疾走 【6】
桑実寺は観音寺城のある繖山の中腹にあり、六角義賢が元服の儀式を行った観音正寺へと登る途中に位置している。
寺伝では、天智天皇の四女、元明天皇の病気回復を僧に祈らせたところ、琵琶湖から薬師如来が君臨し元明天皇の病気を治したという。これに感激した天智天皇はこの地に寺の創建を命じ、藤原鎌足の長男であった定恵が創建した。寺名は、定恵が唐から持ち帰った桑の実をこの地の農家で栽培し、日本で最初の養蚕を始めたことに由来する。
天文元年には、室町幕府十二代将軍、足利義晴が六角氏の保護の元に幕府をこの寺に設置した。
この桑実寺に設置された幕府は仮のものではあったが、奉公衆、奉行衆を引き連れ、僅かながら兵も置かれていたということで、本格的なものであった。
六角義賢の元服の儀式から一夜明けた日、二人の男が桑実寺の総門をくぐった。
一人は子の刻に寺に帰りついた足利義晴、もう一人は六角義賢であった。
「まるで観音寺城にもう一つ城があるようだ」
卯の刻、今まさに総門をくぐった義賢は言った。
義賢の視界には、成就坊、円照坊、地蔵堂、そして一番遠くに三重塔が見えた。桑実寺の規模は義賢の想像を超えるもので、彼はしばらく寺の規模に圧倒されて突っ立っていた。
「義賢様ですね。こちらへ」
一人の僧がどこからともなく現れ、義賢を幕府のある正覚坊へと案内した。
総門から正覚坊まではそれほど遠くはなかった。総門から直ぐに曲がると、あっという間に正覚坊に入り、気がつけば将軍が控える部屋の前に来ていた。
義賢は案内の僧に礼を言うと、頭に被っている折烏帽子を整え、ぎこちなく、将軍の控える部屋に入って行った。
「元服の儀式からまだ一夜。心落ち着かぬうちに呼び出してすまんかったの」
義賢が部屋に入り座ると、上座に座る足利義晴が声を発した。義晴の声はどこかに嬉しさを隠したような声であった。そして表情も、これから愉快なことでもあるかのようなものであった。
「いえ、元服して早速に将軍様とお話が出来るというのは…まったく嬉しいかぎりでございます」
義賢は義晴の声と表情に不気味なものを感じたが、将軍相手にどうこうできるわけではないので普通に言葉を返した。
義晴は義賢の返答を聞くと満足そうに頷き、手を羽織の内に入れて書状のようなものを出した。
「これが何か分かるかの?」
義晴は書状のようなものを義賢に見せるように手に持ち、言った。
「……分かりません」
義賢は少し間をおいて言った。そして少し視線を落とした。
義賢にとってこの展開は想像の範囲内であった。昨夜、父である六角定頼に呼び出され、将軍が会いたいと言っていると聞かされた時点で想像はついた。将軍がわざわざ呼び出すというのは、自分に何か仕事を与えようとしている。そして、未熟な自分を将軍が手の内に入れようとしている。ここは何とかしてそれを防がねば…
「………聞いておるのか?」
義晴が言った。その声で義賢は我に返った。
「何か考えごとか?まあ良い、そのキレる頭で存分に疾走してくれ」
義晴は続けて言うと、皮肉な笑みを浮かべて退室して行った。
義賢はしまったと思った。心の内で考え込んでいるうちに、義晴の言葉をすっかり聞き逃してしまった。しかも自分の目の前には、先程、義晴が持っていた書状のようなものが置いてあり、すっかり仕事を与えられてしまっていた。
「これを細川晴元殿に届けるようにと。その紙には本願寺討伐令が入っているそうです」
横に控えていた幼い小姓が言った。
それから義賢は討伐令を届ける仕事の説明を受け、どうでもよい土産を寺の者から受け取らされた後、重い足取りで桑実寺の総門をくぐった。
時は辰の刻になっていた。太陽が昇り、世ではこれから一日が本格的に始まろうとしていた。しかし、義賢の心は既に夕暮状態であった。
「まだまだ…これから」
義賢は将軍の手の中に乗りかかりかけている自分を励ますように言うと、何か挽回する手立てがないか考えながら観音寺城へと歩いて行った。