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悪魔の御子  作者: 奏響
第2話 少女は白夜に悪夢を見るか
16/71

悲劇の開幕ベル(上)

 空港の外に出たカインは両腕を空に向かって大きく突き出した。

「う~ん、疲れた。長距離移動はさすがにキツイ」

 紀行作家という肩書きの持ち主なのだから仕事柄飛行機を利用しないときはないにもかかわらず、カインはイマイチ苦手だった。別に金属の塊が空を飛ぶことに違和感や恐怖感を持っているわけではない。高所恐怖症というわけでもない。ただ今日は2度も飛行機に乗っているから、疲れることは仕方がないかもしれない。

 しかし、年寄りくさい。

 欠伸まじりにカインはあたりを見回した。

 到着時刻は伝えてあるからもう迎えが来ていてもいいはずだった。しかし、それらしい姿はどこにもない。

「・・・道でも混んでいるのかな」

 カインはサングラス越しの世界をぼぉと眺めていた。

 よくある田舎町の空港の風景。

 高いビルはこれっぽちも見当たらない、そんな平凡な、昔とちっとも変わらない景色だった。

 なんとなく手持ち無沙汰から煙草に火をつけた。

 ふぅ、と紫煙を吐く。

 何度目かに白い輪が目の前を漂った。なんでもないことなのだが、ちょっと嬉しい。

 アイラが見たら一言「ガキ」で済んでしまいそうな光景だ。

 そんな中身とは裏腹な外見のせいでとても目立っているということには、まったく気づいていないカインだった。

 遠巻きにカインを眺める女性たちの中から、ひとつの足音が近づいてきた。

 しばらくぶりにカインは視線を動かした。最初に目に入ったものは、サングラス越しに見える口紅のルージュの色。

「相変わらず探しやすい子ね」

「・・・遅い。何やってたんだよ」

「出る直前になって車がトラブル起こしたのよ。これでも急いだほうなんだから」

 薄いブルーのサマーニットに身を包んだ金髪の女性は、小さな子供の顔でも覗くかのようににっこりと微笑んだ。

 カインは真横に置かれていたスーツ・ケースを持ち、女性の後に続いた。

「その車、大丈夫なんだろうな。アイリーン」

「失礼ね。ママを信じなさい、ボーヤ」

 おかしそうにくすくすと声を立てて笑うアイリーンにカインは子供のように口を尖らせた。

「相も変わらず子ども扱い? 俺もう28歳だぜ」

「幾つになっても子供は子供よ、私にとってはね。あんたたちは自慢の子供なんだから、誇りに思いなさいよ」

 さぁ、入れて、と、アイリーンはトランクにスーツ・ケースを入れるようカインに指示し、助手席のドアを開けた。カインは言われるままに行動し助手席に乗り込んだ。

「車買い替えたんだ」

「まぁね。でも前の車も置いてあるわ。これは予備ってとこかしら」

「壊すから?」

「うるさいわね~。それより、お疲れのところ悪いけれど寄り道させてもらうからね」

「寄り道?」

「そうよ。今夜のディナーのために、ね」

 アクセルをめいいっぱい踏み込んだ途端、車は猛烈なスピードで走り始めた。

「ちょ、ちょっと、アイリーン! スピード出過ぎ・・・!!」

 カインの訴えも、もはや彼女の耳には素通りするばかりだった。アイリーンは昔からハンドルを持つと性格が変わる上に、スピード狂だった。

 どうやらアイリーンも相変わらずらしい。

 カインは全開の窓に頬杖をつき、もう片方の手で乱れまくる銀色の髪を押さえつけた。


 白夜のノルウェーは夕方近くになっても真昼の明るさだった。

「まったく・・・、こんなに買う必要があるのか?」

「う~ん、予定より買い込んだことは間違いなさそうね」

「アイリーン・・・」

 カインはがっくりと肩を落とした。女という生き物はどうしてこう買い物が好きなのか・・・。1ヵ月ほど前に感じたことをカインは再び思い返していた。

 スーツ・ケースはとりあえず後にして、今は両手いっぱいの買い物袋を中に置くことにし、アイリーンはインターホンを押した。

 しばらくして、バタバタという小さな子供の足音にも似た音が近づいてきた。

 ドアがカインの前で勢いよく開かれた。

「あ、アイリーン・・・」

 中から出てきたのは少女だった。面白いからとアイリーンの指示でドアの影に隠れていたカインの位置からではその表情は確認できない。

「ただいま、リザ。ちゃんと女の子らしい歩き方をしなさいと言っているでしょう?」

「だって、急いでいたから・・・」

 少女の言葉は語尾のほうが聞き取れぬほど小さかった。その代わり、見る見るうちに頬が紅潮する。

 アイリーンは肩を竦めた。

「心配しなくても、ちゃんといるわよ」

 その言葉と同時に、カインは扉の影から顔を出した。少女の瞳が見る見るうちに丸くなる。

「カイン?」

「久しぶり、リザ。大きくなっ・・・おわっ!」

 カインが優しい声で話し掛けた途端、リザは彼の身体に抱きついた。

 その拍子でカインは持っていた紙袋を思わず落としかけた。中にはさっき買ったばかりのシャンパンが入っていたから危ないところだった。

 内心胸を撫で下ろしつつも、カインは自分の肩のところにある黄金色の髪に優しくキスをした。

「リザ」 

「カイン、カイン・・・」

 リザはひたすら彼の名を繰り返すばかりだった。カインは思わず噴き出した。

「リザ、できれば俺が手ぶらのときに抱きついてほしいんだけど。これじゃ抱き締められない」


「カインが来るって聞いてから、ずっと待ってたのよね? リザは」

 アイリーンは持っていたティー・カップをソーサーに戻し、くすりと笑った。「へぇ~」と、声を出しながらカインもニヤニヤしてリザの顔を見る。

「もぅ~、そんなに2人してみないでよー!」

「3年振りなんだ。じっくり見せてくれないのかい?」

 リザの隣に座り直しカインは彼女の肩に腕を回した。

「見たって変わんないもん」

「変わったよ? すごく綺麗になった。昔から可愛かったけど、それ以上に美人になったよ」

「・・・」

 リザは何も言えずにただカインの眼を見つめ返すだけだった。真っ赤になって。

「・・・くっ、くははは。リザ、可愛いよ。本当に」

「もぉ~! からかったのねぇ!!」

「あ、はははは。い、痛い。やめろって、リザ。マジで痛いって」

 笑いながらカインは大人しくリザにぽこすかと叩かれている。仲睦まじいスキンシップだとアイリーンは微笑ましく思った。

「その辺で勘弁してあげなさいよ」

「そうだ。勘弁してくれよ」

「あんたも悪いのよ。からかったりするから」

「だってなぁ」

「それに3年も来なかったんだから」

 カインの言い訳を制してアイリーンはにんまりと口許を吊り上げた。

「それは言わないお約束・・・」

「そうよ! 電話でしか声が聞けなかったんだもの。・・・ずっと、つまらなかったんだから」

 この3年程を思い出したのか、リザは心底寂しそうな表情をカインに向けた。少し照れた様子でカインはリザに微笑んだ。

 4年前までは確かにカインはノルウェーに来ていた。特にクリスマス休暇を利用して。

 クリスマスはカインにとって特別だった。

「今年のクリスマスは来るよ、必ず」

「本当!?」

「あぁ、リザ、おまえの誕生日だからね」

 カインの右手がそっとリザの頬に触れた。彼の温もりを確かめるかのように、リザは瞼を閉じ自分の手を添えた。

 そんな2人のやり取りをアイリーンは目を細めて見守っていた。

「そのときはライたちも連れていらっしゃい、カイン」

「あぁ、そうだな。リザはまだ会ったことがなかったな」

「カインに電話したらよく出る人でしょ?」

 見たことのないライを想像しながらリザはカインに訊ねた。ライの声の印象は甘い響きのある優しそうな感じだった。

 カインは頷きながら「ライも、他の連中もリザにとても会いたがっていたよ」と言い、時計を見た。午後4時はすでに過ぎている。

「あら、やだ。もうこんな時間なのね。夕食の準備をしなきゃ。リザ手伝ってね」

「もちろんよ、アイリーン」

「カインは・・・どっかでなんかしててちょうだい」

 要は邪魔だから部屋にでもいろ、と言う意味である。カインは大人しく従ってリビングから2階の客間へ移動することにした。ちょうど原稿の準備もしなきゃならないところだ。

「オーケイ、淑女方。それでは夕食に期待していますよ」

 腰を上げ、カインは廊下に出た。後ろ手に閉めた扉の向こうからアイリーンとリザの会話が聞こえてくる。

「さてっと、今日は豪華よ~。なにせカインの誕生日だからね」

「カイン喜んでくれるかなぁ」

「もちろんよ。さ、急ぎましょ」

 その後はキッチンに移動したからか、会話はほとんど聞こえてこなかった。時々ソプラノの笑い声が聞こえてくるのみだ。

 2階への階段を上り、客間にある電話に手を伸ばし、カインはメモ帳を開きながら番号を押した。しばらく呼び出しベルが聞こえた後、女性が応対に出た。

『アロー? リュミエール社ボワジュール編集部です。』

 リュミエール社とはフランスでも大手出版社であり、さまざまな雑誌を発行していた。またボワジュール編集部はリュミエール社の中でも最も力が入れられている紀行雑誌を作っている部署なのである。カインはこれでも雑誌『ボワジュール』の看板紀行作家でもあった。

「その声はセリーヌ?」

 聞き覚えのある声の主に向かってカインは訊ねた。相手もわかったらしく『ウィ』と返事が返ってくる。

『あら、ムシュウ・キャンドルライト。ノルウェーからですか?』

「あぁ、そうなんだ。俺の敏腕編集君いる?」

『えぇ、今し方帰ってきたところです。ちょっとお待ちになってくださいね』

 保留音に切り替わりしばし待つ。しばらくしてこれまた元気な張り切りボーイの声が耳に突き刺さった。

「待ってましたよ!! 着いたらすぐに連絡ください! 心配するじゃないですかっ!!」

「・・・ミカエル君。いつも言うようで恐縮だが、もう少しボリュームを落として喋ってはくれないか?」

『は? あ、ハイすみません。で? そっちはどうです? 涼しいですか?』

「パリに比べればな。まだ動くのはこれからなんでね、なんともいえないよ。何かあったら俺のアパルトマンのほうに電話してくれ。同居人がいるはずだから」

『わかりました。じゃあ、またきちんと定時連絡を入れてくださいよ。すぐ忘れるから、ノエルさんは』

「わかった、わかった。それじゃあな、ミカエル君」

 カインは電話を切り、何気なくアイボリーの壁に視線を移した。

 瞬間、それまで穏やかだったカインの瞳が冷たい光を帯びる。

 目の前の壁には大きな爪で抉ったかのような深い傷が刻まれていた。

(まだ、あったのか・・・)

 その傷をカインは知っていた。

 それはかつて、自分が刻んだ狂気の証だったから。


 夕食は7時ちょうどに始まった。

 気の利いたシャンパンとワイン。暖かい具だくさんのスープに香辛料を利かせた肉料理。新鮮な野菜。そしてノルウェーの名物でもある活きの良い魚は3人の食欲を大いに満たしてくれた。

 カインは酒を好むほうであったが、それほど強くもない。今日は身体も疲れているためか、シャンパンとワインを一杯ずつ飲むことにした。リザももっぱらジュースを飲んでおり、酒は最初にシャンパンを少し口にしただけだった。

「よく飲むな、アイリーン」

 夕食後、はしゃぎ過ぎたのか、しばらくして眠ってしまったリザをカインが抱き上げ、彼女の寝室に運んだ直後の台詞だった。

 食事のときにも散々飲んでいたアイリーンはまだ酒を飲んでいた。しかもリビングにある、小さなバー・カウンターで。

 アイリーンの左手には少し白っぽい液体の入ったカクテルグラスがあった。

「マルガリータ?」

「そうよ。何? しばらく来ないうちに詳しくなったじゃない? 見ただけで当てるなんて成長したわね」

「飲むのが好きな連中と一緒だからな」

 アイリーンの隣に腰をかけたカインは手近にあった瓶を弄び始めた。いっぱしのバーの如く、ここにはさまざまな種類の酒が陳列している。ユーシスあたりが見たらどんなに喜ぶことか。

「何か作る?」

「うーん。・・・それじゃあ、軽いのを」

 彼女は頷き、慣れた手つきでカクテルを作り始めた。が、特にシェーカーを振るのではなく、無色透明なアルコールと黒すぐりのリキュールを、氷の入ったタンブラーに注ぎ、冷蔵庫から取り出した冷たいソーダで満たす。

「どうぞ」

 香りの良い赤い飲み物がカインの前に出された。「カシス・・・? 名前は?」と聞く。

「“Ruby Eyes”」

 幼い少女のように笑いながらアイリーンはカインの瞳を見て答えた。

 カインは肩を竦め、微かに口許で笑った。

「相変わらず俺を苛めるわけだ。アイリーンは」

「あら、苛めてなんかいないわよ。私は好きよ、この眼が」

 アイリーンの指がそっとカインの頬に触れた。

「この眼は他人を魅入るわ。全てが貴方に跪く。貴方の持つ力に・・・才能に。貴方の魅力に。それを誇りなさい」

「酔っているのか?」

 カクテルを一口飲み、カインはアイリーンを睨みつけた。その瞳には普段は隠されている光が宿っている。

「この瞳がある限り、俺は普通になんかなれない。このせいでどれだけのものを失ったか、アイリーンは知っているはずだろう?」

「それでも貴方が羨ましい。他人を惹きつける力を持つ貴方が」

「アイリーン?」

 いつもと様子の違うアイリーンにカインは多少の不安を覚えた。そんな彼の様子に気づいたのか、アイリーンは急に声をたてて笑い出した。

「あははは、ごめんごめん。やっぱり私酔ってるみたい。ごめんねぇ、変なこと言って。忘れて今の。ね。本当、年を取るのって嫌ねぇ」

「言うほどじゃないだろう」

「あたしアンタより10年長く生きてるのよ。リザなんか親子みたいな年の差だもの。ご近所さんは私達のこと、本当の親子だと思ってるみたいよ?」

「・・・でも、アイリーンに託して正解だった」

 何処か遠くでも見るような目でカインは呟いた。

「何が?」

「リザだよ。元気で何よりだ」

「そうね、元気だわ。元気ついでにハイ・スクールまで飛び級卒業しちゃうし」

「それは聞いて驚いたよ。・・・何かと障害がありはしないか心配していたんだ」

「昔のことはあまり覚えていないみたいよ。そういう意味であの娘は強いわ。過去を引き摺らない。見習ったら?」

「見習えたらどれだけ楽か」

 カインは自嘲気味に微笑んだ。

 リザが昔を覚えていないことは至極当然のことだった。カイン自身でさえ、思い出すにはあまりにも酷で苦すぎる出来事だ。

 ある人物の依頼によってカインはリザと出逢った。しかしその出会いこそが、少女の運命の歯車を狂わせてしまったことをカインは知っていた。

 自分のせいで少女は愛する者を失った。自分があんな依頼を受けなければ何も起きなかったかもしれない。自分こそが、彼女に悲劇をもたらした悪魔に相違ないのだ。

 だからこそ、リザには自分の出来ること全てを捧げたい。

 カインにできる唯一の罪滅ぼしだった。

「それは違うわ、カイン」

「違わないんだよ・・・違わないんだ。あの時、俺が自分自身を見失ってさえいなければ・・・!」

 カインはグラスに残っていた中身を呷るとカウンターに突っ伏した。

「Jeg er trist...」

 たった一言を残して、カインは寝息をたて始めた。アイリーンは別室からもってきた毛布をカインにかけてやる。

 そのとき初めてアイリーンはカインの背中の広さに気がついた。

 数年程前までは特に気にならなかった背中。それが今、目の前にあるのはどうだろうか。

 アイリーンにとってカインはずっと幼い少年のままだった。

 初めて出会ったとき、笑顔を忘れ疲れきった大人のそれにも似た表情の少年。それでも共に過ごすうちに愛らしい天使にも思えた。

 小さく脆弱な少年。翼を手折られ、地に貶められた天使。

「リザには、きっと誰よりも頼れる背中なんでしょうね」

 少年はいつの間にか大人になっていた。自分の知らないうちに。

 完璧なコピーから、挫折だらけの大人へ。

 泣き喚くだけの天使から、血の涙を流す悪魔へ。そして、“悪魔の御子”と呼ばれる男になった。

 彼の邪眼はその証。多くの生き血を啜り続けた一族の証。

 それ故過去の罪悪の全てを負い続ける背中。

「でもね、リザのことももっときちんと見て。あの娘の想いに気づいて頂戴。時間はそれほど待ってはくれないものよ、カイン」

 アイリーンはカインの頬にそっと唇で触れた。

 出逢ったあの日から15年。彼はいつも自分を慕い続けてきた。でも、彼は自分の本当の姿を知らない。過去を知らない。リザを預かった理由も知らない。知ってもなお、自分に預けたことを「よかった」などといえるのだろうか。

 もう一度、アイリーンはカインの頬にキスをした。

 最後のキスだった。


 陽の落ちない白夜の国の朝は早い。

 澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、カインは大きく伸びをした。

 排気ガスと二酸化炭素にまみれた、住み慣れた街とは違いなんと気持ちの良いことだろうか。そう思わずにはいられなかった。

「どうしたの? カイン」

 我知らず破顔しているカインにリザは覗くようにして訊ねた。嬉しそうにカインは微笑む。

「ここの空気が、俺の知っている中で一番美味いと思ってさ」

「なら、ずっとここにいればいいのに・・・」

 頬を朱色に染め視線のやり場に困りながら、リザは少し気弱に訴えた。カインは少し驚いたが、優しくリザの肩を抱いてやった。

 リザの祈りにも似た願いに、カインは答えを出さなかった。

 出せなかった。

 いたくてもいることは出来ない。

 ここはカインにとって地獄にも等しい地。

 なのに、何故こんなにも愛してやまないのか。自分にもわからなかった。

「カイン?」

 リザは心配そうな声を出してカインを仰ぎ見た。彼の表情は言い表すことができない複雑なものだった。

「カイン」

 少女はもう一度、先程よりもはっきりと彼の名を呼んだ。

 ようやくその声に気づき、カインはリザを見た。

「・・・何?」

「もう時間だよ」

 リザは愛らしい微笑をカインに向けた。金髪碧眼の天使の笑みを。

「あぁ」

 カインはようやく車のボンネットから腰を上げた。視線の先にはちょうどアイリーンが見送りに立っていた。

「じゃあ、リザと車。どっちも借りていくわ」

「どっちも傷つけずに返しなさいよ」

 アイリーンの台詞にカインは思わずこけそうになった。

 どういう意味だ。

「失礼な! 変なこというなよ、アイリーン!!」

「あら、本当のことでしょう? 結婚前の娘に傷でもつけられたらたまんないわよ」

 彼女の言動はまさしく母親のそれであった。

「第一アンタって子は昔っから危なっかしいからね。気をつけてよ」

 そう言われてしまっては二の句が次げる訳がない。

 彼女の言うことはよくわかっていた。カインのことをよく知っているからこそ、アイリーンは心配して言ってくれているのだ。口は悪いが。

「大丈夫。リザを連れてそんな馬鹿な真似はしないさ」

 おどけるようにカインは肩を竦めて見せた。

 先に助手席に乗り込んでいたリザが、早く! と叫ぶ。

「わかった。わかった。さぁ行こう」

 半ば笑いながらカインは謝った。そういえば、昨日からリザといるときはほとんど笑っているような気がした。これは、良いことなのだろうか。

 カインの笑顔にリザは満足げに頷いた。

「行ってきまーす!」

 オープン・カーから身を乗り出して手を振るリザに、「危ないわよ!」と注意しながらもアイリーンは笑って手を振り返した。

 車が角を曲がり、見えなくなるとアイリーンは手を下ろした。

 その表情にはどこか哀しげな翳りがあった。

「ごめん、カイン」

 彼女はほとんど声にならない声で呟いた。

 その彼女の背後に、いつのまにかひとりの男が立っていた。長身の白人だ。

「あの男が来ていたとはな」

 男の言葉に弾かれたかのようにアイリーンは振り返った。

「ジェイ・・・?」

 掠れた声でアイリーンは男に向かってそう言った。ひどく驚いた表情で。

「な、何故・・・ここに・・・?」

「時が来た。“あれ”を手に入れる日が来たんだ。もちろん手伝ってくれるな、アイリーン。君が必要なんだ」

「・・・半年振りよね? 年に一回。12月にしか来ないはずの貴方が何を」

 アイリーンは男から視線を外した。自分でも明らかに動揺していることがわかる。

「“あれ”の確認のためだ。それが私の仕事だから。でも、それは表向きだ。本当は君に会いたいがため」

「調子の良い事を・・・」

「アイリーン?」

「あの子達が6年前にどんな思いをしたか知っているの!? あんな・・・あんな酷い目に遭って、これ以上・・・」

「奴に会って迷いが出たか?」

「なっ!?」

 男に見透かされたような気がして、アイリーンは青くなった。

 カインに再会して、アイリーンの心は確かに動揺した。ずっと自分みたいな人間を慕い続けるカインの存在がよりアイリーンを苦しめていた。彼の思う人間でありたい。なのに、現実は違う。彼を裏切り続けている。出逢った時から、ずっと。

「・・・・私がここで『嫌』と言ったら・・・?」

 引き攣るような、自嘲の笑みを浮かべてアイリーンは男に問う。

 だが、男はその質問に動じる様子もなく、ただ口許を吊り上げるだけだった。

 アイリーンは男に背を向けた。

 震える自分の身体を押さえつけようと両腕で己を抱きしめた。涙が溢れそうになるのを必死にこらえて。

「君は言えない。君は私を裏切れない」

 自信に満ちた声で男ははっきりと言い切った。

 男は背後から彼女を抱き締め、耳元で甘く囁いた。

 彼の囁く言葉に、アイリーンの中に存在していた“何か”が音をたてて壊れ始めた。

 確実に。粉々に。

 彼は繰り返し囁いた。彼女の心が誰の許へも向かないように、楔を打ち込むように。

「君を、愛している」


 「ねぇ、家の前に車が停まっていなかった?」

 オープン・カー故に直接風にさらされてしまうため、リザは髪を手で抑えていた。どちらかと言うと田舎なため道が広いからか、カインは調子に乗ってスピードを出しまくっている。他人のことは言えない男である。さらに風が強くなる。

「車? 客が来るとは聞いてないな。近所の人間なんじゃないのか?」

「う~ん、でも家の周り、隣に行くにも50mくらい離れてるのよ? 置くなら他に空き地もたくさんあるし。・・・ねぇ、こんなにスピード出したら警察に捕まっちゃうよ」

「こんな田舎で捕まるかよ。もう街が見えてきた。案内頼んだぞ」

「まっかせておいて! とっておきの場所、教えてあげる」

 年相応の顔で笑うリザにカインは微笑んだ。

 少女の笑みに嘘はない。偽りもない。一点の曇りさえ。

 この笑顔を守りたいと切に思う。あの時のような涙は、もう見たくない。

 心の底からこの笑顔を愛してやまないのだ。

『・・・気づいて・・・』

 夢現のままに聞いた言葉。

 何かに気づけとアイリーンは確かに言った。

 しかし、今のカインには何を気づけば良いのかそれすら見当がつかなかった。いや、気づくのは不可能なのだ。自分の心にも、少女の心にも、そして彼女の心にも。

 少女の笑顔を守ることが自分の出来る唯一の償いならば、どんなに汚いことでも自ら進んで汚れよう。地に落ちようとも、この手が血にまみれようとも。

「カイン?」

 リザの呼びかけに、カインは我に返った。

 車は既に街の中を突き進んでいた。

「えぇっと、車を停めるところは・・・」

 慌ててカインは周囲を見渡した。週末の昼間だが気のせいか昨日買い物に寄ったときよりも人通りが少ない。

「あそこが良いんじゃない?」

 リザがある方向を指し示した。そこは空き地だった。どうやら前に建っていたものを壊して更地にしているらしい。ところどころに工事用の鉄鋼なども置いてある。

 カインは空き地の前の道路脇に車を停めた。

 リザは停車と同時に助手席のドアを勢いよく開け、荷物片手に飛び降りた。気持ち良さそうに両腕を天に向かって伸ばしている。

「さて、何処に行く・・・」

 同じように荷物を持って車を降りかけたカインの表情がふと険しくなった。彼が感じたものは車体の僅かな揺れ具合だった。降りるときの『揺れ』がいつもと違う。

「どうしたの、カイン?」

 リザが不思議そうに振り返った。その瞬間、カインの本能が異変を察知した。

「離れろ!リザァッッ!!」

 言うが早いか、カインは荷物を持ったまま助手席のシートに飛び乗り、勢いをつけて車から飛び出した。驚くリザをその勢いのまま抱きかかえ、再び足が地についた途端、もう一度、今度はさらに大きく空き地に向かって飛んだ。

 ドッカァァァァーン!!

 2人が離れた直後、車体が爆発し一瞬にして炎に包まれた。彼の瞬発力をもってしても逃げ切ることが出来ず、カインは背中にもろに熱い爆風を受けた。その衝撃で彼の身体は大地に叩きつけられた。剥き出しの土の上とはいえ相当硬い。

「痛っ!」

「カイン!」

 突然のことで動揺していたリザは呻き声に気づいて我に返った。カインはリザを抱き締めるように庇っていた。リザはすぐにカインを抱き起こしたが、彼は右の脇を痛そうに押さえている。

 リザの両目から涙が溢れ出した。

「怪我はなかったか? リザ」

「ない・・・ないない、ないよ!! でも、カインが・・・!」

「泣くな。俺は大丈夫だから」

 無理やり笑ってリザを何とか落ち着かせようとした。が、そんな悠長なことをしている場合ではなかった。とりあえず、この場から離れなければ面倒なことになる。いくら週末の街中とはいえ、あれだけ派手に爆発音が聞こえてこれば人が集まってこないはずはない。現にもう野次馬で大騒ぎになりかけている。

「リザ、俺を支えてくれ」

「え?」

「そのままあの鉄鋼の向こうに、とりあえず連れてってくれ。・・・出来るか?」

 カインの頼みにリザは真剣な眼差しで頷いた。

 何とか表の道路から身を隠し腰を落とした。2人は自分を落ち着かせようと深呼吸をした。

 隣でリザが急に泣きじゃくり始めた。突然自分の身に振りかかった災難と、目の前で怪我をしたのであろうカインを心配し、あまりの辛さに泣き出してしまったのだろう。カインは優しく、しかし力強く彼女を抱きしめた。

「もう、大丈夫だ」

「・・・・・・」

「よく聞くんだ、リザ」

 急に声のトーンを低くして、カインはリザの耳元に唇を近づけた。さっと頬が紅潮するのがリザは自分でも分かった。

(こんなときに・・・)

 それでもドキドキしてしまう自分をリザは責めた。

「・・・リザ?」

「な、なんでもない。それで?」

 少し心配げなカインの呼びかけに、リザは焦って勢いよく首を横に振った。それを見て、カインは少し安心したのか僅かに微笑んで言葉を続ける。

「良いか、あそこに道があるだろう? あそこから裏通りに出てここから逃げる。これ以上いるとまずい」

 息をすると痛むのか、カインの声は苦しそうに絞り出されたものだった。何度か激痛の走る部分を擦っている。痛めたのは確実だ。

「な、何で・・・? カイン動くともっと痛いよ?」

「気にするな。行くぞ」

 立ち上がろうとするカインを慌ててリザは支えた。カインは彼女の顔を見た。突然怒鳴ったものだから怯えてしまったのか、リザの表情は悲しいほど辛そうだった。

 つい苛ついてしまった自分に腹が立った。

 カインは無言でリザの頭に顔を埋めた。それだけで彼の真意が伝わったのか、リザの表情が緩んだ。

 これ以上、リザの不安を煽るような真似だけは避けたかった。

 自然彼女の肩へ回した手に力がこもる。

 現場から、路地裏を通って数十mほど離れたところで2人は振り返った。

 騒ぎは更に大きくなり、レスキューのサイレンが徐々に近づいてくるのがわかった。空き地の正面に車を停めたのが幸いしたらしく、周囲の建物にさほど被害は無いようだ。

「車、放っておいても平気?」

 不安げにリザが顔を上げた。あまりにもか細い声だ。微かに震えてさえいる。

「あぁ。アイリーンのことだから車から身元が割れる心配はない」

 確信的な言葉をカインは口にした。しかし、目はリザを見ることなく、ただ真っ直ぐに燃えさかる炎に包まれた車を見続けていた。

 オレンジ色の炎はカインにある疑惑を抱かせた。

 痛めた身体の部位に手を当てる。

(おかしい)

 何故直接爆風を受けてしまったのか。自分の判断では確実に避けられた筈だった。

(やっぱり)

 車を停めリザが降り、自分も降りようと思って身体を動かしたとき。

 僅かに感じた『違和感』。

(助手席に、爆弾がセットされていた?)

 運転席にセットされていたならば、こんな怪我をするはずがない。

 そして、もうひとつ。

 爆発直後から感じる視線。近づくわけでもなく攻撃してくる様子もない。ただ、こちらを見つめている。だが、その視線はリザに対して異常なまでの殺意を感じるものであり、また自分に対しては絡みつくようなねっとりとしたものだった。

(嫌な視線だ)

 かつて同じような眼でカインを見てきた者たちがいた。

 絡めとるような視線。何もかも見透かすような視線。

 一瞬、カインの背筋に悪寒が走った。弾かれるようにして背後を振り返る。

 誰もいない。カインからは何も見えない。

(どうかしている)

 こんな北の果てに『誰』がいるというのだ。

 カインは頭を抱えた。もうひとつのリザを抱く手が今まで以上に強くなった。

(こんなこと考えている余裕はない。しっかりするんだ!)

 カインは過去の闇に引き摺られかけた自分を叱咤した。今取るべき最善の方法を考えるように。

(リザが狙われている)

 爆発と『殺意』。理由はこの2つで十分だった。

 カインの脳裏に6年前のあの雪の日が鮮やかに甦った。血の香りしかしない雪の中で泣き叫んだ少女の姿とともに。

 戦慄が走る。

 かつての惨劇が再び行われるのではないかという恐怖と一緒に思い出してしまったあの双眸。あの冷たい氷のような光を宿した茶色の瞳を。

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