第5話 書類の山の向こう側
その日、私は予定されていた視察が急遽キャンセルになり、時間が空いてしまった。
ホテルで刺繍をして過ごすのも退屈だったため、私はアレンの職場である帝国外務省を「陣中見舞い」として訪ねることにした。
「……これが、帝国の頭脳が集まる場所?」
案内された外務省の庁舎は、威圧的な石造りの建物だったが、廊下は薄暗く、どこかカビ臭かった。
すれ違う職員たちは皆、死んだ魚のような目をして、書類の束を抱えて走り回っている。
王宮の優雅な執務室とは大違いだ。
「ええと、儀典局の第四課は……」
受付で教えてもらった部屋の前に立つ。
扉には『儀典局第四課・庶務係』というプレートが掛かっている。
ノックをしようと手を上げたその時、中から怒鳴り声が聞こえてきた。
「ヴァルシュ! まだ終わらんのか! 明日の会議資料だぞ!」
「申し訳ありません、課長。ですが、このデータは統計局の速報値と矛盾しています。修正には時間が……」
「言い訳はいい! 貴様の仕事は数字を合わせることだ、正しくすることじゃない! さっさとやれ!」
「……はい」
ドタドタという足音が遠ざかり、扉が開いた。
出てきたのは、港で私を出迎えたあの小太りの男——ボルドー課長補佐だった。
彼は私に気づくと、バツが悪そうに顔を歪め、「ふん」と鼻を鳴らして去っていった。
……なるほど。
私は小さく溜息をつき、開いたままの扉から中を覗いた。
「——アレン?」
部屋の中は、戦場だった。
床まで積み上げられた書類の塔。インクと紙の匂い。
その「山」の谷間に、アレンが埋もれていた。
彼は髪をかきむしり、目の下に深い隈を作って、三種類の書類を同時に広げている。
「……あ、セレスタ……?」
私の声に、彼が虚ろな目で顔を上げた。眼鏡がずれている。
「どうしてここに……今日はホテルで休養日のはずじゃ……」
「貴方の顔が見たくなったのよ。……と言いたいところだけど、どうやら邪魔をしてしまったようね」
私は部屋に入り、周囲を見回した。
酷い惨状だ。
他の机は綺麗に片付いているのに、アレンの机だけが書類の海に沈んでいる。
「これは全部、貴方の仕事?」
「……形式上は、課全体の仕事です。ですが、実質的には私一人が処理しています」
アレンは力なく笑い、ペンを走らせ続けた。
「先ほどのボルドー課長補佐や、他の貴族出身の同僚たちがやり残した……いえ、放り投げた案件の尻拭いです。彼らは午後のお茶会や社交クラブへ行ってしまいましたから」
「……」
私は無言で、彼の机の一角にある書類を手に取った。
それは、隣国との鉄鉱石輸入に関する契約書のドラフトだった。
「……何これ」
一目見て、眉をひそめた。
酷い。あまりにも酷い。
計算ミス、誤字脱字、そして何より条文の解釈が間違っている。
「『輸入割当量の変動係数を3.5%とする』? 馬鹿な、これでは帝国の損失になるわ。正しくは0.35%でしょう?」
「ええ。ボルドー氏が桁を間違えたんです。それを今、私が全ページ修正しているところでして……」
アレンは死にそうな顔で、修正液とペンを交互に使っている。
こんな単純作業に、彼のような優秀な官僚の時間を浪費させているなんて。
これは国家の損失だわ。
「アレン」
「はい……?」
「少し、席を立ちなさい」
「え?」
「コーヒーでも飲んできなさいと言っているの。顔色が土気色よ。このままでは交渉の前に貴方が過労死してしまうわ」
私は彼の手から強引にペンを奪い取った。
「で、でも、この資料は今日中に……」
「私がやっておくわ」
「はあ!? 無理ですよ、これは帝国の内部文書で……それに貴女は……」
「私を誰だと思っているの?」
私は腕組みをして、彼を見下ろした。
「私はアークレイン大公家の娘。父の執務室で、五歳の頃から外交文書を積み木代わりに遊んでいた女よ。これくらいの書類整理、目をつぶっていてもできるわ」
「し、しかし……」
「いいから行きなさい! これは『貴国との友好関係維持のための人道的支援』よ。……それとも、レディの好意を無にするつもり?」
私が凄むと、アレンはたじろぎ、それから深い溜息をついた。
限界だったのだろう。彼はふらりと立ち上がった。
「……では、お言葉に甘えて、十分だけ休憩させていただきます。……本当に、触るだけでいいですからね。無理はしないで……」
彼はよろめきながら部屋を出て行った。
扉が閉まる。
部屋には、私と、書類の山だけが残された。
静寂。
私は手袋を外し、椅子に座った。
目の前の書類の束を見据える。
——さて。
やるからには、完璧に仕上げてやるわ。
帝国の無能な役人たちに、アークレイン流の仕事術というものを教えてあげる。
私は髪を後ろで束ね、ペンを握り直した。
私の瞳に、戦闘の炎が宿る。
「……さあ、駆逐してあげるわ」
***
Side:アレン
給湯室で泥のような味のコーヒーを飲み、冷たい水で顔を洗って、私は正気を取り戻した。
時計を見る。
しまった、三十分も経ってしまったか。
つい、仮眠室のソファーで意識を飛ばしてしまった。
血の気が引く。
あの書類の山は、今日中に仕上げて大臣に提出しなければならない最重要案件だ。
セレスタに任せたなんて言ったが、彼女は敵国の大公令嬢。帝国の複雑怪奇な公文書のフォーマットなど分かるはずがない。
いや、そもそも手書きの書類整理なんて、彼女のような高貴な身分の女性がやる仕事ではないのだ。
「……まずいことになった」
彼女が「やっぱり分からないわ」と放り出していたり、インクでドレスを汚して機嫌を損ねていたら、外交問題になりかねない。
私は慌てて廊下を走り、執務室の扉を開けた。
「申し訳ありません、セレスタ! すぐに私が……」
言葉は、途中で凍りついた。
部屋の中は、静まり返っていた。
夕日が窓から差し込み、オレンジ色の光が部屋を満たしている。
その光の中で、セレスタは優雅に紅茶を飲んでいた。
私のマグカップで。
「……遅かったわね、アレン。十分と言ったのに」
彼女は悪戯っぽく微笑み、カップを置いた。
私は呆然と、部屋の中を見渡した。
——山が、消えていた。
いや、正確には「山」が「整然とした平野」に変わっていた。
机の上に散乱していた数百枚の書類は、完璧に分類され、カテゴリーごとに色分けされた付箋が貼られ、美しい塔となって整列している。
「こ、これは……?」
私は震える手で、一番上の書類を手に取った。
鉄鉱石の契約書だ。
ボルドー課長補佐の汚い字で書かれた数字は、すべて二重線で消され、その横に流麗かつ読みやすい筆記体で、正しい数字と根拠となる計算式が書き込まれている。
それだけではない。
条文の曖昧な箇所には、『※帝国法第15条に基づき、この表現は修正すべき』といった赤字の注釈まで添えられている。
しかも、その指摘はすべて的確——いや、私の知識を上回るほど完璧だった。
「……嘘だろう」
次の書類を見る。
会議の議事録だ。
要点が簡潔にまとめられ、決定事項と保留事項が一目で分かるように要約されている。
私が三時間かかっても終わらなかった仕事が、たった三十分で、しかも最高品質で片付けられている。
「ボルドー氏の計算ミスは156箇所。文法の間違いは42箇所。すべて修正しておいたわ」
セレスタは何でもないことのように言い、髪をほどいた。
銀色の髪が、夕日を受けてキラキラと輝く。
「それから、そこの青いファイルの束。貴方が昨日徹夜で作っていた予算案でしょう? 構成が少し弱かったから、レーヴァニア式の『三段階折衝法』に基づいてロジックを組み直しておいたわ。これで財務省の役人もぐうの音も出ないはずよ」
私は膝から崩れ落ちそうになった。
彼女は……化け物か。
この短時間で、帝国の予算案まで査読し、リライトしたというのか。
私は今まで、自分の事務処理能力には自信を持っていた。
貴族たちの中で孤軍奮闘し、帝国を支えているのは自分だという自負があった。
けれど、目の前の少女は、その自負を軽々と飛び越えていった。
恐怖すら覚えるほどの、圧倒的な知性。
そして、その能力を惜しげもなく、敵国の官僚である私のために使ってくれた慈悲深さ。
「……セレスタ」
「何? まだ修正漏れがあった?」
「いいえ。……貴女を『お飾り』だなんて思っていた過去の自分を、今すぐ殴りに行きたい気分です」
私が心からの懺悔を口にすると、彼女はポカンとし、それから鈴を転がすように笑った。
「あら、ようやく気づいたの? 私は高いわよ? この労働の対価は、とびきり美味しいディナーで請求させてもらうから」
その笑顔の、なんと眩しいことか。
私はこの瞬間、完全に認めざるを得なかった。
彼女は、私が守るべきか弱い令嬢などではない。
共にこの国を、世界を変えることができる、唯一無二のパートナーなのだと。
胸の奥で、何かが熱く疼いた。
それは単なる尊敬や感謝を超えた、もっと狂おしいほどの感情だった。
私はこの有能で、美しく、そして少し生意気な令嬢に、どうしようもなく惹かれているのだ。
「……ええ。喜んで支払いますよ。私の全財産をはたいてでもね」
私がそう答えると、セレスタは少し顔を赤らめ、そっぽを向いた。
「……期待しておくわ」
夕暮れの外務省。
書類の山が消えた机を挟んで、私たちは共犯者のように微笑み合った。
この日、帝国の公文書の歴史において、最も美しく完璧な書類が生まれたことを知る者は、私たち二人だけだった。




