悲劇の開幕ベル(下)
低く唸りを上げるエンジン音が近づいてくるのに気づき、彼女は身体を起こした。軋ませながらベッドを降り、少しめくったカーテンの隙間から外を覗く。
家の前を一台のトラックが通り過ぎていくところだった。
彼女は小さな安堵のため息をついた。
乱れた金髪を手櫛で直しながらベッドに腰をかけ、シーツの上に置かれたバスローブに手を伸ばした。その手を急に引っ張られ、彼女は小さな悲鳴をあげてベッドの上に倒れてしまった。
「・・・ジェイ」
「まだ、いいだろう?」
「ジェ・・・んん」
男は彼女の美しい白い裸体に手を回した。彼女の右手を自分の左手で押さえ込んで。
「だめ、もう、戻ってく・・・んっ!」
抗いの言葉は重ねられた唇に遮られた。
彼女は押さえ込まれた格好で男の愛撫から逃げようとした。しかし、彼の愛撫は収まるどころかいっそう激しさを増す。
白い身体に紅の刻印を刻みながら、彼は右手を細い四肢に滑らした。彼女は突き上げてくる熱に身体をのけぞらせ、焼けるほど熱い男の肩に赤い爪をたてる。
「あ、あぁ・・・」
「アイリーン」
濡れた身体を横たえる彼女の名を男は甘く耳元で囁いた。
「シャワー・・・浴びなきゃ・・・」
「また、急ぐ・・・」
「今度こそ、だめ。昼には一度戻ってくるって・・・」
「リザが? それとも一緒に行ったノエル? ・・・いや、カインだったかな?」
その言葉にアイリーンはさっと身体を起こした。眼には動揺の色が浮かんでいる。
「何故知っているの?」
「知らないほうがどうかしている」
男は傍にあったバスローブに手を通しながら言い放った。
「あの時もあの男はいた。私が知らないはずないだろう?」
男は少し呆れたような口調で付け加えるように言うと、口許を吊り上げた。
「あの子は・・・関係ないわ」
「あぁ、関係ない。むしろこのまま何も知らずに帰っていただきたいものだね。彼のせいで前は失敗したんだ。多くの人間を失った。最終的にはこちらにとって満足のいく結果になったとはいえ、本国は彼を非常に警戒している。私は彼という存在に興味はないが感情のまま邪魔をされても困るんだよ」
「どういう意味?」
「言わずとも知れているだろう・・・?」
男の表情から何かを読み取り、アイリーンは唇を噛んだ。
「あの子に・・・あの子に余計なことしないで。これ以上あの子を傷つけるような真似はやめて」
「そんなに大事か?」
「えぇ、大事よ」
探るような眼で見てくる男にアイリーンはきっぱりと言い切る。
「弟のよう・・・いえ、息子のように愛しているわ」
厳しい表情で、それでも涙を一筋流しながら呟いた。
「でも・・・、でも、貴方を愛しているわ。貴方だけを・・・誰よりも。・・・ジェイ」
涙を拭うように『ジェイ』は彼女の頬に手をあて、アイリーンの唇に口づけた。
すべてのものを遮るように。
太陽が真上で輝く時間に、カインとリザは街から少し離れた場所を訪ねていた。
車が爆破されたせいで移動手段をなくしてしまい、カインの怪我の具合も見てもらいたかったので2人はとりあえず馴染みの医者のいる診療所に向かった。
医者は昔からアイリーンを良く知る人物だった。カインもアイリーンと住んでいた頃、よく世話になった。
「やっぱりアバラやっていたか? ドクター・リース」
「やっぱり、じゃねぇよ。折れてなかったのが幸いと思え。それと・・・古傷が痛むことはあるか?」
「最近は特にない。それにあっちこっちにあるからどれが痛いのやら自分でもわからない。しかし、年喰ったなドクター。幾つだっけ? 今」
「ほっとけ。おまえと8つしか違わんだろうが。ま、30半ばは過ぎちまったがな。でも、懐かしいやつが飛び込んできて最初は驚いたぞ。あんな12かそこらのガキだったやつがこんなにでかくなりやがって」
「よくいうぜ。4年前に会っただろうが」
「そうだったか?」
あっけらかんと笑うリース医師に、カインは呆れているのか無言で背を向けてシャツを羽織った。久しく見ていなかった彼の背中にさらに傷が増えているのに気づき、リースは顔をしかめた。
「まだマトモな生き方ができないのか? あんまり心配させんじゃねぇよ」
「大きな世話だ。診察室で吸ってんじゃねぇよ。そんなことだからこの診療所は看護婦がいつかねぇんだよ。相変わらず女もいねぇんだろう」
「それこそデッカイ世話だ、クソガキ」
からかい口調のカインに、吸うか? といってリースは煙草を向けた。彼は黙って箱から一本引き抜き、差し出されたライターの火に近づけた。
2人同時に紫煙を吐く。
リースは椅子から立ち上がり窓を開けた。風らしい風があるわけじゃないが、さすがに開院前に診察室をヤニ臭くするわけにもいかない。
「リザはどうした?」
待合室に姿が見えない彼女の行方をリースはカインに訊ねた。
リザとリースは面識があった。カインが行き先を告げる前にリザがこの病院まで引っ張ってきたのだ。そのときはさすがにカインも驚いた。聞けば何度か寝込んだときに診てもらったという。
まさか、リザもこの男が“ただ”の医者ではないと思わないだろう。
「欲しい本があったから、向かいの本屋に買いに行ってもらってる。このざまじゃ今日は仕事にならないしな」
「・・・大丈夫なのか? あんな目に遭ったとこだってのに。でもよく無事だったよな。車は火達磨になって跡形もないそうだぞ」
「そうか。・・・ただの脅しだったみたいだしな、あれも」
あの後何も仕掛けてこない様子からして、監視はない。
「なんだって?」
「なんでもない。こっちの話だ」
カインの独り言が耳に届かなかったのか、リースは聞き返したが彼は首を横に振った。
「まぁ、黒焦げのアイリーンの車から足がつくようなこともあるまい。とりあえず1週間分の湿布と包帯出しておいてやるからな。悪化したらまた来い」
リースはカルテに走り書きで何か書き込み、カルテを片付けている棚に手をかけた。その棚を動かすと奥にもうひとつ棚が現れた。厳重に鍵がかけられているようで、リースがナンバーズ・ロックを外し、カインのカルテをしまい込んだ。
「自分だって相変わらずのようだな」
「なにが?」
「その裏カルテの山が証拠品」
「あぁ、これか。銃創患者にヤク中・・・なんでもありだ。ま、おまえたちのような人間がいる限り、俺のような人間もまた必要なのさ」
ドクター・リースは少し寂しげに笑った。
リースという名が本名かどうかは定かでない。医科大学を最年少で首席卒業した天才医師と言われたらしい。ところが何処で道を間違えたのか、現在では一般の病院には行けないような患者、つまりカインの同業者や警察の厄介になるわけにはいかない連中を相手に病院をやっているのだ。もちろん、普通の患者もいるが。
アイリーンとは古い知り合い、ということ以外カインは知らない。
「おや? お嬢さんが戻ってきたぞ」
リースの言葉を聞いてカインは慌てて服をきちんと着直した。咥え煙草も灰皿に揉み消す。
「ただいま。カイン大丈夫?」
息を弾ませながら息急ききってリザが診察室に駆け込んできた。表情は不安に満ちている。心配で走って戻ってきたのだろう。
健気だなぁ、とリースは思う。
どうしてこれほどまで意思表示されながら気づかないのか。
(それとも・・・気づかない振りなのか?)
「あぁ、大丈夫。あのヤブ医者が診てくれたからな」
「おまえなぁ・・・」
「おまえは大丈夫か? 気分が悪くなったりしなかったか?」
「うん、私は大丈夫よ。それより、本はこれでよかったの?」
互いを気遣い合うカインとリザのやりとりは、まるで恋人同士のような微笑ましい光景だった。
それを見ながら、リースは随分昔のことを思い出していた。
リースがカインに出会ったとき、正直これほどまでに彼の中に人間らしい部分があるとは思いもしなかった。
15年程前、カインたちが吹雪の中凍死しかけたところをアイリーンに助けられ、生活を共にするようになったのは彼らが12歳だった冬。ひとりが肺炎を起こしかけていると言われて往診に赴いたのが、カインたちと出会った最初だと思う。
その患者がカインだった。
真夜中延々と熱が続き、ひどくうなされていた。かなり危険な状態だった。
明け方になって熱が下がり始め、汗もかいていたのでリースがカインを着替えさせようとして寝巻きを脱がしたとき、彼は絶句した。
弱冠12歳の子供の身体に無数の傷跡が刻まれていた。
10年ほど経過している古い傷もあった。
アイリーンに聞いても彼女は何も知らなかった。他の子供たちには見た目に酷い外傷の跡はなかった。
カインだけが、何らかの暴力に晒されていたのだ。
「俺も若かったからな・・・」
たとえ天才医師と誉めそやされていても人間的にはまだ20歳の若造。しかも若さ故、自分には人を救う力が備わっていると思い込む自信過剰なところがあった。
だから、少年を救ってやりたいと思った。精神的に、肉体的に。
しかし、症状が安定し起き上がれるようになってもカインはリースに心を開こうとはしなかった。カインだけじゃない、ライ、セシル、アイラもリースの傍には近寄ろうとせず、カインの傍らに居続けた。
彼らはひどい虐待を受けてきたに違いない。
カインたちの態度はリースの思い込みを強くさせていた。それが彼の過ちだった。
無理にカウンセリングしようとしたリースにカインは牙を剥いた。
まるで機械か何かのように、感情の変化も見せずにリースを殺そうとした。
リースは敵と見なされたのだ。
その場は何とか他の3人がカインを押さえてくれて収まったが、最終的に彼らが自分に懐いてくれるようになるまで1年はかかったことを覚えている。
それが今ではどうだ、こんなにも優しく微笑んでいるじゃないか。
カインのリザに向ける穏やかな表情に、リースは眼を細めた。
「じゃ、俺たちは帰るよ。悪かったな、開ける前から」
「気にするな。病院がヒマなのは平和な証拠さ」
湿布と包帯の入った袋を受付の窓口から取り出し、リースはリザに持たせた。
「若い娘が男の裸なぞ見ちゃいかんぞ。カイン、自分でやれよ」
「当たり前だ。そんな手間をわざわざかけさせないよ」
「私は平気だけど・・・」
「・・・俺が困るんだ」
2人のやり取りを見てリースは思わず噴き出してしまった。カインに睨まれて慌ててやめる。
「だ、そうだ。これでもカインは一応男だからな」
「一応は余計だ」
リースのからかいにカインは思わず赤面した。リザも思わず頬を赤らめる。
「じゃあな、お大事に。アイリーンによろしく」
「あぁ」
先程呼んだタクシーに乗り込んだ2人を、リースは手を振って見送った。
見送りながら、リースはまた昔を思い出していた。
自分の未熟さを痛感したのもカインに殺されかけたときだった。
表面でしか世間を見ていなかった自分。そのとき初めてカインのような人間もいるのだと知った。
それからリースは変わった。
揺るぎない医師としての正義感は、何らかの事情で正規の病院に赴くことの出来ない患者に向けられた。
社会福祉が他国より充実しているこの国でそのような状況に陥っている人間は、法を犯す、所謂“犯罪者”に位置する者たちだった。
初めの頃こそそんな人間は殆ど寄り付かなかったため、近所の住民を相手にするしかなかったが、次第に彼らの人数は増えていった。
そんな頃だった。アイリーンが訪ねてきたのは。
『貴方だけは私とは違う人間に育ってくれたものだと思っていたのに。皮肉なものね。私たち揃いも揃って世間の裏側の住人になってしまったわ。死んだ両親にも申し訳がたたないわね』
少し淋しそうにそう言ったのを今でも覚えている。リースはそのときの彼女の横顔を鮮明に思い出すことが出来た。
『でも、それは貴女のせいじゃない。俺は自ら選んで医学の道に進み、彼らのような人間を助けることも大切だと悟った。そりゃ、最初は半ば強制されたけどね。今ではこれで良かったと思っている』
15歳で大学に進み、18歳の若さで医師になったリースはキッパリと言い切った。その言葉にアイリーンは少し驚いた表情で『そう』と答えた。
『納得しているならいいのよ。・・・男の子は強いわね』
「・・・でも、貴女は後悔ばかりだ。母さんに似てきたね、姉さん」
リースはアイリーンのことを誰よりも理解していた。
とうの昔に死んだ両親が犯した罪。それを背負わされた姉。にもかかわらず、彼女は今確実に母と同じ過ちを繰り返そうとしていた。
歯車は回り始めている。
リースにはどうしようもなかった。アイリーンに関しては如何なる場合であっても関わってはならない。彼女はその条件を呑み、弟を軍の施設から解放させたのだ。リースの承諾も無しに。
「どうか、せめてあの2人を裏切らないで・・・姉さん」
既に遅いとわかっている。でも、もうこれ以上は、とリースは祈った。苛酷な宿命に翻弄され続けるカインとリザにとって唯一の拠り所であるはずの姉。彼女に背を向けられたとき、彼らはどれほど哀しい想いをするだろうか。
「先生? こんなところで何やってるんですか」
背後から突然声をかけられ、リースの思考は現実に引き戻された。
振り返ったそこには良く見知った顔があった。
カインより少し若い青年がよく使い込まれた鞄を手に立っている。
「もう診療の時間過ぎてますよ? 何やってるんですか」
「ん? いや、ちょっと客を見送っててな。それより随分出勤が遅いじゃないか。生真面目な看護師君が珍しい」
彼はここ半年ほど診療所に勤務している看護師で、アブナイ患者も多い場所で文句も言わずに働く今時にしては珍しい好青年だった。
「すみません。妹を学校に送っていったら途中で渋滞に巻き込まれてしまって・・・」
「構わんさ。どうせこんな朝っぱらから来る患者なぞいない」
「何言ってるんですか。もうお昼前ですよ」
リースの顔はもういつもの『Dr.リース』に戻っていた。今の彼はもうアイリーン=フリーマンの実弟・エドワード=リース=フリーマンではない。
誰もが知っている『Dr.リース』以外の何者でもなかった。
「家の前で車が停まったわ。帰ってきたのかしら」
微かに聞こえたエンジン音にアイリーンは顔を上げた。彼女は昼食の準備をしている最中だった。
隣室のリビングでは、先程までベッドを共にしていた男が悠長に新聞を広げている。
点けられたテレビには昼の再放送ドラマが流れていた。
彼はアイリーンの言葉に少し顔を上げたがすぐに視線を戻してしまった。
彼女は構わずに玄関の扉を開けに出た。
「あ、アイリーン」
最初に視界に入ったのは扉の向こうで立っていたリザ。そして、彼女に支えられるようにして立つカインだった。
「おかえり。随分早かったわね。・・・何? どうしたの!?」
「詳しい話は後々。カイン、早く座ったほうがいいわ」
甲斐甲斐しく世話をしようと、上着を脱がせたりするリザにカインは黙って従う。2人のやり取りに目を白黒させるアイリーンにリザはカインを任せ、先に部屋に入っていった。怪我人を休ませる準備のためだろう。
「・・・本当に何があったの?」
「大した事じゃないさ。リザはショックで大袈裟に思っているだけだ。ただの軽い打撲なのに・・・」
「ショック? 打撲? 何があったの!?」
「ニュース見ていないのか? Dr.リースは知ってたけど」
「リースのところに行った・・・の?」
「ジェイ!!」
アイリーンの言葉は突然のリザの叫び声に掻き消されてしまった。
「ジェイ・・・?」
リザの後からリビングに向かったカインは隣のアイリーンを見た。「誰だ?」という視線の問いかけにアイリーンは眼を逸らした。
明らかに動揺している。
「どうしたの? まだ7月なのに」
驚きと喜びの入り混じった声で訊ねるリザ。カインはリビングに入って初めて室内にいる男の姿を見た。
背の高い白人の男。
カインは振り返ってアイリーンを見た。
「彼は・・・」
「Nice to meet you, Mr. Candlelight. 」
アイリーンの説明を遮るように、男は口を開き右手を差し出した。
「ジェイソン=シェーンコップです。よろしく」
「・・・ノエル=キャンドルライトです。米国ですか、ご出身は」
彼の右手を握り返してカインはそう尋ねた。
「よくおわかりになりましたね」
「発音で」
「Excellent! 私はアメリカ大使館駐在員です。貴方の噂はお聞きしていますよ」
そう言ってシェーンコップは傍らに立つリザの肩に手を回した。
「それはどうも」
「ジェイはね、1年に1回、12月のクリスマス休暇前にうちに来るのよ」
「そんな忙しい時期に?」
「断っておくが遊びに来ているわけじゃないよ、リザ。」
シェーンコップはリザに笑って訂正をする。
「その時期は仕事でこの近くまで来るものでね。でも、しばらくはこの街で仕事をするからちょくちょく来るよ」
「本当!?」
シェーンコップの言葉にリザは無邪気に喜んだ。それとは反対にアイリーンは驚いたように顔を上げた。蒼白な顔をして。
「・・・ノエル、少し休んだら? ソファにでも座って・・・。すぐ昼食にするから・・・」
「そうよ! 早く座って」
リザは思い出したようにカインの腕を引っ張り、無理矢理ソファに押し込んだ。
「じっとしててね。良い? 動いちゃダメだからね!!」
まるで母親が子供にでも言い聞かせるかのように、リザはバタバタと足音をたてて2階に駆け上がっていった。
シェーンコップが声を殺して笑う。
「相変わらず元気な娘だ。振り回されているようだね?」
「いい加減馴れましたがね。まぁ、3年も顔を見せなかったから無理もないけど」
カインはジャケットの内ポケットから煙草の箱を取り出しシェーンコップに差し出した。彼は「No thank you.」と言って右手で煙草の箱を制した。
「国じゃ今は禁煙ブームでね。吸うとすぐに非難されるんだ。私のことは気にせずに」
「じゃあ」と断ってから、カインは煙草を咥え火を点けた。
点けっぱなしのテレビから、あの『車炎上』事件が報じられていた。カインは無言のまま腰を上げ、灰皿を取りにキッチンへ向かった。
「アイリーン」
忙しく手を動かす彼女にカインは声をかけた。が、アイリーンは顔を上げない。
「アイリーン」
今度は少し強い語調で呼んだ。すると、彼女はおもむろに顔を上げた。
「・・・何?」
「ドクター、元気そうだったよ。相変わらず看護婦の姿は見えなかったけど」
「今は若い看護師がいるわ。たまたまいなかったんじゃない?」
「そうか・・・。で、シェーンコップとはどういう関係?」
ガチャンッ! と思わずアイリーンは手にしていたボウルを流し台に落とした。呆気にとられたように彼女はカインを見る。
カインは手近にあった灰皿に灰を落とし、再び吸う。
「・・・恋人?」
「カインには関係ないわ」
「関係? あるに決まってるだろう」
彼にしては余りにも小さい声をアイリーンは聞き取ることが出来なかった。「何?」と聞き返す。
「関係あるさ。俺・・・俺は」
「カイン」
アイリーンは少し淋しげに彼の名を呼んだ。まっすぐに見つめてくる彼女の瞳に、カインは思わず眼を逸らした。
どんな顔をしていいのか自分でもわからなかった。
こんなことを言うつもりではなかった。
遠い昔の憧れは恋と呼ぶには余りにも幼すぎた。
自分の中に、まだこんな想いが残っていたなんて。
「悪い・・・。こんなこと言うつもりじゃ」
「・・・ありがとう」
アイリーンはカインの思わぬ言葉に優しく微笑んだ。
そうだった。この笑みに自分は惹かれていたのだと、カインは改めて気づいた。
「でもね、カイン。貴方は私にとっては弟であり、息子のようなもの・・・。それ以上でもそれ以下でもないわ」
カインは「ごめん」と再び小さな声で謝った。
「もうひとつ、これだけ聞かせてくれないか?」
「何?」
「あのシェーンコップとかいう男、本当に“ただ”の駐在員なのか?」
「・・・そうよ。それがどうかした?」
「いや、なんでもないよ。・・・勝ち目ないなぁと思って。あの男に俺が勝てる要素といったら若さぐらいだしな」
おそらく40は過ぎていると思われる男をカインは少し振り返って見た。
リザと楽しげに会話する男、ジェイソン=シェーンコップは年齢よりもやはり若く見える。栗色の髪に緑の瞳がよく似合う、端正で彫りの深い顔立ちに理知的な笑みが刻まれている。
まるで大人と子供の差だとカインは思った。
「バカな子ね。そんなの勝ち負けの問題じゃないわ。さ、遅くなっちゃったわ。お昼にしましょう」
シェーンコップとリザを呼びにアイリーンはキッチンを出た。
テーブルの上にはパスタやサラダといったアイリーンの得意料理が並んでいる。
カインは冷蔵庫の扉を開け、中からミネラル・ウォーターの瓶を2本取り出し、グラスを用意した。
アイリーンとジェイソン=シェーンコップの2人に対する想いは、ただの子供の嫉妬に過ぎない。
幼いとき、『あの男』を見ていたときと同じように。
もう、終わらせなければならない。この想いを抱き続けることは。
カインは椅子に深く腰を掛け、天井を仰いだ。
「何故アイリーンに惹かれるのか、わかっているくせに・・・」
理由は自分でも分かっている。ただ気づかない振りをしていただけ。
その“振り”すら、もう疲れてしまっている自分にカインは気づいていた。
食事も終わり、食後のコーヒーで寛いでいたところに携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。
シェーンコップの物らしく、彼はコート掛けに掛けられている上着の懐から携帯電話を取り出した。しばらく英語で会話をした後、電話を戻し上着を羽織った。
「すまないが急の呼び出しだ。私はこれで帰るよ。リザ、また今度な。・・・お大事に、ミスター」
そう言って出て行くシェーンコップをアイリーンとリザが見送りに玄関まで出た。
カインはリビングの窓から外を窺った。
短い階段を下りた先に黒のBMWが停車している。その脇には運転手らしき男がシェーンコップを待っていた。
彼が近付くと運転手は後部座席の扉を開けた。
シェーンコップが乗り込んだのを確認してから運転手はアイリーンたちに向かって軽く会釈をし、自分も運転席に乗り込むと滑るような動きで車は走り去った。
「どうしたの? リザ」
神妙な面持ちでリビングに戻ってきたリザにアイリーンが背後から声を掛けた。
彼女は「おかしいなぁ」と何度も呟いている。
「どうした?」
不思議に思いカインも尋ねた。
「ジェイって、来たときもあのBMWに乗ってきたの?」
「そうよ。普段は・・・プライベートでも殆ど自分で運転しない人だから」
「・・・おかしいなぁ、絶対ジェイの車だと思ったのに・・・。運転しないのは前に聞いたから知ってるけど。ほら、今朝言ったでしょう?」
「家の前に停まっていたとかいうあれか?」
リザは確かにそう言っていた。車で街に向かっていたときだ。
「どんな車だったの?」
「車にあんまり詳しくないけど・・・色はメタリック・シルバーでベンツのマークがあったわ」
「シルバーのベンツ・・・!?」
その言葉にカインは絶句した。
「見なかった?」と尚も尋ねるリザにアイリーンは首を横に振るばかりだった。
だが、カインには覚えがあった。
メタリック・シルバーのベンツ。
アンリ=クレイマ―を暗殺したホテルの駐車場で一瞬だけ見かけた同じ車種、同じ色の車。まるでこちらを監視しているかのように存在したあの車。
「偶然だ」
そんな車など、ヨーロッパではどこででも見られる。ましてやベンツなんてありふれた車種だ。
それでもカインの不安は拭えなかった。
哀しいことにこの不安は的中する。
最悪の形となって。