第9話 貧民街の真実
馬車が「旧市街・第七地区」に入ると、空気の味が変わった。
石畳は途切れ、車輪がぬかるんだ土を踏む重い音が響く。
窓の外に広がるのは、今にも崩れそうな木造の長屋と、路地に干された洗濯物の山。
そして、裸足で走り回る子供たち。彼らの服は継ぎ接ぎだらけで、肌は煤で汚れている。
「……汚い場所でしょう」
向かいの席で、アレンが自嘲気味に呟いた。
彼は膝の上で両手を固く握りしめ、窓の外を見ようとしない。
「これが帝都の裏側です。華やかな産業革命の影で、置き去りにされた人々が住む場所。……そして、私が生まれた場所でもあります」
「……いいえ」
私は首を横に振った。
「活気があって、いい場所ね。王宮のようなカビ臭い匂いがしないもの」
それはお世辞ではなかった。
確かに貧しい。けれど、ここには「生活」があった。
路地裏で井戸端会議をする女性たちの笑い声、職人が木槌を振るう音。
死んだように静まり返り、腹の探り合いばかりしている貴族街よりも、よほど人間らしい熱気に満ちている。
馬車は、一際古びたアパートの前で止まった。
壁の塗装は剥げ落ち、窓ガラスの代わりに板が打ち付けられている箇所もある。
「……ここです。狭くてむさ苦しいところですが」
「お邪魔するわ」
アレンのエスコートで馬車を降りる。
泥道を歩くと、遊んでいた子供たちが珍しそうに私たちを取り囲んだ。
彼らの視線は、私の蒼いドレスと、アレンの仕立ての良い(といっても安物だが)スーツに向けられている。
「アレン兄ちゃんだ! 兄ちゃんが帰ってきたぞ!」
一人の少年が叫ぶと、アパートの奥からドタドタという足音が響いてきた。
「兄さん!」「兄ちゃん!」
飛び出してきたのは、三人の子供たちだった。
エプロン姿の十六歳くらいの少女、十三歳くらいのわんぱくそうな少年、そして十歳くらいの小さな女の子。
彼らは泥だらけの手で、アレンの足にしがみついた。
「ただいま。みんな、いい子にしていたか?」
アレンの表情が、ふわりと緩んだ。
外務省で見せる「鉄の官僚」の顔ではない。
優しく、温かい、兄としての顔。
彼は一番下の女の子を抱き上げ、頬ずりをした。
「……兄さん、その綺麗な女の人は誰?」
長女らしき少女が、私を警戒するように見上げている。
アレンは少し困ったように私を見た後、弟妹たちに向き直った。
「僕の大切な……仕事の同僚だよ。外国から来たお客様だ。失礼のないようにね」
「同僚? お姫様みたい!」
末っ子の女の子が目を輝かせる。
私はしゃがみ込み、目線を合わせて微笑んだ。
「初めまして。セレスタよ。突然お邪魔してごめんなさいね」
「うわぁ、いい匂いがする!」
「お人形さんみたいだ!」
子供たちの屈託のない笑顔。
その汚れのない瞳を見ていると、胸の奥が痛んだ。
この子たちは知らないのだ。私が「敵国」の人間であり、彼らの生活を脅かすかもしれない存在だということを。
「……さあ、立ち話もなんだ。母さんが待っている」
アレンに促され、私たちはアパートの三階へ上がった。
木造の階段は、歩くたびにギシギシと悲鳴を上げた。
***
部屋は、驚くほど狭かった。
六畳ほどの居間と、小さな台所があるだけ。
けれど、床は綺麗に磨き込まれ、壁にはたくさんの本が積まれていた。貧しいなりに、知性と丁寧な暮らしぶりが伝わってくる。
「まあまあ! アレン、帰るなら連絡してくれればよかったのに!」
出迎えてくれたのは、小柄な女性だった。
白髪交じりの髪を後ろで束ね、エプロン姿の彼女の手は、水仕事で赤く荒れていた。
アレンの母、マーサさんだ。
「突然ごめんなさい、母さん。……どうしても、彼女を連れてきたくて」
「初めまして、奥様。同僚のセレスタと申します」
私が最上級の礼をとろうとすると、マーサさんは慌てて手を振った。
「やだ、そんな丁寧な挨拶はやめてくださいな! こんなあばら家ですが、どうぞ楽になさってください。……まあ、本当に綺麗な方ねぇ」
マーサさんは私の手を取り、温かく招き入れてくれた。
その手はごつごつとして硬かったが、太陽のような温もりがあった。
出されたのは、欠けたカップに入った薄いハーブティーと、焼き菓子だった。
お世辞にも高級とは言えない。けれど、一口飲むと、不思議と心が安らいだ。
「すみません、こんなものしかなくて。アレンからの仕送りのおかげで、これでも贅沢できるようになったんですよ」
「母さん、余計なことは言わなくていいよ」
「何を言ってるの。あんたが外務省なんて立派なところに入ってくれたおかげで、あの子たちも学校に行けるようになったんじゃないか。……亡くなったお父さんも、きっと鼻が高いわよ」
マーサさんは窓辺の小さな写真立てに目をやった。
そこには、若き日のマーサさんと、アレンによく似た優しげな男性が写っていた。
眼鏡をかけ、分厚い本を抱えている。労働者というよりは、学者のような雰囲気だ。
「……お父様ですか?」
「ええ。私の夫、フレデリックです」
マーサさんは懐かしそうに写真を見つめた。
「夫も、アレンと同じ外務省で働いていたんですよ。……もっとも、正規の官僚ではなく、下級の通訳官でしたが」
「通訳官……」
「語学だけは天才的でした。特に、レーヴァニア語が堪能でね。……『言葉があれば、剣はいらない』というのが口癖でした」
ハッとした。
アレンが私に向けた、あの完璧なレーヴァニア語。
そして「言葉で世界を変える」という信念。
それはすべて、父親譲りのものだったのだ。
「でも……死にましたよ。十年前の戦争でね」
マーサさんの声が、静かに沈んだ。
「夫は、戦争が始まる直前まで、ある『極秘任務』に関わっていました。……詳しくは話してくれませんでしたが、レーヴァニアとの平和交渉の通訳をしていたようです」
——平和交渉?
十年前。それは、前回の戦争が勃発する直前の時期だ。
私の父、アークレイン大公が指揮を執り、最終的に決裂したあの交渉。
「夫は希望に燃えていました。『もう少しだ。あと少しで、この国の未来が変わる条約が結べる』って。……でも、ある日突然、交渉は打ち切られ、夫は最前線の部隊へ送られました」
マーサさんの手が、カップを強く握りしめる。
「徴兵ではありません。……『左遷』です。平和を訴えすぎた夫は、軍部の強硬派に疎まれた。……噂では、知りすぎた口を封じるために、激戦区へ送られたのだと」
「……っ」
言葉が出なかった。
口封じ。
平和のために尽力した通訳官が、自国の都合で戦場へ捨てられた。
「遺骨も戻ってきませんでした。ただ、錆びついた認識票が一枚、紙切れと一緒に届いただけ。……この一番下の子、ミナがお腹にいる時のことでした」
マーサさんは、床で遊ぶ十歳の末っ子を見つめた。
あの子は、父の顔を知らないのだ。
父が命がけで守ろうとした平和を知らず、戦後の貧しさの中で育った子供。
「夫の言葉は、砲弾の音にかき消されてしまったんです」
マーサさんは悲しげに微笑み、私の手の上に自分の手を重ねた。
「だから、アレンが『外務省に入る』と言い出した時は、反対したんですよ。……また、父親と同じ目に遭うんじゃないかって。でもあの子は、『だからこそ行くんだ』って聞かなくて」
私はアレンを見た。
彼は窓際で、弟たちに勉強を教えている。
その背中は、いつもの頼りなさげなものではなく、重い十字架を背負った男の強さを感じさせた。
彼は知っているのだ。
自分の父が、システムに殺されたことを。
それでも彼は、父を殺したその場所(外務省)へ飛び込んだ。
父が果たせなかった夢——「言葉で国を守る」という誓いを果たすために。
「……ごめんなさい」
自然と涙が溢れた。
私はテーブルに手をつき、深く頭を下げた。
「私の国が……私の父たちが始めた戦争が、貴女から大切な人を奪ったのです。……なのに、私はのうのうと……」
「謝らないで、お嬢さん」
マーサさんは首を振った。
「夫は、貴女の国のことを悪く言ったことは一度もありませんでしたよ。……むしろ、よく話してくれました。『向こうの代表団にも、話せば分かる立派な方がいた』って」
「え……?」
「名前は忘れましたが、高貴な方だったそうです。……夫はその方を信じていました。だから、貴女がここにいてくれることが、私には嬉しいの」
高貴な方。
まさか。
私の父、アークレイン大公のことだろうか?
あの冷徹な父が、帝国の下級通訳官と心を通わせていたというの?
信じがたい。
けれど、もしそれが真実なら。
十年前の戦争には、公式記録にはない「隠されたドラマ」があったのかもしれない。
そしてそれは、アレンと私が今やろうとしていることの、ルーツなのかもしれない。
「お願いです、セレスタさん。……どうか、アレンを支えてやってください。あの子は強がりだけど、父親に似て、損な役回りばかり引き受けてしまうから」
私は涙を拭い、マーサさんの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……はい。約束します」
これは、外交官としての約束ではない。
二世代にわたる、悲劇の連鎖を断ち切るための誓いだ。
「私は、アレンさんを一人にはしません。お父様が守ろうとした言葉の力を……今度こそ、守り抜いてみせます」
***
夕暮れ時。
私たちはアパートを後にした。
子供たちが「また来てね!」と手を振ってくれる。
帰り道、並んで歩くアレンの横顔を見上げた。
夕日に照らされた彼は、どこか遠くを見ているようだった。
「……お父様のこと、初めて聞いたわ」
「……すみません。湿っぽい話をして」
アレンは照れくさそうに眼鏡の位置を直した。
「父は、お人好しでした。……帝国の利益よりも、目の前の人との信頼を優先するような。だから、出世できなかった」
「でも、立派な外交官だったのね」
「ええ。私の誇りです」
彼は立ち止まり、私の方を向いた。
「セレスタ。私は、父のやり残した仕事を終わらせたいんです。……『蒼い空』の下で、二つの国が手を取り合う未来を、父に見せてやりたい」
「……『蒼い』?」
「ああ、父が好きだった言葉です。『国境には柵があるが、空にはない。空はどこまでも蒼く繋がっている』と」
ドキリとした。
アークレイン家の家紋は「蒼獅子」。
そして私の瞳も蒼。
アレンの父が愛した「蒼」と、私の家。
偶然だろうか。それとも……。
私は彼の手をそっと握った。
「やりましょう、アレン。……私たちが、その続きを描くのよ」
「ええ。……二人でなら、きっと」
繋いだ手から、温もりが伝わってくる。
それは、十年前の廃墟から拾い上げられた、小さな希望の種だった。
この時の私はまだ知らなかった。
アレンの父と、私の父の間にあった「真実」が、やがて私たちを救う最強の武器になることを。
貧民街の路地に伸びる二つの影は、過去と未来を繋ぐように、長く、力強く揺れていた。




