血のクリスマス・イブ(下)
空には鉛色の雲がたちこめ、ようやくやんだ雪がまた降ってきそうな気配だった。
「この村のクリスマスを取材されるとか?」
「えぇ、“小さな村のクリスマス”という題材でしてね。お世話になります」
この村の村長だという老人がカインを快く迎え入れてくれた。
フリーライターとして村を取材するという名目で入れるよう準備を整えたのはロイだった。この方が怪しまれることなく村の中を歩けるからという理由だ。もちろんこの頃すでにカインは紀行作家としての仕事もしていたので取材の仕方も慣れていた。だが、この『取材』はあくまでもカモフラージュに過ぎない。
「儂の孫娘が一番村のことや山のことをよく知っておりますからな。使ってくだされ」
「お孫さんですか?」
「そうですのじゃ。ここが家です。おーい、お客さんが着いたぞ」
村の中でも一番大きな家に通され、そこの居間のソファーに勧められるままカインは腰を下ろした。
「まぁまぁ、ようこそ。お寒かったでしょう? 熱いお茶をどうぞ」
「ありがとう」
品の良い老婦人が温かいブランデー入り紅茶を出してくれた。
それを手にとりゆっくり口に運ぶ。
だが、目は周囲の様子を窺っていた。
村長であるこの家の主は防寒着を脱ぎカインの向かいに座り同じようにティー・カップを手にとっている。
セーターの上からだから見た目はわからないが、老人にしては立派な身体をしている。
つまり、意図的に鍛えられた身体、という意味だ。
夫人のほうも田舎のお婆さん、という雰囲気ではない。身のこなしや仕種は優雅だった。それなりの教育を受けたものだという証拠だ。
(・・・ただの老夫婦ではないな)
会話を楽しむ振りをして、カインは別のことを考えていた。
そこへ、玄関扉のカウ・ベルが家中に響いた。
パタパタという足音をたててひとりの少女がコートに積もった雪を払いながら現れた。
「ただいま。お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。また雪降ってきたよ!!」
「お客様よ! ちゃんとご挨拶なさい!!」
老婦人に言われて少女は初めてカインを見た。
金髪碧眼。写真の少女に間違いない。
「い、いらっしゃいませ。リザです」
少女の頬が朱色に染まる。
暖かい部屋に入ってきたせいだけではない様子だ。
「君がお孫さんだね。初めまして、カイン=コリューシュンだ。よろしく」
敢えてカインは“ノエル”を名乗らなかった。ノエル=キャンドルライトという人物は別に存在する。後々面倒にならないためにもカインとして存在する必要があった。
「カインさん?」
「カインでいいよ」
「・・・カイン」
優しくリザは微笑んだ。
温かく穏やかな空気をカインは感じた。
かつて手に入るはずだった幸福。まるでそれが今目の前にあるような錯覚にさえ陥る。
「今日の練習は終わったのかい? リザ」
「うん。今日は台詞合わせだけだったから。でもクリスマスも近いし、がんばらなきゃ!!」
「練習・・・? 何かあるんですか?」
祖父と孫娘の会話にカインが加わる。
「えぇ、なにせ小さな村ですのでね。村の子供たちが教会でやるキリスト生誕劇なんですよ。クリスマスのメイン・イベントでもあるから皆気合が入っていてね」
「へぇ・・・。リザは何をやるの?」
「マリア様よ」
得意そうに碧い瞳を輝かせてリザは答えた。
「リザ、手伝ってちょうだい」
老婦人が台所から声をかけた。夕食の準備をしているらしい。シチューの匂いが居間に広がる。
リザは空になったティ―・カップとポットを提げて台所へ消えていった。
「・・・可愛らしいな」
「今が一番愛らしい盛りですな。赤ん坊のときに息子夫婦が死んで寂しい思いもしたでしょうが・・・。良い娘に育ってくれたと思っとりますよ。まぁ、親馬鹿みたいなもんですがね」
「いや、事実でしょう。でも、そんな早くに両親を・・・」
資料にそんなことも書いてあったな、とカインは思ったが余り詳しく覚えていない。
確かリザの両親、つまり老夫婦のひとり息子とその妻は国立の研究所で働いていた。だが、事故に巻き込まれ2人とも死亡。その後研究所は閉鎖されたまま現在に至るという。
(両親がすでに死亡していて、働いていた怪しい研究所も事故で閉鎖したまま、挙句その娘は命の危険に晒されている・・・?)
国が守らなければならないほどの存在。
しかし、カインには目の前で笑っている少女が“特別”には思えなかった。どこにでもいそうな普通の少女と変わらない。
カインは頭を振った。
何も考えるまい。
何も考えないためにここまで来たのだ。少なくともロイ=リーフが仕事の終了を言ってくるまでの間の関係に、感情など不要だ。
いつもどおり演じていればいい。
何もかも、どうでもいい。あのことを忘れてさえいられれば。
「子供ひとり守るだけ・・・楽なもんだ」
Zはこの仕事の依頼が入ったとき受けることをひどく拒んだ。
おまえは逃げたいだけだ、と激しく叱責された。
そのとおりかもしれない。いや、そのとおりだった。
失う苦しみも、哀しみももうたくさんだった。
今の『仕事』を続ける限り、愛するものは何も手に入らない。
全て指の隙間から零れ落ち、この手を穢して失っていく。
それでも『仕事』を辞めわけにはいかなかった。
この生き方しか、知らないから。
けれども、そんな自分勝手な行動が大きな悲劇の引き金となってしまったことを、このときのカインは知る由もなかった。
翌朝から、カインは常にリザと行動を共にした。
手には小型レコーダーとカメラを持ち、村の隅々から、森の中、湖の辺、ありとあらゆる場所を回った。
村人は皆気さくでカインを見ると声をかけ、家に招いてくれた。
そんな日々が過ぎ、ついにクリスマス・イヴがやって来た。
村の広場には大きなクリスマス・ツリーが飾られ、村は華やかに賑わいを見せていた。
本物の雪を被ったツリーにカメラを向けシャッターをきるカインの周りにも人々が集まり、彼は次々とスナップ写真を撮った。
「どうですかな? 村自慢のツリーは」
「やぁ、村長さん。とても立派なものですね。・・・リザは?」
「あの娘なら・・・」
と言いかけて村長は教会を仰ぎ見た。つられてカインも見ると、こちらに向かって駆けて来る少女がひとりいた。
「お祖父ちゃん! カイン!!」
「そんなに走ると危ないぞ、リザ」
祖父の忠告などまったく耳に届いていない様子だった。彼女は息を切らしながらカインの傍まで来るとようやく立ち止まった。
「先生が呼んでるわ、お祖父ちゃん」
「そうか。ちょっと行って来ます」
村長はリザに言われるまま教会へと歩いていった。
その背を見送ると、リザはカインに振り返った。
「もう、始まるわ。ちゃんと見に来てよね、カイン」
「あぁ、もちろん。こうしてわざわざマリア様が俺を導きに来て下さったのだからね」
彼女の手を取りカインは微笑みながらその手に唇を寄せた。
リザの顔は寒いにもかかわらず真っ赤になってしまった。
「あ・・・あの、だ、から・・・。早く、行こうっ!!」
カインの手を握り締め、リザは引っ張るようにして教会に向かった。
耳まで真っ赤にして。
「・・・マリア様、か」
例えその姿が仮のものでも、今目の前にいるリザはカインにとって紛れもない聖母マリアだった。
慈愛に満ちた聖母ならばクリスマスの夜ぐらいは悪魔も愛してくれるだろうか?
「・・・くだらない」
自嘲めいた笑みを浮かべカインは自分の言葉を否定した。
慈愛も慈悲も、慰めも要らない。
俺は、悪魔なのだから。
「何か言った?」
カインの独り言にリザが不思議そうに訊いてきたがカインは笑って「なんでもない」と答えた。
「ふーん、あ、皆教会に集まってる! ちゃんと見ててね!!」
「あぁ、ちゃんと写真も撮るからがんばれよ」
カインの応援にリザは笑顔で手を振り子供たちの輪に戻っていった。
教会の周りにいた大人たちも皆中に入ったせいか、村は急に静かになった。
「今日まで何にもない・・・か」
考えてみればカインはリザを『何』から守ればよいのか何も知らなかった。
殺しても厭わない相手とは、いったい何なのか。
「・・・まぁ、いい。殺しが俺の仕事だ」
教会の中から拍手が聞こえてきた。劇が始まったらしい。
カインはカメラのフィルムを入れ替え、教会の中に入った。
ちょうど聖母マリアの台詞だった。
カインはカメラを構えファインダー越しにリザを見た。
カインに気付いたのかリザはこちらを見、微笑んだ。
その表情にカインははっとした。
何者よりも美しい少女の笑み。
輝く黄金の髪に碧く光に満ちた瞳。色づいた薔薇色の唇。
思い出すのはいったい誰の面影だろうか。
カインは無我夢中でシャッターをきった。
リザの笑顔を心に刻みつけるように。
「どうだった!? カイン!!」
舞台衣装のままリザは大急ぎで家の扉を開けて飛び込んできた。余りの騒音に祖父である村長が驚いて顔を出す。
「こらっ!! もっと大人しく開けんか!!」
「それよりカインはっ!? ねぇ、お祖父ちゃん!!」
息を切らしながら、祖父の言葉に構わずリザはカインの所在を訊ねた。呆れたように祖父は溜息を漏らした。
「彼なら部屋に・・・て、コラッ! 今入っちゃいかん!!」
言葉の最初を聞いただけでまた駆け出そうとするリザを祖父は慌てて引きとめた。
「何で!?」
不服そうにむくれるリザに苦笑しながら、彼は内心複雑な気持ちだった。
リザは2週間ほどの間にあの青年をとても慕うようになった。
このまま、何事もなく彼が去っていったときリザは悲しむだろうか?
いや、何事もなく終わるのだろうか・・・?
「お祖父ちゃん?」
リザの声に祖父は我に返った。
「カインは今何をやってるの?」
「あ・・・あぁ、フィルムを現像しとるようじゃよ。とりあえず手元にあったフィルムは全部撮り終えたそうだから」
「そうなの? パーティーまでに間に合うかなぁ」
少し不安げに呟くリザの頭を老人は優しく撫でてやった。
「おまえは本当にカインさんにべったりだな」
祖父の顔を見上げたリザの頬は、さっと朱色に染まった。
「な、何を言い出すのよ!!」
「うん? 儂はカインさんのことが好きかどうかを聞いているだけなんだがな」
「す、好きよ。カインってかっこいいし、素敵だし、大人だし、・・・大好きよ。でも、なんで・・・?」
愛孫の答えに祖父はただ微笑むだけだった。
「・・・儂もあの人にならば任せられると思うよ」
「何か言った?」
微かに響いたような老人の呟きは少女の耳には届かなかった。
その頃、カインは膨大な枚数の写真の現像を終わらせたところだった。
村人の生活姿やリザが案内してくれた場所を撮影し、あらゆるものが写されていた。それらを2種類に分類する作業をカインは行っていた。
ひとつはただのスナップ写真。
「やっぱりこれもか・・・」
もうひとつはリザの写真が多かったがその殆どに黒い影が映っている。
「下手な尾行をしているな・・・」
しっかり姿を捉えたものも数枚あった。
どうやら常に2人の人間が張り込んでいるらしい。
「何者だ? こいつら・・・」
ひとりはグレーのコート姿で、もうひとりはカーキー色のダウンジャケットを着ている。しかし、2人とも顔はサングラスで覆っているので人種の判別はつき難い。
カインは立ち上がりカーテンを少し開けた。
ちょうど裏手の林が見え、人影が動くのが見えた。
セットしておいた集音マイクの電源を入れる。
小さすぎてよくわからないが、聞こえてくるのは英語だった。
「・・・CIA?」
唯一聞き取れた言葉の意味がわからないカインではなかった。
ロイ=リーフが殺しても構わない、と言った相手。
それはCIA諜報員に他ならない。
しかし、CIAが何故リザを?
考えかけてカインは首を横に振った。また気にしかけている自分に対して。
決めたはずだ。例え相手が何であれ、リザを『護衛』することが自分の仕事だと。
とりあえず害を成すものをこちらから片付けるべきだろう。
カインは銃に弾を込め、コートを羽織り部屋を出た。
「カイン!」
「・・・リザ?」
呼ばれて初めてカインは階段下にリザがいることに気付いた。碧い瞳をこちらに向けてカインを見上げている。
「何処へ行くの? パーティーが夜中の0時から始まるんのよ? 知ってた?」
「あぁ・・・。フィルムがなくなったから、町まで買い出しに行こうと思ってね」
「それならばリザも一緒に行ってきなさい。カインさんは暗くなってから車を走らせたことはないでしょう?」
玄関の扉を開き中に入ってきた老人はカインを見た。両肩に積もった雪を払い、長靴を脱ぎ寒そうに上履きを履き替えている。
「いや、でも・・・」
カインは言葉に詰まった。フィルムを買いに行く、というのは口実に過ぎない。本当は外にいたネズミどもを始末しに出るところだったのだ。フィルムは予備がまだ残っているのだから、適当なことをいって誤魔化せば良い。
「この娘は夜でも道がわかりますからな。なに、時間までに戻ってくれば大丈夫ですよ」
「ね、そうしようよ! わたしコートを取ってくる」
「リ、リザ!!」
カインが引き留めようとしたが既に遅く、彼女は跳ねるように2階へ駆け上がっていった。
仕方がない。
カインはネズミ退治を諦めることにした。片付ける暇ぐらい戻ってからでもあるだろう。
「それじゃ、リザをお借りします」
「えぇ、頼みます。・・・貴方なら、安心です・・・」
「え?」
擦れ違いざまに聞こえた老人の言葉にカインは驚き振り返った。が、それ以上に気になるものをカインは嗅ぎ取った。
「村長・・・」
「はい?」
「・・・何を? 何を外でしていたんです?」
「はい?」
老人の表情は質問の意図がわかりかねる、とでも言いたげなものだった。
「何故?」
「いえ、少し・・・硝煙の匂いが」
「・・・あぁ、今狩りをしてきましてね。そう、兎やら鳥やらね」
獲った獲物は銃と一緒に納屋に片付けて来たと言う。
すでに外は夜闇に包まれているというのに。
「カイン、行こっ!」
純白のコートを羽織ったリザが軽やかに階段を駆け下りてきてカインの腕を取った。
「ちょっ・・・リザ」
「早く早く!!」
嬉しそうに急かすリザにカインは大人しく従うことにした。
リザにはかなわない、と思いながら。
「では・・・」
「行ってきまーす!!」
「気をつけて」
白銀の世界に消えていった2人を老人は手を振って見送った。
「あなた・・・」
夫人が2人が出て行くのを待っていたかのように現れた。老人も頷く。
「大丈夫だ。彼ならば、きっと大丈夫だ」
「じゃあ、あの子達が帰ってくる頃には・・・」
「言うな・・・。さっき野良犬を片付けてきたからな。今夜来るだろう・・・。息子たちとの約束だ。ようやく守れるな・・・」
そっと夫の背中に夫人は寄り添った。
老人は寂しげに微笑みながらゆっくり右手の手袋を外した。
その手は黒ずんだ血にまみれていた。
(やはりな・・・)
ガレージでエンジンを温めている間、カインは裏の林の中にいた。
僅かな血痕が木の幹や雪の上に飛び散っていた。この程度ならば放っておいてもいずれ降り注ぐ雪に掻き消されるだろう。
(おそらく・・・この辺りか)
雪を一度掻いたらしい跡が残っていた。彼は多分ここに埋めたに違いない。
何も考えないわけにはいかなくなった。
思いも寄らないところで事態は刻一刻と変化している。
「どうなっているんだ、ロイ」
老人の身体に染み付いていた硝煙の匂い。その中に僅かに混じっていた生臭い臭い。
人間の血の臭い。
獣ではない。確かに生きた人間のものだ。
「カイン! 早くー!!」
「わかった、わかった。今行くよ」
雪を踏みしめながらカインはガレージに戻った。
温まったエンジンを吹かし、カインは車を走らせた。
しばらくすると降り出した雪もすぐにやみ、町につく頃には満天の星が夜空に輝いていた。
これから起こるだろう事など、何も感じさせないほどに美しい夜だった。
口実だったはずの買い物を一通り終え、カインとリザは町のカフェに入った。
カインはコーヒーを注文しリザはココアを頼んだ。
窓の外はクリスマスに彩られ、まるで不夜城のように明るい町を眺めることができた。
注文したコーヒーとココアがきて、2人は無言のままそれぞれ口を付けた。
店の中は軽快なクリスマス・ソングが流れているだけだった。まばらに座っている客の話し声はカインとリザには聞こえない。
「フィルム買えてよかったね」
「あぁ、・・・リザ」
「なに?」
カインは脱いだコートの懐から小さな箱を取り出してリザに差し出した。
「今まで色々手伝ってくれたお礼と、クリスマスプレゼントと・・・君の誕生日のお祝い。1日早いけどね」
「何で知ってるの!?」
「お祖母さんから聞いたよ」
開けてみて、と促されリザは包み紙を破いた。
中から現れたのはペンダントだった。
「綺麗・・・」
うっとりした眼差しでリザはペンダントを手に取り見つめた。
銀製の少し変わったデザインの十字架だった。
中央に青い石が嵌められている。
「この石は何?」
「12月の誕生石、ラピスラズリ。意味は・・・気品、幸運、そして・・・無垢」
「ラピスラズリ・・・」
「気に入った?」
「すっごく! ありがとう、カイン。でも、いつの間に買ったの?」
「さっきジュエリー・ショップに入っただろう? リザがウィンドーを見てる隙にね。リザに一番似合いそうだったから」
「気付かなかった。でも、嬉しい・・・」
「貸して」
カインは腰を上げてチェーンを取った。リザの背中に回りペンダントをつけてやる。
少女の胸元で十字架が微かに揺れる。
「似合う?」
「あぁ、とても。」
少女の愛らしい笑みにカインの心は揺れた。
彼女を騙し続ける罪悪感をこのとき初めて知った。
『仕事』にこんな感情を持ったのは初めてだった。
(俺は・・・リザを利用している。過去を忘れたいために・・・。Zの言う通りだった。俺はただ逃げているだけなんだ、この娘を利用して・・・)
「・・・リザ」
「ん?」
純真無垢な瞳を向けるリザにカインは意を決して口を開いた。
「リザ、俺は・・・」
まさにカインが何かを言いかけたとき、カランッ、とドアベルが鳴った。カインは反射的に音の方を見た。
「貴様ら・・・」
見覚えのある黒いコートにサングラスの黒ずくめの男たちが店内に入ってきた。いつの間にか客や店員が消えている。
奥からも数人の同じ格好の男たちが入ってきた。
失敗した。会話に夢中になり過ぎたようだ。
カインはリザをその背に隠すように立った。
『お久し振りですね、カインさん』
久しく聞いていなかったフランス語にカインは驚いた。
「ロイ=リーフ・・・」
名を呼ばれ金髪の男がサングラスを外した。
「カインの知り合い?」
リザの質問にカインは答えなかった。彼はただひたすらロイ=リーフを睨みつけている。
『ご苦労様でした』
『何!?』
『貴方の仕事は終わりました。終了です』
『なんだとっ!?』
突然声を荒げたカインにリザは驚き今まで掴んでいたカインのセーターを思わず離した。
『彼らに勘付かれましてね。・・・でも彼らは何も得ることができないまま撤退しました。言ったでしょう? 何があってもリザだけを守って欲しいと。貴方は約束通り守ってくださいました。残りの報酬は既に振り込みました。これからオスロのホテルまでお送りしますよ』
『ここまで関わらせておいて勝手にもうすみました、だと? 俺はあの村に3週間いた。あの村の連中の様子が少しおかしいことも俺は知っている。あの村だって・・・現実には・・・』
『仰りたいことがわかりませんが・・・?』
『彼らというのはCIAのことだな? NATO加盟国が米国を敵に回してまでリザを守る理由が何処にある!?』
『聞いてどうされるのです?』
ロイ=リーフは冷たい口調で言い放った。灰青色の双眸が氷の輝きを帯びる。
『私は初め貴方に依頼をしたときに訊きましたよね? 『質問はあるか?』と。でも貴方は何も聞かなかった。事の重大さを認識しなかった貴方の過ちですよ。第一・・・『悪魔の御子』の貴方が、たかが“護衛”に何を目くじら立てているんです?』
『・・・』
カインは言葉に詰まった。
ロイ=リーフの言葉は正しかった。自分は依頼人の事情にまで関わる必要のない暗殺者。
なのに何故、これほどムキになるのか、自分でもわからなかった。
『帰国はリザを村に帰してからだ』
『必要ありません』
ロイの口から出た台詞にカインは驚くとともに、心の何処かで理解していた。
あぁ、やっぱりそうなのか、と。
『リザは我々が保護します』
『・・・村はもうないからか』
カインの言葉にロイは無言で頷いた。
身体の奥の方が熱い。熱さに身が震える。
村が、村人たちの顔が脳裏をよぎる。
善良な人々。大自然に囲まれた素朴な村。
だが、その人々全てがかつて軍人だった人間。村は大切なものを守るための砦。
全てがリザのためだけに存在していた。
だが、彼らの使命も今日終わる。
いや、終わったのだ。
「リザ、来るんだ」
カインは背後のリザの右手を取り、出入り口に向かおうとした。
「待て!!」
入り口を固めていた2人の男が立ちはだかり通すまいとした。
「リザ」
「えっ!?」
カインはリザの頭を左手で自分の身体に押さえつけるように抱え彼女の視界を遮った。
それと同時に2発の銃声が店内にこだました。
恐る恐る顔を上げたリザの目に飛び込んできたのものは鈍く光る銃身だった。
「カイン・・・?」
見れば先程まで進路を塞いでいた男たちが床に転がっている。
「おいで! リザ!!」
カインは再びリザの腕を掴んで勢い良く店の外へ飛び出していった。
他の男たちが2人を追いかけようとするのをロイが制した。
「追う必要はありません。彼の行動も全て計算済みです。リザはいずれ我々の監視下に入ります、放っておいてもね。・・・我々から彼が逃げられるわけがない。彼が『北の悪魔』の後継者である以上ね」
ロイは2人が出て行った闇の世界を見つめた。
ちらちらと舞い散る雪に眼を細めて。
その目にはどこか哀しげな色を浮かんでいた。
「ま、待って・・・待って!!」
痛いほど握り締められた腕を振り解くこともできずリザは大声をあげた。
車まで来てようやくカインはリザを解放した。
「カイン・・・」
カインは珍しく息を切らし激しく白い吐息を吐き出していた。顔色は周囲が暗くてわかりづらい。
「さっきの人・・・あたしの話をしていたわ。何の話なの? カイン物凄く怒ってた」
フランス語の会話をリザは理解できなかったが、その中に自分の名前が何回か出てきていたことには気付いていたらしい。
カインは早くリザに車に乗るよう促した。
エンジンをかけ暖房を作動させる。
「はい」
リザがカインの前に熱い紅茶の入ったカップを差し出した。
「リザ?」
「家から持ってきておいたの。落ち着くわ」
「ありがとう・・・」
カインは受け取り一口飲んだ。
美味い。
「カ、カイン。大丈夫!?」
「え?」
リザがカインの頬にそっと指で触れた。
その時初めて知った。涙が頬を伝っていたことを。
「・・・ごめん」
「カイン?」
「ごめん・・・リザ。俺のせいだ。俺が、俺がもっと早く気付いていたら・・・」
「カイン、貴方は誰?」
「・・・リザ?」
リザの言葉にカインは顔を上げた。リザの真摯な眼差しを真っ直ぐに受け止める。
「貴方は誰? さっき銃を持ってたわ。カインは記者でしょ? どうしてあんなものを持ってるの? それとも本当は記者ではないの・・・?」
訊かれてもカインには答える勇気が今はなかった。
今回の依頼の本当の意味をカインはようやく知ることができたのだ。
リザはおそらく政府に何かしら関わっている。本人も知らないうちに。
だが、あの村人たちは皆知っていた。村長がスパイを始末したように。
今日が最後の日だとわかっていたからリザを村の外に出したのだ。
守るために。
「リザ・・・君の村は・・・村はもうないんだ」
「え? 何? 今・・・なんて?」
リザの問い返しにカインは何も答えなかった。
ただ黙したまま車を走らせるのが精一杯だった。