魔女の宴(下)
「当然、その技術は・・・私が継いだんですよ!!」
アンリが両手をさっと上げ、勢いよく振り下ろした。
「!?」
瞬時にカインの両腕の自由が奪われた。表情が変わる。
雲間から、月光が窓へと侵入した。
そのときカインは初めて知った。
部屋中に『銀糸の罠』が張り巡らされていることに。
「これが私の『暗殺』ですよ。ヘルメイを殺害した技は最も簡単で、子供の頃はよくそれで野兎なんかを狩っていましたよ。舞台で貴方にお見せしたものは『これ』の応用です。」
両手を合わせ、次に左手を動かした。合わせるかのようにカインの左腕が勢いよく後ろに引っ張られた。
「痛っ!!」
アンリの両手はまるでピアノの鍵盤をたたくが如く、華麗で鮮やかな指捌きを見せた。
しかし、カインに見とれている暇はなかった。
その両手に、胴に、首に、銀糸がまとわりつく。
「くっっ!!」
カインはもがき、何とか糸を断ち切ろうとした。が、もがけばもがくほど『糸』は絡みつく。
アンリはその様子を楽しそうに眺めていた。
「無駄な足掻きはやめましょうよ。ねぇ、カイン」
言葉とともにカインはベッドにたたきつけられた。どちらかというと引き摺りこまれたほうが近いが・・・。クィーンサイズのベッドに縛られた格好なわけだから良い気分のはずがない。が、カインはさして抵抗して起き上がろうとはしなかった。
「やっと、諦めてくれましたね」
「この状況で抗っても不可能だと納得しただけだ」
「それを負け惜しみって言うと知っていました?」
シャツのボタンを外し、半裸をさらしてアンリは仰向けになっているカインの身体に馬乗りになった。
愛しむような表情でカインの頬に触れる。
「私を父から奪った祖母はもう50歳半ばでした。女優を、芝居を棄て、生活のために再び暗殺家業に手を染めた彼女にとってエレンの存在は絶対だった。だから彼女はカールを憎んでいた。しかし、エレンを失い、その夫をも手にかけたフランソワーズに残されたものなど何もなかった。年を重ね過ぎた彼女にはもう暗殺は出来ない。よって、彼女はある選択をした。それが私を自分の後継者にすることだった。自分が父の跡を継いだように、今度は自分の孫に継がせようと。恨み深き男の血を引く子供の手を、血で汚し堕としめてやるのだと。おかげで今の私がある・・・。」
アンリの細い指先がカインの首筋をなぞる。思わず身体が反応する。
「・・・酷い有様でしたよ。今で言う幼児虐待と何ら変わらないのだから。それでも、私は覚え、耐えた。生きるために。10歳になる頃には銀糸で小動物の一匹や二匹カンタンに殺せるようになっていた。それから3年ぐらい経った頃かな、私のいた村のすぐ近くにあった町に小さな劇団が出来た。フランソワーズはすぐに私をその劇団に入れた。演技も教え込まれていましたからね、私は。彼女も芝居に未練があったんでしょう。フランソワーズのおかげで私はその劇団じゃ、すぐに売れっ子になった。といっても女優としてです。フランソワーズが指導したのは女優としての演技でしたから。男優は私が独学で勉強したものです。・・・それでもよかった。フランソワーズが喜ぶなら、私に笑顔を見せてくれるならそれでよかったんです。でも、あるとき私は彼女の異変に気づいた。10数年前から、カールを殺したときから、フランソワーズは狂っていたんでしょう。彼女は私を見て『エレン』としか呼ばなくなった。」
アンリの表情が少し歪んだ。苦々しそうに。
「女化粧をし、ドレスを着た私を・・・。そして、そのうち日常生活においても、彼女の口からは『エレン』の名しか聞けなかった。」
カインは黙ってされるがままだった。アンリは薄く口を開き、触れていたカインの首筋に唇を落とした。
「・・・3年前、フランソワーズは死んだ。自殺です。彼女は狂気に満たされていた。全ての恋に・・・、愛情に本気になりすぎた、哀れな女の末路です。それから『F・F』の名で今日の演目『火刑前夜』の脚本をピエールに送り付け、私はフランスにやってきた。『フラン=フォルテ』のとある公演のオーディションに合わせてね。その作品というのがフランソワーズ=フォルテの代表作、20世紀初頭のロシアを舞台にした『革命』。フランソワーズ自身が演じて脚光を浴びたヒロイン・カトリーヌ演じたんです。もちろん女優ですよ。そのおかげで私はピエールに認められ今に至ります」
「レイモンドとはいつからだ」
ようやくカインが口を開いた。
「彼はスイスにいた頃からの知り合いで祖母のお得意様だった。そういえば、彼の父親がフランソワーズを裏世界に引っ張り込んだ張本人でしたっけ。」
そんなことはどうでもいい、という口調だった。「彼と、彼の父親とも寝たって日記に書いてありましたっけ」と笑いさえした。
「レイモンドはよく私に仕事を回してくれましたよ、本業の合間にできるやつをね。何人殺したかな・・・? 私はね、祖母に瓜二つだそうですよ。フランソワーズはいつも標的を本気で愛した。彼女が暗殺するときは決まってベッドの中だってご存知でした? 有名な美人女優が甘い言葉で近づいてくるんですよ。誰がその女こそが自分の命を狙っている暗殺者だと思いますか。だから、馬鹿な男たちは魔女の虜になって死んでいく。私も同じです。『仕事』を始めてもう10年近くなりますけど、いつも相手を本当に愛してしまう。可笑しいでしょう? 男とか女とか関係ない。その人を見ているだけで、声を聞くだけで、指先ひとつの動作だけで私の心が高鳴る。愛さずにはいられなくなる。相手も私の想いにすぐに気づいてくれますよ。そして本気になる。でも、関係は持たない。寝るのは一番最後。そこが彼女との違いかな? 彼女は何度も夜を重ね、その末に殺していたから。だって、最初の最後、最高に愛し合って、殺す。全ての想いをこの身体の中に放って、彼らは永遠に私のものになる。裏切りも過ちもない。私を抱いたという最高の証を胸に刻んで。これ以上の最高の恋って、幸福ってないでしょう?」
声に、言葉に犯される。
これを快楽なのだと感じた人間がどれほどいたのだろうか。
だが、カインにとっては苦痛でしかなかった。
深海色の瞳に映った自分の姿が、カインの中からかつて自ら生み出した狂気を引き摺りだそうとしていた。
アンリの全てがカインに重なる。
「カイン・・・、貴方以上に本気になった人などいなかった。初めて貴方を見たときから貴方が欲しくてたまらなかった。この日をどれほど待ち望んだか・・・」
上着のボタンが外され、白い指が這うように動く。
「くっ・・・ぁ・・・」
カインの表情が歪む。唇を強く噛みすぎたせいで血が滲み出た。
拭き取るように、アンリがその舌で唇に触れる。
「最高の快楽をあげる・・・。貴方が望むままに。『初めて』じゃないでしょう? 私にはわかる。貴方は私と『同じ』だと。楽にしていいよ。最高の瞬間にしてあげるから・・・」
カインは何も答えなかった。ただ、無表情にアンリの瞳を見返す。
アンリの唇が、カインのものと重なる。カインは目を閉じアンリに応えた。
神聖な儀式か何かのように。
否、それは狂気の儀式の始まり。魔女の宴を行うために。
「!?・・・!!」
突然アンリは目を見開き、身体をカインから引き離した。口を押さえ、にわかに震えだす。
カインの口元が微かに緩んだ。
アンリはあろうことか、悪魔を召喚してしまったのだ。
銀髪紅眼の悪魔を。
「な・・・何を・・・!!」
その刹那、カインの左手が空を斬った。
銀色の糸が、月光を受けてはらはらと儚げに落ちた。
「罠に嵌められた気分はどうだ? アンリ」
カインは不敵な笑みを浮かべ左手首を見せた。よく見ると上着のカフスボタンから小さな刃先が飛び出している。
「そ・・・そんな・・・もの・・・で?」
「お前の甘さに助けられた。わざわざ服の上から縛ってくれたおかげで使えたようなものだからな。しかし時間がかかった。まったく・・・」
危うく流されるところだった、という言葉をカインは飲み込んだ。聞かせてやる必要はない。そう思った。
ベルトのバックルに忍ばせておいた小さなナイフを取り出し、カインは絡み付いている糸を切り、部屋中に張り巡らされていた『罠』を全部引き千切った。
アンリはその様子をただ呆然と眺めているだけだった。
「心配するな。苦しむことはない。ただ眠るだけだ。深く、永遠に・・・な」
その言葉に従うように、アンリは気だるそうにベッドに倒れこんだ。
アンリは重たそうに顔を上げた。その深海色の瞳に恐怖はない。
「一緒だ・・・。今日の・・・芝居の魔女と。いや、・・・祖母・・・と。貴方に・・・本気になり・・・過ぎた・・・」
カインはアンリの身体が楽な姿勢になるように寝かせ直した。彼は意識を手放すまいと必死に抵抗する。
「私・・・フランスで、祖父を探そうと思った・・・。祖母は恐ろしい・・・それこそ魔女のような女で・・・、関係を持った男の髪の毛や爪の欠片を小袋に入れて整理していた・・・。そんな女が、心から純粋に愛した男が誰なのか・・・知りたかった・・・。彼女が死んだ後・・・私はそれを遺留品から見つけて・・・レイモンドの、ち、知人とか言う医者にDNA鑑定を・・・そう・・・したら・・・、中に・・・祖父が・・・い・・・た・・・」
「・・・誰だったんだ?」
カインは優しく訊ねた。その声の調子は、いつものカインのものだった。
そっと彼の右手に自分の右手を重ねる。
微かにアンリの口元が微笑んだ。
「知ってる・・・くせに・・・。ピ・・・エール=フェルナンド。彼・・・だ・・・った。」
ベッドに腰をかけ、アンリの頬に触れる。
温かい。
「教えて・・・。もし、もっと・・・違うカタチで出会えたら・・・、貴方に・・・会っていたら・・・私を・・・愛・・・し・・・て、く、れ・・・た?」
「さぁな。愛せたかもしれない。もっと別の人間に生まれ、出会っていたら・・・」
アンリは何も言わず、ただ微笑んだ。
一筋の涙がその頬をつたう。
その姿は紛れもなく美しい。
「おまえは魔女になるには綺麗すぎたよ、何もかも。なぁ、アンリ」
ひとを愛する純粋さ故に起こされた悲劇。
閉じられた瞳が二度と開くことはない。あの深海色の色も再び見ることは叶わない。
憎いと思った。
レイモンドが。
あの男を今まで生かしていたのは間違いだった。
そして、今まであの男を殺せずにいた自分の弱さに腹が立った。
カインの中で何かが弾けた。
この感情を抑える術を、カインは知らない。
「いい夢を・・・永遠に」
カインは優しくアンリに接吻をした。
二度と開かれることのない、その唇に。
カインは身体を起こし、テーブルの上のシャンパングラスにアンリに口移しで飲ませたカプセルの中身を入れた。
これはアイラが以前調合した猛毒だった。薬品自体は市販の何処にでもある睡眠薬であり、専門家から見てもそうとしか見えない。しかし、一度体内に入ると肉体機能が完全に停止するまで昏々と眠り続ける。心臓が停止した頃にはまったく毒は検出されず、睡眠薬だけが残る仕掛けだった。少量で死に至らしめられるので少し前にアイラから譲り受けたのだ。
カインはこのカプセルを縛られる前から口の中に隠し持っていた。
振り返りアンリを見た。
今はただ眠っているに過ぎない。けれども、その肉体は確実に死の色に染まっていく。
アンリの表情は穏やかだった。
ベッドに、ソファーに、部屋中に、赤い薔薇の花弁を散らして。
そしてその腕に愛した男から送られた、アストレの花束を抱いて。
一般の地下駐車場に降り立ったカインは深く息をついた。
これで2人片付いた。
だが、カインの心はいつになく激しい怒りに満ちていた。
「終わらせる・・・必ず」
出口に向かって静かに歩き始めた途端、カインは正面から急に光を受けた。
眼を細め、銃に手を延ばす。
「お疲れさん、迎えに来たぜ」
「Z・・・? 何故ここに・・・?」
「マダムから聞いた。で、アンリ=クレイマーのホテルを探して迎えに来たんだよ。お前のことだから、『こっち』の駐車場から出てくると思ったからさ。それより・・・」
早く乗れよ、と言わんばかりにZは助手席のドアを開けた。
カインは大人しく従った。
助手席に乗り込み、サングラスを掛けた。
「さて、何処まで行く? まっすぐアパルトマンに帰るのか?」
Zは明るく訊ねた。仕事に関して相手が話さない限り決して詮索はしない。それがZの確固たるポリシーだった。
だからこそ、カインもアンリのことは何も言わなかった。
もう、終わったことなのだと。
「・・・そうだな」
カインは何気なく窓の外を見た。車はすでに駐車場から出ようとしていた。ふと、VIP専用駐車場で見た車のことが気になった。
(あの車は・・・いったい・・・?)
「で、どうするんだ?」
早く決めろよ、とばかりにZがカインをせっつく。カインは仕方なく車から行き先に思考を換えた。
「じゃ、『La Lune Blue』に行こう。今日はとことん飲みたい」
「俺、車だから飲めないぞ。」
「いつだって飲まないじゃないか。付き合えよ、今度ライとゆっくり食事できるようにお膳立てしてやるから。」
「本当だなっ!? よし乗った!!」
急にご機嫌になったZは軽快に車を走らせた。
何事もなかったかのように、2人はホテルを後にした。
ホテルの正面玄関は、アンリ=クレイマーのファンたちが決して現れることのない彼の姿をただただ待ち続けていた。
「やっぱり失敗してくれましたよ、アンリ=クレイマーは。でも、これで計画は最終段階に入りました。・・・えぇ、一筋縄ではいかないと思いますけどね。でもそのほうが面白いと思いませんか? 少しずつ真実に近づき、全てを知ったときの彼ら。・・・ふふふ、彼らの表情が目に浮かびますよ。もうすぐです。もうすぐ、ようやく貴方のお傍に戻れますから・・・帰りますから・・・。待っていてください。・・・マスター」
ホテルの正反対に位置したビルの陰に、あのカインが一瞬の内に目撃をしたメタリック・シルバーのベンツが停車していた。
運転席で話していた男は携帯電話を切り、再びホテルを眺めた。
「・・・運命って残酷ですよね。そうは思いませんか? カイン」
ノン・フレームの眼鏡の掛け具合を軽く直し、男は車のエンジンをかけた。
夜空はいつのまにか厚い雲に覆われ、ぽつりぽつりと降り出した。
いつしかそれは、アンリ=クレイマーの死を知ったファンたちの涙雨となっていた。
翌朝、時はすでに午前9時を刻んでいた。
カインはシャワーを浴び、さっぱりしたところで新しいシャツを羽織りテレビをつけた。
ライは一昨日からボルドーに取材に行っている。本当はベルサイユに行っているはずなのだが、急にネタが出来たとかで前日になって予定を変更していた。今日の夕方には戻ると言っていたが怪しいものだ。時期を外してはいるが、酒好きだから今頃派手に飲んでいることだろう。上手く取材が終わっていればいいが、とカインは思った。
電話が鳴り、カインは音を小さくした。
「アロー」
『おはよーございます、ノエルさん! お元気ですか?』
受話器の向こうからは、やたら元気のいい若い男の声が響いた。
朝からこんな声を出すのはひとりしかいない。
カインは思わず苦笑した。
「やぁ、ミカエル君。元気なのは君のほうだろう。え? ・・・いや、失敬。元気だよ。朝から暇なのかい? 編集部は」
『そんなわけないでしょう! 僕を誰だと思っているんですか!! 我らが“月刊旅行誌ボワジュール”看板作家ノエル=キャンドルライト先生の敏腕編集ですよ!! 日々大忙しなんですから。』
「そんな寒くなる形容詞を俺の名前につけないでくれるか? それで? 何か用だったんだろう? 次の取材先のご指名でも下ったかい?」
『そうそう、忘れるところでした。』
ノエルの自称敏腕編集担当者、ミカエル=ボナパルトとのやり取りはいつも決まってこうだった。大手雑誌社の有名旅行雑誌編集部に所属する彼は、カインより2歳年下で入社当時からカインの担当として手腕を発揮してきた。確かに才能はあるのだが、如何せん少しヒトとずれたところがあるのが玉にキズなのだが。
『一応ノエルさんの了承もとれって言われたんで電話したんですよ。』
「で? 編集長は何処がいいって?」
カインの表の本業、旅行雑誌の記事の取材先は本人に任されることが殆どなのだが、時々雑誌の特集の都合上ご指名がやってくる。
『それがですね、北欧辺りはどうか? と言うことなんですけど。結構良いと思いません? 季節的にも!!』
このはりきりボーイは何故こうも朝っぱらから元気なのだろうか?
カインは二日酔いの頭を抱えた。とはいえ前ほど酷いものではなかったが。
「そりゃいいけど、北欧って言ったって色々あるだろう? ミカエル君。スウェーデンとか、フィンランドとか・・・」
『何処だと思います?』
何処でもいいよ、この際。とは言えなかった。早く解放してくれ、と疼く頭でカインは祈るばかりだった。
『ノルウェーですよ! ノルウェー!! 今の時期なら白夜で最高だと・・・、あれ? ノエルさん? もしもし・・・?」
カインは受話器を持ったまま沈黙した。驚いたように、ただ呆然と。
今、ノルウェーと言ったか?
『ノエルさーん!! もしもーし!! あれ? ノエルさーん!!』
「あ? あぁ、すまない。何処だって?」
『もう、聞いてなかったんですか? ノルウェーですよ。あそこだけ取材されてないでしょう? だから編集長が是非にって。・・・もしかして、何か不都合がありましたか?』
「いや・・・大丈夫だよ。それで話を進めて構わないから」
『わっかりましたー! それじゃー、失礼しますっ!!』
一方的に挨拶され切られてしまった。
カインはため息をついて受話器を元に戻した。
「ノルウェーか・・・」
脳裏に昔のことが走馬灯のように駆け巡る。
おぞましいもの、懐かしいもの、愛したもの、憎んだもの、全てが『そこ』にある。
光も闇も、愛も憎しみも、その全てを抱えた場所。
だからこそ逃げたのかもしれない。
ミカエルの口から告げられたとき、カインは確かに動揺した。
15歳のときに二度と来ることはないだろうと思って土地を去り、6年前、現実から逃げるためにあの地に帰った。そして、今の今まで3年もの間、ノルウェーの地を踏むことを拒み続けた。あの場所に帰るだけで自分は悪魔になる。あの『北の悪魔』と同様に。
「また・・・、俺に何かさせる気なのか? あんたは。15年前、俺をずたずたにしたあの場所で。あんたを殺したあの国で。・・・6年前みたいなあんな目にあわせて俺を悪魔にしたいのか? ・・・皆が俺に望む、あんたの『後継者』にしたいのか!?」
今はもうこの世にいない。されどいつもあの男の影がつきまとう。
『北の悪魔』
決して失敗することのない影の暗殺者。
誰もが自分に、自分たちにこの男の影を求める。そして、自分たちは未だにこの男の影に怯えている。
「・・・あんたは死んだ。俺の・・・俺たちの手で殺したんだ。いるはずがない。『北の悪魔』はもういない。たかだかノルウェーに取材に行くだけだ。依頼なんかじゃない。・・・『仕事』じゃない。」
自分自身に言い聞かせるように、カインは何度も「大丈夫」と繰り返した。
「彼女たちがいる。久し振りに会える。大丈夫、大丈夫だ。」
ヘルメイもアンリも自分の意志で始末した。レイモンドの呪縛を断ち切るために。自分の意志で自由になるのだと。決して、自分の中に眠っているであろう『北の悪魔』の意思に動かされてなどいない。
カインは何気なくテレビの音量を戻した。
今まで女優のスキャンダル報道をやっていたのだが、急に報道が切り替わった。
『未明に発見されたホテルの前に来ています。このホテルの最上階にある一室で、劇団『フラン=フォルテ』の俳優アンリ=クレイマー氏が遺体となって発見されました。これについて警察からはまだコメントは発表されておらず・・・』
カメラが切り替わり、大勢の報道陣と野次馬が映った。泣き崩れる若い女性たちが口々にアンリの名を叫ぶ。
それらを背景に女性ベテラン・リポーターが淡々と状況を報告する。
一通りの報道が終わると、スタジオのアナウンサーに映像が変わり、アンリ=クレイマーという人間について語り始めた。
カインは話し途中でスイッチを切り、部屋を出た。
表情はあまり冴えない。
面倒なので、朝食はマダムのところに行こう、そう考えながらいつもの階段横の扉を開けた。
最初に飛び込んできたのは、はっとして振り返ったマダム・ノーラの顔だった。
「カ・・・ノエル」
彼女の向こうに、2人の男が立っていた。ひとりは40後半から50絡みの男。がっしりとした体格は年齢を感じさせず、無表情な顔に刻まれた皺はその性格の厳しさを表したようだった。一方、もうひとりはまだ若い。カインとそれほど変わらないように思える。やたら人懐っこい笑みを向けてくる、一見好青年タイプだ。
「Bonjour,ムシュウ。ノエル=キャンドルライトさんですね」
好青年のほうが笑み絶やさぬ顔で話し掛けてきた。
「そうですが・・・」
カインは内心失敗したと思った。つい、いつも持っているはずの眼鏡を部屋に忘れてきてしまったのだ。
貴方方は? と、努めてカインは冷静に相手の身分を問うた。傍でマダム・ノーラがはらはらした様子でその光景を見守っている。
「パリ警視庁の刑事、ルイ=オージュです。彼はオーギュスト=ブラフマー警部」
オージュ、と名乗った刑事は丁寧に挨拶を始めた。警部とか言う男のほうは無愛想に少し頭を下げただけだった。まったく対照的な印象を与えるコンビだ。
(あれ・・・?)
ブラフマーと目が合った瞬間、不可思議な記憶がカインを襲った。
何処かで会ったことがあるような、不思議なデジャ・ヴ。
「すみません、ムシュウ。えー、キャンドルライトさん?」
「あ、はい?」
若い男の声にカインは我に返った。
「えぇーと、ですね。ちょっとお話をお伺いしたいんですが、あの~」
この刑事、どうやら得意なのは挨拶だけらしい。全く要領を得ない。
カインは警部という肩書きの男に目をやった。その視線に気づいたのか、ブラフマーは、きっ、とオージュを睨んだ。その眼にオージュは怯えたように反応する。
ありがちな上下関係か、とカインは内心笑ってしまった。
「今朝・・・、その・・・遺体で発見されたアンリ=クレイマー氏について・・・少々お聞きしたいのですが・・・」
おどおどした口調でようやく言い終え、オージュはほっとした表情を見せた。
「構いませんよ、朝食をとりながらでよければ」
「はい、結構です」
「そうですか? それじゃ、マダム朝食をよろしく。あ・・・、刑事さんたちもいかがです? 美味いですよ」
「本当ですか? いただきましょうよ、警部。明け方から駆り出されてまともに食べてないんですから」
「・・・好きにしろ。それよりもおまえレコーダーはどうした?」
「あ・・・忘れた」
「さっさととってこい! バカ者!!」
ブラフマーに怒鳴られて、オージュは慌てて店の外に消えた。
「お恥ずかしいところを」
「いいえ、お気になさらずに。さ、どうぞ」
カインは傍にあったテーブル席をブラフマーに勧めた。マダムは3人分の朝食を運ぶと何も言わずに店の奥へと隠れてしまった。
マダムと入れ替わりに青年刑事が片手サイズのテープレコーダーを持って戻ってきた。
「美味いカフェ・オ・レですね」
質問を始めるわけでもなく、オージュとブラフマーは朝食をとり始めた。世間話をしながら食べるオージュをブラフマーは気にもとめない。
カインの視線に気づいて、ブラフマーは苦笑した。
「すみません、躾がなってなくて。まったく、ICPOを追い出されたわけがわかるな」
「ひどい! 追い出されたわけじゃありません。辞めたんです! だいたい只の長期療養者の身代わりだったし。本庁のほうが僕にはあってますからね。」
「ICPOにいらっしゃったのですか?」
2人の会話に笑いを噛み殺していたカインが、ふと割って入った。オージュがきょとんとする。
「はい、先月まで。半年ほどでしたけど。あ、追い出されてませんよ。本当に。」
「ははは・・・、いや、そういうことじゃなくて」
真顔で弁明する姿が面白くて、ついカインは声を出して笑ってしまった。思わず彼が刑事だということを忘れてしまいそうになる。
「もしかして、ノア=シェルダンという男をご存知では?」
「ノア? あぁ、彼ですね。知ってますよ、もちろん。最初で最後に組んだのが彼ですから。良い人です。誠実で親切だし。刑事にしては優しすぎるくらいだった。何故彼を?」
「ちょっとした知り合い・・・いや、友人かな? 最近忙しいみたいでなかなか会えないんですけどね」
「ICPOは今ある麻薬組織を追っているって・・・、痛っ!」
突然オージュは叫んで足をさすりだした。どうやら蹴られたようだ。
「申し訳ありません。ろそろ本題に入らせていただいて宜しいかな」
平然とした様子でブラフマーが口を開いた。どうやらこの2人、いつもこの調子らしい。
「えぇ、いいですよ。で、聞きたいこととは? アンリ=クレイマーとの関係、ですか」
カインは一瞬だけ鋭利な光をその双眸に宿した。
ブラフマーは流石と言うべきか、まったく動じた様子がない。口元が微かに笑ったようにも見えた。冷静な男だ。
オージュはオージュで気もついていないようではあったが。
「話が早く済みそうだ。オージュ、スイッチを」
録音させていただきます、と断ってからオージュはレコーダースイッチを押した。
「昨夜は『フラン=フォルテ』の観劇に行かれたそうですね」
聞き込みの主導権を握っているのはブラフマーらしい。オージュは必死でメモをとっている。
「えぇ、ここのマダム・ノーラと一緒に。アンリとは上演前に少し顔を合わせて、終わった後に楽屋へ行きました。ムシュウ・フェルナンドにマダムを紹介してくれると言ってくれたので」
「そこは先程マダム・ノーラにお伺いしました。クレイマー氏とは親しかったようですね」
「親しい、というほどでは・・・。先日友人のパーティーの席で初めて会ったばかりです。彼は社交的なようでしたからね、初対面の相手にも臆することがない。」
「クレイマー氏は、それでも随分貴方を気に入っていた・・・というか、執着していた・・・というか・・・」
ブラフマーは言いにくそうに言葉を濁した。
「それは・・・どういう意味です?」
「ご気分を害されたのならば謝ります。いえ、クレイマー氏の関係者が皆ひどく彼に入れこんでいたようで・・・。まぁ、貴方の場合はどうも“逆”の立場らしく、他の連中は良く思っていなかった様子ですよ」
カインは初めて表情を歪めた。
昨夜のアンリの姿が脳裏をよぎる。
「彼が私に近づいた理由は警部さんの言う通りでしょうね。私も子供じゃないから彼の態度ですぐに見抜けましたよ。でも、言っておきますが私は決して“そっち“側の人間ではありません。・・・いい加減に本題に入ったらどうです? 貴方方が聞きたいことはこんなことじゃない。当時の私の“行動”と“アリバイ”。違いますか?」
オージュが驚いたように目を見開く。一方ブラフマーは低く笑った。
「・・・失礼。我々にとってはすでに本題なんですよ、ムシュウ・キャンドルライト」
「ノエルで結構ですよ、長いですから」
「どうも、ノエルさん」
煙草、宜しいですか? と断ってからブラフマーは火をつけた。紫煙が広がる。
カインもシャツのポケットから取り出して1本咥えた。
ブラフマーがすかさず火を差し出す。
「どうも・・・。それで? 警部さんはあの件を“他殺”とお考えなんですか?」
「いや、そこまでは・・・。でも“自殺”とも決まっていません」
「それで私に聞きたいことは?」
カインは煙草の灰を傍にあった灰皿に落とした。目は真っ直ぐ灰を見つめている。
「・・・先程の続きです。貴方はマダム・ノーラを帰した後、アンリ=クレイマー氏の車に乗って共に彼の滞在先のホテルに向かった」
「えぇ、話がしたいと言われたもので。純粋に彼に興味があったのは事実ですよ。まぁ、彼が私のことをどう思っていたかは別にして、ね」
「結構です。その後どうされました」
「アンリとシャンパンを飲み、少し話をしました。でもそんなに長居はしていません。すぐに部屋を出ましたよ」
「何故?」
ブラフマーの眼が探るようにカインを見た。
カインは思わず言葉を詰まらせた。
「何故って・・・あ、当たり前でしょう? 彼は連日の公演で疲れていましたから。その後友人に迎えに来てもらって飲みに行きました」
「『La Lune Blue』というバーですね。そのことは店のマスターの証言があります。ご友人のゼニス=ヴォーカルさんにも伺いました」
オージュが得意げにメモを読んだ。今朝から聞き込みにまわった甲斐があったことを素直に喜んでいるようだ。
カインにはこの2人に付き合わされたユーシスやZの顔が目に浮かぶようだった。特にユーシスは昼夜逆転生活を送っているだけに、明け方から叩き起こされたのでは不機嫌極まりなかったことだろう。
「彼の死因と死亡時刻は? 警部さん」
カインは再びブラフマーに視線を移した。彼はオージュからメモをひったくるとぱらぱらとめくり始めた。自分ではとらない主義らしい。
「検死の結果待ちですがね。鑑識の話では死因はおそらく睡眠薬の過剰摂取ではないかとのことです。ベッドの下から様々な睡眠薬の空き瓶が出てきました。多分そのうちのひとつだと思いますが、無茶な飲み方でもしたんでしょう。死亡時刻はまだ断定しかねます」
「殆ど“自殺”という見方をしているようですね、警察側は」
「・・・まぁ、そうなりますな。彼について何か気づいたことは?」
右手に持っていた煙草を揉み消し、オージュにメモを放り投げた。彼は「投げないでくださいよ! もう」とブラフマーに文句をたれる。
カインはカフェ・オ・レを飲み干し、ブラフマーを見た。
「さぁ、どうだったかな。複雑な環境で育ったということは聞きましたが・・・他には・・・。気さくで、おおらかな性格でしたね。まぁ、人に弱みを見せるようなタイプでもなかったようですから。」
「その通りです。誰に聞いてもそういう答えが返ってくるんですよ。それでは、朝早くからどうもお騒がせしました。ご協力ありがとうございました」
ブラフマーはオージュを促し頭を下げた。思いのほか社交的な表情をブラフマーから見受け、カインは正直驚いた。
カインも椅子から腰を上げる。
「いえ、たいしてお役に立てずすみません」
「とんでもない。それじゃ」
そう言って出て行こうとする2人の刑事をカインが引き留めた。ブラフマーとオージュはそろって振り返る。
「・・・何か?」
「いえ、アンリの葬儀がいつあるかご存知ですか?」
「さぁ・・・。遺体もまだ返しておりませんので。早くても明後日になるかと思いますよ。」
少し不思議そうに首を傾げたがオージュは素直に答えた。ブラフマーは少しカインの顔を見たが、最初に入ってきたときと同じように一言も発することなく、そのまま外に出て行った。
「カイン」
2人の背中を見送ったカインに、マダム・ノーラが呼びかけた。
「当り障りのないことを言ったつもりなんだけど・・・」
「ありがとう・・・。大丈夫だよ、マダム」
カインは穏やかな笑みをマダム・ノーラに向けた。マダムも安堵の笑みを浮かべる。
しかし、彼の心は表情とは裏腹だった。
(あの、ブラフマーとかいう刑事・・・)
警部の、あの厳しい表情が脳裏に甦る。
俺は、あの男を知っている・・・?
会ったという明確な記憶はない。にもかかわらず何故か知っている。
カインはその妙な違和感に寒気を覚えずにはおれなかった。
一方で2人の刑事の車は本庁のあるシテ島に向かっていた。
「ノエル=キャンドルライト、27歳。生年月日は1970年7月17日。職業フリーライター。紀行文が多く大手旅行関係雑誌に執筆中・・・。特に女性関係なし。独身、と・・・」
「どうしたんですか? 警部」
ハンドルを握るオージュが、隣の助手席に座るブラフマーに声をかけた。彼はさっきからオージュの手帳をひたすらめくっているのだ。
「ん? 何か言ったか?」
「ムシュウ・キャンドルライトがどうかしましたか? と聞いたんですよ。車に乗ってからずっと見てますよ、僕の手帳」
そのとき初めてブラフマーは視線を動かした。
「・・・ちょっとな。昔会ったような気がするんだが・・・」
「彼とですか?」
オージュは意外そうに声をあげた。
「僕とひとつしか違わないんですよ、歳が。いったい幾つのときに会ったことがあるって言うんですか。他人の空似じゃないですか?」
「・・・そうだな、気のせいかも知れんな・・・。それよりあの男、とんでもない曲者かも知れんな」
「は?」
「影はあるが鋭くて良い眼だった。若いくせに、ありゃかなりの苦労を背負ってきた男のものだ。ただのフリーライター如きの眼じゃねぇ」
「そうですかねぇ。人の良さそうな感じでしたけど」
オージュの言葉にブラフマーは呆れた様子で深く溜息をついた。
「全くいったいいつになったら一人前になるんだ。おまえは」
相手の表面的な部分しか見ることのできない人間に。どうして刑事が勤まるのやら。ブラフマーには不思議でならなかった。
しかし、ブラフマーもまたカイン同様にこの不思議な既視感に戸惑いを隠せずにいたのだった。
同じ頃、郊外の邸宅でひとりの男が朝食を楽しんでいた。
まるで俗世間から隔離されたかのように、静かで、穏やかなときを過ごしているようだった。
「そうか、2人目も死んだか。しょうがない連中だ」
初老の男の眼は窓辺に集う小鳥たちに向けられていた。言葉とは裏腹に、なんとも優しさに溢れた瞳をしている。
「あの男は大丈夫なんだろうな? これ以上の失敗は許されんぞ」
ぱたんとファイルを閉じ、若い男は口許に笑みを浮かべた。
「ご安心を、旦那様。切り札はこちらの手の内に・・・」
「ふふふ・・そうか。おまえに全てを任せておけば私は安心できるというものだ。これからも期待しているぞ。」
低く笑うレイモンドの姿に執事は目を細め、「失礼します」と断って退出した。
「『悪魔の御子』たちも私の手の中だ。私は超えるのだ。全てを超越したあの『北の悪魔』を」
大いなる野望がついに実現する。レイモンドはまるで世界の覇者にでもなったかのような気分を味わっていた。
その勝ち誇ったかのような叫びを扉越しで聞きながら、執事は、フィロス=ルーベルスは声を殺して笑った。
「せいぜい今のうちに喜んでいるがいい。・・・必ずご期待に沿うてみせますよ、マスター」
眼鏡を人差し指で直し、フィロスは再び笑みを浮かべた。
美しすぎるほどの残酷な笑みを。