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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第1章:氷の令嬢と鉄の官僚

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第7話 月明かりの同盟

 園遊会から戻ったその夜。

 私は、滞在先であるグランドホテル・アルメストの最上階、スイートルームのバルコニーにいた。


 眼下には帝都の夜景が広がっている。

 昼間の煤煙にまみれた灰色の姿とは打って変わり、夜の帝都はガス灯の光に彩られ、まるで宝石箱をひっくり返したように美しかった。

 遠くからは工場の操業音が微かに聞こえてくるが、それはむしろ、この巨大な国家が眠らずに鼓動している証のように感じられた。


「……綺麗な月ね」


 私は手すりにもたれかかり、夜空を見上げた。

 そこには、青白く輝く満月が浮かんでいた。

 故郷レーヴァニアで見る月と、敵国で見る月。場所は違っても、その輝きだけは変わらない。

 『夜明け前の闇こそが、最も美しい蒼を呼ぶ』——かつて母が愛した詩の一節をふと思い出す。


「風邪を引きますよ、セレスタ」


 背後から、落ち着いた声がした。

 振り返ると、アレンが立っていた。

 彼はもう、あのワインで汚れたスーツを着ていなかった。私の侍従が用意した予備のシャツと、ラフなズボン姿だ。眼鏡も綺麗に拭かれていて、いつもの知的な理路整然とした彼に戻っていた。


「ありがとう、アレン。でも、少し風に当たりたかったの」

「……今日の熱気が、まだ冷めませんか?」


 彼は苦笑しながら、手に持っていた二つのグラスの片方を私に差し出した。

 中に入っているのは、琥珀色の液体。


「最高級のブランデーではありませんが、私の故郷で作っているリンゴシードルです。寝酒にはちょうどいい」

「あら、それは楽しみだわ」


 私はグラスを受け取り、一口含んだ。

 甘酸っぱい香りと、優しいアルコールが喉を滑り落ちていく。園遊会で飲んだどんな高価なワインよりも、ずっと美味しく感じられた。


 アレンは私の隣に並び、同じように夜景を見下ろした。

 しばらくの間、沈黙が流れた。

 けれど、それは居心地の悪い沈黙ではなかった。戦場を共に駆け抜けた戦友だけが共有できる、穏やかな安らぎの時間。


「……改めて、礼を言わせてください」


 アレンが静かに口を開いた。


「今日の貴女は、本当に見事でした。グランツ侯爵にあそこまで言ってのけるなんて……私の知る限り、帝国の官僚で彼に逆らえた人間はいません」

「ただ事実を陳列したまでよ。彼が勝手に自滅しただけ」

「それでもです。……私は今日、初めて救われました」


 彼はグラスを両手で包み込み、少し俯いた。


「私はずっと、一人で戦っているつもりでした。出自を馬鹿にされ、どんなに正論を言っても聞き入れられず、泥水をすするような思いで書類を作り続けてきた。それが『国のため』だと信じて」

「……」

「でも、心のどこかで諦めていたんです。どうせ誰も理解してくれない。私は所詮、使い捨ての部品なのだと」


 アレンの声が、微かに震えていた。

 いつも鉄壁の理性で感情を隠している彼が、今夜だけは、その鎧を脱ごうとしている。


「けれど、貴女は見ていてくれた。私の仕事が、ただの紙屑ではないことを。私が守ろうとしたものが何なのかを、誰よりも理解して、肯定してくれた」


 彼は顔を上げ、私を見た。

 眼鏡の奥の瞳が、月光を受けて濡れたように潤んでいる。


「あの瞬間、私は……貴女のためなら、地獄の底まで付き合ってもいいと思いました。……官僚失格ですね、私情を挟むなんて」

「ふふ、そうね。失格だわ」


 私は悪戯っぽく笑い、自分のグラスを彼のグラスに軽く当てた。

 カチン、と澄んだ音が夜気に響く。


「でも、私も同じよ」


 私は夜空に視線を戻した。


「私も、ずっと一人だった」

「……貴女が?」

「ええ。アークレイン大公家という黄金の鳥籠の中でね」


 私は自嘲気味に語り始めた。

 誰にも話したことのない、胸の内を。


「父にとって、私は娘ではなく『優秀な外交カード』だった。幼い頃から、感情を殺す訓練ばかりさせられたわ。『泣くな』『笑うな』『得にならなければ愛するな』……そうやって育てられた人形が、私よ」

「セレスタ……」

「周りの人間は、私の家柄や外見しか見ない。誰一人として、私の中身——セレスタという人間が何を考え、何に怒り、何を愛したいのか、見ようともしなかった」


 私はグラスを強く握りしめた。

 あの園遊会で、私が激昂したのはアレンのためだけではない。

 彼が「平民だから」というラベルだけで否定された姿が、家柄というラベルだけで判断され続けてきた自分自身と重なったからだ。


「だから……嬉しかったの。貴方が初めて会った時、私のことを『努力家だ』と言ってくれたこと。書類整理をした時、私の能力を『化け物』だと恐れながらも認めてくれたこと」


 私はアレンに向き直った。


「貴方は私を、大公令嬢という肩書きではなく、一人の『対等な人間』として見てくれた。……それが、どれほど救いだったか」


 風が吹き、私の髪を揺らす。

 アレンは何も言わず、ただ静かに私の言葉を受け止めてくれていた。

 その瞳には、深い共感と、そして優しさがあった。


 私たちは似ているのだ。

 国も、身分も、性別も違う。

 けれど、それぞれの場所で「孤独」という名の冷たい壁と戦い続けてきた同志。

 だからこそ、私たちは言葉を交わさずとも分かり合える。


「……変な話ですね」


 アレンがぽつりと呟いた。


「私たちは敵同士のはずなのに。今、世界で一番、私の心を理解しているのは、敵国のお姫様だなんて」

「ええ。笑っちゃうわね」


 二人で顔を見合わせ、クスクスと笑い合った。

 距離が、近づく。

 バルコニーの手すりに置かれたアレンの手の甲に、私の指先が触れた。

 温かい。

 その体温が、私の冷え切った心を溶かしていくようだった。


「セレスタ」


 アレンが私の名前を呼んだ。

 その声色が、今までとは少し違っていた。

 真剣で、どこか切羽詰まったような響き。


「私は……貴女となら、変えられる気がします。この腐った帝国も、貴女を縛るレーヴァニアの古い因習も。……二人でなら、きっと」

「……ええ。変えましょう、アレン」


 私は彼の手の上に、自分の手を重ねた。

 彼は一瞬驚いたように指を強張らせたが、すぐに私の手を優しく握り返してくれた。

 大きく、無骨な手。ペンだこがあり、インクの匂いがする、働き者の手。

 私はこの手が好きだと思った。


「これは『同盟』よ。月明かりの下での、二人だけの秘密の条約」

「条文は?」

「第一条、互いに嘘をつかないこと。第二条、決して諦めないこと。そして第三条……」


 私は少し背伸びをして、彼の耳元で囁いた。


「——私が辛い時は、また不味いシチューをご馳走すること」


 アレンが吹き出し、私も声を上げて笑った。

 月が見ている。

 この瞬間、私たちは確かに一つだった。

 国家のしがらみも、身分の壁も、このバルコニーには届かない。ただ、一人の青年と一人の少女として、互いの魂が触れ合っていた。


 けれど、その手が離れる時、ふとアレンの瞳に迷いのような色がよぎったのを、私は見逃さなかった。


「……どうしたの?」

「いえ。……あまりに月が綺麗すぎて。少し、怖くなっただけです」


 彼はそう言って微笑んだが、その笑顔はどこか寂しげだった。

 

 その夜、私は久しぶりに安らかな眠りについた。

 だが、翌朝から始まる日々が、この甘い夜の空気とは裏腹に、私たちに厳しい現実を突きつけてくることを、まだ知らなかった。


 私たちは近づきすぎたのだ。

 互いに惹かれ合う引力が強ければ強いほど、引き剥がそうとする世界の反作用もまた、強くなるという物理法則を、私はまだ理解していなかった。

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