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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第5章:蒼き未来へ

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第39話 結婚式前夜

 結婚式前夜。

 アークレイン大公邸のダイニングルームは、かつてないほど温かな、そして少し不思議な空気に包まれていた。


 長大なマホガニーのテーブルを囲んでいるのは、国の重鎮たちではない。

 上座に座る父リオネル大公。その右隣には私とアレン。

 そして対面には——緊張でカチコチになっているアレンの母、マーサさんと、目を輝かせている三人の弟妹たちが座っていた。


「さあ、遠慮せずに食べてくれ。……帝国の家庭料理を再現させたつもりだが、口に合うだろうか」


 父がぎこちなく勧める。

 テーブルに並んでいるのは、豪華なフレンチではない。

 アレンの実家でご馳走になったような、素朴な肉料理や、具沢山のスープ(もちろん、あの『黒いシチュー』ではなく、最高級の食材で作られた絶品だ)だった。


「も、勿体ないお言葉です、大公閣下……! こんな夢のような場所で、食事をいただけるなんて……」


 マーサさんが震える手でフォークを握る。

 無理もない。帝国の貧民街の住人が、敵国だったレーヴァニアの筆頭貴族の屋敷に招かれているのだ。歴史がひっくり返るような事態である。


「楽になさってください、お母様」


 アレンが苦笑しながらフォローする。


「閣下は……いえ、お義父さんは、見た目は怖いですが、中身は意外と……その、話せる方ですから」

「一言多いぞ、アレン」


 父がむっとした顔をするが、その目は笑っていた。

 アレンの弟妹たちが「こんな美味しいお肉、初めてです!」「ほっぺたが落ちそうです!」と感激した声を上げると、父の鉄仮面は完全に崩れ去った。


「そうか、美味いか。……おかわりもあるぞ」

「はい! ありがとうございます、おじ様!」


 末の妹が花が咲いたような笑顔でお礼を言うと、父は一瞬狼狽え、それから不器用に頬を緩めた。

 かつて「国のために心を殺した」宰相の姿は、もうそこにはない。

 孫を心待ちにする、ただの好々爺になりかけている。


 私はその光景を眺めながら、胸がいっぱいになっていた。

 半年前には、想像すらできなかった未来。

 敵同士だった家族が、こうして一つの食卓を囲み、笑顔でパンを分け合っている。

 これこそが、私たちが命がけで守り抜いた「平和」の形なのだ。


「……おめでとうございます、お嬢様」


 給仕をしていたマリーが、耳元でそっと囁く。

 彼女の目には涙が光っていた。


「あの嵐の夜、泥だらけになって屋敷を脱出したのが、昨日のことのようです。……本当によく、ここまで辿り着かれましたね」

「貴女のおかげよ、マリー」


 私は彼女の手を握った。

 侍女と主人という関係を超えた、戦友としての絆。

 彼女がいなければ、私はとっくに折れていた。


「貴女も、幸せになりなさいね。……ハンスさんが待っているんでしょう?」

「えっ!? な、なぜそれを……!」


 マリーが顔を真っ赤にする。

 あの密航を手助けしてくれたハンス氏とマリーが、戦後処理のドサクサの中でいい雰囲気になっていたことは、私とアレンにはバレバレだった。


「ふふ。私の目は誤魔化せないわよ。……ブーケトス、狙いなさいね」


 幸せの連鎖。

 悲しみの連鎖を断ち切った先には、こんなにも優しい世界が待っていた。


***


 晩餐が終わり、夜が更けた頃。

 私はアレンと共に、屋敷のバルコニーに出た。

 明日の式に備えて早めに休むべきだったけれど、高ぶる心がそれを許さなかった。


 夜風が心地よい。

 庭園の薔薇の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。


「……信じられませんね」


 アレンが手すりにもたれ、夜空を見上げた。


「一年前、私は帝都の安アパートで、一人冷めたスープと固いパンをかじっていました。……まさか一年後に、敵国の大公邸で、君と結婚式前夜を迎えているなんて」

「人生って、分からないものね」


 私は彼の隣に並んだ。

 肩が触れ合う距離。

 かつては背中合わせでしか温もりを分かち合えなかった私たちが、今は堂々と手を繋ぐことができる。


「怖かった?」

「ええ、正直に言えば」


 アレンは私の手を包み込んだ。


「君に出会ってから、毎日が綱渡りでした。……君が眩しすぎて、直視できない時もあった。身分違いの恋に溺れて、身を滅ぼすんじゃないかと」

「あら。実際、一度死にかけたじゃない」

「違いない」


 彼は笑い、そして真剣な眼差しで私を見た。


「でも、後悔したことは一度もありません。……君が私を選んでくれたこと。それが、私の人生における最大の誇りです」


 彼の言葉が、心に染み渡る。

 私も同じだ。

 大公令嬢という鳥籠の中で、窒息しそうになっていた私。

 「誰かの妻」ではなく「私自身」として生きたいと願っていた私を、外の世界へ連れ出し、翼をくれたのは彼だった。


「……ねえ、アレン。見て」


 私は空を指差した。

 東の空が、微かに白み始めている。

 漆黒の闇が、深い群青色へと変わり、そして透き通るような瑠璃色へと溶けていく時間。


 『夜明け前』。


「母が愛した詩の一節を、覚えている?」

「ええ。……『夜明け前の闇こそが、最も美しい蒼を呼ぶ』」


 アレンが静かに暗唱する。


「私たちは、深い闇の中にいたわ。……戦争、憎しみ、偏見。出口の見えないトンネルの中で、何度も諦めそうになった」


 脳裏に浮かぶ、数々の記憶。

 ボルドーの嘲笑。冷たい監房。血まみれの舞踏会。

 雨の廃墟で震えた夜。

 父の冷たい拒絶。


 それら全ての「闇」があったからこそ、今、目の前に広がるこの景色の美しさが分かる。


「でも、朝は来たわ」


 私はアレンを見上げた。

 瑠璃色の光が、彼の横顔を優しく照らしている。


「貴方が連れてきてくれたのよ。……私にとっての、一番美しい朝を」


 アレンは何も言わず、私を抱き寄せた。

 言葉はいらなかった。

 彼の鼓動が、体温が、すべてを語っていた。


 私たちは長い間、そうして空を見ていた。

 空の色が、刻一刻と変わっていく。

 瑠璃色から、黄金色へ。

 新しい一日が、新しい時代が、音もなく始まろうとしている。


「……行きましょう、セレスタ」


 アレンが私の髪にキスをした。


「準備をしないと。……世界一美しい花嫁を、待たせるわけにはいきませんから」

「ええ。……覚悟してね、アレン」


 私は彼から離れ、悪戯っぽく微笑んだ。


「今日の私は、とびきり綺麗よ。……気絶しないでね?」

「努力します」


 私たちは手を取り合い、部屋へと戻った。

 背後で、朝日が昇る。

 その光は、かつて私たちが夢見た「蒼い薔薇」のように、不可能を可能にした輝きを放っていた。


 長い、長い旅路の果て。

 恋人たちの物語は、ここで幕を下ろす。

 そしてここからは、夫婦としての、新しい冒険の記録が綴られていくのだ。


 さようなら、昨日の私。

 そして、おはよう。愛する人。

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