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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第1章:氷の令嬢と鉄の官僚

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第4話 安酒場の経済学

 その日の午後、私はアレンに連れられ、帝都の「下町」へ向かっていた。

 公式の視察ではない。お忍びだ。

 私は華美なドレスを脱ぎ捨て、平民の女性が着るような、地味な茶色のワンピースとショールを身に纏っている。アークレイン家の令嬢だとバレないための変装だ。


「……随分と遠くまで行くのね」


 辻馬車に揺られながら、私は窓の外を眺めた。

 中心街の石造りの街並みはとうに途切れ、今は木造の長屋が密集する地域を走っている。

 道は舗装されておらず、馬車の車輪が泥を跳ね上げる。

 空気も違う。煤煙のにおいに、下水や生活排水のにおいが混じり合った、鼻をつくような臭気。


「怖気づきましたか? レディ」


 向かいに座るアレンが、少し意地悪な笑みを浮かべて聞いてくる。

 今日の彼は、いつもの事務服ではなく、さらに着古したシャツにジャケットというラフな格好だ。眼鏡の奥の瞳が、私を試すように光っている。


「まさか。ただ、貴方が私をどこへ売り飛ばすつもりなのか、計算していただけよ」

「人聞きが悪い。貴女が『帝国の真実を見たい』と仰るから、観光客向けの美術館ではなく、労働者階級の居住区へ案内しているだけですよ」


 そう。これは私が望んだことだ。

 連日の舞踏会や会食で、着飾った貴族たちと当たり障りのない会話をすることにうんざりしていた私は、アレンに「本当の帝国の姿が見たい」とねだったのだ。

 彼は最初渋ったが、「貴女が途中で音を上げても知りませんよ」という条件付きで了承してくれた。


 馬車が止まったのは、狭い路地の入り口だった。


「ここからは歩きます。足元に気をつけて」


 アレンのエスコートで馬車を降りる。

 地面はぬかるんでいて、私の編み上げブーツはすぐに泥だらけになった。

 すれ違う人々は、疲れ切った顔をした労働者ばかりだ。彼らの服は薄汚れていて、その瞳には光がない。

 私が今まで見てきた「富める帝国」の姿は、ここには微塵もなかった。


「……これが、軍事大国の足元というわけね」


 私はショールを引き寄せ、呟いた。

 華やかな軍事パレードや巨大戦艦を支えているのは、この貧しい人々からの搾取なのだと、知識では分かっていたけれど、肌で感じると胸が塞がる思いがする。


「お腹、空いてませんか?」


 不意にアレンが足を止めた。

 彼が指差したのは、路地裏にある古ぼけた食堂だった。看板の文字は剥げ落ちていて読めない。中からは怒号のような話し声と、油の焦げる匂いが漂ってきている。

 明らかに、貴族の令嬢が入っていい場所ではない。


「……ここで食事を?」

「ええ。帝国の労働者たちが毎日何を食べているか、知ることも外交の一部でしょう? それとも、お口に合いませんか?」


 アレンの挑発的な視線。

 なるほど、そういうことね。

 彼は私を試しているのだ。温室育ちのお嬢様が、この不潔な環境に悲鳴を上げて逃げ出すのを期待しているのだろう。

 あるいは、少し懲らしめてやろうという、彼なりの可愛い復讐かもしれない。


 ——受けて立とうじゃないの。


「いい匂いだこと。ちょうど小腹が空いていたのよ」


 私はにっこりと微笑み、躊躇なくその汚れた扉に手をかけた。

 アレンが虚を突かれたように目を見開くのを背中で感じながら、私は店内に足を踏み入れた。


***


 店内は、喧騒の渦だった。

 仕事あがりの男たちが、安い酒を片手に大声で議論している。タバコの煙が充満し、床には吸い殻や食べかすが散乱していた。

 私たちが店に入ると、一瞬だけ視線が集まったが、すぐに興味を失ったようにそれぞれの会話に戻っていった。どうやら、変装は成功しているようだ。


 私たちは隅の、ガタつくテーブル席に座った。

 アレンが慣れた手つきで店員を呼び、注文する。


「『黒シチュー』を二つ。あと、固いパンも」


 運ばれてきたのは、名前の通り、どす黒いスープのような液体が入った木の器だった。

 具材は……判別不能。何かの野菜のくずと、正体不明の肉片が浮いている。

 匂いは強烈だ。香辛料で誤魔化しているようだが、その奥に微かな酸味が潜んでいる。


「……どうぞ。これが帝都の労働者のソウルフードです」


 アレンがスプーンを差し出す。

 私はそれを受け取り、スープを掬った。

 アレンが固唾を呑んで見守っている。

 私はそれを口に運んだ。


 ——しょっぱい。

 強烈な塩味と、鉄のような味が口の中に広がる。肉は固くて噛みきれないし、野菜は煮崩れて泥のようになっている。

 正直、不味い。

 王宮の犬でも、もっとましな食事をしているだろう。


 けれど、私は眉一つ動かさず、それを飲み込んだ。

 そして、備え付けの水で口を湿らせてから、静かに言った。


「……塩の値段が、下がっているのね」

「え?」


 アレンが予想外の反応に目を丸くする。

 私は二口目を掬いながら、淡々と分析を続けた。


「これだけ塩を利かせられるということは、岩塩の供給が過剰だということ。おそらく北方の鉱山からの輸送ルートが整備されたのでしょう。でも、この肉は古いわ。保存状態が悪い輸入肉……隣国からの密輸品かしら?」

「……っ、よく分かりますね」

「そして何より、このパン」


 私は石のように固いパンを指先で叩いた。コンコン、と乾いた音がする。


「小麦の質が悪すぎる。ふすまが混ざりすぎているわ。帝国の今年の小麦収穫量は平年並みと聞いていたけれど……この品質のパンが労働者の主食になっているということは、上質な小麦はすべて軍需用か、輸出用に回されているのね」


 私はスプーンを置き、アレンを真っ直ぐに見つめた。


「つまり、帝国の食糧事情は、数字で見えている以上に逼迫している。国民は安い塩と悪い肉で空腹を誤魔化し、カロリーだけを摂取して働かされている。……そうでしょう? アレン」


 アレンはしばらく呆然としていたが、やがて降参するように両手を上げた。


「……完敗だ。貴女には敵わない」


 彼は眼鏡を外し、目頭を押さえた。その表情には、苦笑と共に、隠しきれない敬意が滲んでいた。


「普通、貴族の令嬢なら、『こんな汚いもの食べられない』と泣き出すか、怒って帰るところですよ。なのに、一口食べて国の経済状況を分析するなんて……本当に、貴女という人は」

「あら、お口に合わないとは言っていないわ。……ただ、少し塩辛すぎて、涙が出そうになるだけよ」


 私はシチューの器を見つめた。

 この一杯のスープの中に、帝国の貧困と歪みが凝縮されている。

 この味を、毎日噛み締めなければならない人々の苦しみ。それを思うと、喉の奥が熱くなる。


「アレン。貴方は知っていたのね。だから、わざとここへ連れてきた」

「……ええ。貴女に見せたかったんです。煌びやかな夜会の裏にある、この国の現実を」


 アレンは自身のシチューを一口食べ、自嘲気味に笑った。


「子供の頃は、これよりも酷いものを食べていました。……必死で勉強して、官僚になって、この国の貧困をなくしたいと思った。でも、現実は書類の山と、貴族たちの利権調整に追われる毎日です」


 彼が吐露した本音。

 それは、初めて私に見せてくれた、彼の「弱さ」であり「志」だった。


「この国は病んでいます。軍事力で膨れ上がった巨体を持て余し、内臓から腐り始めている。……レーヴァニアとの通商条約が必要なのは、貴国だけじゃない。我が国にとっても、安くて良質な小麦を輸入することは、暴動を防ぐための生命線なんです」


 アレンの声は切実だった。

 彼もまた、戦っているのだ。

 私と同じように、国を憂い、自分の無力さに歯噛みしながら。


「……ねえ、アレン」


 私はテーブルの下で、泥に汚れたブーツのつま先を、彼の方へ少しだけ向けた。


「私たちが結ぼうとしている条約は、単なる数字の取り決めじゃないわ。この不味いスープを、少しでも温かくて美味しいものに変えるための約束なのね」

「……その通りです、セレスタ」


 アレンは私を名前で呼んだ。

 その響きには、今までのような遠慮や壁はなかった。

 私たちは今、貴族と平民でも、敵国の人間同士でもなく、同じ目的を持つ「同志」として向き合っている。


「だったら、やりましょう。二人で」


 私は残りのシチューをスプーンですくい、口に運んだ。

 相変わらず塩辛くて、鉄の味がする。

 でも、先ほどよりは少しだけ、飲み込みやすくなっていた。


「私の国の小麦と、貴方の国の岩塩。適正な価格で交換できれば、きっともっとマシな食卓になるはずよ」

「ええ。……必ず、実現させましょう」


 アレンもまた、シチューを食べ始めた。

 騒がしい安酒場の片隅で、私たちは黙々と不味いスープを啜った。

 それは、どんな高級レストランのフルコースよりも、私にとって忘れられない「共犯の味」となった。


***


 店を出ると、日は既に傾きかけていた。

 路地裏に長く伸びる二つの影。

 行きよりも、帰りの足取りの方が軽く感じるのは気のせいだろうか。


「送ります、セレスタ」

「ええ、お願いするわ。……でもその前に」


 私は立ち止まり、アレンを見上げた。


「一つだけ、約束して」

「約束?」

「次に食事に誘う時は、もう少し雰囲気の良いお店にしてちょうだい。いくら私でも、デートで毎回あれでは怒るわよ?」


 私が悪戯っぽく言うと、アレンは顔を真っ赤にして狼狽えた。


「デ、デート……!? いや、あれは視察で……その……!」

「ふふ、冗談よ。……顔、赤いわよ、アレン」


 私はクスクスと笑い、彼の先を歩き出した。

 アレンが慌てて追いかけてくる足音が聞こえる。


 ——デート、か。

 自分で言っておいて、胸の奥が少しドキリとした。

 こんな泥だらけの靴で、安酒場の匂いをプンプンさせて。

 それでも、隣を歩く彼の存在が、妙に心地よいと感じてしまう自分がいた。


 私たちはまだ知らない。

 この小さな安らぎの時間が、これから訪れる嵐の前の静けさであることを。

 けれど、この日のスープの味と、彼と交わした約束だけは、きっと生涯忘れないだろう。

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