疾走 【5】
将軍、足利義晴は六角義賢の元服式を見届けたあと、六角定頼の居館に足を進めながら今までのことを思い起こしていた。父である足利義澄が京を追われ、近江の六角氏に身を寄せていた時に私は生まれた。それ以来、私の人生は落ち着かぬものであった。私が誕生して間もなく父は死去、その後は近江を出て播磨の赤松義村の元で養育された。養育先での扱いも居心地の悪いものであったが、第十二代将軍になってからはもっと居心地が悪かった。居心地が悪いというより、居場所が無かった。
しかし、生まれ故郷である近江に戻ってからは違った。私を保護してくれている六角氏、特に六角定頼は真剣に将軍である私の立場を考えてくれた。嬉しかった。初めて一人の人間として行動することを許された感じがしたからであった。だが、定頼も心の底では私を利用しようとしていることには気づいている。それだけに、次の「近江の将」になる者を飼い馴らす必要があると考えた。次は私が人を利用する番だ。
「お待ちしておりました。さあ、さあ、お座りください」
亥の刻、定頼の居館に到着し、待ち合わせの部屋に行くと定頼が頭を下げながら出迎えた。義晴は黙って定頼の向かいの座布団に座った。
「粗末ではございますが、今宵はごゆっくりと」
義晴が座ると、六角家の小姓が料理を乗せた膳を運んできて、自分と定頼の前に置いた。定頼は料理が置かれると、笑みを浮かべながら言った。
「言われなくてもゆっくりしますよ。ここは他国と違って居心地が悪くないですから」
義晴は静かに言った。
しばらくの間、二人はありきたりな会話をしながら時を過ごした。義晴はいつ本題を切り出そうか迷い、もどかしい思いで会話を続けていた。それを定頼は察したように、本題に関わる話題を投げてきた。
「義賢のこと、どのように思われましたか?」
定頼が言った。義晴は本題を切り出せると思い、少し背筋を伸ばし、目を大きくして言葉を発し始めた。
「頼もしい若者に見えました。これなら六角家は安泰、いや、我らに代わって天下の政治を取り行う勢力に成長させることでしょう」
「面白いことを言われますな。将軍様がそのようでは、幕府はますます求心力を落としてしまいますぞ」
将軍である者が、「我らに代わって天下の政治を取り行う」と言ったことに対して、定頼は大きく笑いながら言った。
義晴は定頼の笑いはただの演技に過ぎないということは分かっていた。今の六角家なら、室町幕府に代わって天下の政治を操る勢力になる可能性は十分にあると思っていたし、六角家に限らず、全国の有力大名はそれを狙っている。その上で、我ら足利に味方するように振る舞い、利用しようとしていることは、自分の今までの人生でよく分かっていることであった。
「そうですな…このままでは求心力が落ちてしまう。何か良い手は……」
義晴はわざとらしく考え込んだように言葉を発し、眉間にしわを寄せて目を瞑った。そして直ぐに目を開けて、今思いついたように言った。
「そうだ、定頼殿。義賢殿を貸して貰えませんかな?」
定頼は思いがけない義晴の言葉に、あっけに取られたように黙り込んでしまった。
「実はですね…」
義晴は黙り込んだ定頼に構わず、本題を切り出して畳みかけた。義晴は言葉を弓矢のごとく定頼に浴びせ、定頼に断る余地をなくしてしまった。
時は子の刻になった。「近江の将」、六角定頼を言いくるめた足利義晴は満足そうに定頼の居館を出た。外は満月に照らされた夜が広がっていた。その満月は今までの人生で見た中で一番美しく見えた。何故なのか。彼は満月をぼんやりと見ながら考えた。そして、初めて自分主導で物事を動かそうとして浮かれている自分に気づいた。
義晴は満月に照らされた山中をゆっくり歩きながら、桑実寺を目指したのであった。