疾走 【3】
元服の儀式が始まってから、しばらくの時が流れた。四郎の髪は僧侶たちによって剃り落とされ、見事な大月代となった。
大月代とは月代という髪型の変形型であり、前額から頭の中央にかけて髪を剃り落としたものである。
その大月代の髪となった四郎は、元服会場の者の視線を一挙に受け、少し顔を赤らめながら視線を少し落としていた。そして四郎の前では、今まさに、六角定頼が和紙に四郎の元服名を書こうとしていた。
「では、元服者の元服名を発表いたします。元服者、ならびに会場の方々はご注目くださいませ」
定頼が和紙に元服名を書き終え、式を取り仕切っている僧侶に合図すると、僧侶が会場に響く声で言った。
「六角定頼嫡男、六角四郎の名を改め、これより六角義賢とする」
定頼は元服名を書いた和紙を広げて立ち上がると、威厳のあるはっきりとした口調で言った。四郎は黙って深く頭を下げた。それに従い、六角家の家臣等も深く頭を下げた。
「それでは義賢様、何かご挨拶を」
少し間を置き、会場の者が頭を上げてから取り仕切りの僧侶が、元服し四郎を改めた六角義賢に呟いた。義賢は誰にも気づかれないように深く深呼吸すると、会場の一番前を見た。先程までそこにいた定頼は既に横に退いており、主役が座る一番前の座布団には誰もいなかった。自分以外の尻は寄せ付けぬという雰囲気が、主役の座る座布団から漂っていた。
義賢はゆっくりと立ち上がり、最前列から一番前に出て主役の座に座った。それまで視線は少し下へ向けていたが、主役の座に座って初めて視線をはっきりと前に向けた。主役の座からは今まで経験したことのない光景が広がっていた。自分の方へ視線が痛いほどに向けられ、視線を向ける者達全員が自分を仰いでいるように見えた。義賢は心臓が破裂する程に緊張している自分に気づいた。しかし、「近江の将」の子である以上、緊張によって恥ずかしい挨拶になっては六角家の求心力への悪影響になってしまうと考え、彼は目をつむり、母から何度も復唱させられた台詞を思い出し、ゆっくり言葉を発し始めた。
「本日、私は名を四郎から義賢に改め、元服することになった。これからは六角家の将として、恥ずかしくない行動、言動に心掛ける。そして、父の天下統一事業を支えるべく、戦場を駆け走りたいと思う。ここで言う戦場とは、血を流す戦のことだけではない。政、外交、計略、全てにおいてのことを言う。私はどのようなことにおいても、戦場と考えて全力で励む覚悟だ。それには皆の力が必要不可欠だ!私を支えて、私に思いっきり駆けさせてくれ!以上だ!」
義賢は最初の方こそ落ち着いた口調だったが、途中からは緊張で早口になり、最後は緊張で声が震えるのを隠すべく、大きな声で言った。終わった瞬間、自分の挨拶は上手く伝わらず失敗に終わったと思った。彼は少し視線を落として、何度も何度も頭の中で自分を罵った。
しかし彼の挨拶は失敗ではなかった。むしろ大成功であった。彼にとって大きな声を出したのは緊張を隠す為であったが、会場にいた者には逞しく、頼れるしっかりとした将の挨拶に映ったのだった。
「素晴らしい、六角家は安泰じゃ」
「二代に続いて名将「近江の将」とは…ワシは一生六角家に仕える」
「立派になられて」
義賢の挨拶を聞き終えた会場からは、称賛する声で一杯になり、拍手が煩いくらいに響き続けた。その様子を、定頼、呉服前は満足そうに見ていたのであった。