第8話 忍び寄る影
翌朝。
園遊会での「事件」は、私の予想を遥かに超える速度で、毒のように帝都の社交界へ広がっていた。
『レーヴァニアの氷の姫君、グランツ侯爵を公衆の面前で侮辱』
『通訳の下級官僚と密通か? 外交特使の“奔放すぎる”私生活』
外務省へ向かう馬車の中で広げた大衆紙には、そんな扇情的な見出しが躍っていた。
記事の内容はひどいものだ。私がグランツ侯爵に色仕掛けをしようとして失敗し、逆上して暴言を吐いたことになっている。さらに、アレンとの関係については「夜毎、ホテルの一室に彼を引きずり込んでいる」などと、三流官能小説まがいの妄想が書き連ねられていた。
「……文才だけはあるようね、この記者」
私は新聞を丁寧に折り畳み、座席の脇へ放り投げた。
平静を装ってはいたが、膝の上に置いた手は、怒りで白くなるほど固く握りしめられていた。
私への誹謗中傷などどうでもいい。慣れている。
許せないのは、アレンのことまで「姫君の情夫」「出世のために魂を売った男」として、おもしろおかしく書き立てられていることだ。
「……申し訳ありません、セレスタ」
向かいの席で、アレンが苦渋に満ちた声を出した。
彼はいつもの黒縁眼鏡をかけ、手元の資料に視線を落としているが、その目は文字を追っていなかった。
「私の立場が弱いがために、貴女の名誉まで傷つけてしまった。すぐに報道規制を敷くよう上に掛け合いましたが、ボルドー課長補佐に鼻で笑われて却下されました」
「謝らないで。これは有名税のようなものよ」
私は窓の外へ視線を逸らした。
街角の売店には、あの新聞が山積みになっている。
問題は噂だけではない。
昨夜、バルコニーで彼と手を重ねた時の熱が、まだ指先に残っているのだ。
仕事のパートナー。同志。
そう割り切ろうとしても、ふとした瞬間に彼を目で追ってしまう自分がいる。その甘い疼きと、周囲の悪意とのギャップに、胸が押し潰されそうになる。
アレンも同じなのだろうか。
彼は時折、私と視線が合うと、ハッとしたように目を逸らす。そのぎこちなさが、もどかしくもあり、そして少しだけ嬉しくもあった。
***
外務省の庁舎に到着すると、そこは敵意の海だった。
いつもなら慌ただしく行き交う職員たちが、私たちが廊下を通るとピタリと足を止め、ヒソヒソと話をしながら遠巻きに見ている。
「見ろよ、あれが噂の……」
「平民上がりのくせに、いい気なもんだ」
「どうせ身体を使って取り入ったんだろ。汚らわしい」
下卑た声が、あえて聞こえるような音量で囁かれる。
アレンの背中が強張るのが分かった。
彼は拳を握りしめ、唇を一文字に引き結んでいる。罵倒されることには慣れているはずの彼が、私に向けられる侮蔑の言葉には過敏に反応し、傷ついている。
「行きましょう、アレン」
私はあえて背筋を伸ばし、彼の前を歩いた。
女王のように堂々と。一切の動揺を見せないことが、彼らへの最大の反撃だ。
アレンはハッとして顔を上げ、私を守るように扉を開けた。
通された会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
円卓の上座に座っていたのは、ボルドー課長補佐。そしてその周囲には、彼の取り巻きである貴族派の官僚たちが数名、ニヤニヤとした笑みを浮かべて待ち構えていた。
「やあやあ、レディ・アークレイン。昨日は叔父——グランツ侯爵が大変お世話になったそうで」
ボルドーがねっとりとした口調で切り出した。
「叔父は大変ご立腹でしたよ。『あの小娘には外交儀礼というものが欠落している』とね」
「ごきげんよう、ボルドー様。有意義な議論をさせていただきましたわ。侯爵閣下も、ご自身のワインの管理には以後お気をつけになるとよろしいかと」
私が優雅に切り返すと、ボルドーのこめかみに青筋が浮かんだ。
彼は苛立たしげに卓上のベルを鳴らした。
「ふん。まあいい。今日は『通商条約第4項・関税撤廃品目』の最終審議だ。……おい、ヴァルシュ。資料を出せ」
ボルドーはアレンを顎で指図する。
アレンが無言で分厚い資料の束を配ると、ボルドーと取り巻きたちはそれをパラパラとめくり始めた。読む気などないことは明らかだ。彼らはただ、「粗探し」をするためだけにページを繰っている。
数分後、一人の官僚が大げさに声を上げた。
「おいおい、なんだこれは。15ページ目のグラフ、軸の単位が見にくいな。これでは審議にならんぞ」
「それに、ここの脚注。フォントが規定のものと違うんじゃないか? これだから平民の作る書類はセンスがない」
言いがかりも甚だしい。
グラフは鮮明だし、フォントの違いなど虫眼鏡で見なければ分からないレベルだ。内容に文句がつけられないから、形式上の些細な点を攻撃しているに過ぎない。
「……申し訳ありません」
アレンが深く頭を下げた。
反論すれば、会議が長引くだけだと分かっているからだ。
「書き直せ。今すぐだ。これでは神聖な会議の資料として認められん」
「しかし、内容は……」
「うるさい! 帝国の公文書は美しくなければならんのだ! 貴様のような泥臭い人間が触ると、紙まで汚れるんだよ!」
ボルドーが資料を床に叩きつけた。
バサリ、と白い紙が散らばる。
アレンは無言で膝をつき、散らばった書類を拾い集め始めた。
——許せない。
私の体温が一気に沸点に達する。
この資料を作るために、アレンが昨夜どれだけ徹夜していたかを知っている。誰よりもこの国の未来を考えている彼の矜持を、こんな無能な連中が踏みにじっていいはずがない。
「……いい加減になさい」
私が扇子を握りしめ、立ち上がろうとした瞬間。
アレンが素早く顔を上げ、私を制した。
「(いけません、レディ)」
彼の目が、必死に訴えていた。
『ここで貴女が怒れば、相手の思う壺です。どうか、堪えてください』
「承知いたしました。……すぐに修正版を作成します」
「アレン!」
「レディ、少々お待ちください。……すぐに戻ります」
彼は拾い集めた書類を抱え、私に一礼すると、逃げるように部屋を出て行った。
悔しさに唇を噛み締め、血が滲むのを感じる。
彼は、私がまた騒ぎを起こして立場を悪くしないよう、一人で泥を被ったのだ。
「けっ。腰抜けが」
ボルドーが嘲笑いながら葉巻に火をつける。
紫煙が部屋に充満する。それは腐敗した帝国の象徴のようで、吐き気がした。
「……優秀な部下を正当に評価できない上司は、組織の癌ですわよ」
私は精一杯の皮肉を投げつけたが、ボルドーは痛くも痒くもないといった様子で笑った。
「なんとでも言え。ここは帝国だ。あいつの生殺与奪の権は、私が握っているんだよ。……悔しかったら、あんたのパパに泣きついて戦争でも仕掛けてみるんだな」
***
それから二時間。
私は一人、敵意に満ちた会議室で針のむしろに座らされていた。
ボルドーたちは私を無視して下品な雑談に花を咲かせている。
時間が永遠のように感じられた。
ようやく扉が開き、修正を終えたアレンが戻ってきた。
彼の顔色は紙のように白く、目の下には濃い隈ができている。指先にはインクの染みがいくつも付着していた。急いで書き直したのだろう。
「お待たせしました……。こちらが修正版です」
彼が差し出した資料を、ボルドーは一瞥もしなかった。
「ああ、もう遅いよ。会議の時間は終わりだ」
「……え?」
「今日の審議は延期だ。明日にまた作り直してこい。今度は表紙の色が気に入らん」
ボルドーは立ち上がり、あくびをしながら部屋を出て行った。取り巻きたちも、アレンを嘲笑いながら後に続く。
部屋には、私とアレンだけが残された。
アレンは呆然と立ち尽くし、抱えていた資料を力なく机に置いた。
その背中が、あまりに小さく、脆く見えた。
「……すみません、セレスタ」
彼が絞り出すような声で言った。
「また、無駄足をさせてしまいました。……私は、本当に無力だ」
「アレン……」
見ていられなかった。
いつも理知的で、困難に立ち向かってきた彼が、こんなにも摩耗し、傷ついている。
これは「仕事」ではない。ただの拷問だ。
そして、その原因の一端は、私にある。私が園遊会で彼らを刺激したから、その報復が彼に向かっているのだ。
息が詰まりそうだった。
このままここにいてはいけない。
彼も、私も、壊れてしまう。
「……ねえ、アレン」
私は衝動的に立ち上がり、彼の袖を強く引いた。
「今日はもう、仕事を切り上げましょう」
「え? しかし、まだ明日の準備が……ボルドー氏の言っていた表紙の修正も……」
「どうせ明日になれば、今度は『紙の質が気に入らない』と言われるだけよ! こんなの真面目に付き合う必要ないわ!」
私は声を荒げた。普段の私なら絶対にしない、感情的な叫びだった。
アレンが驚いて私を見る。
「いいから。ここから連れ出して。……お願い、アレン。私がもう、限界なの。この淀んだ空気の中にいたら、私が窒息してしまう」
それは嘘ではない。けれど、一番の理由は、彼をこの場所から引き剥がしたかったからだ。
彼に必要なのは、修正作業ではなく、人間としての尊厳を取り戻す時間だ。
アレンは迷うように視線を彷徨わせた。義務感と、疲労感の狭間で揺れている。
しかし、私の必死な目を見て、やがて彼は深く息を吐き、眼鏡を外して目頭を押さえた。
「……分かりました。職務放棄ですね。……たまには、悪くない」
彼が微かに笑った。その笑顔に、ほっと胸を撫で下ろす。
「では、行きましょうか」
「どこへ?」
「少し遠いですが……私の『原点』へ」
彼は眼鏡をかけ直し、少し照れくさそうに言った。
「昨夜のリンゴ酒、気に入っていただけたなら……その作り手を、紹介したくて」
作り手。
つまり、彼の実家だ。
帝国の最下層から這い上がってきた彼が、生まれ育った場所。
華やかな外交の舞台とはかけ離れた、貧しく、厳しい場所だろう。
けれど、私は胸が高鳴るのを抑えられなかった。
彼の「過去」を知ることができる。
彼が何を背負い、何のために戦っているのか、その根源に触れることができる。
それは、どんな国家機密よりも、今の私にとって知りたい情報だった。
「ええ。喜んでお供するわ」
私たちは逃げるように庁舎を後にした。
背中で感じる視線や噂話を振り切り、二人だけの場所へ。
この逃避行が、私たちが「公的な関係」から「私的な関係」へと踏み込む、引き返せない一歩となることを予感しながら。
馬車に乗り込むと、アレンは御者に「旧市街の第七地区へ」と告げた。
それは、帝都で最も貧しいスラム街の住所だった。




