プロローグ~今はただ 思い絶なんとばかりを 人づてならで いふよしもがな~
白かった花びらが少しずつ朱色に染め始めたことに気付いたのは、ずっと後になってからだった。
散ることを知らない桜花はその身を己自身が狂わせたかのように、どれほど四季が巡ろうとも一向に枯れゆく気配もなかった。
山奥に咲いていたその1本の桜木の下、おまえはその白く細い腕を俺の首に回した。
赤いリボンネクタイを外し、白いブラウスの下から露わになった透けるような肌に、桜の花びらを重ねたような赤い印を俺は刻んだ。
禁じられた遊びに酔いしれるように、10代の俺たちは何度もこの秘められた桜の下で逢瀬を重ねた。
人を愛することを教えたのはおまえだった。
愛し合うことを身体で教えたのはおまえだった。
幾度交わしただろう。
熱く、激しく、重ねた口唇。
互いの体温が、まるでひとつに融けあうように感じあった身体。
幾度もおまえに言い続けた。
愛してる。
幾度もおまえが言い続けた。
愛してるわ。
だが、現実はどうだ?
あの桜の木の下で身体を重ねた半年後におまえは何をしていた?
俺の腕の中で、俺の名を呼び、俺に抱かれながら、瞳は誰を映していた?
桜の木を見つけたのはおまえだった。
枯れることを知らず、花を咲かせ続ける桜に憧れるとおまえは言った。
自分もそうでありたいと言い続けた。
人はいつか衰えるのに?
そう言って俺は笑った。人はいつか衰え、死ぬからこそ今を生きるのだとそう言った。
けれども、おまえは俺の言葉を否定した。
永遠に花を咲かせ続けられるならば得ることの叶わないものなど何もないと。
私にはそれがあるのよ、とおまえは笑った。
そう、確かにおまえはまるであの桜のようだった。
若さも、美貌も、誰にも引けを取らなかった。
そして、桜と同じように狂っていた。
欲しいものを得るために、おまえはどんなこともした。
俺の知らないところで。
その瞳に映り続けていた男を得るために、おまえは俺を利用していた。
知ったのは、18歳の誕生日。
裏切りという言葉を教えたのはおまえとあの男。
俺に見せていたもの全てが幻だった。夢だった。
狂い咲きの桜が見せた幻に過ぎなかった。
白かった花びらが赤く色づいて俺の頭上に舞い落ちる。
おまえがとうに“女”だったことを知らしめるように。
俺の過ちを責めるように。
裏切りに泣き叫ぶ俺を慰める親友の声もまるで耳に届かなかった。
泣いて、泣いて、怒り叫んで苦しんで。
苦しんで、苦しんで。
苦しみ抜いて選んだことは、おまえのいるこの街を、この国を離れることだった。
逃げることだった。
春が来て、あれからおまえと会うこともせず、あの桜の木に別れを告げた。
永遠に咲き続けるであろう桜に。
狂い続ける桜の花に。
いつか再びこの桜の前に立つそのときまで。
今はただ、『さようなら』と。