疾走 【10】
近江坂本において比叡山延暦寺の僧兵に包囲され、同行を強いられた六角義賢と進藤貞治は、薄暗い藪の中に建てられた館の中にいた。
館はかなり古く、天井や壁のいたるところに隙間が出来ており、ただでさえ薄暗い藪の中にあるという不気味な雰囲気をより一層濃くしていた。また、館の大きさが小さく、義賢と貞治がいる板の間の部屋のみがこの館の部屋であり、四方八方は壁、館というよりは倉庫に近く、異様な圧迫感があった。
近江坂本で僧兵に連れてこられ、この館で待つように言われて一刻は過ぎていた。義賢は部屋の真ん中に座り、そんな雰囲気と圧迫感を感じながら、静かに時を過ごしていた。聞こえてくるのは、雨音と遠い雷鳴だけであった。
「お待たせいたしました、無理を強いた上に長くお待ちいただき…まったく何と言ってお詫びしてよいやら…」
突然、後ろの戸が苦しそうな音をたてながら開いたかと思うと、かすれた老人風の声が発せられた。義賢と貞治が後ろを振り向くと、法衣を纏った痩せた老人が館に入ってきた。その後ろには、義賢と貞治を包囲した僧兵の頭と思われる背の高い男がおり、僧兵の格好のまま入ってきた。
最初に入ってきた痩せた老人の僧侶は、そのまま弱々しい足取りで義賢の前まで歩むと、座った。背の高い男は後ろの戸を閉め、戸の前で座った。
「繰り返すが、無理を強いて申し訳ない。決して、煮たり焼いたりなど物騒なことはありませんから、まずはご安心なされ」
老人の僧侶は繰り返すように、そして今度は義賢をしっかりみて言った。
義賢は僧兵に包囲された際も、そしてこの館で待っている間も恐怖心がなかったので、老人の僧侶の言葉を受けても、特に安心とか、そういったものを感じなかった。
義賢は小さい頃から、父である「近江の将」こと六角定頼と母である呉服前に大切に育てられてきたため、今に至るまで多少の危険なことには出会っても、最終的には必ず誰かに助けて貰っていたために、この時も本当に危なくなったら誰かが助けてくれると言った心構えで、この場にのぞんでいた。そのため、義賢の表情や仕草は、極めて落ち着いたものであった。
「分かりました…それで、まず貴方は?」
義賢は落ち着いた口調で老人の僧侶に言った。
「ワシは妙法院覚胤、比叡山延暦寺の座主じゃ。しかし、流石は近江の将の嫡男、落ち着いておられる、のお、そちらのお方」
覚胤は義賢の落ち着きぶりに感心しながら言うと、義賢の斜め後ろで落ち着きなく座っている貞治を苦笑いしながら見た。
「某は進藤貞治、天台座主の覚胤殿、我等に何用か?そして何故、こちらを六角義賢様だと分かっておるのです?」
貞治は覚胤に馬鹿にされた気がして、少し興奮気味に言った。
「……数日前、近江坂本付近を近江の将の嫡男が通ると聞きましてな、まあ、とにかくそれは良いではござらんか。我等の話を聞いて頂きたい…」
覚胤はゆっくりとそれだけ言うと、続けてひとつひとつ語るように話をしていった。話というのは、山城の法華宗の横暴ぶりについてであり、是非、六角家には法華宗と手を切り、比叡山延暦寺と法華宗抗争の際には、比叡山に味方してもらいたいと言うものであった。また、同時に法華宗に対する誹謗中傷も語られた。
「しかし、我が父は法華宗に対して信仰を持っています。それに、このように私達を連れてきた上に、味方しろとは…」
義賢は覚胤の話を聞き終えると、覚胤に対して言った。
「だからその信仰を切って欲しいと言っているのじゃ。確かに今回の義賢殿に対する非礼は申し訳ない、だが、我々の立場も分かって欲しい。仏の総本山が法華ごときに怯え、諸大名に助けを求めたなど…知れ渡れば比叡山の恥。そんな時に本願寺討伐令を持った近江の将の嫡男、義賢殿が比叡山付近を通ると聞けば、是非、話をつけて六角家を味方にしたいと考えるのは珍しからん…」
覚胤は苦しい立場を義賢に分からせるように悲愴な表情を浮かべ、また時折、感極まったように言葉を詰まらせながら言った。
義賢は覚胤の言動をうけ、いろいろな思いを巡らせた。本願寺、法華、比叡山、互いにいがみ合っていることは元服前より教育僧から教えられてきた。そして教育僧が法華宗の僧であったため、法華宗と対立する本願寺、比叡山については誹謗中傷を交えた否定的な教えを受けてきた。しかしながらこうして覚胤の話を聞いてみると、今度は法華の誹謗中傷が叫ばれている。仏の教えはどの宗派であろうと崇高でありがたいものだと思ってきたが、よく考えれば、自分の考えが通らないと相手を誹謗中傷するものではないのか…。
「義賢殿、当然、この場で即断できる問題ではないし、難しい問題であるとはこちらも分かっております。そう考え込まれず、とにかく父上、近江の将殿に話を通してくださらんか」
義賢が何か考え込んでいる様子をみて、覚胤は言った。
「……分かりました。しかし、こうしたことは六角家にとっても何か良いことがない限りは話にならないと思いますが…山城守、どうですか?」
義賢は覚胤の言葉を受けて我に帰ると、とりあえず返答した。そして同時に、取引においては自分の利益になることは何かを相手に問え、という父の教えを思い出し、覚胤にそのことを問うとともに、斜め後ろの進藤山城守貞治にも意見を求めた。
貞治は外交を専門とする六角家家臣の一人として、義賢の覚胤への返答に対して満足そうに頷くと、義賢の問いに答えた。
「その通りにございます。六角家に利益なければ話を通しても無駄に終わるは必定」
「もちろんその件は考えてございます。義賢殿は本願寺討伐令を持っておられる、そして六角家は本願寺、いわゆる一向宗に苦しめられておられる。我らと結んで頂ければ、対一向宗対策に力を貸すとともに、この比叡山延暦寺に六角家の兵を入れることも許可いたしましょう。周知の通り、比叡山は天然の要塞にございます、火でもつけぬ限りは絶対に落ちぬ堅城同然…」
覚胤は自分へ向けられたも同然の貞治の義賢への返答に、予め考えていたかのように淀みなく六角家にもたらす利益を答えた。
義賢はその覚胤の答えに対し、この条件なら話を通しても良いと納得した。しかし、対一向宗対策に力を貸すという部分に、先ほど考え込んでいた、仏の教えへの不信感が再び刺激された気がした。
この後、義賢、貞治、覚胤は更に具体的な話を続け、話がまとまったのは数刻後のことであり、館を出て街道に戻ったのは夜も近づく酉の刻であった。相変わらず雨は降り続き、空はなんとも言い難い暗さが広がり、雲は無限に広がっていた。そして義賢の心も、仏の教えに対する不信感により、雲が広がっていたのであった。