疾走 【9】
湿った風が布団から出ている顔と足に当たっている。微かに雨音が聞こえる。目は瞑ったままだが、まだ十分に夜の暗さと分かる。丑の刻あたりだろうか…。まだ眠れる、眠っていたい。しかし布団から出ている身体の部分にあたる風、聞こえてくる雨音は何だろう。いくらこの館が古いといっても、この風の当たり方と雨音は普通ではない。戸が壊れたか…それとも泥棒か…。
第百六十二代天台座主、妙法院覚胤法親王、略して覚胤はそんなことを思いながら目を開けた。そして身体は起こさず、首は静止させたまま視線を左右に送った。異常はない。次に風が吹いてきたらしい足元の方を見るべく、ゆっくりと身体を起こした。すると開いた戸と灯り火を持って戸の外側に突っ立っている男が目に入った。
「こんな時間にどうした、なんぞ起こったか?」
覚胤は突っ立っている男が顔見知りであることに気づくと、少し安心した表情を浮かべて言った。
「夜更けに申し訳ありません。朝を待って報告にと思いましたが、思ったより早くこの辺りを通過するそうで…座主様の許可を頂いてからしか動けませんゆえ、こうして参りました」
灯り火を持った男はそう言うと、戸の外側から内側へと足を進め、開けたままの戸を閉めその場に座り込んだ。
天台座主とは比叡山延暦寺の住職で、「山の座主」と呼ばれる通り、比叡山延暦寺を一手に仕切る者のことである。山の座主と言うからには常に比叡山に留まっているというイメージが湧きやすいが、実際には違い、重要なことが比叡山で行われない限りは入山せずに別の場所に住んでいるという座主が多かった。この覚胤もその一人で、比叡山ではなく、その麓に館を構えて生活をしていた。
「あの噂は本当だったか…ならば見つけ次第に連れてまいれ」
覚胤は男の言葉を受けてから何度か小さく頷き、言葉を返した。
「分かりました。しかし上手くいくでしょうか?」
男は覚胤が事の許可を下すのを予測していたかのように直ぐ答えると、少し身体を覚胤に近づけた。
覚胤は男の問いに対し少し喉を唸らせると、視線を男から少し外して黙り込んだ。そして現在の畿内情勢を頭の中に思い浮かべた。まず近江では幕府と「近江の将」こと六角定頼が勢力を展開しているが、この両者は良好な関係であると言え、今後、両者の争いがあるとは考えにくい。次に山城であるが、こちらでは目障りな日蓮宗が法華宗と名乗り、山城の警衛権などを得て好き放題にやっている。その上、細川、六角に協力して本願寺を包囲、さらなる権力上昇を狙っていると聞く。このままでは日蓮宗の権力が上昇を続け、仕舞いには諸大名と結んで我が天台を攻撃するという事態も現実的になってくる…。
覚胤はそこまで思い浮かべると、日蓮宗に対する恐怖心と敵対心が自分の中にあることを改めて実感した。そして同時に、必ず日蓮宗への対策を打たねばならないということも改めて実感した。
「近江の将」、この言葉は六角氏の当主を示すと同時に、近江における一大勢力の持ち主であるということも示している。その「近江の将」を味方につけておけば、これ以上の日蓮宗への備えはない。だから比叡山としては今回の噂は真実でなければならないし、作戦も必ず成功させなければならない。今と未来の「近江の将」を味方につける為に…!
「上手くいく、上手くいかねばならん、多少の手荒い方法を使ってもな」
覚胤は男に力のこもった声で言うと、目と顔で男に退室を促した。男は黙って頭を下げると、静かに覚胤の館から姿を消した。
男が姿を消したのを確認すると、覚胤は再び横になり、雨音に耳を傾けながら眠りに入っていくのであった。