疾走 【1】
天文二年、「近江の将」こと、六角定頼は自室で和菓子を食べながら気まずい息抜きをしていた。その近くでは正室の呉服前が着物を畳んでいた。
「お前様、やめなされ」
呉服前は視線を着物に向けたまま少し低い声で、呉服前に背中を向けて和菓子を頬張っている定頼に言った。定頼は先程から大量に和菓子を食べていたので、呉服前は定頼の体を気遣って言ったのだった。しかし呉服前の言葉には、もう一つの意味が含まれていた。それを定頼は分かっている為、黙って和菓子を食べ続けた。
「お前様、とりあえず食べるのをやめていただけますか?私は話がしたいのです」
呉服前は先程と同じ低い声で、そして先程より強めの口調で言った。
「ワシは決めたのだ」
定頼はそう言いながらしぶしぶ和菓子を食べるのをやめ、呉服前に体の正面を向けた。定頼が決めたと言うのは、四郎の元服の事だった。四郎は定頼の嫡男で、今年で十二歳になっていた。
実はこのやりとりの少し前、定頼は呉服前に四郎を元服させるという考えを伝えた。しかし呉服前は猛反対し、二人は散々に言い争い、このような気まずい空気になったのであった。
呉服前が元服に反対した理由は簡単で当然なものであった。六角家は昨年まで数々の外交作業に追われ、今年になってようやく一段落ついたばかりだった。その為、まだ完全には外交が解決されておらず、この時期に息子を元服させるのはあまりに心苦しく、余計な責任を感じはしないかという理由だった。
「まだ畿内は動乱の兆しがあるのですよ!このような時期に元服させるのはあまりに荷が重すぎます」
「それくらいのことを乗り切れないのなら、将来、立派な「近江の将」にはなれん!そなたはいつも甘いのだ!」
「こんな物を食べてるお前様の考えが甘いのです!」
二人はまた言い争いを始めた。そして、しまいには呉服前が定頼の食べていた和菓子を掴み、定頼に投げつけ部屋を去って行った。和菓子を投げつけられた定頼は和菓子の入物を中庭に蹴飛ばすと、顔を真っ赤にして部屋を出て行った。