が閉ざされるのを確認してからカインはリザの頬に右手を添えた。
「心配かけたな」
カインの言葉にリザは首を横に振った。
「今日は何日だ?」
「8月14日よ」
「・・・随分長い間放って置いたんだな。すまない」
カインはリザの身体を自分に引き寄せ抱き締めた。
自分の部屋に戻ったところまではカインも覚えていたが、その後の記憶はまったくなかった。
長い間、闇の中でひとり座り込んでいたような気がした。
両手両足には枷が嵌められ、長い鎖の先は闇に融けていた。
きっと自分はここから一生出ることはない。そう思い込んでいた。そして、その闇の牢獄が自分には似合いだとさえ思っていた。
生きていても罪を犯し続ける。清きものを穢し堕としめる。
人殺しは出来ても守ることは出来ない。むざむざアイリーンを目の前で死なせてしまったように。助ける術もあったかもしれないのに、結局何も出来なかった。
もう、疲れた。
開いていることすら苦痛になった瞼を閉じかけたとき、誰かの声が耳に響いた。
『悪魔にも人間にもなれない半端者だよ、おまえは』
よく通る声だった。でも、温かさの欠片もない冷たい、抑揚のない声。
『永遠にそこにいるか? 所詮そんなもんだ。俺もおまえも愛した女すら守れない。その程度さ』
まるで耳元で囁かれるようにカインの耳に響いた。
懐かしい声。この声を聞き間違えることなどカインにはない。
ゆっくりカインは目を開いた。
目の前に広がるものは依然闇。だが、一筋の光がカインの頭上に降り注いだ。
『俺には・・・まだ守らなければならないものがある。今度こそ守り通さなければならない者が・・・!』
その瞬間ガラスが砕け散るように闇が消えた。
開かれた目に飛び込んできたのは目も眩むばかりの光と、自分の名を呼ぶリザの声だった。
「・・・ありがとう」
「え?」
カインの言葉にリザはきょとんとした。
その様子をおかしそうにカインがクスクス笑う。言いたかったのだ、今。リザのおかげで現実に戻って来れたのだと。彼女がいなかったら、かつてのように闇に閉じこもったままになっていただろうと。
「さて、シャワーでも浴びてくるよ。いい加減気持ち悪い」
カインはパジャマ姿のままベッドから降りた。
リザが開けた窓から涼しい風が入ってきた。カインの髪が風になびく。
自然とカインの口許が緩んだ。
爽やかな風にではない。
リザの笑みが、何よりも自分だけに向けられているという事実に。
熱い湯に浸かり、汗を洗い流したカインはセシル特製のオートミールを口に運んでいた。
正直カインはこの手の食べ物は苦手だったが、熱を出している間まともに食事もしていなかったので身体にはありがたい食事だった。
「そう言えば、うるさいのがひとり見当たらないな」
一通り食事を終えたカインは改めて皆の顔を見回してそう言った。
ライは肩を竦めた。
「あいつは昨日までいたんだが、急に日本に行くと言って・・・。理由も何も言わずに慌てて出て行ったんだ」
理解できない、と言わんばかりにライは言った。
そのときリザが思い出したようにテーブルを離れ、自分の部屋からノートパソコンを持ってきた。
「Zさんがカインが起きたら渡してほしいと言って昨日置いていったの」
「これは・・・エージェント用のパソコンだ」
「・・・エージェント用ということは、私たちへの依頼を処理している?」
「あぁ」
アイラの言葉にカインは頷いた。
「・・・そうか、盆か。」
「え?」
「いや、なんでもない」
カインの呟きを問い返したセシルにカインは笑って首を横に振った。
「仕事を放り出してまで日本に帰る用事ってのはなんだろうな」
ライがパソコンを自分のほうに向け電源を入れた。なにげにクリックしたメールソフトを起動させると、1件のメールを自動着信させてしまった。
「このアドレスは確か・・・」
「依頼専用だ。Zを介してのメールでの依頼はこのアドレスでしかできない」
ライは躊躇することなくメールを開いた。
読んでくれ、というカインの言葉に従う。
「拝啓 突然で申し訳ございませんが・・・」
ライの読み上げたメール内容は暗殺の依頼だった。セシルとアイラが顔を見合わせる。
「依頼内容はお会いしてからお伝えいたします。場所は・・・」
読み上げるライの表情が徐々に変わる。
「・・・どうする? 相手は誰をという指定はしていない。内容を聞いてから出ないとこちらも決められない。・・・受けるか?」
ライはカインに問うた。
カインは腕を組み、両目を閉じ考え込んでいる様子だった。
しばらくして、カインが口を開いた。
「ライ、返信してくれ。依頼を受けると。指定された場所に、日本時間8月16日正午」
「カイン!?」
「・・・日本は初めてだったな? リザ」
「うん、そうだけど・・・」
ライの言葉を無視してカインはリザの顔を見た。少し戸惑い気味に、彼女はカインの言葉を肯定する。
「すぐに出発の準備を。チケットの手配は・・・セシル頼む」
「・・・かせないわよ」
「は?」
腰を浮かせ、立とうとしたカインはセシルの呟きに動きを止めた。
「行かせないわよ。ひとりで・・・行かせるもんですか。私も行くわ」
「セシル!」
「だって、依頼内容によっては私のほうがいい場合があるでしょう? 独り占めはさせないわよ?」
「独り占めって・・・」
「だったら俺も行く。日本に行く。」
「私も行くわよ? ちょうどバカンスだし」
セシルに習うように、ライとアイラも行くと言い出した。
言い出したら聞かないのはカインもよくわかっていた。これを止めることも絶対出来ないと。
「・・・勝手にしろ」
溜息交じりに、カインは言い捨てた。
「・・・大丈夫?」
リザがカインの顔を覗き込むように様子を窺う。まだ、起き上がって間もないのに無理をしているのではないかと心配しているのだ。
カインはくすっと笑い、リザの頭を撫でる。まるで子供をあやすような仕種で。
「大丈夫だ」
昔のように、仕事に逃げるような真似はしない。
今度の依頼を受けるのは逃げるためではなく乗り切るため。失うことへの恐れを乗り切るため。そして、リザを守るため。
それを自分自身で証明するため、カインは日本へ行くことを選んだ。
けれどもその先に何が存在するか、このときのカインはまだ何も知らなかった。
人が慌しく行き交うロビーをZは何をするわけでもなく、ただぼぉっと眺めているだけだった。
半分ほど飲まれたコーヒーは既に冷えている。
朝食後のいつもの日課だったが、いい加減ホテルの従業員もZの顔を覚えているらしく、通りかかるたびに声をかけていく。
「おはようございます。今日はいい天気ですよ? お散歩にでも出られたらいかがです?」
「散歩・・・か」
正直、今日のZは何故かラウンジから動くことを拒否していた。いつもなら温かいうちにコーヒーを飲み干し、さっさとホテルから出てしまうのだが、どういうわけか今日はそれすらかったるいと感じていた。
理由はわかっている。でも、決心がつかなかった。
Zに声をかけたマネージャーはいつのまにか他の客のところへ行ってしまった。
「・・・行くか」
あまりラウンジのソファーに座り込んでいるのも自分らしくないと思い、Zは2時間ぶりにソファーから立ち上がり、エレベーターへ向かおうとした。
そのときだった。
肩に何かがぶつかった衝撃が伝わった。衝撃、と言ってもZの大きな身体では大したものではない。逆にぶつかってきたほうが跳ね返され、ひっくり返るのをZが腕を掴んで引き戻してやった。
「・・・す、すみません。急いでいたもので、お怪我は・・・!?」
「いや、俺よりあんたのほうが衝撃が大きかったんじゃないのか?」
相手の男をZは改めて見た。
ワイシャツにネクタイ、片手には背広を持ちいかにもその辺を歩いているサラリーマンのような格好だ。身長は日本人にしては高いほうだろうか? 180cm弱はあるだろう。年齢もZとさほど変わらない。同じぐらいのようだ。
(・・・ん?)
その男の顔を見てZは引っかかった。どこか見覚えのある顔なのだ。
相手もZの顔をまじまじ見ている。どちらかと言えば何か驚いている様子だった。
「・・・おまえか?」
「え?」
「おまえだろ! 高校のとき一緒だった・・・」
男は急に嬉しそうにZを指差し名前を言った。
その言動に驚いたのはZのほうだった。
「そうだが・・・あんた・・・あっ!」
思い出したのか、Zは自分の口を片手で覆った。思わず出そうになった大声を防ぐために。
「思い出したか! 俺だよ! 高校のとき同じクラスだった・・・」
「神谷? 神谷恵一だろう!?」
久し振りだなぁ、と言いながらZは神谷の肩をばしばし叩いた。彼は痛そうに止めろよ、と言ったが顔は嬉しそうに笑っている。
「本当に何年振りだ? 元気だったか? 恵一」
「あぁ。手紙は何回か書いたけどおまえってば年に何回も返してこないから、すっかり忘れられてると思ってたぜ」
「忙しいんだよ、これでも。でも、結婚したんだってな。妹から聞いたよ」
「何年前の話だ。もう2人の子持ちだぜ」
「あの超天才高校生サッカー選手がねぇ」
「今じゃしがない公務員さ。それよりうちの子の写真見るか?」
「持ち歩いてるのかよ」
ふと、Zは周囲の視線を感じ振り返った。
ホールのど真ん中でどうやらはしゃぎ過ぎたらしい。皆がじろじろ窺うようにしてZたちを見ているようだった。
Zはさっきまでいたラウンジに神谷を連れて戻り、そこで彼の子供たちの写真を見ることにした。
「これが娘の麻耶。今月7歳になったんだ。こっちは息子の覚。4月に5歳になって毎日サッカーボールで遊んでる。で、これがうちの奥さん」
「よかったなぁ、子供たち2人とも美人のカミサンそっくりで」
「ほっとけ」
次から次へと神谷の手から渡される写真をZは丁寧に一枚ずつきちんと見た。
幸せそうな笑顔の家族写真にZは自分の左胸が少し痛むことに気付いた。
神谷恵一とは同年齢だった。彼は既に一家の大黒柱として自立している。家族を養う義務も負っている。
もしあの時、日本を離れなければ自分も神谷のように、自分の家族を持っていたかもしれない。結婚していれば子供がいてもおかしくない年齢だと言うことをZは改めて思い知った。だが、Zが結婚したいほど誰かを愛したのはただの一度きり。その恋も遥か昔のようにさえ思う。
「・・・には帰るんだろう?」
「え?」
途中から神谷の話を聞き流していたらしい。Zは思わず聞き返した。
「なんだって?」
「だから、実家に帰るんだろう? 今年はお祖父さんの新盆だろう?」
「・・・あぁ」
Zは右手の写真をテーブルに戻し、本日3杯目のコーヒーを一口飲んだ。
急に表情を曇らせたZの様子に、神谷は何かを察した。
「・・・お袋さん、怒ってるんじゃないのか?」
「だろうな」
Zの言葉に神谷は肩を竦めた。
「・・・ま、いい歳してるんだから子供みたいに駄々こねないで行ってこいよ」
「恵一、東京に住んでるのか?」
「え? いや、違うけど」
急に別の話題をZが振ったため、神谷は思わずどもった。昔から、Zは都合が悪くなるとすぐに話題を変える癖があった。はぐらかしやがったな、と心の中で神谷は毒づいたが表面は気付かない振りをすることにした。
「仕事で時々東京まで出て来るんだ。普段は京都だよ。家族もそこに住んでるからね」
「じゃ、また会えるな」
「?」
「急いでいたんだろう? 引き止めて悪かったよ。今度は京都で会おうぜ。おまえの家族にも会いたいしな」
「引き止め・・・あっ!? 今何時?」
「11時15分前」
「やばいっ! 急がないと間に合わない!! すっかり忘れてたよ。今から東京タワーに行かなきゃならないんだ」
「東京タワー?」
「そう、人と待ち合わせをしていてね。ごめん、ゆっくり話したいけど」
「あぁ、京都でな」
「じゃあ」
片手を上げ、慌しく神谷はホールを走り抜けていった。つられて上げた右手をZはゆっくり下ろした。
「・・・京都で、か」
Zは揺らぎ続けた決心をようやく固めた。神谷恵一との出会いがZを実家のある京都に向かわせる結果に繋がったと言える。
Zは右手をゆっくり握り締めた。
固く、そして強く。
地上から333m。東京のシンボルタワーだったが昨今の人気スポットは他所へと移り、夏休みの正午だと言うのに特別展望室には人がまばらにいるだけだった。
『すみません・・・皇居はどちらにありますか?』
『あちらです。お教えしますよ?』
ワイシャツにネクタイ姿のサラリーマンは声をかけてきたサングラスの男を窓際へ連れて行った。外国人の男が日本人に英語で質問する。よくある光景だった。だからこそ、誰もその様子に見向きもしない。
「フランス語でお願いします。最近は英語のわかる人が意外といるもので」
「いいだろう」
「よかった。友人の影響で大学ではフランス語を取っていたものですから」
「依頼を聞こう」
「貴方が『悪魔の御子』カインですね?」
サングラスの奥でカインの瞳が鋭く光った。それに気付いたのか、男は苦笑する。
「噂通りの方だったので正直驚いてしまいました。・・・失礼なこと言っていますね。私は神谷恵一。内閣調査室の人間です」
内閣調査室とはいわゆる日本の情報部。CIAには劣るだろうが、優秀なことには変わらない。そこの人間が暗殺者に接触したということはあるひとつのことしか示していなかった。
「誰の暗殺を?」
「この人物です」
神谷はカインに一枚の写真を渡した。壮年の男がひとりラフなジャケット姿で映っている。
「“スネーク・ロード”をご存知ですか?」
神谷の言葉にカインは頷いた。
“スネーク・ロード”とは、最近目覚しく台頭している麻薬ルートだった。コカインや大麻といった一般的なものではなく、何か特殊な麻薬を扱っているらしく他組織の隙間を縫うように広がり始めたことから付いた渾名らしい。暗殺したジャン=レイモンドが自分のルートと被らないから興味ない、と言っていたことをカインも覚えていた。
組織名も不明確なことから最近ではその組織自体も指し示している。
「この“スネーク・ロード”が日本に入ったという情報を我々が得たところ、この男が日本での中心人物となって密輸を行っていると判明しました。・・・これは極秘任務です」
「つまり、国家からの依頼と受け取っていいんだな?」
神谷は肯定を示すかのようにゆっくり首を縦に振った。
「この男の名は?」
「滝川龍二」
「リュウジ=タキガワ・・・?」
カインは神谷の口から出た名前を反芻した。どこか聞き覚えのある名前だった。
「多分ご存知だと思いますよ。彼は有名な洋画家ですからね」
「洋画・・・あ!?」
思わず洩れかけた言葉をカインは右手で口を押さえてこらえた。
「あ?」
「・・・なんでもない。この男は今何処に?」
「それは・・・」
神谷は窓に背を向けた。黙って腕時計を見る振りをする。
ちょうど子供連れの夫婦が彼らの傍を通ったところだった。この国の人間は外国人を見ると好奇心の目で見るか目を背けるかのどちらかである。この家族も例に洩れないらしい。夫のほうはチラッと見ただけで眼を逸らし、妻と子供はまじまじとカインを見ながら離れていく。
家族がある程度離れたことを確認してから、神谷は再び口を開いた。
「ここにいます」
神谷は二つ折りの紙切れをカインに手渡した。
「メールで送った口座に振込を。確認次第動く」
「・・・感謝します」
神谷は「Have a nice day.」と言い、カインの傍から離れエレベーターへと真っ直ぐ向かっていった。
カインはその背を見送り、再び窓の外を見た。
「・・・セシル」
カインに呼ばれ傍のベンチに腰をかけていたセシルがゆっくりカインに近付いた。それに習い、ライとアイラもカインの傍へ来た。
「振込の確認をしてくれ」
「O.K.」
セシルが電話をかけにその場から消えると、カインはシャツの胸ポケットから携帯を取り出した。慣れた様子でダイヤルし、すぐに早口の日本語で素早く要件を済ます。
「リザ」
カインは少し離れたところに置かれた望遠鏡を見入っているリザを呼んだ。それに気付いたリザは慌ててカインの元に駆け寄ってきた。
「何?」
「眺めはよかったか?」
「・・・うん」
「じゃあ、もっといいところへ連れてってやるよ。東京なんかよりもっと日本的な、千年王城の都へ」
「もしかして行き先って・・・」
謎掛けのようなカインの台詞でライは行き先を察したらしい。アイラも気付いたらしく「あぁ」と呟く。
「何処へ行くの?」
ひとりわからない、と困惑気味のリザにカインは笑った。
「京都だ、リザ」