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悪魔の御子  作者: 奏響
第2話 少女は白夜に悪夢を見るか
23/71

愛憎の迷宮(下)

 どれほど時間が経ったのだろうか?

 丸1日眠っていたような感覚だった。やたら手足が重い。

 カインは重い瞼をゆっくり開いた。

 薄暗い天井が目に入る。

「・・・何処だ?」

 視線だけを泳がせて、カインは周囲を窺った。

 窓はない。何処かの地下室のようだ。

「・・・・・・」

 部屋と呼ぶには余りにもお粗末なものだった。あるものといえば今この身体を横たえているやたら固いベッドと木製のテーブルぐらいだ。天井や壁はコンクリートが剥き出しになっている部分もある。

「・・・早く、リザを見つけないと・・・」

 どんな目に合わされているかわかったものではない。ひとつ言えることは、リザを攫った人間が誰であれ、彼女の命の保障はない。

 カインは身体を起こそうと動いた。その瞬間激痛が電流のように走った。

「くっ・・・あ・・・!!」

 カインは思わず頭を抱えた。痛みを訴える部位をカインは手で触れようとしたが、いきなりその手は誰かに掴まれた。

「っ痛・・・!!」

「掻き毟ったらもっと痛いですよ? すぐに納まりますから大人しくしてください」

 カインは声のするほうゆっくり見た。

 取られた左手の向こうに灯りに照らされた顔が見える。

「き、さま・・・」

 苦しげに吐いたカインの言葉に男はゆっくり笑った。

「痛くないようにしたつもりでしたが・・・麻酔を差し上げましょうか?」

「・・・フィロス」

「暴れても無駄なことはわかるでしょう? 最も暴れられるほど動けるとは思いませんけどね」

 フィロスの言うとおりだった。カインの身体は意思に反して動くことを拒否している。フィロスはカインの左手を離し、その手でカインの左耳に触れた。

「・・・何をした」

 カインの問いにフィロスはくすりと微笑んだ。

「刻印をね」

「刻印?」

 怪訝そうにカインは問い返した。

「えぇ、言ったでしょう? 前に。貴方に再び会える日を待っていたと。三度会えたときには貴方に印を刻もうと思っていたんです」

「な・・・くっ!?」

 フィロスの舌がカインの耳に触れた瞬間再び激痛に苛まれた。左耳を針で刺されたような痛み。なおも舌で弄ぶようにフィロスはカインの左耳朶を舐める。

「や・・・やめ・・・っ! あっ・・・!!」

「これは刻印です。貴方を二度と見失わないために、貴方が二度と私を忘れないために。そして・・・貴方が私のものになったとき、その証をあげる」

「フィ・・・ロ・・・」

 カインの言葉はフィロスの唇によって塞がれた。深く、絡む舌をどうすることも出来ず、漠然とはっきりしない意識の中でカインはフィロスを突き放すことも出来なかった。

 洩れる息が熱く、火照る身体がもどかしかった。

 フィロスの長い指がカインの細い身体をなぞる。

 頼りない理性が本能に圧される。

(駄目だ・・・!!)

 カインは強く閉じていた瞼を開いた。解放された唇を薄く開いたまま。

「・・・」

 フィロスがカインの上に重ねていた身体を起こし、扉のほうを見た。カインの耳にも僅かに靴音が聞こえた。だが、その靴音はこちらに来る様子もなく遠ざかっていった。

「貴方との逢瀬をもっと楽しみたいのですが、私も忙しい身でしてね」

 前髪を掻き揚げてフィロスは微笑んだ。いつもの冷たい笑みで。

「貴方の意識もはっきりしてきたようですし用件を言いましょうか?」

 まるで今までの行為が幻であったかのように、フィロスは『いつもの』フィロスだった。

 先程の熱さがまるで感じられない。氷のように冷たい背中をフィロスはカインに向けた。

「・・・」

 カインは少しだけ身体を起こした。

 今はリザを探さなければならない。フィロスに構う暇はない。

 振り返ったフィロスはカインを見た。

「貴方の大切なお嬢さんはこの建物の地下3階にいますよ。この部屋は地下1階ですからまだ2つ下のフロアにいるわけですね。ちなみに早く行かなければ彼女の命はこの世から消えます」

「なんだとっ!!」

 カインはベッドから下り、フィロスに詰め寄ろうと思った。だが、身体はやはり意思通りに動こうとはせず、カインは身体ごと床に落ちてしまった。

「・・・くっ」

「無理は禁物ですよ? 貴方の意識を奪う際にかなり強い麻酔を打ったのでね」

 フィロスは膝を折り、カインの右肩に自分の左手を置いた。

「でもやっぱり耐性はついていましたね。こんなに早く覚醒するとは思わなかったですよ。だから耳の痛みまで残ってしまった・・・」

 フィロスの右手がカインの左耳に触れた。だが、先程のような痛みはもうない。

「・・・アイラほどじゃないがクスリの類は効きが悪いんでね」

 毒物の専門家を思い出してカインは苦笑した。

「笑えるなんて結構余裕ですね」

 カチャッ、という音が耳に響いた。

 額に冷たいものを感じた。

 上げた視線の先には鈍く光る銃身があった。

「・・・何の真似だ」

「今なら貴方をどうとでも出来る。でも、例え貴方を消す依頼を受けても、マスターの命令でも私は貴方を消さない」

「・・・」

 カインは無言でフィロスを睨んだ。

 けれども、彼はそれを笑顔で受け流すだけだった。

「お急ぎなさい、カイン」

 フィロスは銃口をカインから外し、床の上に銃を置いた。

 カインの愛銃コルトパイソンを。

「・・・何故俺を助ける。このままおまえの自由に出来るんじゃなかったのか? それに俺を野放しにすれば何をするかわからんぞ。依頼人からも苦情が出る」

 カインの皮肉もフィロスにはまったく通じない。彼はずっと笑ったままだ。

「貴方を私の自由にする愉しみはとっておきますよ。貴方は何も心配することはない。私は『命令』に『忠実』に動いているだけですからね」

「・・・ロイ=リーフも監視していたんじゃないのか? いいのか? あいつも情報部の人間だ。おまえの目がないと気付けばすぐに行動に出る」

「ロイ=リーフがここを探り出すとでも? 彼には無理ですよ、もう。言ったでしょう? ひとつ目の依頼はもうキャンセルされてしまったと。ですから私の仕事はリザ=アルティメイトとアイリーン=フリーマンの回収のみですよ。それから後のことは知りませんね」

「・・・アイリーンもいるのか? 何処に・・・」

「さぁ、ここについてすぐに引き渡したから知りませんよ。ご自分でお探しになられれば良いでしょう? 私もそろそろ行きます。貴方もすぐにいつもどおりに動けるはずですから。・・・余りご無理なさらずに」

 終始笑顔のまま、フィロスはカインに背を向けて部屋から出て行った。

 あたりは静寂に包まれている。

 カインは右手で左胸を擦る。シャツのボタンが外れていることに初めて気が付いた。

 フィロスの行為が幻でなかったことをカインは改めて知った。

 しかし、今はどうでもいい。

 カインの右手が銃に伸びる。

 紅玉の双眸に黒い光を宿しながら。


 カインがフィロスと会話をしていた頃、アイリーンも何処かの地下室で目を覚ましていた。カインと異なるのは、彼女は椅子に座らされたまま両手を後ろ手に拘束されていたことだ。

「お目覚めかな? アイリーン『お嬢様』」

 しゃがれた男の声にアイリーンは目を開けた。最初に視界に飛び込んできたものは杖をついた老人だった。

 見覚えがある、とアイリーンは思った。

「・・・」

「久しぶりじゃな、お嬢様」

 自分をお嬢様と呼ぶ人間は数えるほどしか今は生きていない。

「・・・フェンリル=コスカル所長? まぁ随分お歳を召して・・・見違えましたわ」

「相変わらずじゃな、お嬢様。まったく儂は情けないですぞ。あの方の孫娘であるにもかかわらず今までの愚行の数々・・・。何故連れてこられたかわかっておりますかな?」

「えぇ・・・手の込んだ真似までしてくれてね。リザは何処? あの娘は本来無関係なのよ」

 アイリーンは目の前の老人を睨みつけたが、老人は臆する様子もなかった。コスカルは口許を吊り上げてにやりと笑う。

「無関係? 何を仰っているのかわかってますかな? お嬢様。あれは貴方が許可して行わせた愚かな行為だ。挙句にCIAに情報を流しリザもろともデータを売ろうとした」

「それは・・・」

「反逆者の話など聞くだけ無駄じゃ。それがあの方のお言葉でもあるしな。なーに心配せずともすぐにご両親の元に送って差し上げますぞ。・・・小娘諸共ねぇ」

 コスカルは愉しそうにひゃひゃひゃ、と笑った。

「・・・そう・・・」

 アイリーンは伏し目がちに周囲を見回した。

 自分の右側に男がひとり。老人の左にもひとり。計2人。

「ならば急がないと・・・ね!!」

 言葉と同時にいつの間に手錠を外したのかアイリーンは右拳を男のみぞおちに入れた。

 アイリーンの突然の反撃にもうひとりの男は焦った。そのため初動が遅れた。

 アイリーンの蹴りを喉に喰らい、男は仰向けに倒れた。

「ひぃっっ・・・!!」

「形勢逆転のようね」

 男の懐から落ちた銃を拾い上げ、アイリーンは両手でコスカルに向けて構えた。

「た・・・助け・・・」

「そうやって命乞いする者を何人殺してきたの!?」

 アイリーンは憎しみに満ちた瞳でコスカルに叫んだ。

「貴方も十二分に生きたはずよね? あの男の威光を笠に着て好き勝手し放題。私たちから両親を奪った・・・私をこんな女にした罪は償ってもらうわよ!!」

「や、やめっ・・・!!」

 サイレンサーが付いていたせいで銃声は響かなかった。額から血を噴出してコスカルは瞬時に絶命した。

 アイリーンの碧い瞳から一粒の涙が零れ落ちた。

「パパ、ママ、もう少しだから・・・。もう少しで償えるから・・・そうしたら・・・」

 父の犯したスパイ行為。母の犯した祖国への裏切り。自分が犯し続けた全ての罪。

 全てを償わなければならない。

 カインの手をそのために汚させることなど出来ない。彼には頼めない。

 自分でやらなければ意味がないのだ。

 アイリーンはそっと地下室の扉を開けた。外に人の動く気配はなかった。どうやらまだのこの『異常事態』に気付いた者はいないらしい。

 足音を殺してアイリーンは走り出した。彼女にはこの場所が何処なのか見当がついていた。

 研究所を爆破して放棄したにもかかわらずその研究を続けることが出来る場所。

 アイリーンは真っ直ぐに地上に向かう階段を駆け上がった。この建物の最も高い場所へと。


 「なんなんだ、この数は・・・」

 溜息をつきながら銃弾を込めるカインはすでにうんざりしていた。地下2階へ下りた途端警備の男たちに見つかりそのまま銃撃戦へともつれ込んだのだ。しかもこの建物は敵の侵入を防ぐように出来ているらしくB1からB2へ下りる階段とは位置的に対角線上の場所にB2からB3への階段があるのだ。だからどう足掻いても階下に行くにはこの弾雨の中を突っ切らなければならない。

「・・・3、2、1」

 ゼロ! と心の中で叫ぶと同時にカインは6発全弾を警備員たちに撃ち込み道を開いた。疾風のように駆け抜け滑り込むようにして階段に飛び込む。再び駆け下りながら銃弾を装填する。

 一瞬視界に影がよぎった。

「待て!」

 カインは反射的に銃口を影に向けた。

 影が動きを止める。

「・・・カイン?」

「アイリーン!?」

 階段は薄暗かったが、お互いの顔がはっきり確認できると2人は驚きの声を上げた。

「リザは!? リザは何処に・・・」

「多分地下3階のオペ室・・・一番奥の部屋よ」

 それだけ言うとアイリーンは上に向かって駆け上がりだした。慌ててカインがアイリーンの腕を掴み動きを制した。

「何処へ行くんだ!?」

「離して、カイン」

「アイリーン!」

「・・・最後の仕事をしに行くだけよ」

「最後?」

「えぇ、そうよ。最後の仕事。カイン、私の言うことをよく聞いて」

 アイリーンは急に声のトーンを落とした。

「リザを救出したらそのまま1階までエレベーターで上がりなさい。オペ室の中にあって、上がっても人目に付かない場所に出れるから。脱出したら車を奪ってエドワードのところに行きなさい。決して家には戻らないで!! いいわね!!」

 言い終わらないうちにアイリーンはカインの腕を振り解いて再び駆け出していった。

 「何故?」という言葉はアイリーンに届かなかった。

 カインはアイリーンを追うことを躊躇った。今は何をおいてもリザを優先しなければならない。そう思ったからだ。

 アイリーンに教えられたとおり、地下3階の最奥の部屋へ向かい走った。

「アイリーンはひとりでも大丈夫だ」

 彼女なら何とかなる。カインはそう信じるしかなかった。今すべきこと。それはただひとつ。

「リザから離れろ!!」

 銃弾で撃ち壊した扉を蹴破ってカインはオペ室に入った。

 手術が行われる直前だったらしく、手術着の男たちは片手のメスをカインに向かって投げつけた。それらがかわされている隙にそれぞれ銃を手にとろうとした。

 カインは避けると同時に男たちの肩や足を撃ちぬいた。

「ぐはっ・・・!!」

 死んだかどうかなどカインには知った事ではない。悶絶して転がる男たちの身体を蹴飛ばしカインはリザを抱き上げた。

「・・・カ・・・イン・・・?」

「気付いたか?」

 たった今麻酔から目を覚ましたのかリザは朦朧としているようだった。カインはその身体を力一杯抱き締めた。

「・・・リザ、もう大丈夫だ」

「カイン・・・カイン!!」

 お互いの体温を確かめるようにリザは腕をカインの背中に回した。

「ずっと・・・ずっとカインの声が聞こえてた・・・。嫌いなんて嘘よ。ごめんなさい・・・」

「気にするな」

 双眸から溢れる涙を拭うリザを抱え直し、カインは奥にあったエレベーターに乗り込んだ。

 低く響く機械音が徐々に地上へ向かっていることを教える。

「・・・眠っていろ。目が覚めたときには全て終わっているから」

「・・・カイン?」

「なんだ?」

 リザはすっと左手を伸ばした。指先でカインの左耳に触れる。

「ピアス・・・ね? 全然気づかなかったわ。綺麗・・・とても良く似合うね」

「え・・・?」

 ピアスと言われてカインは何のことかわからなかった。

「だって、こっちの耳だけ赤いピア・・・ス・・・」

 まだ麻酔が完全に抜けていないのだろう。リザは再び意識を手放した。

 おそらく彼女はカインの今の表情を見ることはなかっただろう。

 驚愕に震えるカインの顔を。

 カインはエレベーターの中に掛けられている鏡を思い出し振り返った。

 確かにそこには左耳に『だけ』赤いルビーのピアスを光らせたカインが映っている。

 フィロスの笑みを思い出した。

 刻印。

 カインは思わずリザを強く抱き締めた。穏やかに目を閉じるリザの額にカインは唇を寄せる。

 何があってもおまえを離さない。俺が誰に何をされようとも。俺の心は変わらない。

 おまえを離さない。

 無垢なまでに強い想い。だが、この想いの正体をカインは気付いてはいない。


 その場所はやはり一番高いところにあった。

 テラスの向こうは崖。

 そこに、罪の根源は『居た』。

「生きていたのか、アイリーン」

「お互い様のようね、お祖父様」

 その言葉に皺だらけの顔により一層皺を寄せて老人は笑った。

「おまえには失望したよ。親子揃って儂を欺きおって。覚悟は出来ているんだろうな」

「覚悟をするのは貴方のほうよ」

 アイリーンは逃走中に奪った銃を老人に向けた。

「フロイス=レーン、貴方の罪を裁いてやるわ」

「罪人が罪人を裁くのか? 愚か者はおまえだ。国家反逆罪がどれほど重いかわかっておらんようだな」

「私は国家ではなく、貴方に逆らったのよ。それにお忘れでしょうけど、国家政策に逆らった兵器開発をしているのはお祖父様、貴方のほうだわ。もう90歳を過ぎたでしょう? そろそろ人生と言う名の舞台から降りられたらいかが?」

 フロイス=レーンは幾分気分を害したのか表情を曇らせた。

「逃亡者だ! 誰かおらんのか!?」

 手元にあった電話の内線を押して叫んだが、反応は何一つ返ってこなかった。

「誰か・・・誰かおらんのか!!」

 悲痛なまでの叫びだった。アイリーンはこの背を丸め小さくなった老人が哀れに思えた。

 これがかつて・・・いや、今なお最高権力を握っている男の姿なのだろうか?

「でも、同情の余地はないわ」

 アイリーンは引き金に掛ける指に力を込めた。

「地獄で貴方の娘とその夫に詫びるのね。・・・さようなら」

「アイリー・・・!!」

 銃声がこだました瞬間フロイス=レーンは左胸と脇腹から血を噴出した。

 アイリーンは顔を叛けたままフロイス=レーンのその姿を見ようとはしなかった。だから、彼女は気付かなかった。自分の撃った弾が心臓を外れていたことに。そして、自分が撃ったと同時に別の場所から発砲があったことに。

 彼女は顔を叛けたまま老人の身体に残りの銃弾を撃ち込んだ。その勢いに圧されるようにして、フロイス=レーンの肉体はテラスから崖下の海へ向かって落下した。

「・・・うぅ・・・」

 声を殺してアイリーンは泣いた。溢れる涙を拭うことも忘れて。

 両親の仇を討つことがアイリーンを支え続けた悲願だった。

 達成された喜び。だが、それ以上に祖父を手に掛けた事実がアイリーンを苦しめた。どんな人間であったにせよ、その祖父に育てられたことには変わりない。

 流された涙が誰のためだったのかは語る必要もない。

「・・・罪人は裁いたわ。そして、今度は私が裁かれる番・・・」

 アイリーンは空っぽの銃を捨て、チェストの引出しを開けた。中からは一丁の銃が現れた。それを手に取り銃弾を確認してからアイリーンは部屋を後にした。

「・・・終わりました。マスター、今から最後の大掃除をして帰ります」

 ついさっきまでアイリーンとフロイス=レーンのやり取りの一部始終を観察し、アイリーンの代わりにレーンの心臓を撃ち抜いたフィロスが持ち物を携帯電話に代えて話していた。足元にはポリタンクが転がっている。

「面白かったですよ。彼にも・・・カインにも会えましたからね。マスターも早く会えると良いですね。彼に、彼らに・・・」

 話しながらフィロスは裏庭らしき場所に出てきた。そこには彼の愛車が朝陽を浴びて佇んでいる。

 フィロスはおもむろにライターの火を灯し放り投げた。

 ライターが視界から消えたと同時に邸は瞬時に炎に包まれた。

 携帯電話の電源を切り、フィロスは満足げに炎上する城にも似た邸を見て微笑んだ。

 愛車に乗り込み、彼は猛スピードでその場を離れた。しばらくして燃え盛る邸を見渡すことのできる場所まで来ると車を停め外に出た。

 海から吹き上げる風がフィロスの髪を乱す。

「フロイス=レーン、貴方の全てを政府の・・・いえ、『北の悪魔』の命により抹消します」

 リップスティックのようなものを取り出し、蓋を指で弾いて中のボタンを押した。

 その瞬間邸は激しい爆発を立て続けに起こした。おそらく火が消えたころには何も残ってはいないだろう。

 海風が炎を煽り、よりいっそう激しく燃やし続ける。

 全ては灰に、無に帰る。

 何もかも泡沫の幻であったかのように。


 全てが終わりを告げたあの冬の日、涙を流すことは出来なかった。

 何故ならそれは悲劇の開幕 ― 始まりに過ぎなかったから。

 『彼』をこの手に掛けたとき、それは『彼女』と出会うための必然的運命でしかなかった。

 そして『彼女』と出逢った運命は、失う運命の始まりだった。

 今度何かを失ったとき、涙は流せるのだろうか・・・?


 カインは白一色に覆われた部屋で目を覚ました。暗かった地下室とは違って窓から差し込む陽射しが眩しい。

 身体を横たえているベッドのシーツは清潔で太陽の香りがした。

「目が覚めたか?」

 扉をノックするような律儀さはすっかり欠けているようだ。さも当然のような顔で、リースは白衣も着ずにカインのベッドサイドに腰をかけた。

「丸1日眠っていたぞ。気分はどうだ?」

「またか・・・」

「は?」

「なんでもない。ちょっと頭が重い」

「だろうな。ほれ、薬を飲め」

 リースはカインの身体を起こしてやり、錠剤を2粒手渡した。カインはまとめて口に放り込み水を呷るようにして飲む。

「サンキュー」

 カインはコップをリースに渡した。

「ここに辿り着いたとこまでは覚えてるんだが・・・」

「診療所に倒れるようにして入ってきて、そのまま失神したからな。覚えてるわけないぞ」

 あの後、リザを連れてカインはアイリーンの指示通りDr.リースの診療所まで車を走らせた。どうもその直後待合室でカインは倒れたらしい。

「・・・リザは?」

 カインは部屋の中にリザがいないことに気付き焦った。その様子にリースは苦笑する。

「あの娘なら看護師と一緒に茶を飲んでる。おまえよりずっと早く目が覚めたからな」

「そうか・・・」

 安堵したのかカインは溜息をついた。その表情は穏やかだった。リースはカインにはわからないように微笑んだ。

「あ、そうそう。消毒しておかないとな」

 リースはカインの横顔を見て思い出したのか脱脂綿に消毒液を染み込ませカインの左耳を拭き始めた。

「・・・リース?」

「・・・たく、いつの間に『こんなもの』開けたのか知らんが、清潔だけは保てよ。でないと膿んでくるぞ」

「何の話だ?」

 カインはリースの言っている事を理解できずにいた。いつの間に左耳に傷でも作ったのだろうか、という程度ぐらいにしか思っていない。

「自分で開けたんだろう? ピアス」

「ピ・・・アス?」

「あぁ、にしては変だよな。ピアスホールはないし。裏まで突き抜けていないんだよな。何か特殊なやり方でもしたのか? ルビーのピアスが埋まってるような感じだぞ?」

 リースの言葉はもはやカインの耳には入っていなかった。

 紅玉のピアス。

 刻印。再会の証。

 フィロスの笑み。

 夢ではなかった。

 カインは指先で左耳朶に触れた。確かにそこには冷たくて固い感触がある。

「・・・だから、これ取れないからな」

「え?」

 リースの言葉でカインは我に返った。いきなり反応が返ってきたことにリースのほうが驚く。 

「だから、どうやって入れたのかわからないからこのピアスは取れないぞ」

「そうか・・・仕方ないな」

 カインは力なげに笑った。何故か、悔しいとか憎いとかいう感情は湧かなかった。

 前もそうだった。

 フィロスに対しては自分でも理解できない感情が湧いてくる。憎みきれない何かが、フィロスにはある。

「リザを呼んでくる」

 急に黙り込んでしまったカインを心配そうに見ながら、リースはリザを呼ぶため病室を出た。今、カインの傍に必要なのは医者ではなく彼女だ。

 何を塞ぎこんでいるのかリースにはわからなかったが、リザならばカインの心を解きほぐせるだろう。

 リースは受付の奥で看護師と談笑をしているリザに声をかけカインが目を覚ましたことを告げた。すると、彼女は今まで笑っていたのが嘘のように硬い表情になり、焦るようにカインの病室に駆け込んでいった。

 呆気に取られている看護師に「仕事を続けてくれよな」と言い置いて、リースは待合室の長椅子に腰をかけ、リモコンでテレビのスイッチを入れた。

「・・・あれ?」

 いつもならば昼過ぎのこの時間は一昔前のドラマの再放送を流しているはずだった。毎日この時間をリースは楽しみにしているのだ。しかし今日に限って何か特別番組をやっている。どうやら報道番組らしい。

「・・・これか・・・」

 リースは煙草に火を点けた。看護師が「先生、そこで吸わないでくださいよ!」と言う注意の声も耳に入らないほど彼はニュースを食い入るように見ていた。

 目を覚ましたリザから、何故カインほどの人間が駆け込んだ上ついでに失神したのかという事情は多少なりとも聞いていた。

『ここは元軍事顧問官でしたフロイス=レーン氏の邸宅がありましたが、現在その姿は跡形もありません・・・』

 報道規制をしているせいかたいした内容ではないが、リースにはそれだけで十分だった。

「くそジジィがくたばりやがった・・・」

 リースは紫煙を吐いた。溜息と一緒に。

 両親を失ったとき、リースは7歳になっていたが2人の顔を明確に思い出すことは出来なかった。それだけ両親と過ごした時間は少なかったということだ。だから、別に父親が祖父に殺されたと知ってもたいした感慨は湧かなかった。

 けれども、姉アイリーンと姉弟の縁を切られたときは祖父を憎んだ。アイリーンはリースが自分を誤解していると思っていたようだったが、リースは姉が望んで切ったなどと信じていなかった。全て祖父に示唆されたこと。リースはそう考えていた。そして、事実もそうだっただけのこと。

 テレビを消し、リースは腰を上げた。

 リザの話ではあの邸にはアイリーンもいたらしい。ならば、おそらくフロイス=レーンを殺害したのも彼女に違いない。

 だが、彼女はカインたちと一緒に戻ってはこなかった。

「何処で何をしてるんだ・・・姉さん」

「先生、お電話です」

 ぼそりと呟いたリースの背中に看護師が声をかけた。受話器をリースに差し出して。

「誰から?」

「それが、女性のようなんですが聞き取りにくくて」

 一抹の不安がリースによぎった。

 彼の手から奪い取るようにしてリースは受話器を受け取り叫んだ。

「アイリーン!!」

「・・・ド・・・ード?」

 か細い声の上に雑音交じりではあったが、それは確かに姉の声だった。

「カインもリザも無事だ! ここにいる!! それ携帯だな! 今何処にいるんだ!?」

 リースの問いかけにアイリーンはすぐに答えなかった。しばし沈黙が流れる。

「アイリーン!!」

「・・・償いが、残ってる・・・最後・・・」

「え?」

「・・・インたち・・・おね、が・・・私はも・・・きな・・・・・・な、ら」

「何!? アイリーン!?」

 最後の言葉を聞き取ることが出来ないまま電話は途切れた。

「アイリーン? アイリーン!? 姉さん!! くそっ!!」

 まるで怒りをぶつけるかのようにリースは受話器を電話に叩き戻した。勢いあまって手近にあった屑篭を思いっきり蹴り飛ばす。看護師は身の危険を感じて、慌てて書きかけのカルテを抱えて奥に姿を消してしまった。

 リースはアイリーンの言葉を反芻した。

 償い。最後の償い・・・。

「・・・まさか」

 アイリーンの最後の償い。

 それが意味すること。

 リースの不安は膨らむばかりだった。

 そのとき、突然電話が鳴り響いた。リースの心中は穏やかではない。また、アイリーンかもしれなかったからだ。

 けれども、取った電話の向こうにいたのはアイリーンではなかった。

「もしもし・・・あぁ、なんだ。あんたか」

 以前情報部が解散するという情報を持ってきた男だ。

「あぁ、その事件は知ってる。さっきテレビで見た。・・・え? なんだって?」

 受話器を持つリースの手が震える。押し寄せ続ける最悪の現実という波に呑み込まれているかのように。リースの手から受話器が滑り落ちた。

「・・・馬鹿な・・・」

「リース?」

 先程から病室まで聞こえてきていたリースの声に驚いたのか、カインがリザに支えられるようにして待合室に立っていた。

 カインに名前を呼ばれてリースは初めてカインたちを見た。

 その打ちのめされたようなリースの表情にカインは何かが起きていることを知った。

「どうしたんだ、リース。なにか・・・なにかあったんだな?」

 カインの言葉にリースは力なく頷いた。

「ロイ=リーフが・・・情報部の・・・」

「ロイがどうかしたのか!? 何があったんだ!? リース!!」

 カインはリースに駆け寄り彼の胸倉を掴んだ。

「リース!!」

「・・・今朝、ロイ=リーフが・・・自宅で自殺したのが・・・発見されたって・・・」

「じ・・・自殺?」

 信じられない、と言わんばかりにカインは目を丸くし、リースの言葉を繰り返した。

 自殺? あのロイ=リーフが?

 ――― ひとつ目の依頼はキャンセルされました・・・。

 ――― 監視する必要がなくなったんですよ・・・。

 フィロスの声がカインの耳に甦る。

 フィロスの言葉の意味を、このときカインは初めて知った。

「ロイは・・・殺される前に自分で自分の口を封じた・・・?」

 反レーン派だった父親と同じくレーンに反発し続けた男。政府のようにリザを切り捨てることも出来ず、それ故政府からも圧力を受け苦しみ続けた青年。

 カインとさほど歳は変わらないはずだった。

 彼はどんな思いで自分自身に引き金を引いたのか。

 哀しげに微笑んだあの灰青色の瞳はもう開かれることはない。

 何処にも相容れられずに、それでも彼は自分の信じた道を貫いた。

 そして、死を選んだ。

「・・・ロイ・・・」

 カインは既にこの世を去ってしまった彼の名を呼んだ。

「・・・カイン、よく聞いてくれ・・・。アイリーンからも、電話があった。」

「アイリーンから!? 無事なのか!?」

「・・・でも様子がおかしかった」

「え?」

「最後の償いが残っていると言って電話を切ったんだ。さっきから嫌な予感がして仕方がないんだ。胸騒ぎがして仕方がない・・・」

「リース」

 カインは真っ直ぐリースを見た。

「車を出してくれ・・・今、すぐに!! 早く、アイリーンの家に行かなければ!!」

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