エピローグ~ winter fall ~
カインがリースの病院で眠りから覚めた頃、ジェイソン=シェーンコップはアイリーンの家にいた。
データ・ボックスことリザ=アルティメイトが政府に回収されたため、滞在理由がなくなった彼には帰国命令が出ていた。そのためにシェーンコップはアイリーンとの関係を消去するために戻ってきたのだ。
「・・・どういうことだ? リザの部屋にも、やつの部屋にも荷物らしいものがない」
やけに整然としている部屋を訝しげにシェーンコップは見回した。リザの部屋は綺麗過ぎるくらい物がなくなっていた。まるで部屋の主が消えることを知っていたかのように。
居間に戻ったシェーンコップは暖炉の上の異変に気づいた。
写真が無くなっている。
今日来たときは確かにあったはずなのに。
「なにしてるの?」
もう聞くことのないと思っていた声に驚いてシェーンコップは振り返った。そこには、いるはずのない人物が立っている。
「・・・アイリーン」
平静を保とうとしているのだろうが、シェーンコップの声は上擦っていた。
「無事だったのか?」
「残念ながらね」
薄く笑うアイリーンにシェーンコップは後退った。
「・・・し、心配していたんだ。家の中も荷物がないから・・・。リザはどうしたんだ?」
「リザなら無事よ。カインのおかげで」
「そうか・・・なら迎えに行こう。今からなら今日の最終便に・・・は間に合わないがオスロに行けば何とかなる」
「・・・何処へ行くというの? 米国に私の居場所はないわ」
冷たく言い放つアイリーンにシェーンコップは気圧された。自分自身腰が引けていることにシェーンコップは気付く。恐怖を感じているのだ、彼女に。
「アイリーン・・・?」
「荷物はオスロのホテルに送った。リザを貴方になんか渡さない。貴方には何も渡さない。私を裏切り続けた男になんか・・・」
「な・・・なにを」
明らかに動揺するシェーンコップにアイリーンは左手のレコーダーを突きつけた。カチリ、と再生ボタンをアイリーンが押す。他ならぬシェーンコップの声がレコーダーから流れてくる。
『・・・・マギー、君を世界中の誰よりも愛しているよ・・・』
「・・・それは・・・」
シェーンコップの顔色が変わる。それだけでアイリーンには十分だった。
「嘘つき」
「アイリーン」
「奥さんと4人の子供。私と出会った時には既に結婚していて奥さんは妊娠中だったそうね。大使館員の間じゃ理想的な家庭だって評判だそうじゃない? そんな家庭のある国で私にどうやって住めと言うの? 馬鹿ね、私がこの程度のものを仕掛けていないとでも思った? それとももう私が戻ってこないと思ったから後で回収すればいいと考えた?」
一歩一歩近付いてくるアイリーンにシェーンコップは本気で恐怖を感じた。
死という名の恐怖を。
「く、来るな」
「馬鹿なのは私。貴方の愛を真実だと疑わなかった。エドワードの忠告も無視して、カインに蔑まれても貴方を愛していたのに。あの子の言うとおりだった。私は貴方に愛されたくて貴方の言いなりだっただけ。全てを裏切ってでも愛してほしかった。でも、もう何もかも終わったのよ。そして、終わるのよ。私の罪も罰も、償いも。・・・貴方とともに」
バァァーン、という銃声とともに、シェーンコップの左肩から血が噴出した。
「ア、アイリー・・・」
右肩、右腕、腰、左足、とアイリーンは次々と撃ち抜いた。悲鳴をあげる暇さえなく、息も絶え絶えにシェーンコップは倒れた。
「はぁ・・・くぅ・・・」
「愛してるのは本当よ、ジェイ。裏切られていたと知った後も、貴方しか愛していないわ。だから、貴方も一緒に行きましょう。私が永遠に愛してあげる。神々の黄昏が訪れても・・・」
痛みで意識が朦朧とし始めたシェーンコップは、ふと部屋中が咽るような臭いに支配されていることに気付いた。霞む視界に転がってきた白いポリタンクで、その正体をシェーンコップは知る。
「ガ・・・ガソリン・・・?」
目の前で起こる現実にシェーンコップの顔色は既に蒼白だった。
アイリーンはシェーンコップには目もくれず淡々と動いている。テーブルの上に置かれた携帯電話で何処かに電話をかけ始めた。
シェーンコップはどうにかここから逃げようと試みたが出血と痛みで足はいうことをきかなかった。
「さようなら」
電話の向こうで誰かが喚いているのがシェーンコップにもわかった。だが、アイリーンは最後の言葉を口にすると電源を切り、乱暴に床に叩きつけると上から踏み潰した。
携帯電話はガソリンまみれになって壊れた。
「た・・・助け・・・」
「覚えてる? ジェイ?」
シェーンコップに構わず、アイリーンは出窓に置かれていたガラス細工を手に取った。
それは妖精の姿をしていた。「君に似ているよ」と言われて昔シェーンコップから贈られたものだった。
「貴方からの初めてのプレゼント。でも、もう必要ないわ。」
アイリーンの手に翳されたそれは静かに滑り落ちて、粉々に砕け散った。
「何も要らない。だって、貴方がいるもの。永遠に貴方は私のものになるんだもの・・・」
壊れている。
シェーンコップはそう思った。この女は狂っている。壊れている。修復不可能なぐらいに。
アイリーンはテーブルに置き忘れられたマッチを手に取った。カインが置いたものだろう。
静かに彼女はマッチを擦った。
「や、やめろっ!!」
シェーンコップの叫びはただ空しく響くだけだった。
小さな炎は弧を描き、静かにガソリンの海に落ちていった。
「カイン!!」
最初に叫んだのはリザだった。
「家が・・・燃えてる・・・」
火は完全に家を呑みこんでいた。
近所の人間は遠巻きに眺めているだけだった。
3人は車を降り傍まで駆け寄った。
「アイリーン!!」
炎の中へ走り出そうとしたカインの腕をリースが掴んだ。
「馬鹿野郎! 焼け死ぬぞ!!」
「離せ! リース!! まだ、アイリーンがいる! 生きている!!」
リースの腕を振り払いカインは炎の中へ消えていった。
「待って! カイン!!」
その後を追うようにリザまでもが炎に包まれた家に飛び込んでしまった。
「リザ!!・・・たく、どいつもこいつも馬鹿野郎!!」
リースは苦しそうに叫んだ。だが唸るように燃え盛る炎はリースの叫び声を無残に掻き消してしまった。
中は既に火の海だった。あたり一面にガソリンの匂いがする。
「アイリーン!アイリー・・・!!」
居間に入ったカインは最初に飛び込んできた光景に絶句した。後から追いついてきたリザも呻くように小さく叫んだ。
炎の海の中、至福の笑みを刻み、愛しい男をその胸に抱くアイリーンと、確実に訪れる死の恐怖に発狂寸前のシェーンコップ。
朦朧とする意識の中で、彼は目の前にちらつく影に震える手を必死に伸ばしていた。
「た・・・たすけ・・・く・・・」
「ア、アイリーン!!」
カインは必死の思いで叫んだ。近寄ろうとすると炎は容赦なく燃え上がりカインの行く手を阻ぶ。まるで、アイリーンの意思のように。
「アイリーン、来るんだ! アイリーン!!」
「ダ・メ」
アイリーンはニッコリ微笑んだ。
「これは罰。そして償い。誰にも邪魔させない」
「死んで償うとでも言うのか!? そんなの償いなんて言えない! 償いたければ苦しんでも生きろ!! 俺のように! 苦しみながらでも生きていけっ!!」
「強くないもの。私、カインのように強くないもの。生きる価値もないわ。ジェイを失ってまで生きることなんて出来ない。ごめんね、カイン。リザを、お願い・・・」
「いやだ! アイリーン!!」
彼女はもう答えなかった。両目を閉じ、ただ穏やかに死の訪れを待っているようだった。
カインの双眸から涙が溢れた。
「崩れるぞ! 来いっ!!」
結局中に入ってきたリースに強引に引き摺られるようにしてカインは家の外に連れ出された。
その瞬間家は轟音とともに崩れた。
何もかも全てを呑み込んで。
「何故だー! アイリーン!!」
両拳を地面に叩き付けカインは泣き叫んだ。
「いつも・・・どうして・・・いつも、いつも、いつも・・・失わなければならないんだー!!」
カインの慟哭は炎に染められた朱色の空に響き続けた。
うずくまるカインの肩をリザはそっと抱き締めた。カインの悲しみを癒せるはずもなかったがリザには他にできることが思いつかなかった。
「姉さん・・・」
これがアイリーンの望んだ結果だったのか? 他に方法はなかったのか?
不幸だった。
生まれ落ちたそのときからアイリーンはまるでこうなる運命だったように。
彼女が幸せだと思えたときは4人の子供たちと過ごした短い時間だけだった。
願わくば、彼女に再びそんな幸せが訪れますように。
何度祈ったことだろう。神など信じたこともなかったのに。
もう原形すら留めていない炎の中でアイリーンは幸福を感じているのだろうか。
遠くから近付いてくる虚しいサイレンの音を耳にしながら、リースははっと振り返った。
「姉さん・・・?」
それはただの空耳だったかもしれない。
だが、リースには確かに聞こえていた。
言葉では表せられない、アイリーンの感謝と償いの声を。
今日のパリの街は雨に濡れていた。空には鉛色の雲が立ち込め、ヴァカンス気分も台無しだった。そんな街をライは足早に駆け抜けていた。傘も持たずに買い物に出たのが失敗だった。彼はずぶ濡れになりながらようやくアパルトマンに戻って来ることが出来た。
「食材は・・・濡れてないな。よかったぁ。せっかく買い集めてきた中華食材だってのに濡れたら使い物にならないからな」
今夜使うつもりではなかったが、後2~3日もすればカインが戻ってくる。ライはそのときにセシルやアイラも呼んでちょっとしたディナーを振舞おうと考えていた。
ライが食材を一通り片付け終えた頃、電話が鳴り響いた。
「はいはい、と・・・Allo?」
『・・・ライか?』
「誰だ・・・?」
パリにいて電話でノルウェー語を聞くことはまずない。ライの表情が急に険しくなる。
『俺だ。リースだ。覚えているか?』
「リース? もしかして『あの』Dr.リース? 懐かしいなぁ」
電話の相手がわかるとライの表情はまた元に戻った。
「カインには会ったか? 今あいつそっちに行ってるんだ。アイリーンのところに泊まって・・・え?」
リースの余りに暗い声と、その言葉に笑顔だったライの表情が徐々に翳り始めた。
『・・・聞こえているか? ライ』
「あぁ・・・今、言ったよな? アイリーンが・・・」
ライは自分の耳を疑った。リースの質の悪い冗談だと思いたかった。だが、リースの声が真実だとライに告げる。
「アイリーンが・・・死んだ?」
オスロを発ったパリ行きの航空便は定時にド・ゴール空港に着陸した。
アナウンスがロビーにいる人々に到着を告げている。ライは少しだけ顔を上げたがすぐにまた俯いた。
「もうすぐ出てくるぜ」
「あぁ」
Zの言葉にもライは生返事しかしなかった。いつもなら誰よりもヘアスタイルに気を使う男が、長髪を無造作に結んでいるだけだった。
それだけライは気落ちしていた。突き付けられた現実に。
Zはライの横に腰を下ろし、彼の頭を引き寄せた。
いつもなら鉄拳のひとつも飛んできそうだが、ライはされるがままだった。
しばらくして、ライは小さく口を開いた。
「・・・なぁ」
「?」
「カインの編集をやってるミカエル、知ってるか?」
「あ? あぁ」
急に振られた話題にZはなんとも間の抜けた返事をしてしまった。が、ライにはまったく聞こえていないらしい。彼は構わず続ける。
「ミカエルから、カインからの定時連絡が3日目ぐらいから途絶えていると電話があったんだ。ただ忘れているだけならばいいがもし事故や事件に巻き込まれていたら・・・と心配していた。アイリーンの自宅の電話番号に掛けても誰も出なかったらしくて・・・。でも、本当に・・・巻き込まれていたなんて・・・。あいつは・・・今回『仕事』でノルウェーに行ったわけじゃなかったのに」
「ライ・・・」
「カインにとって・・・俺たちにとってアイリーンは特別な存在だった。彼女がいなかったら俺たちはあの吹雪の中死んでいた。彼女と暮らしたおかげで、俺たちは人間としての生活を学んだ。特にカインは彼女を想い慕っていた。なのに・・・よりにもよって何故カインの目の前で!?」
ライは両手で頭を抱えた。リースからは詳しいことは何も聞けなかった。彼も憔悴しきっているようで電話をするのがやっとのようだった。だからこそ、ライはアイリーンの死をまともに受け止められなかった。
「カインはひとりで帰国を?」
「いや、リザが・・・6年前の例の娘が一緒だ」
「6年前・・・か」
Zは前髪を掻き揚げた。ライの肩を抱くZの手に力がこもる。
「何故・・・何故カインばかりが大切な人を失わなければならない? 今まで余りにも多くの人を・・・目の前で・・・。どうして・・・もう・・・十分だ・・・」
声を殺し涙を堪えるライを周囲の目から庇うようにZは抱き締めた。
「セシルとアイラは明日にでもこっちに来ると言っていた。すぐにでも来たがっていたが、国外にいるのでは・・・」
Zの言葉は先程到着した飛行機の乗客のざわめきに遮られてしまった。
Zとライは腰をあげ、人波の中にいるはずの2人を探した。
「カイン!」
ライは周囲に構わず大声で叫んだ。
その声に気付き、振り向いたのはカインではなかった。
「・・・ライ・・・さん?」
振り返った碧い瞳が背の高い2人の男を捉えるのにさほど時間はかからなかった。
少女にはこの声に覚えがあった。カインの声がどうしても聞きたくて電話をしたとき、いつも取り次いでくれた優しげな男性の声。
「君が・・・リザ?」
「はい」
先にリザに声を掛けたのはZだった。頷いたリザは2人のほうにゆっくりと歩いてきた。彼女の手に引かれるようにして、サングラスの青年が一緒に歩いてくる。
目の前で立ち止まった青年の頬をライは両手で包み込んだ。壊れてしまうのを防ぐように。
サングラスを外させ、ライはまっすぐカインの紅の双眸を見つめた。
「お帰り、カイン」
努めて笑顔でライは言った。不自然に声が上擦っていると自分でわかっていたが。
「・・・ライ」
カインの瞳から涙が溢れた。耐え続けた哀しみが、ライに会った途端堰を切ったように押し寄せた。
ライは右手でカインの頭をそっと引き寄せその腕に抱き締める。
肩を震わせるカインにライは繰り返し囁いた。
「おまえのせいじゃない・・・おまえのせいじゃないんだ」
ただひたすらライはカインを抱き締めた。
それは遠い空の下で起きた、悲劇の終幕であるかのように。