第39話 結婚式前夜
結婚式前夜。
アークレイン大公邸のダイニングルームは、かつてないほど温かな、そして少し不思議な空気に包まれていた。
長大なマホガニーのテーブルを囲んでいるのは、国の重鎮たちではない。
上座に座る父リオネル大公。その右隣には私とアレン。
そして対面には——緊張でカチコチになっているアレンの母、マーサさんと、目を輝かせている三人の弟妹たちが座っていた。
「さあ、遠慮せずに食べてくれ。……帝国の家庭料理を再現させたつもりだが、口に合うだろうか」
父がぎこちなく勧める。
テーブルに並んでいるのは、豪華なフレンチではない。
アレンの実家でご馳走になったような、素朴な肉料理や、具沢山のスープ(もちろん、あの『黒いシチュー』ではなく、最高級の食材で作られた絶品だ)だった。
「も、勿体ないお言葉です、大公閣下……! こんな夢のような場所で、食事をいただけるなんて……」
マーサさんが震える手でフォークを握る。
無理もない。帝国の貧民街の住人が、敵国だったレーヴァニアの筆頭貴族の屋敷に招かれているのだ。歴史がひっくり返るような事態である。
「楽になさってください、お母様」
アレンが苦笑しながらフォローする。
「閣下は……いえ、お義父さんは、見た目は怖いですが、中身は意外と……その、話せる方ですから」
「一言多いぞ、アレン」
父がむっとした顔をするが、その目は笑っていた。
アレンの弟妹たちが「こんな美味しいお肉、初めてです!」「ほっぺたが落ちそうです!」と感激した声を上げると、父の鉄仮面は完全に崩れ去った。
「そうか、美味いか。……おかわりもあるぞ」
「はい! ありがとうございます、おじ様!」
末の妹が花が咲いたような笑顔でお礼を言うと、父は一瞬狼狽え、それから不器用に頬を緩めた。
かつて「国のために心を殺した」宰相の姿は、もうそこにはない。
孫を心待ちにする、ただの好々爺になりかけている。
私はその光景を眺めながら、胸がいっぱいになっていた。
半年前には、想像すらできなかった未来。
敵同士だった家族が、こうして一つの食卓を囲み、笑顔でパンを分け合っている。
これこそが、私たちが命がけで守り抜いた「平和」の形なのだ。
「……おめでとうございます、お嬢様」
給仕をしていたマリーが、耳元でそっと囁く。
彼女の目には涙が光っていた。
「あの嵐の夜、泥だらけになって屋敷を脱出したのが、昨日のことのようです。……本当によく、ここまで辿り着かれましたね」
「貴女のおかげよ、マリー」
私は彼女の手を握った。
侍女と主人という関係を超えた、戦友としての絆。
彼女がいなければ、私はとっくに折れていた。
「貴女も、幸せになりなさいね。……ハンスさんが待っているんでしょう?」
「えっ!? な、なぜそれを……!」
マリーが顔を真っ赤にする。
あの密航を手助けしてくれたハンス氏とマリーが、戦後処理のドサクサの中でいい雰囲気になっていたことは、私とアレンにはバレバレだった。
「ふふ。私の目は誤魔化せないわよ。……ブーケトス、狙いなさいね」
幸せの連鎖。
悲しみの連鎖を断ち切った先には、こんなにも優しい世界が待っていた。
***
晩餐が終わり、夜が更けた頃。
私はアレンと共に、屋敷のバルコニーに出た。
明日の式に備えて早めに休むべきだったけれど、高ぶる心がそれを許さなかった。
夜風が心地よい。
庭園の薔薇の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
「……信じられませんね」
アレンが手すりにもたれ、夜空を見上げた。
「一年前、私は帝都の安アパートで、一人冷めたスープと固いパンをかじっていました。……まさか一年後に、敵国の大公邸で、君と結婚式前夜を迎えているなんて」
「人生って、分からないものね」
私は彼の隣に並んだ。
肩が触れ合う距離。
かつては背中合わせでしか温もりを分かち合えなかった私たちが、今は堂々と手を繋ぐことができる。
「怖かった?」
「ええ、正直に言えば」
アレンは私の手を包み込んだ。
「君に出会ってから、毎日が綱渡りでした。……君が眩しすぎて、直視できない時もあった。身分違いの恋に溺れて、身を滅ぼすんじゃないかと」
「あら。実際、一度死にかけたじゃない」
「違いない」
彼は笑い、そして真剣な眼差しで私を見た。
「でも、後悔したことは一度もありません。……君が私を選んでくれたこと。それが、私の人生における最大の誇りです」
彼の言葉が、心に染み渡る。
私も同じだ。
大公令嬢という鳥籠の中で、窒息しそうになっていた私。
「誰かの妻」ではなく「私自身」として生きたいと願っていた私を、外の世界へ連れ出し、翼をくれたのは彼だった。
「……ねえ、アレン。見て」
私は空を指差した。
東の空が、微かに白み始めている。
漆黒の闇が、深い群青色へと変わり、そして透き通るような瑠璃色へと溶けていく時間。
『夜明け前』。
「母が愛した詩の一節を、覚えている?」
「ええ。……『夜明け前の闇こそが、最も美しい蒼を呼ぶ』」
アレンが静かに暗唱する。
「私たちは、深い闇の中にいたわ。……戦争、憎しみ、偏見。出口の見えないトンネルの中で、何度も諦めそうになった」
脳裏に浮かぶ、数々の記憶。
ボルドーの嘲笑。冷たい監房。血まみれの舞踏会。
雨の廃墟で震えた夜。
父の冷たい拒絶。
それら全ての「闇」があったからこそ、今、目の前に広がるこの景色の美しさが分かる。
「でも、朝は来たわ」
私はアレンを見上げた。
瑠璃色の光が、彼の横顔を優しく照らしている。
「貴方が連れてきてくれたのよ。……私にとっての、一番美しい朝を」
アレンは何も言わず、私を抱き寄せた。
言葉はいらなかった。
彼の鼓動が、体温が、すべてを語っていた。
私たちは長い間、そうして空を見ていた。
空の色が、刻一刻と変わっていく。
瑠璃色から、黄金色へ。
新しい一日が、新しい時代が、音もなく始まろうとしている。
「……行きましょう、セレスタ」
アレンが私の髪にキスをした。
「準備をしないと。……世界一美しい花嫁を、待たせるわけにはいきませんから」
「ええ。……覚悟してね、アレン」
私は彼から離れ、悪戯っぽく微笑んだ。
「今日の私は、とびきり綺麗よ。……気絶しないでね?」
「努力します」
私たちは手を取り合い、部屋へと戻った。
背後で、朝日が昇る。
その光は、かつて私たちが夢見た「蒼い薔薇」のように、不可能を可能にした輝きを放っていた。
長い、長い旅路の果て。
恋人たちの物語は、ここで幕を下ろす。
そしてここからは、夫婦としての、新しい冒険の記録が綴られていくのだ。
さようなら、昨日の私。
そして、おはよう。愛する人。




