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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第1章:氷の令嬢と鉄の官僚

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第6話 泥の中の宝石

 帝都滞在二週目の週末。

 私は、皇帝陛下の叔父にあたるグランツ侯爵が主催する園遊会に招待されていた。

 場所は、帝都郊外にある侯爵の別邸。広大な庭園には薔薇が咲き乱れ、着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑している。


 だが、その空気は決して和やかなものではなかった。

 特に、私のパートナーとして付き従っているアレンに対する視線は、針のように鋭く、冷たい。


「……随分と空気が悪いわね」


 私は扇子で口元を隠し、小声で囁いた。

 アレンは無表情を保ったまま、私の歩調に合わせて歩いている。今日の彼は貸衣装の燕尾服を着ているが、サイズが合っておらず、少し窮屈そうだ。


「仕方ありません。グランツ侯爵は『貴族至上主義』の筆頭ですから。私のような農村出身の成り上がり官僚が、大公令嬢のエスコート役を務めていること自体が、彼らにとっては許しがたい冒涜なのです」

「器の小さいこと。貴方がいなければ、先日の輸入協定の書類だって白紙に戻っていたでしょうに」


 私はふんと鼻を鳴らした。

 先日の「書類整理事件」以来、私のアレンに対する信頼は絶対的なものになっていた。彼はただの通訳ではない。この腐敗した帝国の行政を、たった一人で支えている屋台骨だ。

 そんな彼を「平民だから」という理由だけで蔑む連中の気が知れない。


「おお、これはこれは! 美しきアークレインの姫君!」


 芝生の中央から、大仰な声が掛かった。

 現れたのは、白髪交じりの口ひげを蓄えた初老の男——グランツ侯爵だった。

 彼は上質な絹のスーツに身を包み、手には最高級の赤ワインが入ったグラスを持っている。その顔には、貼り付けたような笑顔と、隠しきれない傲慢さが滲んでいた。


「ようこそおいでくださいました。我が庭園の薔薇も、貴女様の美しさの前では霞んでしまいますな」

「お招きいただき光栄ですわ、グランツ侯爵閣下」


 私は完璧なカーテシーで応えた。

 侯爵は私の手を取り、ねっとりとした視線で舐め回すように見た後、私の後ろに控えるアレンに視線を移した。

 途端に、その目がゴミを見るような軽蔑の色に変わる。


「……ふん。せっかくの美しい花に、薄汚い虫がついているようですな」


 周囲の取り巻きたちが、下品な忍び笑いを漏らす。

 アレンは表情を変えず、静かに一礼した。


「……お初にお目にかかります、閣下。本日の通訳を務めます、外務省のアレン・ヴァルシュです」

「口を慎め、平民」


 侯爵が吐き捨てるように言った。


「誰が貴様に発言を許した? ここは選ばれた者だけが集う神聖な社交場だ。貴様のような、どこの馬の骨とも知れぬ農民上がりが、同じ空気を吸っているだけで反吐が出る」


 あまりの暴言に、私は眉をひそめかけた。

 しかし、アレンは慣れているのか、ただ視線を伏せて耐えている。

 侯爵はさらに調子に乗り、一歩近づいてきた。


「おい、ヴァルシュとやら。貴様、先日の輸入協定の書類を書き換えたそうだな?」

「……はい。数字に誤りがありましたので、修正させていただきました」

「余計なことを! あれはボルドー君——私の甥が苦労して作った書類だぞ! 貴様のような下級役人が、名門貴族の仕事に赤を入れるなど、何の権限があってしたことだ!」


 言いがかりも甚だしい。

 あのまま提出していれば、帝国は何億という損失を出していたはずだ。それを救ったアレンに対して、感謝こそすれ、叱責するなど言語道断だ。


 私が口を挟もうと一歩踏み出した、その時だった。


「身の程を知れ、卑しい平民が!」


 バシャッ、という不快な音が響いた。


 時間が止まったようだった。

 アレンの顔から、胸元にかけて、真紅の液体が滴り落ちていく。

 グランツ侯爵が、持っていた赤ワインを、アレンに浴びせかけたのだ。


 白いシャツが、無残に赤く染まっていく。

 アレンは目を閉じ、滴るワインを拭おうともせず、直立不動のまま立ち尽くしていた。眼鏡のレンズが赤く汚れ、彼の表情を隠している。


「……おお、すまない。手が滑ってしまった」


 侯爵は、わざとらしい演技で肩をすくめた。

 その顔には、嗜虐的な笑みが張り付いている。

 周囲の貴族たちが、どっと笑い声を上げた。


「見ろよ、あいつの格好!」

「安物のスーツが台無しだな」

「いい気味だ。平民が上流階級に混ざろうとするからだ」


 嘲笑。侮蔑。

 アレンは、一言も発しない。

 ただ、握りしめた拳が微かに震えているのだけが、彼の激情を物語っていた。

 彼は耐えているのだ。ここで反論すれば、私が——レーヴァニアの外交特使が立場を悪くするから。私のために、彼は泥を被り、ピエロになろうとしている。


 ——許さない。

 私の頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。


 私はゆっくりと、優雅に扇子を開いた。

 そして、ハンカチを取り出し、アレンの元へ歩み寄った。


「……今は、私に任せて」


 私がハンカチで彼の濡れた頬を拭おうとすると、アレンが小声で止めた。


「(放っておいてください。ここで貴女が私を庇えば、貴女まで笑い者になります。……慣れていますから)」

「(……それ以上言わせないわ)」


 私は彼の言葉を遮り、冷たく言い放った。


「(私のパートナーが汚されて、私が黙っていると思ったの? ……よく見ていなさい、アレン。これがアークレイン流の『清掃』よ)」


 私は汚れたハンカチをアレンの胸ポケットに押し込み、くるりと踵を返した。

 そして、ニタニタと笑っているグランツ侯爵の目の前に立った。


 侯爵の笑顔が、私の冷ややかな視線を受けて少し引きつる。


「お、おお、姫君。お見苦しいところをお見せして申し訳ない。すぐに代わりの通訳を用意させますので……」

「グランツ侯爵閣下」


 私は侯爵の言葉を遮り、鈴を転がすような、しかし氷点下の声で言った。


「貴方は今、彼の衣服を汚しただけではなく、帝国の品位をも汚されたことに、お気づきになっていらっしゃらないのですか?」


 侯爵が目を瞬かせる。


「な、何を……たかが平民一匹にワインをかけた程度で……」

「たかが平民、ですか」


 私は扇子で口元を隠し、憐れむような目を向けた。


「閣下。先日の輸入協定の書類、拝見いたしましたわ。……あの修正前の書類を作成されたのが、閣下の甥御様だとか?」

「そ、そうだが……?」

「あのような初歩的な計算ミスと、法解釈の誤りに満ちた書類が、もしそのまま私の父——アークレイン大公の目に触れていたら、どうなっていたと思われます?」


 私は一歩、侯爵に近づく。


「父はこう判断したでしょう。『帝国には、まともな計算もできる人材がいないのか』と。そして、交渉は即刻打ち切り。帝国は輸入の道を閉ざされ、食糧難にあえぐことになったでしょう」


 侯爵の顔から、血の気が引いていく。

 周囲の笑い声も消え、静寂が広がる。


「それを未然に防ぎ、完璧な書類に修正して帝国の威信を守ったのが、そこにいるアレン・ヴァルシュ事務官です。彼は貴国の恥を晒すどころか、貴族の方々が落とした泥を拭い、宝石のように磨き上げたのですわ」


 私はアレンの方を振り返り、誇らしげに手を示した。


「彼は平民かもしれませんが、その知性と忠誠心は、そこにいる誰よりも貴い。……それを『汚い虫』呼ばわりしてワインをかけるなど、自らの無能さを宣伝しているようなものではありませんか?」


「き、貴様……っ! 他国の娘が、わしに説教をするつもりか!」


 侯爵が顔を真っ赤にして激昂する。

 しかし、私は動じない。むしろ、ここからが本番だ。


「説教? 滅相もございません。私はただ、不思議なだけですの」


 私は首をかしげ、無邪気を装って言った。


「この素晴らしいヴィンテージ・ワイン……確か、一本で庶民の年収ほどもする銘酒ですわよね? それを惜しげもなく床に撒き散らすなんて。……もしかして、グランツ家はそれほどまでに財政が潤っていらっしゃるのですか? 最近、軍事費の使い込み疑惑が囁かれていると小耳に挟みましたけれど……まさか、その『溢れる富』の出処は……?」


 とどめの一撃だった。

 侯爵の目が泳ぎ、脂汗が滲み出る。

 痛いところを突かれたのだ。アレンが集めていた「貴族の不正リスト」の中に、グランツ侯爵の名前があったことを私は記憶していた。


「な、な……っ!」

「あら、手が滑ってしまいそうですか? お顔色が優れませんわよ、閣下」


 私は優雅に微笑み、トドメを刺した。


「これ以上、大切なお洋服とお立場を汚されないよう、早めにお退がりになった方がよろしいのではなくて?」


 侯爵は口をパクパクとさせ、何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこない。周囲の貴族たちも、私と侯爵を見比べ、ざわざわと囁き合っている。

 完全に、私の勝利だった。


「……く、くそっ! 覚えておれ!」


 侯爵は捨て台詞を吐き、逃げるようにその場を去っていった。

 その背中は、先ほどまでの傲慢さが嘘のように小さく見えた。


 ふぅ、と小さく息を吐く。

 私は扇子を閉じ、アレンの元へ戻った。

 彼は呆然と、今のやり取りを見ていたようだった。眼鏡のレンズ越しに、驚きと、それ以上の熱い感情が渦巻いているのが見える。


「……セレスタ」

「帰りましょう、アレン。こんな空気の悪い場所にいたら、私も貴方も風邪を引いてしまうわ」


 私は自分のショールを外し、彼のワインで濡れた肩にそっとかけた。


「……っ、そんな、汚れますよ」

「構わないわ。貴方のそのシャツの汚れは、貴方がこの国のために戦った勲章だもの。……私のショールなんかより、ずっと美しいわ」


 私がそう告げると、アレンは目を見開き、それからくしゃりと顔を歪めた。

 泣き出しそうなのを、必死で堪えているような顔だった。


「……貴女という人は」


 彼は震える手で、私のショールを握りしめた。


「どうして、そこまでしてくれるんですか。私はただの……」

「ただの?」

「……いや。何でもありません」


 彼は首を振り、眼鏡を外して、袖口で乱暴に目を擦った。

 そして再び眼鏡をかけると、いつもの冷静な、しかし以前よりもずっと力強い瞳で私を見た。


「……ありがとうございます、セレスタ。この借りは、必ず返します。私の生涯をかけて」

「あら、期待しているわよ。……まずは、そのショールのクリーニング代からね」


 私は悪戯っぽく微笑み、彼に腕を差し出した。

 アレンは一瞬躊躇してから、しっかりと私の腕を取った。

 その手は、先ほどよりも強く、そして熱かった。


 周囲の視線は、もはや嘲笑ではなかった。

 泥にまみれながらも、凛と顔を上げて歩く青年と、彼を支える蒼きドレスの令嬢。

 その姿に、誰もが言葉を失い、ただ道を空けるしかなかった。


 私たちは背筋を伸ばし、堂々と会場を後にした。

 二人なら、どんな敵の中でも歩いていける。

 そう確信した瞬間だった。

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