表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪魔の御子  作者: 奏響
第1話 赤と銀の輪舞曲
12/71

自由の代償(下)

 そこは白亜の宮殿とでも呼ぶべきであろうか。見上げるほど背の高い壁に囲まれ広大な庭を所有した邸を見てセシルとライは溜息をついた。実は2人ともレイモンド邸を訪れるのは初めてだ。

「噂には聞いていたが凄い邸だな」

「で、やっぱりこの壁を登るわけね」

 セシルは白い壁を指で示し嫌そうな表情を露骨に表した。カインは無言で頷く。

「じゃ、まぁ、いっちょ登りますか」

 何故だか楽しそうに指を鳴らすライを尻目に、セシルは左手に持っていた袋をカインに差し出した。

「これは・・?」

「発煙弾よ。小型だけど目隠しにはなるわ」

「サンキュ。あ、アイラからこれを渡すように言われた」

 アイラから預かっていたケースをカインはセシルに渡した。

「これか。本当に作ったのね・・・」

 半ば呆れるような声でセシルは呟いた。

 ライが何?、と訊いても笑うだけだった。

「さぁ、無駄口は終わりよ」

「・・・行こう。」

 黒の革手袋を嵌め直し、カインは外壁を見上げた。


 「侵入者だー!!」

 ひとりの男の叫びに邸内部は騒然となった。バタバタと廊下を走る音が執務室のソファーで仮眠をしていた執事の耳にも届いた。

「た、大変ですっ!!」

「騒々しいですね。どうしました?」

「申し訳ございません、邸に何者かが侵入を・・・」

「ぐわっっ!!」

 男の言葉は他の男の叫び声に掻き消されてしまった。

 執事の口許が微かに吊り上った。

「そうですか・・・。では、貴方も行きなさい。何があっても侵入者を捕らえなさい。いいですね。」

「は、はい」

 男は執事の浮かべた笑みに恐れ、転がるように部屋から出て行った。

 遠くから警備とガードの男たちの叫びと銃声が響いてくる。

 執事はソファーから立ち上がり、おもむろにチェストの引出しを開けた。

 中身を手に取り、楽しむような声をあげた。

「とは言え、貴方があんな雑魚に捕まるはずが無いですね。ふふふ、待ってましたよ。・・・この日をどんなに夢見たか・・・。ねぇ、カイン」

 執事はうっとりとした眼を窓の外に向けた。

 ゆっくりと双眸を閉じる。

 瞳の裏に映る、その姿に微笑みながら。

「撃て撃て!!」

「下手な鉄砲も相手が悪いぜ!!」

 銃を撃つ男たちをライが素早く動き回って撹乱させ、銃を叩き落し、襲ってくるものを片っ端から殴り飛ばした。

「野郎!!」

 メリケン・サックを両手にはめた男がライを背後から襲った。ライは一瞬にして男の背後に飛び回り、強烈な蹴りを食らわす。声もなく、男は崩れた。

「さぁ、次は誰の番だ?」

「・・・し、死ね!」

 撃鉄をあげる音がライの耳に入った。

「そこか!」

 反応した瞬間、ライの頬を何かがかすめた。

「うっぐっっ!!」

 銃を構えていた男の利き手に小さなナイフが刺さっていた。

「大丈夫?」

「さっすがセシル様。いい腕だ。でも、俺の顔に傷つけたお代は高い」

「男の顔なんてたいしたことないじゃない」

「酷いなぁ。俺みたいなハンサムに向かって」

「馬鹿言ってないの。カインはちゃんと行ったかしら」

 ライは血で汚れた顔に笑みを浮かべた。セシルは頷き階段を見た。

「大丈夫だろう、アイツなら。上手く発煙弾の煙に紛れて行ったみたいだし。」

 ライがあっけらかんとした表情でころころと笑う。こいつは『こういう状況』のとき程よく笑うのだ。

「笑ってる場合じゃなくてよ」

「そのよう・・・だな」

 2人の楽しむような笑みは、いつのまにか冷たい悪魔のそれに変わっていた。

「相手は2人だ。怯むな!!」

 新手のガードマンたちがホールに入ってきた。警備員とは比べ物にならないほど鍛えられているようだ。

 入るなり、銃を2人目掛けて乱射し始めた。

「ちっ! 雑魚の相手なんかしてられねぇってのに」

「アイラの最新作、試してみようか?」

 セシルはカイン経由で受け取ったケースを懐から取り出した。

「少しの間『的』になっててちょうだい!」

「的って何だよ的って!! せめて囮と言え!!」

 セシルの苦笑にライは叫んだ。銃弾を避けながらセシルは身軽に階段を駆け上がっていった。

 ライは敵がセシルに気を向けないように派手に暴れてみせた。銃弾を避けながら素早く近付き殴り蹴る。男のひとりはみぞおちに拳を喰らい、叫ぶことも出来ずに倒れた。

 銃は効果が無いと悟ったのか、それともただの弾切れか、男たちは次々と床に銃を叩きつけた。

 ライが挑発する。 

 男たちがそれぞれに構えた。

 ひとりの男が奇声をあげてライに飛びかかってきた。

 それが合図になった。

 一斉にガードマンたちが襲いかかる。

「うぉぉぉぉーっ!!」

「ふっ、多勢に無勢だと舐めてかかるんじゃねぇよ。」

 ライは鋭い動きで次々と男たちを倒していく。殴り、蹴り上げ、突く。まさに蝶のように舞い蜂のように刺す。

「くっ! 何だこいつは!!」

「はーっははは!! 素手でこの俺に勝とうなんざ100年早ぇっての!! 出直して来な、ボーヤ!!」

 正面の男の顔面に蹴りを入れたライは階上を見た。セシルが上がれと指示するのが目に入る。

 ライは頷き、最後のひとりを階段の半ばあたりから蹴り落とした。

「いいぞ」

「OK。それよりあんたひどい格好ね」

 セシルはライの姿に眉をひそめた。ライは言われて改めて自分の身体を見た。

 いつのまにか幾つか銃弾をかすめていたらしい。服が裂け、血が滲んでいる。

「あぁ、俺の仕事着が・・・。結構気に入っていたのに~」

「後でカインにでも請求すれば? そんなことより、私が合図したらあの部屋に飛び込むのよ」

 セシルは扉の開いている部屋を示した。

「Are you Ready?」

「・・・Yeah」

 ライの返事にセシルはライターの火を灯した。

「・・・Go!!」

 セシルの言葉と共にライは部屋に飛び込んだ。

 ライの動きを目で確認しながらセシルはケースをホールへ向けて投げ捨てた。

 ケースは徐々に燃えながら落下した。

 バァーン!! と床で爆発し紫煙がホールに広がる。セシルはそれを見下ろすとライのいる部屋に急いで入って扉を閉ざした。

「あれは何だったんだ? セシル」

「あれはね、アイラの最新作」

 セシルはにこっと笑った。

「ケースの中に火薬と、とある薬品が混ざってるの。前にアイラに『こんなの作れない?』と訊いたやつなんだけどね。かなりヤバイ代物らしくって私に実験してくれと言ってたのよ」

「薬品? しかも実験を実践でやれと・・・」

 相変わらずというかアイラらしい考え方である。

「薬品自体は催眠系みたいよ。記憶を一部消す効果のあるものが欲しかったんだけど・・・ハイ・グレードな仕上がりだわ」

「おまえら2人ともある意味危険だよ」

 薬の出来に満足げなセシルを見てライは苦笑した。

「・・・うるさいわね。そろそろ収まったかしら?」

 耳をそばだててセシルは扉の外を窺った。物音一つしない。至って静かだった。

「いいわ。そこのドアから出て上に行きましょう」

 セシルは正反対の場所にある扉を指で示した。初めての場所とはいえ、かなりの訓練と経験を積んだ2人には暗闇でさえ邪魔にはならなかった。

 ライは這うようにして扉に近付いた。

 外に気配はない。手招きでセシルを呼び寄せる。

 セシルは一本のアンティークな短剣を左手に持ち替えライの傍へ素早く移動した。

「行くぞ」

「OK」

 2人は互いに頷きあい、扉を静かに押し開けた。


 「チェックメイトだ、レイモンド」

 月の光を鈍く照らした銃口を向けられているにもかかわらず、男は不敵な笑みを崩さなかった。左肩を押さえている右手に血が滲んでいる。

「一発で仕留められずにいてチェックメイトか? おまえの師匠はそんな甘い戯言は吐かなかったな」

 レイモンドの言葉に、カインの表情が微かに歪んだ。

 男は更に言葉を続ける。

「・・・そんなに嫌いか? 『北の悪魔』が。奴は良い男だった。若い頃から知っているが素晴らしい腕の持ち主だった。博識で容姿も良い。完璧な暗殺者だった。特に狙撃の腕は私も惚れ惚れしたものだ。そういえば・・・」

 レイモンドの眼に異様とも言える光が帯びた。優勢な立場にいるはずのカインが思わず一歩退いたほどだ。

「カイン、おまえも狙撃が得意だったな? アンドレアを一発で仕留めたように。・・・その髪も瞳も『北の悪魔』そっくりじゃないか」

「・・・よせ」

「ん? どうした? 何をそんなに怯えている? 私は本当のことを言っているだけだよ? 違うかね?」

「・・・やめろ」

「おまえがまだあの男のところにいたときに一度会っているだろう。覚えているか? あの頃は・・・おまえたちはまだ幼かった・・・10歳ぐらいだったな。無邪気に弾の入っていない銃をいじって遊んでいただろう? 奴を『マスター』と呼んでとても慕って・・・」

「やめろ・・・やめろと言っているだろうっ!!」

 カインは左手で思わず頭を抱えた。心臓の音が体中に鳴り響く。鼓動が早くなり呼吸が激しく乱れる。銃を握る右手が微かに震える。

 思い出してはいけない。ここまで来て、今、思い出してはならない。

 カインは自分自身に強く訴えた。しかし、訴えれば訴えるほど記憶はさらに鮮明になりカインを強く揺さぶる。

 レイモンドの口許が吊り上がった。

「どうした? 顔色が悪いんじゃないか? 真っ青になっているみたいだぞ?」

「う、うる・・・さ・・・い・・・」

「あぁ、もうひとつ思い出したぞ。おまえたちの世話をしていた女がいたな。名前は確か・・・」

 カインは耐え切れずに唇を噛んだ。鮮やかな紅い血が滲む。

「・・・ノエラ、だったかな? 金髪碧眼の美女だったな。イイ女だった。あの男は相当惚れ込んでいたみたいだったな」

 薄く笑い、レイモンドはベッドから腰を上げた。

 カインはきっとレイモンドを睨みつけた。しかし、その程度で怯む相手ではない。

 銃口を無視して静かにカインに歩み寄ってきた。

 まるで凍りついたかのように、カインは身体を動かすことが出来なかった。

 引き金が引けない。

 撃ちたいのに、身体が、指が、言うことをきかない。

 レイモンドの右手がカインの頬に触れた。感触を確かめるかのようにゆっくり撫でる。カインの頬が薄く朱色に染まった。

「・・・良くノエラに似ているな? 顔の造作がそっくりだ。確かおまえが11歳の冬に死んだはずだったな」

 死。

 その言葉がカインの沈められていた記憶を完全に浮上させた。

 震える肉体。呼吸は激しさを増し、目の焦点すら合わない。

 金色の豊かな髪、よく晴れた空の色の瞳。

 思い出すのは包み込むような笑顔と優しい声。

『ノエル・・・ノエル。寒かったでしょう? みんなで帰ってくるのを待っていたのよ。ここが一番暖かいわ、早くいらっしゃい。』

 唯一一度もカインの名を口にしなかった女性。

 自分だけではない。ライも、セシルも、アイラも皆母のように慕っていた。

 彼女がいたから、どんなに辛い訓練でも耐え抜いた。

「ノエラが死んで、彼も随分悲しんだそうだな。その頃にも会ったが・・・狂っていたな。『北の悪魔』とまで呼ばれた男がたったひとりの女を失っただけで壊れてしまった。傍にいてどうだった? おまえはその頃ノエラによく似ていたな。・・・怖くはなかったか?」

 ビクッ! と激しくカインの身体が反応した。

「私を殺しに来たのだろう? どうした? 私はおまえの全てを知っている。おまえにとっては存在すら許せない人間だぞ?」

 見開かれたカインの瞳には闇しか映らなかった。

 幼い頃の記憶が、深淵の闇に封じ込めたはずの己を苦しめるだけでしかなかった忌まわしい記憶が今解き放たれ走馬灯のように駆け巡った。

「くっ・・・うぅ・・・」

「ふっ・・・、今までどれほどの苦痛をその身に受けてきた? さぞかし屈辱に満ちていただろう。『北の悪魔』を殺してもなお、まるで家畜か奴隷のように扱われ、その卓越した才能だけを求められ続け、その身を裂かれ続けてきたのだろう? 誰かおまえの苦しみを見出してくれたか? 助けてくれたか? おまえの仲間でさえ、手を差し伸べてはくれなかっ・・・」

「黙れっ!!」

 大声でカインはレイモンドの言葉を遮った。その頬には一筋の涙がつたい、赤い雫が絨毯を染める。

「黙れっ・・・黙れっっ! 貴様に何が・・・俺の何がわかるって言うんだ!! やつの『依頼人』でしかなかった貴様に!!」

 突然の豹変ぶりにレイモンドは思わず口を噤んだ。なおもカインは続ける。

「あぁ、そうだ、そうだよ。貴様の言うとおりだ。奴は俺を・・・この俺を生きたまま地獄に突き落とした! 昼はまともでも夜になると奴は本当に『悪魔』になった。・・・耳元で、微笑みながら囁くのはいつも『ノエラ』の名ばかりだった。苦しかった・・・辛かった。俺は・・・ただ奴にされるがままだった。・・・そうするしかなかった。俺が逆らえば・・奴の手は3人に伸びる。だから、だから俺はどんなことをされても耐えたんだ! 耐えて、耐えた末に・・・この手で・・・奴に教えを受けたこの手で・・・」

 殺した。

 自由になった。

 なのに。

「・・・なのに、貴様は・・・貴様らは・・・鳥の翼をもぐかの如く自由を奪い力で支配しようとした。この、この身体を・・・!!」

 肩で荒く息をする。涙は拭かれることもなく、ただ跡が残っていた。

「俺の全てを知っている? そう言ったな。なら、俺が生を受けてから今までどれほどの苦悩と苦痛に満ちた時間を生きてきたか貴様にわかるのか!?」

「わかっているつもりだ。だからこそ10年前君に手を差し伸べた」

「あぁ、そうだな。正気を失い、パリに流れ着いた俺に。だが、それも貴様が誰も知らない俺の過去を逐一知っているせいだ。鬱陶しいほどにな。俺は貴様のために働かざるを得なかった。何もない俺の生きる道はそれしかなかった。そして貴様は俺を利用し、永久に表の道を歩めないように過去という鎖で俺を縛った。子供の頃の傷を抉るように・・・くっ!」

 バァァァン、という銃声と共にカインは身を反転させて弾を避けた。が、避けきれずに転倒した。左足から血が溢れる。どうやらかすったらしい。

「その『傷』というものを是非お伺いしたいですね、カイン」

「お、おまえ・・・」

 銃を撃った張本人にカインは驚いた。

 暗闇の中月光を受けた男の顔には冷たい笑みが刻まれている。

「フィ・・・フィロ・・・ス?」

「おや? 『流れ弾』にでも当たりましたか? 旦那様」

 見下すように男はレイモンドに微笑んだ。その顔に主人に対する忠誠心は欠片も見当たらない。

 カインは背後のレイモンドを振り返った。

「!?」

 そこにいたのは血まみれのレイモンドだった。

 『流れ弾』は彼の急所を僅かに外していた。レイモンドにはまだ息がある。

 小さな舌打ちがカインの耳に聞こえた。

「き・・・きさ・・ま・・・な・・・ぜ・・・」

 とめどなく左胸から溢れる血を右手で押さえながら、必死の形相で忠実だった執事の顔を睨みつけた。

「思い出した・・・。執事のフィロス=ルーベルスか・・・」

「『だった』ですよ、カイン。執事としてはたった一度の邂逅なのに、思い出していただけて光栄ですよ」

 レイモンドに向けていたものとはまるで違う、何か愛しむような笑みでフィロスはカインを見た。

 茶色の双眸に光が宿る。

 表情とは裏腹の、人を殺めることに何ら罪悪を感じぬ者の光。

 ふいに、フィロスが微笑んだ。

「少しだけお待ちいただけますか? カイン。先に始末しますから」

 その言葉にレイモンドは顔を上げた。

 一瞬だった。

「!?」

 カインは足の痛みも忘れ立ち上がった。

 フィロスの口許に至上の笑みが浮かぶ。

 銃弾はレイモンドの額を貫いた。

 まるでビデオのスローモーションであるかのように、レイモンドは静かにゆっくりと仰向けに倒れた。

 月に照らされた肉体は青白い光を帯びていた。

「おまえの主人じゃなかったのか?」

 カインの言葉にフィロスは初めて顔をしかめた。ずれた眼鏡を左手で直す。

「主人? えぇ、ついさっきまで。でももう用は済みましたから」

「用?」

「えぇ、そうですよ。彼が貴方を縛って利用していたそうですね。でも、彼にそんな力がまだあったなんて本当に思っていた? 『麻薬王』なんて肩書き本気で信じていた? ・・・可愛い人だ」

 嬉しそうに笑うフィロスをカインは睨む。

「どういう意味だ」

「意味も何も・・・。この3年ぐらい彼は何もしていない。仕事も財団運営も暗殺依頼も・・・ね」

「3年? まさか・・・」

「ある御方の命令でレイモンド邸の執事になったまでです。その方にとって、レイモンドは非常に利用価値が高かったんですが、先日『もう必要ない』と連絡があったので始末しただけです。レイモンドなんてその方の傀儡でしかなかったんですよ。操ったのは私ですけどね」

「貴様・・・」

「怒らないでください。経緯はどうであれ彼は死に貴方の望みは叶った。自由が手に入ったんですよ? 恨まれる道理はないですね。」

 フィロスは右の拳で壁をひとつ叩いた。するとその部分が外れ中に黒い物体が見える。

「・・・機関銃か!?」

 とっさに銃を構えフィロスに向けて撃った。だが、先程の傷が意外に深かったらしい。カインは身体のバランスを崩してしまった。

 弾はフィロスから外れ壁に当たった。

「くっ・・・」

「どうしました? 『悪魔の御子』に・・・貴方にとって、その程度の傷は痛みのうちに入らないでしょう?」

 真横の花瓶が粉々に砕け散った。

 一瞬の判断でカインは横に逃げる。

「さぁ、反撃しないんですか? 死にますよ、カイン!」

 なおもフィロスは機関銃を乱射した。

 次々に壁に穴があき、額に入った絵は粉々になり、ベッドの羽根が飛び散り、レイモンドの骸が粉砕された。

 割られたガラスに足をとられ体制を崩したカインを、フィロスは容赦なく襲う。

「しまっ・・・」

「カイン!!」

 身体が浮いたようにカインは感じた。誰かに抱きかかえられたみたいに。

 ガラスの破片と散弾雨は一瞬にして背後でぶつかり合い激しい音をたてた。

 顔を上げカインは目を見開いた。

「・・・ライ!!」

「間一髪・・・かな? まさかレイモンド以外のやつとやり合っているとは思いもよらなかったが・・・」

 傷だらけでボロボロのライは改めてフィロスを見た。

 フィロスは仕留められなかったことに、特別苛立っているようには見えなかった。冷静に状況を把握しているようだ。反対側で短銃を構えていたセシルに愛想笑いを向ける。

「死神ライにレディ・セシルのご登場ですか?」

「貴方とは何度かお会いしたこともあったかしらね? ミスター・フィロス=ルーベルス。この邸の執事だとは知らなかったわ。てっきり専属秘書だとばっかり」

「似たようなものですね。でも、貴女ではありませんよ。私がお会いしていたのはマドモアゼル・シンディアと仰る妙齢のご婦人ですよ」

 フィロスはしゃあしゃあと言ってのけた。セシルがくすりと笑った。

「驚きましたか? レディ」

「えぇ、Zも人が悪いわ。知ってて教えないなんて」

「なんだと・・・?」

 カインは驚きを隠せなかった。

 Zがフィロスの事を知っていた?

「貴女もなかなかですよ? レディ・セシル。途中で私のことも薄々感づいていたんでしょ?」

「途中ですって? ご冗談を。本来ならば公式の場に出てくるべきレイモンドの代わりにいつも貴方が出席していたわ。おかしいと思うほうが普通じゃなくて?」

「恐れ入りました」

「どういうことだ? セシル・・・」

 業を煮やしたカインが苦しそうに言った。

 フィロスが肩を竦める。

「私とマドモアゼル『キャロル』は仕事上何度かお会いしたことがあっただけですよ」

「えぇ、それは本当ね。でもやっぱり貴方が本当の『黒幕』だったわけね・・・」

 セシルは穴だらけのレイモンドの遺体に眼をやった。およそ婦女子には耐えられない光景だ。

「Zがカインに黙っていたわけもこれで納得したわ。フランク=アンドレアの殺人示唆及び3人の刺客をカインに差し向けた張本人が誰かも」

「そして3年前からの暗殺依頼も全て『フィロス』の依頼だった。『悪魔の御子』は利用されていたのさ、やつひとりに」

 悔しさに腹が立った。そんなカインの様子を面白がるようにフィロスは冷たく微笑んだ。

「そういえばもうひとり・・・アイラ・レーン=ハミルトン女史のお姿がありませんね」

「彼女なら留守番よ。普段は直接手を汚す仕事はしない娘だけど、今日は貴方の送った誰かさんたちをお迎えするためにね。」

 フィロスの冷酷な笑みを上回る冷ややかさでセシルは微笑んだ。


 ライとセシルがちょうどホールで暴れまわっていた頃、ジョルジュ=エルトの部屋にはアイラとZがいた。

 隣室から出てきたアイラにZが暖かいカフェ・オ・レを渡す。

「あの娘の様子は?」

「心配ないわ。よく眠ってる。そっちは?」

「だいぶ落ち着いた。肩の荷が下りたんだろうな。いろいろ話してくれたよ」

「へぇ、話?」

 アイラはテーブルでうたた寝をしているジョルジュを見た。

「やっぱり俺の調べたとおりだった。今頃カインのやつさぞかし驚いて・・・いや、怒ってるかなぁ」

「何ひとりでぶつぶつ言ってるのよ。気味悪い。何を話したのよ」

「実はな・・」

 Zはつい先程の会話をアイラに話した。

 ジョルジュが加担させられた事実。レイモンドのこと。

「フィロス=ルーベルス? 誰それ?」

「あのレイモンド邸の執事で半ば秘書のような存在だ。カインにはあえて言わなかったが、やっぱりアイツが真の黒幕だった」

「黒幕?」

 訝しげにアイラは口を尖らせた。

「そう。執事兼秘書のフィロス=ルーベルスの経歴は見事なまでのエリートぶりだ。まさしく『作成』されたようにね。ジョルジュは殆どの指示をフィロス=ルーベルスから受けていたそうだ。レイモンドと直接会ったのは最初の1回と刺客の件のみ。それ以外一度も会うどころか見てもいないそうだ。レイモンド自身も指示が出せるほど健康ではなかったらしい」

「健康じゃない?」

 アイラの問いにZは頷いた。

「どうも心臓を患っていたらしい。そのせいか自宅療養のため殆ど外出していない。ここ3年はフィロスに頼りっぱなしだ。・・・おかしいと思わないか? それまでは倒れることなんてただの一度もなかった男がだ。」

「じゃあ、それもフィロスが仕組んだ・・・?」

「あぁ、それからだ。仕事も財団運営も全てフィロスが仕切り出したのは・・・。暗殺の依頼もレイモンドの意思ではなくフィロスに唆されたものだったんだ」

「今回の件もフィロスが・・・?」

「いや・・・それはどうかな? レイモンドの意思をフィロスが利用したと考えるほうが正しいんじゃないかな?」

「利用?」

「あぁ・・・。フィロス=ルーベルスがレイモンド邸の執事になったのは5年程前。もし誰かの命令でレイモンドを操っていたとしたら・・・」

「呆れた。5年間も? 冗談じゃないわよ。」

 アイラは心底呆れた様子だった。無理もない。普通人ひとり殺すのにそんなに時間などかけない。自分たちがいい例だ。

「それはフィロスにとっては最終目的だ。仮定として・・・ある人物の命令によってフィロスはフランスにやってきた。命令はレイモンドを見張ること。そして徐々に傀儡にしていくことだ。狙いはレイモンドの握っていた麻薬ルートと暗殺者。上手く取り入ったフィロスは2年でやつの利用価値を見出し、見事5年でその価値を地に落とした。結果役立たずになったレイモンドを処分しようと考える。利用価値を見出したときから心臓病に見せかけて毒を盛ってきたから時間が経てば必ず死ぬ。一方、死期を悟り始めたレイモンドには遣り残したことがあった。自分の悪事を知るものを処分しなかったことだ。」

「それがカインだと・・・?」

「そう。そしてアンリ=クレイマーなど長期にわたって利用した人間だ。暗殺者をどう自分が手を下さずに始末するかフィロスにでも相談したんだろう。フィロスにとってはチャンスだった。ちょうど上からも抹殺指令が下っていたとしたらね。フィロスは5年待った男だ。表向きはレイモンドの考えどおりにカインたちを始末しようとする。だが、フィロスはカインがアンリたちの手におえるとは思っていない。さらにカインがレイモンドと手を切りたがってることを知っていたから必ず殺しに来ると踏んでいた。かくしてシナリオは決行され、その通りに駒は動き、この騒ぎに乗じてフィロスは本来の目的、本来の任務を完了して早々に姿を消す。これにてTHE END. ・・・とまぁこんなところだろう」

 Zの説明にアイラは頭を抱えた。

「なんて・・・気の遠くなるような計画かしら。それよりなんでカインに教えてやらなかったの」

「言ってどうなるものでもないだろう? それにカインにレイモンドは殺せないよ。フィロスにでもやってもらったほうが早く片付く」

「どうしてよ」

「わからない? レイモンドはあのカインを10年も束縛してきた。よく舌の回るおっさんだからな、ちょっとした話術でカインはいとも簡単に崩れてしまう。アイツあれで案外脆いから。だから言わなかった。言って先にフィロス=ルーベルスを殺したら元も子もない」

「そこまで計算してたわけ?」

「だてに年もカインのエージェントはやってません」

 Zとアイラは互いに口元を緩めた。

 冷めかけたカフェ・オ・レに口を付けようとしたアイラの表情が急に険しくなった。

「どうした?」

「・・・来た」

「・・・来客か・・・?」

「やっと来たわね。退屈だったわ・・・。・・・1人・・・2人? たった2人? 舐められたものね」

 アイラは持っていたカップをテーブルに置き、ジョルジュを揺り起こした。ジョルジュは少し寝ぼけた様子でアイラの顔を見上げた。

「・・・?」

「早く目を覚まして。隣の部屋へ行って。いい? 何があっても出てこないで」

 アイラはジョルジュを押し込むようにして部屋に入れると、自分の鞄の中から様々な瓶を取り出した。更に1本の注射器を出して瓶の中身を注入し始めた。

 Zは静かに廊下の気配に神経を集中させる。

「・・・来た」

「明かりを消して、Z」

「OUi.」

 電球の明かりを消した暗闇の部屋の中、入り口の左右に2人が立ち、ドアが開かれるのを待った。

 ギィィィと扉はゆっくり開いた。

 その瞬間を狙って、最初に入ってきた一人をアイラは足を出して転ばせた。あとから入ってきた男は驚いて駆け寄ろうとした途端、Zの腕に絡めとられ羽交い絞めにされてしまった。

 転ばされた男がようやく身体を起こそうとした。が、その隙を突いてアイラが男の腕を捻り上げた。

「うぐっっっ・・・!!」

 その細い身体にどれほどの力が存在しているのだろうか。男は苦痛の叫びを上げた。

「しばらく眠っててちょうだいな」

 アイラは右手の注射器を男の首筋に刺した。20~300秒ほどして男は暴れることもなくぐったりと動かなくなった。

「貴様! 女っ!! 何しやがった!!」

 男から離れ明かりを点けたアイラに、Zによって羽交い絞めにされている男が食って掛かった。男は明るいところで見るとなんとも間抜けな格好をしていた。覆面なぞ被っている。アイラは反射的に噴き出した。

「アハハ・・・だっさー。いまどき強盗でももっとマシな格好するわよ。うるさいからあんたも寝てなさい」

 アイラは暴れようとする男の頭を簡単に左手で押さえつけ、思いっきり首筋に注射器を突き立てた。

 叫びこそしなかったものの、おそらく覆面の下は苦痛の表情のまま意識を手放したに違いない。

「はい、終了。こいつら棄ててきてくれる? 邪魔だから」

「棄てるって何処よ? 生ゴミ置き場?」

「不法投棄で怒られるわよ。やっぱり・・・持ち主のところじゃない?」

「Oui. それじゃ、後頼むわ。ついでにカインたちも拾ってくる」

 Zは男2人を軽々と抱えてドアの向こうに消えていった。残されたアイラはひとつ溜息をつくとお湯とミルクを沸かし始めた。

 隣室で、おそらく目を覚ましてしまったであろう少女とその父親のために。


 「まぁ、たった2人? あんた自分の部下を見殺しにでもするつもりだったの?」

 セシルが心底驚いたかのような表情を作って見せた。フィロスは面白そうに笑う。まるで嘲るかのように。

「まさか。あのお優しいアイラ・レーン女史が殺すとは思っていませんよ。あんなのただのレイモンドに対する体裁です。全てが終わったら始末しますよ、もちろんね。・・・お喋りが過ぎたようです。そろそろ終わりにしましょうか?」

 言うが早いかフィロスは再び機関銃を乱射し始めた。

「もう用は済んだ。長居は無・・・」

 ライが動きを止めた瞬間を狙い澄ましたかのように銃弾が彼を襲った。

「くっっ・・・!!」

 命中したわけではないが、さすがに全ての弾丸は避けられなかった。確実にライの肉体は抉られた。

 その衝撃に吹き飛ばされ、ライの身体は窓にうちつけられた。

「ライ!」

 ガラスを突き破り落下するライを追ってセシルが窓から飛び降りた。

「ライ! セシル!!」

 カインは思わずライが突き破った窓から身を乗り出した。三階下の庭から微かにセシルの声が聞こえた。

 どうやら2人とも無事らしい。

 カインは胸を撫で下ろした。

「あの程度では死なないでしょう? 落ちたガラス片は僅かみたいですし」

 真後ろで囁くように話す声にカインは振り返った。

「・・・いつの間に・・・あっ、くっっ!」

「痛いですか?」

 気配でも消していたかのように、フィロスはカインの背後に回りこんでいた。カインは肩を握られ小さく呻いた。

 左肩を弾丸がかすっていた。出血が酷かったが気づかない振りをしていた。そうしなければ痛みをこらえられなかったからだ。

「な・・・にを・・・」

「撃ちたければどうぞ? 弾が残っていればの話ですがね」

「く・・そ・・・」 

 カインの右手に握られていた銃には既に弾は残っていなかった。補充しようにもフィロスに掴まれた左肩はカインの意思を拒むかのように動かなかった。

「・・・この日を待っていた・・と言っても貴方は覚えていないでしょうね」

「?」

「いいんです。今はまだ。今、この場で貴方と会えた。貴方は二度と私を忘れることはない」

「何を言って・・・」

「今日のところはこれで諦めますよ。貴方に嫌われたくないですからね」

「ほざけ・・・。何わけのわからない・・・」

「いずれわかります」

「・・・ひとつだけ教えろ」

 カインは真っ直ぐフィロスの目を見た。フィロスは楽しそうに微笑む。

「なんです?」

「おまえの本当の主とは誰だ。レイモンドを傀儡にするような人間とはいったい誰のことだ・・・」

 カインの言葉にフィロスは声を殺して笑った。

 フィロスはすっとカインの顔に自分の顔を近づけた。

「今はまだ言えません。そんなお許しはいただいてないから。でも・・・ひとつだけヒントをあげますよ」

「ヒント・・・?」

 フィロスは初めて眼鏡を外した。その顔にカインは眉をひそめた。

 髪と同じ茶色の瞳。その冷たい光を宿す双眸に覚えがあった。

 ―――貴方は二度と私を忘れることはない・・・。

(忘れていた? 俺はおまえに会ったことが・・・?)

「代わりに代償をいただきますよ」

「な・・・」

 掴まれたままの左肩が引き寄せられ、痛みをこらえるように唇から洩れていた浅い吐息をフィロスは強引に塞いだ。

「くっ・・は・・・」

 一瞬の出来事だった。

 フィロスはゆっくり唇を離し、そっとその舌でカインの唇を濡らしていた血に触れた。

「き・・さま・・・」

「私の主は貴方を、貴方も『よく知っている』御方ですよ」

「・・・何?」

「ヒントはそれだけですよ。またお会いしましょう、カイン」

 フィロスはカインの左肩を突き放した。それと同時に上着の内から銃を抜いた。

 一発だけ銃口が火を吹いた。

 カインはその僅かな隙を突いて窓の外へと自ら飛び降りた。

 がさがさと派手な音をたててカインは繁みの中に落下する。

 その音を聞きつけてライとセシルが飛び出してきた。

「大丈夫か・・・、ライ」

「それはこっちの台詞だ。・・・ひどい傷じゃないか。左肩が血まみれだ」

 今し方までフィロスに握られていた肩。相当な出血だったはずだが今は止まっているみたいだった。

(まさか・・・)

 強引だ。そんなはずはない。

(あいつが・・・止血を・・・?)

 無理矢理肩を掴んでいたフィロスの右手は真っ赤に染まっていた。

 俺の血で。 

 カインは自分が飛び出した窓を見上げた。

 フィロスがそこに居た。

 相変わらずの笑顔で、血にまみれた右手をゆっくり舐める姿をカインは見た。

 今までに感じたことのない悪寒が走る。

「カイン、しっかりしろ!」

 気づけばカインはライに身体を支えられながら歩いていた。

 レイモンド邸の裏手に一台の車が停まっていた。

 見覚えのある車だった。

 運転席から顔を出したのはZだった。

「怪我してるのか!?」

 カインたちの姿を見たZは絶叫しかけてセシルに頬を平手打ちされた。

「い、痛い・・・」

「うるさい! さっさと離れるわよ」

 と、言いながらセシルは助手席に乗り込み、ライはカインを抱えたまま後部座席に身を沈めた。

 脱力感が全身を襲う。

 ライとセシルが状況をZに説明している会話も耳には届かなかった。

 そっと左肩に触れてみた。 

 ―――私の主は貴方を、貴方も『よく知っている』御方ですよ・・・。

 フィロス=ルーベルスのヒント。

 カインは肩に触れた指で自分の唇をなぞる。

 ヒントの代償。触れたフィロスの唇は思いの外熱かった。

(俺の過去を知っている人間・・・敵になりうる人間はもうこの世にはいないはず・・・)

 いったい誰がいると言うのか?

 カインはフィロスの笑みを思い出した。

 至高の快楽に酔うかのような表情でカインの血を舐めたフィロスの笑み。

 本当に、これからもフィロスは自分についてまわるのだろうか。自分のあの忌まわしい記憶と共に。

 ―――自由とは長い鎖で繋がれていること・・・。

 いつだったか浮かんだ自分の言葉に今は苛まれている気がする。

 全てが終わったはずなのに、全てが始まるような予感。

 カインは瞼を閉じひとときのまどろみに身を委ねた。

 悪魔から生身の人間に戻るために・・・。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ