疾走 【7】
戦国時代。この時代の始まりについて、正確で具体的な年代、事例は述べられない。一般的には明応の政変、あるいは応仁の乱と言われているが、それは広義の範囲で捉えた考え方であり、とても正確なものとは作者は思えない。しかし、この時代が何処から始まったかということに関しては、いつ戦国時代が始まろうと畿内であったと作者は思っている。
享禄から天文にかけて畿内は、戦国時代の始まりから治まらぬ治安がさらに深刻化し、戦国の世の模範とも言える動乱の渦の中にあった。
享禄四年、細川晴元と細川高国の長年の争いが「大物崩れ」と呼ばれる天王寺の戦いで決着、それまで晴元派、高国派と別れていた畿内の権力構造は高国の敗北で晴元に移り、ようやくまとまったかに思われた。しかし今度は細川晴元が権力を一手に握ろうとしたことに対し、晴元側であった三好元長が不満を募らせ、また、元長を邪魔者と見る者達が晴元のもとに集まるなど、再び畿内の権力構造は乱れようとしていた。
細川晴元と三好元長という元々は味方同士であった者の対立が鮮明になる中、この対立に追い打ちをかける出来事が起きた。河内国の守護、畠山義堯の配下にあった木沢長政という者が、細川晴元に内応するという計画が畠山義堯に露見、激怒した義堯は木沢長政討伐に乗り出したのであった。この段階ではそれほど細川晴元と三好元長の対立に影響を与えていなかったのだが、畠山義堯に三好元長が加担し、二人の対立に大きな影響を与えたのであった。
天文元年、細川晴元と三好元長の対立は飯盛城の戦いで決着、元長、義堯の二人が討たれ、晴元の勝利となった。勝因は細川晴元が三好元長が肩入れする法華宗の対立宗派の根拠地である山科本願寺を味方につけ、山科本願寺を中心とした大規模一揆軍を三好元長攻めに利用できたことにある。
畿内で細川晴元に対立する勢力が敗れた為、今度こそ畿内の動乱は治まるかに思われた。しかし今回も治まることはなかった。細川晴元の勝利に貢献した山科本願寺一揆軍、いわゆる一向一揆軍は収まる兆しを見せず、大和国へ侵攻、そこで本願寺ゆかりの寺までも襲撃し、一揆を呼び掛けた山科本願寺でさえも止めることは出来なくなってしまったのである。これには細川晴元も驚き、管領の立場から本願寺との決別、一向一揆鎮圧を決意したのであった。
細川晴元の本願寺決別を知った山科本願寺の事実上最高指導者、蓮淳は一向一揆の行動を認めると共に、晴元攻撃に動き出したのであった。しかし細川方に近江の将、六角定頼や法華一揆が加担し、圧倒的な兵力で山科本願寺を焼討にされてしまったのだった。
山科本願寺を焼討にされると、本願寺法主の証如は石山御坊を石山本願寺と改めて抵抗を続けた。しかし直ぐに、細川、六角、法華一揆軍に包囲された。
天文二年、石山本願寺の堅い守りを活かし、本願寺勢力は抵抗を続けていた。そこに、細川晴元に恨みを抱く勢力が挙兵、本願寺を包囲している軍は一時包囲を解き、敵の攻撃に備えたのであった。
将軍、足利義晴より本願寺討伐令を預かった六角義賢は、観音寺城のある一室で、父であり近江の将である六角定頼からこれまでの畿内動乱について大まかな説明を受けていた。
「…ということじゃ」
定頼は長い長い畿内動乱の説明を言い終え、軽く溜息をついた。
「なるほど、あまり関わりたくない問題ですね」
義賢は冴えない表情で言った。
「全くそうだ。晴元にそそのかされて本願寺に手を出したのが間違いだった」
義賢の言葉に定頼は深く後悔するように言った。そして続けて言った。
「義賢、もう首を突っ込んだら退くに退けん。六角家は畿内動乱を上手く利用し、成長していくのみだ」
定頼は言い終わると勢いよく立ちあがり、部屋から出て行った。
部屋に一人残された義賢は、懐から将軍より預かった討伐令を出してしばらくそれを眺めた。この討伐令を届けるだけで事が終わってくれれば良いと思うと、討伐令を懐に戻して部屋を出たのであった。