疾走 【8】
天文二年、六月上旬。全国は梅雨に入り長雨が続いていた。この時代、大した整備もされていない街道は泥濘、海、川、湖は水位を高めて荒れ、旅人や商人の足を遅らせていた。春から夏の間におけるこの季節は、徒歩が交通手段の主を占めるこの時代にとって、人々の生活を停滞させるものであっただろう。人々は梅雨が終わるのを待ち、暑い暑い夏が来てようやく動き始めるのだ。したがってこの季節は人気も疎らで、どこか寂しい雰囲気が全国に広がっていたことが想像できる。
近江坂本、普段は琵琶湖の湖上交易で賑わうこの地も、梅雨の影響を受けて寂しい雰囲気が広がっていた。多種多様な物品が並び、商人、旅人の声で賑わう湖岸は人気も疎らで、荷夫が落ち着きなく歩いていた街道には托鉢僧侶がぽつりぽつりと立っているだけであった。
そんな近江坂本を六角義賢と従者の男一人は雨のなか山城国方面へと歩いていた。
「義賢様、そろそろ宿を選びてこの地で泊まりませぬか。遠くで雷鳴も鳴っておるようですし」
義賢の後ろを歩く従者の男が立ち止り、先を歩く義賢の背中に言った。
「ただでさえ遅れているんですよ、もう少し進んでから泊るべきと思うが」
義賢は振り返り立ち止ると、落ち着きなく従者の男に言った。
義賢は焦っていた。観音寺城を出発して早数日、梅雨の長雨による影響でなかなか先に進めず、未だに山城国にすら達していないという状況は、早く成果を上げたいという元服したばかりの義賢には堪えていた。
「外交とは急いで良い結果が出るとは限りませんよ。さあ、明日、天気が良くなることを祈って、今日はあそこで泊りましょう」
従者の男は雨が降ってくる空を少し見上げてから義賢を見ると諭すように言った。そして前方に見える宿を指さすと、義賢の前方に出て歩きだした。
この従者の男の名は進藤貞治。六角氏に仕える重臣で、同じ重臣の後藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれ、六角家臣団の中でもひときわ発言力を持っていた。特に貞治は外交で手腕を発揮し、数々の六角外交を支えてきた実績を持っていた。その為、本願寺討伐令を届けることになった元服して間もない未熟な義賢に、外交の得意な貞治が従者として就くことになったのだった。
義賢は先に進みたい気持ちで一杯だったが、貞治が言い返す暇も与えてくれない早さで自分の前に出て、宿に向けて歩きだしたので仕方なくそれに従った。
「な、何奴」
義賢が貞治の後ろを歩き始めて直ぐ、前を歩く貞治が声を上げた。それまで自分達の進む街道には托鉢僧侶がぽつりぽつりとしかいなかったのが、今は貞治の前に進路を塞ぐようにして複数の僧兵が立ちはだかっていた。義賢は既に刀に手を掛けて戦闘態勢に入っている貞治を見て、自らも刀に手をかけた。今まで剣術の稽古は受けてきたが、初陣を経験していない義賢にとっては初めての戦闘であった。しかし、突然の出来事の為か、恐怖心というものは義賢には湧いてこなかった。
「突然のご無礼をお許しください。「近江の将」の嫡男、六角義賢様とお見受けします」
義賢が貞治に近づき、共に刀に手をかけて前方の僧兵と睨みあっていると、突如、後ろから声がした。義賢と貞治は慌てて後ろを振り返ると、いつの間にか後ろにも僧兵がおり、僧兵の頭と思われる大柄な僧兵が近づきながら声を発したことが分かった。同時に既に義賢と貞治は僧兵に取り囲まれており、抵抗しようにも出来ない状況であることも分かった。
「何奴じゃ、そして何の用だと言うのじゃ」
貞治は諦めたかのように刀から手を放すと、身体全体を声を発した僧兵の頭と思われる者に向け言った。そして義賢も刀から手を放した。
「否定されないということは間違いないのですね。我らは比叡山延暦寺の僧兵にございます。六角義賢様がこの道を通られるという情報を得まして、待ち構えていた次第でございます。決して、悪いようにはいたしません。少しお話したいことがありますので、どうかご同行を…」
僧兵の頭と思われる者は義賢と貞治に敵対する意思がない旨を伝え、二人に同行を求めた。しかしその者は丁寧にこそ言っているが、義賢と貞治を僧兵の包囲から解くことはなく、断るという選択肢はないということを間接的に伝えていた。
「仕方ありませんな…」
貞治は義賢の方を見て言った。
「行くとしましょう。それしか選択肢はないのですから」
義賢が静かに言うと、僧兵の頭と思われる者は作ったような笑みを見せ、二人を比叡山方面へ向けて連れ出すのであった。