三雲の思い出
呉服前は多くの侍女と共に、三雲城の中庭で茶を楽しんでいた。
「ほとんど散ってしまったが、この城から見える景色は風流そのものよ」
呉服前は、ほとんどの花を落とし葉桜と化した桜の木を見て言った。その言葉を聞き、周りの侍女達も桜の木を見た。
「呉服前様はこの城が本当に好きなのですね」
侍女の一人が桜の木から呉服前に視線を移し言った。
「そなた達にとってこの城は、観音寺の喧騒から逃れる城でしかないだろう。しかし私は違う。この城は特別なのだ。それもこの時期が一番特別」
呉服前は優しく、そして何かを思い出すように言葉を言った。すると、時がゆっくりと過去に戻ったような気がした。
観音寺城は六角家の本拠城であり、常に有力な国人達が集まっていた。そして「近江の将」である六角定頼が国人達と今後の方針について協議していることが多かった。その為、城内はいつも忙しい雰囲気が漂っており、女、子供にとっては居心地が悪かった。それに対し三雲城という城は全く逆であった。
三雲城は観音寺城の奥城と言われ、観音寺城が危うくなった時の退却城であり、極めて重要な城であった。しかし、退却城である為に普段は静まりかえり、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。それゆえ、六角家の女、子供には大そう好かれていた。
その日、呉服前はまだ幼さが残る四郎を連れて、葉桜に囲まれた三雲城に来ていた。この城に来ると決まって蹴鞠をした。それも日が暮れるまで…。何故なら、普段は厳しい躾役がいる観音寺城では息抜きもままならないため、この城に来ると羽根を伸ばさずにはいられなかったからである。
「あ…!」
呉服前と四郎が蹴鞠を楽しんでいると、四郎が鞠を誤って城の斜面に落としてしまった。
「おやおや…母上が取ってきてあげましょう」
呉服前は優しく微笑むと、近くで寝入ってしまっている侍女を起こすまいと、少しばかり急な斜面をゆっくりと下って行った。しばらくすると、急に呉服前の姿が消えた。まだ幼さが残る四郎は、母の姿を懸命に斜面の上から覗き込んで探した。覗き込むと意外にも母の姿は直ぐに見つかった。しかし、その姿は無残にも斜面の遥か遠くへ落下して、倒れこんでいる姿であった。
四郎の裏返った声で起こされた侍女達は、慌てふためいた。直ぐにでも斜面を下って助けに行こうとしたが、流石に侍女達には無理なことであった。
一人の侍女が男を城内に呼びに行ったが、観音寺城の奥城で敵の攻撃などあり得ない場所にあるという城事情に加え、その日はほとんどの男が鷹狩りに出掛け、残っているのは老将ばかりであり、救出可能な人材は集まらなかった。
四郎は決めた。
周りの侍女が煩いほどに止めるのを無視し、まだ十歳にしかならない四郎は斜面を下り、母を助けにいった。
母の元に到着したのは、斜面を下り始めてからしばらく後のことだった。母である呉服前は気さえ失ってはいなかったが、頭からうっすら血が流れ、医術の知識がない四郎にも良くない状態であると分かった。
四郎は自分の体より大きな母の体を懸命に持ち、斜面の土に手を突っ込むようにして登り始めた。
呉服前は何度か意識が遠のきかけたが、四郎の励ましの言葉を受けながら必死に気をもっていた。
その日の夕暮、呉服前は無事に三雲城で手当てを受け、一命を取り留めた。呉服前が寝ながら横を向くと、そこには四郎も寝かされていた。四郎は斜面を半分以上上った所で力尽きてしまったが、丁度その後に若い男衆が到着し、救出されたのだった。
呉服前は思った。もし四郎が助けにきてくれなかったら、私は死んでいたかもしれない。なにせ、男衆が助けに来たのは夕暮だったから、四郎が斜面の半分以上まで連れてきてくれていなかったら、日が落ちて私の救出は無理だっただろう…と。
「四郎は立派な「近江の将」になることでしょう」
呉服前は寝ながらぼそりと呟くと、眠りに入ったのであった。