第40話 蒼き薔薇のウェディング
その日、世界で一番幸せな場所は、かつて世界で一番危険だった場所にあった。
レーヴァニア王国とアルメスト帝国の国境、『双竜橋』。
かつて両軍が砲口を向け合い、私が密航船で潜り抜けたあの川の上は今、見渡す限りの花と光で埋め尽くされていた。
橋の欄干には両国の国旗が交互にはためき、真新しい石畳には、国境を跨ぐようにして深紅の絨毯——全長一キロメートルにも及ぶ、世界最長のバージンロードが敷かれている。
そして、橋の両岸を埋め尽くすのは、銃を持った兵士ではなく、祝福に訪れた数万の市民たち。
今日は、私たち——アレン・ヴァルシュとセレスタ・アークレインの結婚式。
それは、二人の愛の誓いであると同時に、両国の「恒久平和」を世界に宣言する、世紀の祝祭でもあった。
***
「……緊張しているか、セレスタ」
橋の袂、仮設の控室で、父リオネルが声をかけてきた。
今日の父は、アークレイン大公家の正装に身を包み、胸には勲章を光らせている。
その背筋はいつものようにピンと伸びているが、私の手を取るその指先が、ほんのわずかに震えているのを私は感じ取っていた。
「いいえ、お父様。……とても晴れやかな気分ですわ」
私は鏡の中の自分に微笑みかけた。
身に纏っているのは、帝国の職人と王国の職人が共同で制作した、純白のウェディングドレス。
レースには「平和の鳩」と「蒼い薔薇」の刺繍が施され、長いベールは川風を受けて翼のように広がっている。
かつて逃亡のために脱ぎ捨てたドレスとは違う、本当の幸福のためのドレス。
「……そうか。なら、いい」
父は短く呟き、不器用に腕を差し出した。
「行くぞ。……アレン君を待たせるわけにはいかん」
「はい」
私は父の腕に手を添えた。
ファンファーレが高らかに響き渡る。
扉が開き、私たちは光の中へと歩き出した。
わぁぁぁぁぁぁぁっ!!
地響きのような歓声。
空からは五色の紙吹雪が舞い、川面には無数の小舟が浮かんで、祝福の鐘を鳴らしている。
「おめでとう!」「ありがとう!」
「蒼い薔薇の乙女万歳!」
沿道の人々が、涙を流しながら手を振ってくれる。
その中には、あの地下水道で共に戦った兵士たちや、安酒場の常連客たち、そしてマリーとハンスの姿も見えた。
彼らの笑顔が、何よりの宝石だ。
私たちはゆっくりと、橋の上を進んでいった。
長い、長い道のり。
けれど、父の足取りはしっかりとしていた。
「……セレスタ」
周囲の喧騒に紛れて、父がぽつりと言った。
「……お前は、自慢の娘だ」
私は息を飲んだ。
父は前を向いたまま、独り言のように続ける。
「かつて私は、お前を道具として扱った。……だが、お前は私の想像を超えて、強く、美しく咲き誇った。……セフィリアも、きっと喜んでいるだろう」
「……お父様」
「幸せになれ。……これは命令だ」
父の声が湿り気を帯びていた。
不器用で、厳格で、けれど誰より深い愛情を持った、私の父。
私は涙が溢れそうになるのをこらえ、その腕を強く握り返した。
「はい。……必ず、幸せになります」
橋の中央。
かつて国境線が引かれていたその場所には、今は美しい花のアーチが作られ、祭壇が設けられていた。
そして、その前で待っているのは——。
アレン。
私の最愛の人。
彼は、皇帝陛下から贈られた特製の白い礼服に身を包んでいた。
いつもは少し猫背気味な彼が、今日は堂々と胸を張り、朝日を浴びて輝いている。
その傍らには、感涙にむせぶ母マーサさんと、晴れ着を着てはしゃぐ弟妹たちの姿があった。
私たちが近づくと、アレンは緊張した面持ちで、しかし満面の笑みで迎えてくれた。
父が足を止め、私の手をアレンへと差し出す。
「……アレン君」
「はい、閣下」
「娘を……頼む。……私の命より大切な、宝物だ」
父の言葉に、アレンは深く、深く頭を下げた。
「謹んで。……私の生涯をかけて、守り抜きます」
アレンの手が、私の手を受け取った。
温かい。
あの雨の廃墟で、血まみれの舞踏会で、そして地下の隠れ家で、何度も私を救ってくれた手。
その温もりが、今は「永遠」を約束してくれている。
私たちは祭壇の前に並んだ。
立会人は、レーヴァニア国王と、アルメスト帝国皇帝ヴィクトール三世。
かつて敵対していた二人の君主が、今は穏やかな顔で私たちを見守っている。
「アレン・ヴァルシュ。セレスタ・アークレイン。……汝らは、国境と身分を超え、愛によって二つの国を結びつけた」
皇帝の声が、マイクを通じて両岸に響き渡る。
「病める時も、健やかなる時も、そしてどんな困難な時代が来ようとも。……互いを愛し、助け合い、平和の礎となることを誓うか?」
アレンが私を見つめた。
その瞳には、私だけが映っている。
彼は静かに、しかし世界中の誰にでも届くような力強い声で言った。
「誓います。……私の命が尽きるその瞬間まで、彼女を愛し抜くことを」
そして、私も。
「誓います。……彼と共に歩み、彼と共に生きることを」
「ならば、誓いの口づけを」
アレンがベールを上げた。
至近距離で見つめ合う、互いの顔。
涙で滲んで見えるけれど、世界で一番愛しい顔。
「……綺麗ですよ、セレスタ」
「貴方もよ、アレン。……惚れ直しちゃった」
私たちは微笑み合い、そして——唇を重ねた。
その瞬間。
ボォォォォォォォ……!
空気を震わすような重低音と共に、空を覆っていた巨大な影——両国の飛行船団が一斉にハッチを開いた。
舞い落ちてきたのは、花びらだった。
数百万、数千万枚の、蒼い薔薇の花びら。
まるで空そのものが砕け散ったかのような、鮮烈な瑠璃色の雨。
それが、風に乗って橋の上へと降り注ぐ。
世界が、蒼く染まっていく。
「うわぁ……!」
「すごい! 空が降ってきたみたいだ!」
民衆から驚きと歓喜の声が上がる。
アレンと私は、花びらの嵐の中で抱き合った。
「……これは?」
「皇帝陛下と、お父上の粋な計らいですよ。『二人には、最高の青空が似合う』って」
アレンが私の髪についた花びらを優しく払いながら教えてくれた。
父と皇帝が、内緒で準備してくれていたサプライズ。
『夜明け前の闇こそが、最も美しい蒼を呼ぶ』。
母の愛した詩が、今、現実の景色となって私たちを包み込んでいる。
私は父の方を見た。
父は、皇帝と並んで空を見上げ、満足そうに目を細めていた。
その目尻には、光るものがあった。
「……ありがとう」
私は心の中で呟いた。
お父様、お母様。
そして、アレンのお父様。
貴方たちが夢見た未来は、こんなにも美しい色をしていましたよ。
「セレスタ」
アレンが私の腰を引き寄せ、耳元で囁いた。
「……やっと、本当の意味で『家』に帰れましたね」
「ええ。……ここが、私たちの場所よ」
私たちは手を繋ぎ、民衆の方へ向き直った。
割れんばかりの拍手と、「おめでとう!」の声。
私たちは手を振り、笑顔で応えた。
これは物語の終わり。
けれど、私たちの愛の物語は、ここからが本番だ。
国境のない空の下。
蒼い花びらに祝福されながら、私たちは新しい一歩を踏み出した。
二人でなら、どんな未来も描いていける。
そう信じて。




